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1000字小説バトル

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1000字小説バトル
第65回バトル 作品

参加作品一覧

(2004年 12月)
文字数
1
ゆふな さき
985
2
鬱宮時間
1000
3
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
4
君島恒星
1000
5
ウタタネマクラ
1000
6
のぼりん
992
7
ミヤヒロシ
1000
8
たかぼ
1000
9
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
10
イシヅカレン
1000
11
うちゃたん
1000
12
柄本俊
1000
13
ごんぱち
1000
14
夢追い人
1000
15
早透 光
1000
16
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
17
ながしろばんり
1000
18
るるるぶ☆どっぐちゃん
1000
19
越冬こあら
1000
20
アナトー・シキソ
1000
21
日向さち
1000
22
伊勢 湊
1000
23
大介
1000
24
橘内 潤
964

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Entry1
現代版サロメ
ゆふな さき

 彼女は騒がしい学校の図書館で、サロメのように笑いながら少年に近づき、言った。
「好きだよ。ねたい。」
小声でそういう少女は、きっと彼が慌てるはずだと思っていた。しかし少年は落ちついた態度で言った。
「そういうのは、愛がないと。」
ひとつひとつ単語を確かめるように確実に、少年は言った。けれど微かに『愛』と言う言葉を言う時だけその声は震えていた。
 少女はとっさに真っ白になった。
『私は愛してるよ。』
と言う台詞が思いつき、それを発することが怖くて仕方なかった。彼女は無意識にしゃべっていた。
「三上、目隠しして耳栓でもすれば?…」
(そしたら私はないあなたの愛する人に錯覚ができるでしょ?)
と、心の中で付け加えていた。少年の顔はゆっくり歪んでいった。少女はそれが好きで、楽しくなりながら続けた。
「それだって気持ちいいんでしょ?」
「消えろ。」
少年は言った。少女を見上げるその目はピカピカひかり、澄み切った白の端は紅く染まっていた。少年はきっと激しく怒っていた。少女は思わず息を飲んだ。短い人生の中でこれほど美しい目を見たことがなかったからだ。これほど象徴的で美しい表情は絵画の中にさえ見たことがない。
「ごめん。」
くらくらする頭で少女は言った。少女のついたため息は少年に伝わっていて、少年は鼻先でふん、と微かに笑った。
 少女はそんな少年の様子に気づかず思った。
(あの目、やっぱり私を好きだったんだ)
少女は、(彼の怒りのこもった目はまるで私に告白しているようだ)と思った。

『好きだった。』
 その表情はそう言っていて、少女にはこのときに恋に落ちて、少年はこのときに恋が終わった。

 少年は甚振られる原因になった少女のカマトトを引き剥がすことに成功したし、そして一番確かめたかった少女の悪意の存在を確かめられたのだ。子供の持つ残酷な悪意は錯覚ではなかったと証明した。
(俺はこの女が嫌いだ。)
その言葉とともに少年は全てを封印できると確信し、終止符を打った。

 少女はまだ浮かれていたけれど、彼女の頭の中にはこぼれてしまって戻らない水を見、真っ黒な砂漠に降り立った心地がした。
 しばらく呆然をしている少女に、少年はもう一度、
「消えて。」
と言い、少女は少年を好きになってしまったから神妙な面持ちでその申し出を受けたのだった。
 少年の恋は始まって終わり、
 少女の恋は始まらなかったし、そして終われないのだ。
現代版サロメ ゆふな さき

Entry2
花火
鬱宮時間

 昔、音楽だけが全てだった。今思えば自己満足にしか過ぎなかったし、たいした曲も書けなかった。ただ、仲間と一緒に楽器から音を出すことが快感だったし、楽しかった。
 あれは夏休みの暑い土曜日の夜だった。いつも混んでいた練習スタジオは、なぜかその日だけガラガラだった。練習が終わり、ニルヴァーナが流れるロビーでコーヒーを飲む。バンドのメンバーでああだこうだと曲について話し合う。いつまで経ってもまとまらない。いつまで経っても満足のいく曲が作れない。まあ、これもいつもの事だった。何本吸ったか分からないくらい多いタバコの吸殻。いつものように終わりの時間が来る。次はまた来週だ。
 スタジオの重いドアを開けると吐き気がするくらいの暑い空気が肺に入る。じわじわと汗が流れる。駅までの5分の道のりで、背負っているギターが重いせいもありTシャツはびしょびしょだ。憂鬱な瞬間だ。冷房のきいた電車に乗るまでのひと時の地獄。駅に着いたら更に地獄が待っている事をこの時知らなかったのは唯一の幸福か。
 駅は人でごった返していた。狭い駅の構内が更に狭く感じる。暑い。暑すぎる。この人ごみのせいで体感温度は2倍。帰宅のサラリーマン。デート中のカップル。女性が着ている浴衣すら全く涼しそうには見えない。それにしても浴衣姿が多い。僕はやっとここで思い出した。あ、今日は花火だったのか。どおりでカップルが多いわけだ。スタジオが空いていたのもそのせいか。
 正直な話、幸せそうなカップルを見ているとなんとなく虚しくなった。必死にがんばっている僕と、幸せそうなカップル――別にああゆう風にはなりたくなかったが、何か不公平な気がした。自分の好きでやっているのだから文句は言えないが。花火の夜に、いつものように練習をしている僕を癒すのは自己愛だけだった。いつものように電車に乗った。疲れた顔をして。
 3年後の夏の夜、僕はあの駅にいた。背中にギターはない。隣には幸せそうな顔をした浴衣姿の彼女がいる。
 ギターを背負った少年が歩いている。少年よ、なぜそんなに目を輝かせているんだ。あの頃の僕はどんな顔をしていたのだろう。少年よ、今の僕の顔は見ないでくれ。僕はお前の未来なんかじゃない。
「昔のお前が笑ってるぜ」
 そんな事を言われているような気がするんだ。だから少年よ、君は君の描く未来だけを見ていればいい。周りなんか見るんじゃないぞ。
 花火――楽しみだな。
花火 鬱宮時間

Entry3

(本作品は掲載を終了しました)

Entry4
キュートな殺人鬼
君島恒星

「信ちゃん…助けて…お願い…助けて…」
 晶子から哀願の電話がかかってきた。車をとばして八ヶ岳の別荘まで急ぐ。
「彼を、彼を、刺したの…」
 部屋は血みどろだろう。
 八ヶ岳の砂利を蹴る。タイヤが痛みそうだ。
 別荘に入ると、数時間前から時間が止まっていたかのような光景が、網膜を刺激した。
「晶子、大丈夫か? 怪我は?」
「信ちゃん!」
 血みどろの部屋の中で晶子を抱き締めた。晶子の手には彼を刺した牛刀がまだ握られていた。血は乾きはじめている。
「彼が嘘をついていたの…それが我慢できなくて…文句を言ったら、怒鳴って…怖かったから、わたし…」
「いいよ、話は後で。落ち着いて、熱いシャワーを浴びて少し寝なさい。後は僕が片付けておくから」
「いつもありがとう…」
「さあ、その牛刀を離して…」
 こわばった指を、はがすように一本一本伸ばして牛刀を台所に戻す。
 男の死体はロープで縛り付け、重りをつけて、近くの湖に沈める。ゴムボートも用意してある。いつものことだ。
 死体は、今夜のうちに処理した方がよさそうだ。月も出ていない。

