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1000字小説バトル

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1000字小説バトル
第69回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 4月)
文字数
1
榎生 東
1000
2
のぼりん
1000
3
ゆふな さき
1000
4
浅田 壱奈
1000
5
霜月 剣
1000
6
めだか
1000
7
ながしろばんり
1000
8
小笠原寿夫
1000
9
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
10
相川拓也
1000
11
鬱宮時間
1000
12
朧冶こうじ
1000
13
石井伸太郎
1000
14
たかぼ
1000
15
べっち
723
16
ごんぱち
1000
17
橘内 潤
891
18
早透 光
1000
19
アナトー・シキソ
1000
20
越冬こあら
1000
21
日向さち
1000
22
隠葉くぬぎ
1000
23
影山影司
1000
24
空人
1000
25
るるるぶ☆どっぐちゃん
1000
26
伊勢 湊
1000

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タコ入道のお気に入り
榎生 東

 七月二十日、倉井は携帯電話に滝本を呼び出した。
「もしもし、倉井でございます」
「滝本です」
「暑さが厳しくなりましたがお元気でしょうか」
「おかげさまで」
「お忙しいところを申し訳ありませんが、お盆明けにお時間を頂きたいのですが如何でしょうか」
「今月ですか」
「いえいえ、旧盆の明けです。八月十八日の、お昼のお時間を頂きたいのですが」
「いいですよ」
「有り難うございます。実は先日、鹿島工務店の大野副社長様から、太田垣とお昼をご一緒したい旨申し出がございました。太田垣の顔を借りたい事がお有りなのでしょう。太田垣はせっかくの食の機会に不味いものを喰わされては叶わんと申しまして、此方で目白の料亭宇田川に茶懐石を用意致しました。土建屋ばかりでは飯が不味い、滝本社長をお誘いしようと年寄りが申しております」
「年寄りなどと叱られませんか、太田垣代表は五十九の非を仰るお方ですよ」
「なんのなんの、あと何回飯を食えるか知れない老人だと本人が申しております」
「そうですか、回数をねえ」
「社長は猛暑で食欲を無くしているに違いない、必ずお誘いしなさいと例の調子で言い出したら聞きません」
 滝本を誘い出さねば目的を果たせない座敷であった。が、切れ者、倉井は口の利きようが違う。親しみを込めて冗談を忘れない。
「承知致しました。お心遣い頂き恐縮です」
「社長は杉本氏はご存知でしたでしょうか」
「経友フォーラムで、お姿はお見かけしてますよ」
「彼は仕事がら鹿島には実績がお有りで、大野副社長とは特に懇意だそうです。今回のお話は彼がメッセンジャーなのです」
「そうですか、是非ご紹介ください」
「何しろ太田垣は滝本社長を、それはもう大変に好いておりまして、否々、好きと言っても妙な趣味ではございません、どうぞご安心を」
「いやどうも恐れ入りました」
「あの通りタコ入道の化け物ですから惚れられたら大変、命がけです。ヒッヒヒ」
「ハッハッハハ」
 滝本は久しぶりに腹から笑った。
 
 杉浦には八月に入ってから通知された。
「間が無くて申し訳ありませんが、お盆明けの十八日で宜しければ都合つきますが」倉井は座敷の段取りがあるので、回答は直ちにするようにと迫った。
「私も空けて待つほど暇な立場じゃない、せめて十日前には言ってもらわないとね。杉浦さんだって困るでしょうが」
 見え隠れする太田垣の手管は苦々しかったが大野も杉浦も了承する他に無かった。
タコ入道のお気に入り 榎生 東