 なれていても重労働だ。ナイロンの網に死体と鉄の重りを入れてロープで結ぶ。ナイロンの網にしたのは、死体を魚が処理してくれるように考えた末だった。ゴムボートに乗せるのが一仕事、あとは湖の中心でズリ降ろすだけ。死体は浮かんでこない。
 帰りにコンビニで、明日の朝食の材料を購入した。
 湖から戻り、部屋の中は大まかに拭いて、細かいところは明日にしようと思った。どうせ晶子は2~3日ベットの中にいる。
 シャーワーを浴びて、晶子の部屋に行くと、案の定丸まって震えていた。
「終わったよ」
「寂しかったわ…」
 飛び跳ねるように抱きついてきた。晶子は寂しがり屋…男がいつもそばにいないと我慢できない。
「抱いて!」
 晶子は男を殺した夜、人間とは思えない狂い方をする。
 快楽をむさぼる晶子…
 その晩は、一睡もできなかった。
 朝食の用意をして、部屋を綺麗に磨き上げる。何人の男たちの血が染みついているのだろうか? もう思い出せない。
 熟睡している晶子が目を覚ますと食事をむさぼり、再び僕の身体もむさぼった。この快楽に僕は身を落としたのだ。
 晶子はベッドを出ると新しい男を見つけて遊び回るだろう。
 僕は、嫉妬しながらも彼が殺されるのを待ち続ける。
 最後には僕の所に戻ってくる。
 晶子の全てを知っているのは、唯一僕だけなのだから…
キュートな殺人鬼 君島恒星

Entry5
十六夜秘話 1.猫
ウタタネマクラ

 それは、私と彩ちゃんの、二人だけの秘密の遊びだった。
 彩ちゃんの、澄んだ声が、分厚い聖書の言葉を読み上げ、私は手を組んで目を瞑り、祈る。それが終わると、穴に棺を納め、土をかける。棺はただの空き箱で、中は空だ。
 『お葬式ごっこ』を考えたのは彩ちゃんで、林の中で遊んでいた時に、死んだ雀を見つけたことから始まった。
 可哀想。私が言うと、じゃあ、お葬式しようか。と彩ちゃんが言った。彩ちゃんが、家から聖書を持ってきて、二人で十字架を作り、祈った。すると、すごく厳かな気持ちになって、私達は神聖な空気に足が震えた。
 その空気が忘れられず、私達は林の中で、『ごっこ』を繰り返した。
 私達は、夕暮れの薄暗い時間帯を特に好んだ。時には完全に日が暮れてからすることもあって、そんな時は、ペンライトの灯り以外見えない闇の中から、彩ちゃんの澄んだ声だけが聞こえてくる妖しさに、私は体が粟立つほどぞくぞくするのだった。
 だからあの日も、二人で日が落ちるのを待っていた。
 辺りが闇を孕みだした頃、突然タイヤのこすれる音と、がつ、という重い音がした。振り返ると、何かが空き地の草むらに飛び込んでいった。草を掻き分けると、猫だった。横たわり、おかしな声でびょお、びょお、と鳴いている。私は混乱して彩ちゃんを見た。
 大きな瞳が、じっと猫を見つめていた。
 その目の異様な光に、私は咄嗟に悟ってしまった。
「彩ちゃん、まだ、生きてるよ」
「もう死ぬよ」
 澄んだ声で彩ちゃんが言った。
「早く、獣医さんに」
「だめだよ。ほら、こんなに苦しんでる。早く楽になりたいって」
 彩ちゃんが私を見た。笑っていた。彩ちゃんは笑っていた。
「もう、私、空の棺には飽き飽きしてたんだ」
 彩ちゃんが大きな石を拾った。
 私は逃げた。後ろで、鋭い鳴き声を聞いたような気がしたが、振り返らなかった。足がもつれて、何度も転んだ。

 それっきり、私は彩ちゃんに会っていない。彩ちゃんは、いなくなってしまった。
 その日の夜、彩ちゃんのお母さんが、警察と一緒にうちに来た。林の中で、彩ちゃんのライトを見つけたと言って、蒼白な顔をしていた。猫のことは言っていなかった。
 大人は、誘拐か、変質者の仕業だと言った。
 でも、もしかすると彩ちゃんは、今でも真っ暗な闇の中で、血まみれの猫のために、聖書を読み上げているのかもしれない。
 
 どこかで、猫がびゃあと鳴く度、私の体は冷たく震える。
十六夜秘話 1.猫 ウタタネマクラ

Entry6
無手勝流口伝
のぼりん

「義弟の敵。覚悟されよ」
「覚悟とはなんじゃ。では何か、拙者はおぬしに斬られねばならぬのか?手向かいもできんのか?」
「これは勝負でござる。ご随意に」
「では、なんの覚悟じゃ」
「心を決めよと申しておる」
「されば、そう申せばよかろう」
「ええい、是非もなし。ここで会ったが百年目。指折り数えて、この日の来るのを待っていたぞ」
「指を百本も折れば、うんざりもしよう。同情いたす」
「ううぬ、もはや御託は充分。早く、抜かれよ」
「…………」
「……って、こんなところで帯を解いてどうする」
「いや、今、脱がれよ、と……」
「なんであだ討ちをするのに、裸にならねばならぬのだ」
「拙者も怪訝でござったが、相撲勝負をお望みかと……」
「刀を抜けと申しておるのだ」
「ううむ、その口調はひょっとして怒っておられるのか?」
「これはしたり、義弟の敵、と申したろう」
「――も、申し訳ござらん!」
「な、何のまねだ。突然土下座など……」
「これこの通り、心から謝っておる。これで許してもらえぬか」
「たわけた事を、この場で突然謝られても……。とにかく、これは主命でもある。お命頂戴いたす」
「頂戴とはなんじゃ。では何か、拙者はおぬしに斬られねばならぬのか?手向かいもできんのか?」
「これは勝負でござる。ご随意にかかってこられよ」
「では、なんで頂戴じゃ。拙者は命などあげたくはござらん。だいたい、おぬしには武士の情けはないのか。拙者はこれこの通り、謝っておるのだ」
「そもそも、ごめんなさいと謝ってすむ問題ではなかろうが」
「何を申される、命よりも心の傷の方が重い事もある。おぬしが拙者に与えた心の傷は、すでにわが命を奪ったと同じじゃ」
「何をいう。わしがおぬしの心にどんな傷をつけたというのだ」
「よいか、脳みそをかっぽじってよく聞けよ」
「いや……かっぽじるのは、耳では……」
「まあ、そうとも言うが、この場に及んで、そんな些細なことはどうでもよいではないか。拙者の問題にしているのは、これだ。この手紙はなんじゃ!」
「何処からどう見ても、果たし状だが……」
「拙者のことを早漏、早漏と非道極まる言いがかり」
「そ、それは、候文なり」
「こやつ、まだ言うか。何を根拠に拙者を愚弄する。拙者、早漏ではござらん」
「いや、だから……。それは……」

 塚原○伝、絶対負けない無手勝流の達人である。
 あきれて立ち去る者の背中を、たまに刀でそっと突くこともあったりする。
無手勝流口伝 のぼりん

Entry7
僕の知らない彼女
ミヤヒロシ

今日、彼女の真弓に誘われ初めて彼女の家に行くことになった。女の子の部屋に行くのは初めてじゃなかったけど、やっぱり緊張する。真弓は、何も緊張することないじゃないと言って、笑らいながら僕見ていた。なんだか、子ども扱いされているみたいで恥ずかしくなった。真弓は鼻歌まじりに、こっち! こっち! と僕の手を引いた。

真弓は、自分の部屋に入るなり何か食べる物と飲み物持ってくるねと言って、僕を一人きりにさせた。僕は落ち着かず、周りをキョロキョロ見たり、歩き回ったりしていた。ふと、真弓の机の上に積まれている本に目が止まった。恋愛小説や、ファション誌、料理本などがあった。一冊手に取ると、本の間から一枚の写真がパラリと机の上に落ちた。その写真には、髪の長い真弓が写っていた。高校時の写真だろうか、クラスメイト達と楽しげに笑っていた。

髪の長い真弓。当然だけど、僕は髪の長い頃の真弓を知らない。この頃の真弓はどんな感じだったのだろうか。写真に中の、男のクラスメイト達に目を向ける。この男が、真弓と付き合っていたのかなと想像したり、いまだに忘れられない片思いの人がいるのかなと想像したりしていた。

ドアの開く音、真弓だ。ダメだよ、勝手に見ちゃ、と言いながら手に持っていた写真を取り上げられた。その後、真弓は僕にいろいろ話しかけているが耳に入ってこなかった。ねぇ、聞いてるのと真弓は僕の顔を覗き込む。うん、ちゃんと聞いてるよと僕は答える。ウソ、心ここにあらずって感じにみえるけどな、と真弓は僕の心の中を見透かしているように答えた。じっと、僕の目を見つめている真弓。ゴメン、あんまり聞いてなかった、素直にそう答えた。原因は、これでしょと写真を手に取り僕に見せる。僕は、何も言えなかった。真弓は、写真を見つめため息をついた。しばらく俯いたまま真弓を見ることができなかった。

沈黙が続いた。真弓が紅茶をすする音、窓の外から子供たちの笑い声が聞こえてくる。突然、ビリッビリッという音が聞こえてきた。真弓を見ると写真を破いている。はい! これでおしまい真弓は微笑んで言った。ただ、その様子を呆然と見つめているしかできなかった。私は、そこにはいないのよと破れた写真を見ながらつぶやいた。今私はここにいるよ! 君の目の前に、それだけじゃダメなのかな、と力なくしゃがみこんだ。僕は、ゴメンと謝り、しゃがみこんだ真弓の手を引きグッと抱き寄せた。
僕の知らない彼女 ミヤヒロシ

Entry8
終曲
たかぼ

 徐々に悪化する腹痛を訴えて患者が来る。32才の未婚女性。触診では腹部に硬い部分を触れる。画像診断の結果腫瘍が見つかる。おそらく悪性腫瘍に違いない。
「悪いものかもしれないから早めに手術した方がいいですよ」と説明した。
「そうですか。ではお願いします。先生の手術はとても上手だと聞いていますので安心してお任せできます」
「ええ、任せて下さい」
 患者は意外なほど落ち着いた様子で直ちに手術の承諾をした。未婚のせいか年齢の割にあどけなさの残る顔。ふと昔診た患者のことが頭をよぎる。あれは駆け出しの外科医の頃。若年者に稀に発生する腹部の悪性腫瘍だった。苦い記憶。過ぎたことだ。そう思っても心のどこかにしこりが残っているのを感じる。だが今や私はこの分野では権威と言われるまでになった。立場も技術も昔とは違うのだ。
 そして予定通り患者の手術がはじまる。やはり周囲の組織と強固に癒着した悪性腫瘍だった。だがエキスパートである私には困難な手術ではない。慎重に剥離をすすめる。しかしそのとき予期せぬ大出血が起きる。昔のオペの記憶がまたよみがえる。あのときパニックになってしまったこと。普通ではあり得ない場所に珍しい血管の奇形があり、そこからの出血であった。しかしそのことに気づくのが遅れたせいで少女の死を早めたのは間違いない。同じ過ちはすまい。心を落ち着かせ、動揺するスタッフに指示を出す。どこからの出血か。分からない。もしやと探ると、果たして、昔の少女と同じ血管の奇形があり、そこからの出血であった。そんなばかな。確率的にこんな偶然はあり得ない。とにかくその部位を迅速に縫合する。間一髪で出血は止まり、血圧、呼吸その他のバイタルサインも正常範囲に復帰した。そして無事に腫瘍を摘出し手術が終了する。
 よかった。スタッフたちと顔を見合わせる。誰もが安堵の表情を浮かべている。患者の様態は、と見ると驚くべきことに、まだ麻酔から覚めるはずがないその患者は、しっかりと目を開け、語りかけてきた。
「ありがとう先生。今度は助けてくれたのね……」
 そうか、あれは20年前。少女が生きていれば丁度この女性の年齢になっていたことだろう。この人はあの少女なのか。そう気づいたとき私の心に長く残っていたしこりが溶けていった。そして私と患者の様子を驚いて見ていたスタッフたちの姿がいつの間にか消え、やがて私自身も微笑みを浮かべながら消えていった。
終曲 たかぼ

Entry9

(本作品は掲載を終了しました)

Entry10
みずにうつらうつるうつれ
イシヅカレン

 台風の夜だった。僕達は友人の家に集まって夜を明かした。煙の充満した部屋で酒を飲み、ピーナッツや煎餅やスナック菓子を食べ、テレビゲームをしたり談笑したりする間に、打ちつける風に震える窓の色がいつの間にか白々としているのに気がついた。途端に僕は今まで黒々とした分厚い壁に四方を囲まれた箱に閉じ込められていたような気分になって、一刻も早くこの部屋から出たい衝動に駆られた。時計は四時半を回っている。
「じゃあそろそろ俺帰るわ。」
「お、帰るの?」
 うーんと伸びをしてリョウスケが答えた。カーテンを見やって、「あ、もう雨止んでるじゃん。」という声が聞こえた。足元ではもう既にカナコとシュウヘイが転がって寝息を立てている。二人を跨ぎ越して「じゃあまた。」と別れを告げた。
 玄関から外へ踏み出すと湿気を含んだ突風が髪をなぶって、目やにだらけの僕の顔を洗っていった。きっとひどい顔をしているにちがいない。鼻の穴まで黒ずんで、隈のできた自分の顔を想像した。フラフラと自転車をこいで雫の滴り落ちる大通りへ出る。黒く濡れた木の葉やゴミ屑が散乱している。まばらに走り過ぎる自動車の音を聞きながら、しばらく大通りに沿って坂を登ると治水橋の手前で左に曲がった。途端に視界がパノラマに開けて、明けゆく空模様と緑の茂る土手の風景が広がった。左手には形を取り戻し始めた街並み、右手には風になぎ倒された田園風景が見える。僕の足元から真っ直ぐに伸びた土手を視線で追って、緩やかに右にカーブしていくと、ずっと向こうにある建設中のビルディングと大きなクレーンが小さく見える。もっと先には黒々とした森が大きく広がっている。土手の一番高い所は、むき出しの土が踏み固められた道になっていて、それよりも一段下がった斜面の両側にアスファルトで舗装された工事用の細い道路がつけられていた。
 自転車は頂から緩やかに下って、水の張ったアスファルトの路面へ滑り込んだ。空は明るみを増して、風が雲を追い立てている。地球が空気を取り戻したような味がした。脳天が痺れるくらいに鮮烈な空気の味に、近頃では胸一杯に空気を吸い込むことさえ少なくなっていたことに気がつく。渦巻く雲を透けるくらいに映した水面を車輪が滑る。ゆがみ、くだけ、しぶきを立てて前に進む自転車のフレームに僕は両足を乗せる。ペダルが空回りして音を立てながら僕を乗せた自転車は、とろりと水の中に沈み込んだ。
みずにうつらうつるうつれ イシヅカレン