水泳嫌い
のぼりん

 前田の顔色がどうも良くない。元気がないのである。
 主任教師の後藤は、新任の同僚が悩んでいる原因に気づいて、なんとか助けてやりたいと思った。
「君が困っているのは、夏の水泳授業のことだろう?」
 前田は俯いたまま返事をしない。
「やはりな」と後藤は呟くようにいった。
「どうしてわかったんですが」
「君の悩みなどお見通しだよ。こう見えても感はするどいほうさ」
 前田は泣きそうな顔になっている。
「あの、そのこと、知っているのは先輩だけですか?」
「たぶんそうだろう。でも、大丈夫、誰にも言わないよ」 
 嘘である。
 いくら隠そうとしても、前田の髪の生え際の不自然さに気づかない者は、学校中でひとりもいないだろう。ばれていないと思っているのは本人だけなのだが、その現実を今ここで口にするのは、あまりにも残酷である。
「でも、一人だけ水泳授業に出ないというのは、教師としては失格ではないでしょうか」
 不安を隠せない前田に、後藤は困ったように、薄くなった頭を掻いた。その動作が、カツラを連想させるかもしれないことに気づいて、あっと手を止めた。
 先輩として、この新人教師をできるだけ傷つけたくはなかった。後藤は慎重に言葉を選びながら言った。
「心配はいらないよ。校長には私から伝えておくから、当日は見学していたまえ。実は私も今でこそこれだが……」
 言いながら後藤は自分の頭をつるりとなで上げた。「昔はやっぱり君のように隠していたもんだよ。だから、君の気持ちはちゃんと理解できるつもりだ」
「まさかそんな。先輩も仲間だったのですか? りっぱな人間にしか見えませんが」
「いや、君と同じさ。でも内緒だよ」
 後藤は大げさに笑ってみせた。それに安心したのだろう、前田の表情がぱっと明るくなった。
「隠し通すというのは本当に苦しいものです。水の中に入ると、どうしても正体がばれてしまいそうで怖いんですよ。今までの努力が水の泡……」
「わかるよ」
「本当ですか、ありがとうございます」
 と、突然、前田がカツラを取った。
 やっぱり、と思う前に後藤は気づくべきだった。人の秘密に深入りしすぎたことを……。
 驚愕する後藤に、前田は馴れ馴れしく擦り寄った。
「あの……先輩、いくら切っても指と指の間に膜ができてしまうんですけど、何か良い方法ないですかね」
 なんと、思わぬところで知己を見出した前田は、今度は水かきの除去方法について、後藤に相談し始めたのである。
水泳嫌い のぼりん

下手っぴ寺山修司ふう
ゆふな さき

 スポットライトが舞台の中央に当たる。女が立っている。舞台中央に立つにしては、くたびれた、そして醜い風情だ。

 聞いてよ、私の話を。
 まず何から話そうかしら。
 私はね、普通の家に生まれ、普通に育ち、才能もなにもない。
 ぱっとしない大学に入り学生になっては見たものの、成績もぱっとせず、見てくれもぱっとしない。
 近頃は宴会とバイトの往復の日々。人間としてそれってどうなのかしら。

 あのね、私は何かになりたいのだよ。
 今の自分が大っキライなの。
 見てくれも美しくもなく、
 太りやすく、
 間抜け。
 いっつも「天然だね」って言われるの。
 そう言ってくるバイトの先輩、嫌い。
 これが狙いなら楽しいけれど。
 好きで天然なんじゃないからさ。

 私は何かになりたくて、
 だからバカみたく文章を書いているけれど、
 けれど一生懸命書いても、その作品は駄作ばかり。
 だから自分で先にけなしてみる。
 言い訳病。
 格好悪いかぎり。

 一番伝えたいことは奇妙に折れ曲がる。
 現実もそんなことばかり。

 格好のいい人に告白して、
 失敗する。
 私は男とねてない。
 だからまるで自分の半分で生きているみたいだ。
 そうして、まずいことに。
 あるとき、ねもせずにお金をもらったんだ。
 個人営業。
 笑うだけで一万円。
 本当だよ?
 嘘っぽい話だけど。
 自分でも信じらんない出来事。五万円。
 いいだろ? 自慢だよ。
 そして、マジで、それってくたびれた。
 なんであの人は、私にお金をくれた?
 あの人は29歳で、まるでオマケみたいに生まれた末っ子で、フリーターで、髪が薄くなってきて、それを気にしていつも帽子かぶってる。
 そんな人。
 私は若さ以外に何もなく、
 「ううん、私には何かある」
 と思いたがっている。
 まるで同じなんだ。
 私の二九もきっと似ている。
 
 今、事務のバイトをしている。それって楽しいよ。
 女の先輩、いい人でさ。
 なのに、
 だんだんと慣れてきて、だんだん嫌になってきた。
 
 助けてよ。わかるんだ。
 このまま事務のバイトが上手になっても、学生であっても、
 私は何者にもなれない。
 私は何者にもなれない。
 それじゃヤなの。
 
スポットライトがしぼられ、群集のいる映像に変わる。
都内の交差点がいい。渋谷スクランブル交差点に似た、
それよりはわびしい交差点だ。
彼女はウォーリーのようにその中にまじって隠れてしまう。
 ズームアウトしながらフェードアウト
下手っぴ寺山修司ふう ゆふな さき

弱虫浩太
浅田 壱奈

 浩太は悔しかった。今日幼稚園で、ヒロ君から弱虫と言われたからだ。それもみんなの前で。それだけならまだいい。大好きなミクちゃんからも弱虫と言われたのだ。
 確かに浩太は弱虫だった。一人でトイレに行けないし、隣に住むお兄ちゃんからは、しょっちゅう泣かされている。今日の幼稚園でも、蝶々が目の前を横切っただけで泣いてしまった。
 でも浩太は自分が弱虫だと認めていなかった。自分は強い男だと思い込んでいた。だから今日の出来事は、浩太のプライドをひどく傷つけた。
 ―みんなを見返してやる!!
 浩太は固く決心した。