Entry11
ドラマ
うちゃたん

 黒い二人掛けのソファーに僕は一人で座っていた。
 引越し祝いに彼女がプレゼントしてくれたものだ。
 その彼女は数分前まで僕の隣に座っていたのだけど。
 
「ねえ、人の話ちゃんと聞いてるの?」
「聞いてるよ。だから、何度も言ってるだろ。仕事が忙しいんだって」
まるでベタなドラマのワンシーンのようだと人事のように思っていた。
「忙しい、忙しいって、そればっかりじゃない。あたし達が今日、何週間ぶりに会ったか分かってるの?」
こういうこと言う女だったのか。ますますドラマっぽい。
「お前には分からないんだよ。社会人がどれだけ大変かってことをさ。お前みたいに親のスネかじって、大学院まで行かせてもらってるお嬢さんにはさ」
つい口が走って出た言葉に、しまったと思った。僕も知らず知らずのうちにドラマの役に成りきって、熱が入ってしまったのか。
「あたしのことそんな風に思ってたの?」
予想どおりの彼女の台詞。
「答えてよ!!」
ますます声を荒げて詰め寄ってくる彼女に、さすがの僕もやばいと感じる。
だいたい芝居なんて性に合わない。学芸会ではいつも裏方だったんだ。
早いとこ謝って終わらそう。そう思っていた矢先
「あたし達。別れた方がいいのかもね」
予測していなかった彼女の台詞に、一瞬固まる僕。
「言い合いもまともに出来ないようじゃ、もう無理よ」
この展開はまさか……
「さよなら」
去っていく彼女。
気付けばソファーに一人、取り残される僕。

 こんな展開、僕のシナリオにはなかったはずだ。
 いや、いくらシナリオと違った展開になろうとも、この最悪な事態を回避することは、いくらでもできたはずだ。なのに、僕は何も言わなかったし、彼女を追いかけもしなかった。
 まったく。アドリブとかできないのかよ。気の利かない男だ。
 少し、高を括っていたのかもしれない。こんなことで、彼女は僕から離れて行かない。 
 僕達の間に別れなんて存在しないってね。
 
 僕は左手を少し伸ばして、彼女がさっきまで座っていた箇所に触れてみた。
 まだ 少し温かかった。
 手のひらに伝わる彼女の温もり。
 もしかしたらまだ間に合うかもしれない。直感的に思った。
 ああ、これもよくある展開だ。失って初めて、彼女の大切さに気付いた男が、去っていった彼女を追っかけて行き、めでたくハッピーエンド。でもこれはよくあるベタなドラマじゃない。
 僕は上着も着ないで、部屋から飛び出した。
 結末は誰にも分からない。
ドラマ うちゃたん

Entry12
てくてく歩く
柄本俊

 散歩をするのが日課だった。
 周りからは不思議がられる。
「なんて無駄なことを」とか「面倒なだけ」とか。
 肯定的な意見はまるでない。
 そりゃそうだろう。
 自分自身のナマの足で散歩だなんて、時代錯誤も甚だしい。

 一世紀以上も前のこと。
 地球は激烈な環境変化に加えて、空気感染でも死に至るという歴史上最悪のウィルスに襲われた。
 ただ、このウィルスに感染したのは人間だけだった。
 他の動物には一切症状が見られなかったのだ。
 それをヒントに、抗体となる遺伝子がただちに特定され、治療が全人類に施された。
 しかし、思わぬ副作用があった。
 全身の運動交換神経が麻痺状態になり、ほぼ自分の意志では体を動かせなくなってしまったのだ。
 それは「悪魔の副作用」とまで言われた。

「よしっ、これであと半年はメンテフリーでもOKだ」
 俺が調節してあげた義体に、患者のじいさんは満足そうに笑った。
「おー、おー。やっぱり、お前さんの作った体が一番じゃのぉ」
 腕を振り回しても、足上げを繰り返しても、腰をさんざん捻っても、軋み音ひとつしない。
 おまけに全ての動きは機械まかせで、体の負担は一切無い。
「それはよかった。さて、と……」
 今日の仕事も終わり、俺は散歩に出る準備を始めた。
 自分の体の自動制御を解除する。
 これで、筋肉の伸縮を代役していたシナプスコントロールも、体の振動を抑えていたオートバランサーも働かなくなった。
「しかし、何でこれだけの技術力を持っとる義体整備士のお前さんが……」
「わざわざ体の負担になるようなことをするのか、だろ?」
 俺は苦笑するしかなかった。
「対面的にはナマの人間の動きを研究するため、ってことにしてるがね」
「違うのか?」
「きっかけは違わない。だけど、今は違うな」
「じゃあ、何なんじゃ?」
 生物の中で最高の創造力を持つがゆえに、ウィルス災害を乗り切り、「悪魔の副作用」を義体化することで克服した人類。
 ただ、創造と引き替えに失ったものもある。
 人間がこうまで知能を発展させたのは、手を使ってモノを作ることができたから。
 手を使うことができるのは、二本足で歩くことができたから。
「すっかり足もなまって、歩くのもぎこちないけど……」
 一歩一歩に自分の体重を感じることができた。
 自分の力で前へ進んでいる実感がある。
 生きるための基本な気がした。
 だが、それ以上に……。
「てくてく歩くのが好きになっただけさ」
てくてく歩く 柄本俊

Entry13
合唱部合宿最終日
ごんぱち

 合宿場の和室では、空の酒瓶が並び、いびきをかき始める者も増えていた。
「知ってるー?」
 近藤千早は、右手で空き缶を凹ませながら、左手でチューハイの蓋を開ける。
「こういう缶のチューハイってさ、焼酎じゃなくてウォッカが入ってる事あんだよー」
「そーかぁ?」
 目の据わった田中幸絵は、瓶に残った日本酒を飲む。
「ったく、とんでもねー話だなぁ。訴えてやる、てなもんだ」
「なになにぃ、何の話?」
 いびきをかいていた木村潤香が片目を開ける。
「ああ、チューハイがウォッカで作られてるって」
 田中がもつれる舌で説明する。
「なんだって、けしからん、けしからん、けしからんぞぉ」
 木村はがばりと跳び起きる。
「今まで焼酎党だと思ってたのに、ウォッカ党だったなんてヤツも出て来るわけだな。けしからんっ! これは人類にとってゆゆしき問題であーる」
「おー」
 パチパチ。
「これを、皆に知らしめ、然るべき制裁を行うのが、我々のぉ、使命ではないだろーかぁ。こらぁ、津島二等卒、起きんかぁ!」
 木村は眠っている津島桜を起こす。
「ふぁ、なんだよ?」
「チューハイがウォッカなのだ! みんなに知らせよ! 抗議するのだ」
「ふぁかったー」
 津島はフラフラと廊下に出る。
 廊下でクダを巻いている野村紗苗の側にしゃがみ込む。
「のむらー、のむらー」
「ほひゃ?」
「チューがウォッカだってー。みんなに伝えろー」
「はぁい、わかりましたぁー。みんなに送っーときまーす」
 野村は携帯電話を出してメールを送信しながら、眠りこけていた。

「うー、頭イタイ」
 近藤は顔を洗いながら口をゆすぐ。
「はは、だらしねえな」
 田中が笑う。
「って、あんたはまだ酒抜けてないだけでしょう。六時まで呑んでたんだから」
「あたしはシラフだー」
「説得力が一ミリグラムもないよ」
 首を小さく横に振ってから、近藤は顔をふく。
「おふぁよ、ございまーす」
 目をこすりながら、野村がやって来る。
「あー、気持ち悪うっ」
「ああ、野村野村」
「なんですか、千早先輩? うぇっっぷ」
「のさ、昨日っつーか今日の朝、メール来てたんだけど、あれ何?」
「ああ、みんなに聞かれましたけど、しりませーん」
「って、あんたが送ったんでしょーが」
「そう言われても、記憶飛んでますから」
「うーん、気になるなぁ……どういう意味なのかなぁ?」
 近藤はポケットから携帯電話を取り出し、本文一行のみのメールを表示させた。
『チューバッカなんだよ』
合唱部合宿最終日 ごんぱち

Entry14
パセリ
夢追い人

 僕は十四歳だった。フィルターを通さない真っ白な視界を持っていたし、今ならできないと思うようなことも迷わずチャレンジしていた。自分の未来に大きな可能性だって感じていた。そんな年頃だった。
 十四歳という年齢でパセリと出逢ったことが今となってとても重要なことだったのだと思える。それ以前にパセリと出逢っていなくて幸運だったし、もっと年齢を重ねた後に出逢わなくて幸運だった。
 初めて出逢ったとき、パセリは視界の隅で丸まっていた。ハンバーグか何かの横にいて、その鮮やかな緑を全身で表現する以外何もせず、自分の役割はここにいて人の目を満足させることなのだという意気込みを発していた。僕の興味はパセリという存在に釘付けになった。
 僕はまずパセリを齧った。苦かったし、野菜とは思えない、どことなく人工的な匂いが口の中に広がった。食卓をともに囲んでいる人たちのパセリはみな食器の端に押しやられて、それは誰の目にも完全な処理だった。
 どれくらいのあいだパセリと対峙していたのか今となっては定かではない。パセリの風味は水を飲んでも消えず、その存在する意味さえ苦味同様に曖昧だった。きっと僕たちがごちそうさまと言って、紙ナプキンで口元を拭うときにも食器の端にいるだろうし、キッチンに食器が退いたときにはまず生ゴミとして処理されるだろう。
 パセリが緑色でなかったならどうなっていただろう。現実として緑色なのだから、そんなことを考えるのは愚問なのだけれど、そのときの僕はその問いの前で、パセリの前で、真剣ににらめっこをしていた。その日、僕は結局パセリを食べなかった。

 僕とパセリのにらめっこはそれから何年かの間、冷戦のようにひっそりと、しかし一進一退の激しい攻防繰り広げた。当然のことだけれどパセリは一言も僕に語りかけなかったし、パセリが話せないことを僕は知っていたから話しかけることはしなかった。ただパセリはそこにいた。刻まれてスープに彩を添えるパセリもいた。そういうタイプのパセリはスプーンでかき混ぜるという手段で処理されていた。時として、パセリを作っている農家のことを思った。それを考え始めて、パセリと僕の冷戦は深みにはまって、より深い沈黙に突入した。
 パセリと僕の冷戦が終局を迎えたのは、僕が大人になって、企業に就職してからのことだ。広い世界に飛び出てあらゆる現実を目の前にして、僕は思った。
「世の中、パセリだらけだ」
パセリ 夢追い人

Entry15
みゆき橋
早透 光

 夕暮れ時の橋を渡ると西の空に一番星が輝いて、ちゃらちゃらと流れる水面を小さな鴨達がゆっくりと並んで泳いでいる。母鴨を先頭に小さな茶色の雛達が一生懸命に後を付いていく。
 仕事帰りの私は何処かでこんな風景を見たなと思い、それが何処だったのか思い出せないまま橋を渡りきった。
 スーパーで夕飯の買い物と、少しのお酒を買ってレジを済ませる。茶髪のレジ係は高校生だろうか、つるつるの肌に不釣り合いな化粧をしていた。こんな私よりは充実した時間を過ごせているに違いないと思うと、自分が何なのかを自問しそうで、怖くて考えるのを止めた。少し下向きになった気持ちでぽつぽつと歩く。夕暮れに光を増したタバコ屋の自動販売機の隣の薬局で風邪薬とメンタムを買う。最近風邪を引きやすく肌も荒れ気味だ。心も身体も弱ってしまいもう歳だなと感じる。踵を引摺りゆらゆらと歩く。街灯が役立つ頃私は自宅に着いた。

 買い物袋をテーブルに置き電気を点ける。姿見に自分の影を映す。後ろの暗闇硝子と合わせ鏡になって少し草臥れた私が何人もそこに突っ立っていた。
 服を脱いで髪を掻上げる。腰の括れと細い脚、そしてふくよかに張った胸に光りが集まり淋しげな私のシルエットが鏡に浮かび上がる。
(誰も欲しくない……)
 強がりみたいな独り言を吐いてみた。

 シャワーをゆっくり浴び湯船に浸かる。うーっと喉からオヤジ臭い唸りを吐くと幼い頃に父がそうやって唸っていたのを思い出し、可笑しくて笑えた。そう言えば昔実家から少し行った所に銭湯があった。それは御幸橋の袂にあって露天風呂みたいな小さな風呂が川に向って突き出していた。私はそこで父と一緒に浸かり鴨の群れを見た事がある。丁度今日のような夕暮れ時で欄干の上に一番星が輝いていた。
(そうか、あの時の記憶だ……)
 父みたいな人が憧れだった。私が小学二年の時に父は亡くなり、その頃からずっと私は父の影を探していた。そうずっと。中学の時にはクラスの男の子に告白されたり、大人になってからは良い人も出来たが、いつも何処かで父の影を重ねてしまい、その度に私は別れを繰り返してきたように思う。もう私もあの頃の父と同じ歳になってしまった。
(お父さん、私をお嫁さんにしてくれる? ……なんてね)
 言って急に恥ずかしくなり身体が熱くなった。
(この熟した肌。誰がいつ、女にしてくれるのだろう……)
 私は桜色に火照った乳房にそっと触れてみた。
みゆき橋 早透 光

Entry16

(本作品は掲載を終了しました)