 その日の夕方、浩太は近所の狂犬と対決することにした。そんなに大きくはないが、人が通ると、今にも飛びかかってきそうなくらい吼えまくる狂犬だ。浩太は、その犬を飼っている家の前を通るのが怖くて仕方なかった。この話を幼稚園でしたらひどくばかにされた。だから、浩太は狂犬と対決すれば、幼稚園のみんなを見返せると踏んだのだ。
 そして今、狂犬が目の前にいる。例のごとく浩太を目の前にした狂犬は物凄く吼えている。白くてふわふわした毛が、吼えるたびに揺れる。
 浩太は逃げ出したくなった。恐ろしくて手足が震えている。心臓なんかは、飛び出てくるんじゃないかというくらい脈打った。でも、今日の浩太は違った。幼稚園のみんなを見返すのだ。
 負けるもんかと思い、一歩狂犬に近づいた。それに伴い、狂犬はさらに吼える。恐怖のあまり手の先が冷たくなっている。
 もう一歩近づいた。狂犬が浩太を睨み付けウーと唸る。浩太も負けじと睨み返す。しばらく無言の戦いが続いた。永遠にこの時間が続くんじゃないかと思った。浩太は気を失ってしまいそうなくらい恐怖を感じていた。
 すると狂犬が座り込んだ。浩太は今だと思い、狂犬に素早くもう一歩近づき頭を撫でた。狂犬は大人しく浩太に応じた。
 ―勝った!
 浩太は狂犬に勝利したと思った。狂犬は浩太に屈したのだと。ぎこちなく狂犬の頭を撫でている浩太の手は、それでも恐怖で震えていた。

 次の日、早速ヒロ君に昨日の戦いを話した。
「そのいぬってさ、ひとなつっこいってしってた?」
 ヒロ君がいった。
 浩太は満足した。あのヒロ君が自分に負け惜しみを言ったと思ったからだ。今度はミクちゃんにも話そうと思い、浩太はミクちゃんのもとへいきいきと駆けて行った。
 そんな浩太の後ろ姿を見てヒロ君は、昨日は言いすぎたなと少し反省した。
弱虫浩太 浅田 壱奈

カレーの匂い
霜月 剣

「ただいま」
 玄関からリビングに通じる三メートルほどの廊下に、見知らぬ人たちが満員電車さながらにひしめきあっていた。何かに怯えたように、サラリーマンや高校生や塾帰りの小学生やOLや老人が、一様に私を注目している。よく見ればみな、靴を履いたままだ。
 ドアの外へ首だけ出して表札を見る。確かに自分の家だ。だが、それすら疑わしい事件が、まだ利息の一割も返済していないマンションの一室に起こっていた。
「な! なんですか土足で、あなたたちは!」
 私の声を聞き付けた妻が満員の車内をかきわけるようにリビングからやって来て、あらユウくん早かったね、などと悠長に出迎えた。それが大変なのと濡れた手を、結婚祝いにもらったエプロンで拭う。外にただよっていたカレーの匂いがする。腹が減った。
「なんの騒ぎだよ、これ」
「うちの前のバス停でバスジャック騒ぎがあったの」
「バスジャック?」
「あたしはちょうどバス降りるところで、ビックリして逃げて来たんだけど」
 一目散にマンションに走り込んだ妻に、みんな釣られて逃げ込んで来たのだが、どうやら犯人が紛れ込んでいるらしいと、そばの中年男が下を向いたまま申し訳なさそうにつけ足した。
「だけどいったい、何人いるんだこりゃ」
 ひとり緊張感のない妻が私に背を向けて背伸びをし、楽しそうに応える。
「ざっと百人ぐらいいるんじゃない? 前を歩いてた子供も釣られて入って来ちゃったみたいだし」
「こんな時間だし、子供ぐらい帰してもいいんじゃないの?」
 香辛料の匂いが廊下を満たし食欲をそそる。腹減った、いい匂いだ、帰りたいと百人からが好き勝手に話し始め、廊下は騒然としてきた。
「ユウくん、警察に電話する?」
「ええ? 何やってたんだ今まで」
「何って。カレーいっぱい作ってたのよ」
「まさか、この百人分?」
「そんなわけないでしょ。犯人の分なんて無いに決まってるじゃない」
「そんなぁ」
「え?」
 私はドアに突進する何者かに突き飛ばされ、思い切り尻餅をついた。ずっと下を向いていた女子高生が押し出された勢いでよろけて、私の上に折り重なる。扉を人影がすり抜ける。あっと言う間もなく、妻の何気ないひとことで事件が解決してしまった、らしい。
「一件落着したし、みんなでカレー食べましょ」
 狭い廊下に拍手喝采。やはり大勢で食事をするのは楽しい。ほんの一口か二口ずつではあったが、みな満足した表情でそれぞれの家へ帰って行った。
カレーの匂い 霜月 剣