Entry17
由美子戦記―鰻―
ながしろばんり

 うなぎはオーブントースターで焼く。不思議なもので五三〇円、韓国産よりも六八〇円の台湾産のほうが捌けがよく、夜九時前、売れ残った韓国産に四八〇円の赤丸がつくやいなや掻っさらってレジに向かう。油性ペンの赤がまだ乾いていなくて、指についた。
 下に敷くアルミホイルは、丸めるよりもかどをつけた方がしっかりする。飴色に光る肉はラップの光沢で、仲冬の寒さに煮こごりのようになっているのだろう。器用なもので、クリスマス会の工作のように立ち上げたアルミの折、アパートの四畳半で独り内職。ずんど斬りのうなぎの皿からはみ出たところはそのままに、朝にパンを焼いた筐に押しこめる。五分のところに廻し癖のついたオーブントースターで、弱中強なんていう小細工もなく、ただ懸命に内なる世界を燃やす筐だ。
 蛍光灯。うなぎ。牛乳。梅ヶ枝餅の包み紙。みかん箱。コンロ。ローンの案内DM、る、ルートビア。
 部屋の中を見渡して、るの字のものがない。ルートビア? ルートビアなんかピーナッツの漫画ぐらいでしか聞いたことがない。る、る。やっぱりるは見当たらない。ルール、ルビー、ルート記号、どれもない。寒くなった。ルートビアって飲んでみたい。世界的に有名な湾岸戦争の退役軍人が老後のささやかな食事を楽しんでいるところ。だなんて、まるでスヌーピーだ。
 こたつからの熱とは別に、由美子の横でじびじび鳴く筐。外にまで熱を発散させて、ニクロム線の朴訥な職人はうなぎを焼いている。脂の焦げるにおいが部屋の冷気にあいまって、肘に当たる熱は余計に肩口を冷やす。二の腕からごしごし摩って立ちあがり――そうだ。お湯、お湯を忘れていた。

 うなぎは馥郁と脂を浮かせて泡立っている。茶碗に張った湯の底には飯粒の輪郭が鮮やかで、渦を巻いた湯気が由美子のあごから頬までかけてなぞっていく。
 肉片のはし、脂の抜けたところから齧りとり、奥歯から口内へ、余した香味を食う。間を置かず肉厚の身に被りつき、舌の飽いたところで湯漬けを啜りこむ。湯の温みでさっぱりしたところにまた脂のぽってりとした肉身をほお張って刹那、細かい骨を舌で探り当てて、つい、と茶碗の縁に引っ掛けておく。
 うなぎ二切れ、湯漬け一杯終わったところで残り三分のニとなり、炊飯器に冷飯も残っておらず、由美子はため息一つ、コートに手をかける。
 玄関開けたら二分でごはん、その二分でさえも、冷めていくうなぎには長すぎる。
由美子戦記―鰻― ながしろばんり

Entry18
善悪の彼岸に、回る観覧車
るるるぶ☆どっぐちゃん

 昔からとにかくお前は頭が悪い、馬鹿だ馬鹿だと言われて育ってきたあたしが、それでも唯一、ニーチェの書いた本だけを理解できたのは、神が殺されるところをあたしは実際に見たからである。
 真夜中のテレビモニターに映し出された街のメインストリート。カラフルな店が建ち並び、人混み、人混み、その中で白いドレスの神は、後ろから誰かにナイフで刺されて倒れ、そして死んだ。
 神が死んだ!
(「いやはやとんでもないことだ。この聖者は知らないのだ。神が死んだということを!」)

(「ならば選びたまえ。君はビッグだ!」)
 誰もいない客席の中、あたしは本をぱたんと閉じる。この本も難しすぎて、解らなかった。綺麗な色の表紙なのに。
 ロックスターは叫び疲れ、ステージの真ん中でついに寝た。
 本を捨てに外へと出る。帰る頃には起きるだろう。そして共に家へ帰る。もう二十歳だから、五年も一緒に暮らしていることになる。
 コルベットのドアを開けキーを回す。ゴミ箱を探しに街へと出かける。綺麗な色の本に合うようなゴミ箱を探しに街へ。
 大きなスクランブル交差点。信号が変わる。車を出し、角を曲がる。
 そこに神が倒れていた。
 ブレーキを思い切り踏み、車を止める。
 がらんとしたメインストリート。静か。とても静か。居るのはあたし達ただ二人だけで。
 車を降り、肩に手をかける。
「ねえ、ねえ、大丈夫?」
「ふう」
 神は顔を上げ、息をついた。
「おなかを刺されて、痛いわ。誰も助け起こしてくれないし」
「ごめんね。すっかりニーチェに騙されて。やっぱり生きていたのねあなた。やっぱり生きていたのね」
「ええ。ドレスが真っ赤になっちゃったけれどもね」
「良いわよそれくらい。あたしが何とかしてあげる。こんなにお店もあるし。ねえ、乗って。何処が良い? 何が好き? 連れてってあげる」
「服は良いわ」
 神が車に乗り込む。
「それよりわたしは遊園地に行きたいな」
「解ったわ」
 あたしは答え、車を発進させる。
「血だらけでひどい顔ね」
 バックミラーをのぞき込みながら神が言う。
「髪もバラバラ」
「本当ね。でもあなたが来たら、みんな喜ぶわ」
「そうかな。みんな忘れてないかな」
「そんなことは無いわ」
「なら良いけれど」
 そう言うと神は、あたしの本をぽらぱらとやりだした。あたしはアクセルを踏む。遠くには焼け落ちた遊園地群の灰色の観覧車。膨大な数の灰色のゴンドラが、青空の中、静かに揺れている。 
善悪の彼岸に、回る観覧車 るるるぶ☆どっぐちゃん

Entry19
越冬こあら

 天空がいよいよ広がりを増した日曜日、妻の提案で黄葉観賞に出掛けることとなり、新宿で乗り換えた総武線の車中で、リストラされた俺に出くわした。
「やあ、どうしてる、元気かい」
 声をかけたが、無職の俺は、よれたコートの背中を丸めたまま、溜め息をつくばかりだった。

 最寄りの駅で電車を降りると、間の悪いことに国際的なマラソン大会が開催されており、駅前から競技場までは、小旗を持った群衆に占拠されていた。右に左に群衆を避けて歩いた。
 暫く行くと人だかりの中で、演劇を諦めなかった俺が一人芝居を披露していた。北風に不自然なドーランが寒々しく、投げ銭収集用の木箱が痛々しかった。
「……そこに通りかかった大きな男をなぎ倒し……」
 芝居の俺は、ひときわ大きな声を張り上げた。俺の内臓には、その空腹までが伝わった。
 妻を見失わないように小走りになりつつ進み、やっと『いちょう祭り』会場に到着。黄葉が敷き詰められた広い並木道は、もの凄い人出だった。頂きまで刈り揃えられた銀杏を見上げつつ歩くと、マラソンの声援が今は遠い波のように聞えた。いつの間にかずいぶん先を歩く妻には、まだ打ち明けていなかった。
 何もかもが初冬の陽射しに輝き、長い影を落とし、微妙な熱を受けつつも芯から冷え込んでいた。
 ふと車道に目をやると、信号待ちの黒いオープンカーの運転席に、演劇を諦めずに成功した俺がいた。売れっ子モデルか女優の卵か、そういった女性を助手席にはべらせている。サングラスを鬱陶しそうに外したオープンカーの俺は、俺に気付いて、口元に薄ら笑いをのぞかせた。

 人生は分岐の連続だ。性格的に優柔不断なところがある俺は、各々の分岐点での選択に未練を残してしまうので、こういうハメになる。つまり、あのベンチに横になっているホームレスも沿道の小奇麗なフレンチレストランの経営者も、別の選択肢から派生した俺だ。そういった無数の可能性から選りすぐられたはずの俺は『いちょう祭り』の人ごみで妻の後姿を追っていた。

「おいも」
 気がつくと妻がこちらを向いて待っていた。
「食べない」
 石焼いも屋の軽自動車を指差して、妻が笑った。
 脱サラを図り、何とか成功している焼いも売りの俺から一本二百五十円を買って、二人で分けた。湯気と皮とホクホクが口中に溶けた。上空から、あの時先に逝った俺が眺めていた。中学時代から陸上部を続けていた俺は、もうテープを切っただろうか。
俺 越冬こあら

Entry20
キャッチングセンター
アナトー・シキソ

噂のキャッチングセンターを覗いてみた。
中に入るとバッティングセンターと少しも変わらない。
ただ、バットがない。
代わりにミットが置いてある。プロテクターとマスクもある。
どれもキャッチャー用だ。
「お付けしましょうか?」
短パン穿いた若いネエチャンがどこからか現れて、俺に声を掛ける。
従業員だ。
ああ、こういうネエチャンはバッティングセンターには多分いない。
「いや、いいよ」
俺はとりあえず様子を見る。
様子を見るというか、隣のヤツを見る。
さっきから、パシンパシンいい音させてるヤツだ。
完全装備で座り方もサマになってる。
ピッチャーマウンドの機械から出る球は結構速い。
それを、ひとつも逸らさずパシンパシン受けてる。
平日のこんな時間に仕事もせずに見事なキャッチングだ。
まあ、ヒトのことは言えない。
球が飛び出る機械にはテレビ画面みたいなのが付いている。
そこに実写のピッチャーの映像が映っている。
で、球は、投球するピッチャーの映像に合わせて飛び出してくる。
今映ってるピッチャーはテレビで見たことがある。
名前は知らない。
けど、確かすごい豪速球を騒がれてプロになったヤツだ。
確か、マツなんとかだ。
そのマツなんとかが、振りかぶってガンガン投げ込んでくる。
いや、実際は機械が球飛ばしてるだけなんだけどさ。
ああ、分かった。要するにそういうことなんだな。
つまりは、その豪速球のマツなんとかの球を受けてるという、その快感。
それがここのウリなんだ。
くだらねえ。いや、くだらなくもないのか?
俺はポケットからタバコを取り出して口に銜えた。
「お客様、館内は禁煙ですので」
さっきの短パンのネエチャンが飛んできて、そんなことを言う。
「銜えてるだけだよ。俺、口唇期にいろいろ問題があったから」
「……そうなんですか?」
「そうなんだよ」
短パンのネエチャンが行ったんで、俺は観察を続ける。
マツなんとかが球を投げる前に、画面に文字が出てることに気付いた。
カーブとかフォークとかそんなんだ。
なるほど変化球も放るのか。
けど、ずっと見てると、そのマツなんとかはどんな変化球でも投げる。
いくらなんでも一人のピッチャーがあんなにいろいろ放れないだろ。
そのへんの詰めが甘い。
「お客様!」
さっきの短パンのネエチャンが駆け寄ってくる。
気が付くと俺は自分でも知らない間に銜えた煙草に火を付けていた。
うるせえなあ。
俺はネエチャンを無視して外に出た。
どこもかしこも禁煙で嫌んなるぜ。
キャッチングセンター アナトー・シキソ

Entry21
収まる
日向さち

 じっとしているための場所がある、と思えることが、いい。
 天気が良かったので、どこかへ行かなければいけないような気がして、外へ出てみたが、目的もなしに歩くものだから、気がつくと迷子になっていた。子供でもないのに、迷子。本当は、どこへも行きたくなんかないのに。
 彼に電話して、見つけてもらって、彼の部屋へ連れてってもらって、ご飯を食べて、テレビでやっていたアクション映画を見たが、なんだか落ち着かない。そこで、毛布などを入れるための、空いている衣装ケースへ入れて欲しいと言ってみた。
 膝を抱え、首を捻り、転がすように押し込まれたら、首も指も動かないほど、ぴったりと収まった。まさしく箱入り娘、と思ったけれど、あまりの馬鹿らしさに彼へ伝えるのをやめる。
 彼と付き合うようになってから、しょっちゅう、この人はどうしてこんなに私好みに生まれ育ったんだろう、という考えが浮かんでくる。出会った頃は、顔がタイプだとか、気が合うだとか、取り立てて思うわけではなかったのに。ジャケットのボタンが外れかかっていても気にしないし、私が直しているのにも気付かないところなんかを含めて、今では好きだと言える。
 彼は本を読み始めたようだ。紙を弾くような音は立てず、擦れる音だけが繰り返される。普段なにげなく耳へ入ってくる音だが、私の読書よりも静かだということに、今、気付いた。
 本を読んでいる時、彼の目には印刷された文字しか映っていなくて、私が見つめていても気付かない。彼には彼の、私とは関係のない領域があるのだ。男の人には、必要なことだと思う。
 読書の邪魔かなとは思ったけれど、なんとなく話し掛けたくなって、ねえ、と言ってみる。んー、と甘ったるいような返事。なんでもない。そう。
 彼の声が私の体を溶かして、ここから出られなくなるんじゃないかと思った。短い言葉だけれど、いつもより私への気持ちが含まれているような気がする。いつもは、聞き逃しているだけかもしれない。
 ねえねえ。どうしたの。何読んでる? 小説だよ、貸してもらったやつ。ああ、あれね。
 足や腕は跡形もなくなってしまった、と思う。全部溶けてしまったら、きっと、一生ずっと箱の中にいたくなるだろう。
 トイレへ行かないわけにはいかないので出してもらったら、体中、いつもどおりの形でびっくりしたのに、彼には、バカだな、と言われた。
 バカだって構わない。彼がいてくれるから。
収まる 日向さち

Entry22
歌声はいつか太陽へ向かう
伊勢 湊

「そんなことに意味はないぞ。人は誰でも自分のために生きるものだ」
 アコーディオンを売り払い、代わりに銀のナイフを手に入れた。
「そうだね、でも、自分のためなんだ」
 店のオヤジさんが怪訝な顔で僕の顔を覗き込む。
「そうは見えないけどな。言っても無駄だろうが」
 僕は心遣いのお礼を笑顔で返した。
「不器用なんだ。誰かが喜んでくれることでしか自分の喜びも実感できないんだ。それだけだよ。だから、全部自分のためだよ」
「若いだけかもしれん」
「そうだね」

 城壁に囲まれたこの町では全ての音楽は失われた。町が音楽を禁止する理由は分からない。理解できない。確かなのは、この町で歌えば僕たちは捕まり首をはねられる。結局歌えなくなる。
 以前僕はリリーの歌の伴奏をしていた。僕たちは夜の街角で聴衆のために歌った。娯楽の少ないこの町でリリーの歌は人々の心を癒し、将軍の演説よりも大きな人垣を作った。そして歌は禁止された。リリーは涙を流し、自分は歌いたいだけだと言った。僕はタダ同然に堕ちたアコーディオンを売った。

 私は歌うことしか出来ない。町の人のために例え最後になっても歌いたいの。そう言ってきかないリリーを、その夜、僕は城門の近くに連れ出した。
「リリー、君は城門を越えるんだ」
「そんなことをしたら衛兵に殺されてしまうわ。それに町の人を置いてはいけない」
「一歩でも城門を出れば衛兵はもう追ってこないよ。それに、町の人を置いていくのは君の歌が次で最後になることのほうさ」
「でも……」
「君は太陽に向かって歌えばいい。歌声は必ず城壁を越えるから」
 見張りの目を盗んで城門を開けた。衛兵がすぐにやってきた。
「さあ、行くんだ!」
「あなたも」
 僕は銀のナイフを抜いてリリーに背を向けた。襲ってきた衛兵を殺さないように切りつけて突き飛ばした。サイレンが鳴り何人もの衛兵が槍を持って駆けつけてきた。
「行け! 行くんだ。後からすぐに行く」
「そんな、どうして……」
「歌が聞きたいよ」
 二人の呼吸が一瞬止まって交差し、そしてリリーが駆け出した。
 リリーが門を出たのを確認して城門を閉じた。衛兵は誰も城門の外に出れない。ここは囚われた場所。それでも全てを遮断することは出来ない。槍が僕の体を貫いた。銀のナイフが手から落ちた。
 全てが消える前に僕は見た。聴いた。門へと集まる聴衆を。そして城門を越えて確かに聴こえてきた、あの全てを洗い流すリリーの歌声を。
歌声はいつか太陽へ向かう 伊勢 湊

Entry23
しちにとなのに
大介

 ある日の放課後。廊下で雄一は千鶴を待っていた。
たまに後輩が通って挨拶していく。
きらきらした西からの照り付けがまぶしい。

千鶴が通りがかったので、呼び止めた。
「あっちょっといい?」
少々迷惑そうな顔をしながら彼女は
「ん?今先生に呼ばれてて。時間にうるさいから」
「ごめんごめん、この前借りた推理小説返すよ。」
彼女はミステリーなどの小説が大好きで、この本も彼女が貸したものだ。
小説の話となると、目の色を変えた。
「あぁ、これね。パソコンがキーだったよねー」
「そうそう、なかなか面白かったよ。ありがとう。あと」
「あと…?」
「いや、い、言いたいことがあるんだけど。」
「え~っなんだろ!?何かおごってくれるの??」
「いや、その、そうじゃなくてあの…」

(こいつの目見るといえない…くやしいけど)

「…ごめん、もう行かなくちゃ」
彼女がちょっと申し訳なさそうに言う。
「そっか。じゃあ…この紙に暗号隠したから、読んで」
差し出された封筒に、彼女の表情がちょっと変わった
「へぇ、どうなんだか。」
「もう一世一代の大舞台さ」
「ハハハ、わかった。難しい?ならヒント出して?」
ヒント…考えてなかった。さもそういう表情しつつ
「そうだな~キーボードで打てば分かるな」
「そっか、じゃあまたね」
彼女は急ぎ足で、先生のもとに歩いていった。

「手紙、気になるなぁ」
さっき渡された手紙が気になっている彼女。
落ち着かない様子で、職員室に入った。


……
「はいカット!なんかここのところ二人とも、演技が良いねー」
顧問の先生が言う。二人は学園祭でやる芝居の練習をしていたのだ。
「そんなことないですよ、なんか自分そのままって感じで」
千鶴は言う。雄一も続けて
「後輩たちに最後くらい良い芝居を見せたいんです」
「それは良い気構えだ、もう時間も少ないし家でも作りこめよ」
「はい」
「明日で一応、部分的な練習は終わりだ」
「そろそろ通しですか?」
後輩たちも思っていたらしい。

「そうだ、明後日から通しに入る。そのつもりで。じゃ今日はここまで」
「ありがとうございました!」


校門を出た所で、雄一に呼び止められた。
「さっき、芝居で渡した手紙、開けてな」
彼女は雄一が好きだった。だから電車の中で、どぎまぎしつつ開けたのに

しちにとなのに

とだけしか書かれていなかった。
家についてキーボードを眺める。ほころんだ笑いとため息をひとつ。
「あたし、こんな男にに落とされるのね。」
まんざらでもなさそう。
しちにとなのに 大介

Entry24
『ラプンツェルの願い』
橘内 潤

「おはよう。よく眠れたかい、ラプンツェル?」
「………」
 目が覚めると、爽やかに微笑む宗の顔があった。しばし、理解に苦しむ。
 ――そうだった。宗は昨日、今夜は病室に泊まるとか言ってたっけ。
 食後に飲んだ薬のおかげで早々に寝てしまったわたしだけど、その時はまだ宗がそばで丸椅子に座っていたのを覚えている。いまも同じ椅子に座っているけど、こんな背凭れのない椅子に座ったまま一晩過ごしたのだろうか。
 ――というか、ラプンツェルってなんだよ?
 わたしは素直に聞いてみることにする。
「宗……ラプンツェルってなによ、あんた」
「知らない? ラプンツェルって童話」
「知ってるけど……なんで、わたしがソレなわけ?」
 一ヶ月に一度、わざわざ美容師さんに出張してもらって髪を切ってもらっている。オシャレのためじゃなくって、長いと邪魔だから――という理由なのが癪だけど、三階の窓から地面まで届くほど長くないのは事実だ。
 ちっちっ、と宗は人差し指を振る。
「ラプンツェルってのは、悪い妖精に捕まって塔に閉じ込められちゃってるんだ。でも、すぐに王子様がやってきて助けだしちゃうんだ――ほら、由佳と同じだろ」
 全然意味が分からない――ああ、分かった。
「あー、つまり……医大、受かったんだ。おめでと」
「なんだ、感動が薄いな。わざわざ朝一で母さんに発表見てきてもらったというのに」
 あやまれ、母さんにあやまれ。って、やっぱりあんたアホだよ、宗。……でも第一志望、受かったんだね。おめでとう、本当に。
「んで、まあそういうワケだから――」
 宗が小さく咳払いする。
「もうちょっと待ってろ。王子様が助けてやるからな」
「……期待しないで待ってるわ」
 わたしはちゃんと笑えた。
 宗は知っているんだろうか? ラプンツェルは王子様に助けられたんじゃなくって、王子様と密かに会っていたことが妖精にばれて、塔を追いだされたのだってことを――ラプンツェルのお腹が大きくなって服が着れなくなったから、妖精にばれたんだってことを。
 もしも宗がそのことを知ってて、わたしをラプンツェルに喩えたのだとしたら――嬉しい。嬉しすぎて泣いちゃいそうになって困った。
 わたしはラプンツェルになりたい、って心から願う。

 今日から髪をのばしてみよう。この病室からいなくなるまでに、窓から地面まで届けばいいな。