ぼんやり
めだか

 近頃、寝る前イヤホーンにして落語を聞く。睡眠なんとかだろうか、会場の笑い声で目が覚めるから、寝てもぼんやりきいてるようだ。


 夕食の支度を始めた台所で、妻が愚痴をこぼす。
「何回も訪ねてきて、あなたの叔母さん困ったもんだわ」
「そういうなよ。悪気じゃないんだ。……それより、あれは拙いよ」
「どれだったかしら?」
「家の娘、"ぼんやり"していて、お宅の娘さんとは大違いですわ。てさ」
心臓潰れるかと思った。下品だよ。
「あれから急に、不機嫌になっちゃって参ったわ」
「地元じゃ使いかた、違うからね」
「あなたも、関西だったわね」
「関西といっても広いけどね」
身を乗り出して聞いてくる。
「ねえ、どういう意味なの」
通訳じゃないんだ、意味っていってもねぇ。
 大局観があって勝負に辛い、不敗の二十一世本因坊がふと頭を過る。
「というか、天皇さんとの話す距離かな。意味じゃない」
「"さん"て、それ変よ。今上天皇のこと?」
「もっと引っくるめた感じだね」
でも、伝統や文化じゃない。プライドだ。
「いきなり、何処から出てくるの」
「だから、立てる位置かなぁ。御簾越しなら漠然と影だけだろ」
「参内できる位なのね。それが距離なの? 身分じゃないの」
「違うよ。段々と相手が形になる感じ。紙や文字から紫宸殿の瓦とか御所の梅とか」
「名所や遺産? 変だわ、近いことなの?」
なんだか、イライラしてくる。
「全く違う。離れるんだよ。いつもそこから、身近に見えてる」
西日が射す、居間の窓から遠くを見つめて、
「太陽かしら?」
昇る朝日に『暖かいでしょ』と、母が教えてくれたことを思い出す。
「太陽の……輪郭だよ」
「もう、ハッキリしないわね。しっかりしてよ」
「わからない君が、バカなんだ」
言い過ぎたのに、平気な様だ。
「お生憎さま、馬鹿は生まれつきよ」
妻は呆れて、すっかり引いてしまう。
 子供もそうだろ、説教や甘えたりしない。独り言が聞こえたのか、
「資格もないのに、子育て語る人がいるわ」
妻が詰め寄ってくるから、面倒臭くなってきた。
「恋愛だって、競馬だって同じさ」
相手の声がハッキリ聞こえるぼんやりした距離が、あるだろう。
「駄々っ子さんね」


 到頭、湧き出るように呟きがついてでる。
「だってしょうがあんめい。だから京言葉は好きじゃない」
後から、なにかが弾け飛ぶ。
「好きちゃうのや!」
 妻と応えて、大爆笑。
「あっ、はっははは」
少し遅れた絶妙の間合いに、それだッと思わず叫ぶ。
ぼんやり めだか

相関
ながしろばんり

 妹は気狂いです。この晩も外に遊びに出かけました。
 今年で十七となります。十七才の女の子の遊びというと、鉄道の交差する町の繁華街辺りで春の夜の夢を見るというようなことになるのかもしれませんが、妹の場合は近所の児童公園に裸足で出かけていってただひたすらにぶらんこを漕ぐ、というのが遊びでした。ただ黙々とぶらんこを漕いでおりますので、街灯の白い光の下では錆付いた金属の軋む音しかないのです。家では娘の不在に気がついた父親の口調が段々とおかしくなっていきます。おいおまえ、またワコがいなくなったぞ、はやく探してこないと人目に付く、後生だから探してこいとわめき散らすのです。母親は幸か不幸か小正月に三回忌を迎えておりましたので、公園に向かうのは必ず私の役目になりました。玄関を出てふと振り返ると、妹のために張ったはずの鉄条網が街灯の光にいびつな影をつくっていて、家に巣食う悪霊のかたちになりました。
 腰の高さほどの紅白の柵を通り抜けて公園の砂利に足を踏み入れると、咽の奥で息をするような、金属の軋む音が響いてきます。やあやはりここだったな、とわたしも半ばほっとして歩いていきますと、たしかに街灯の光にその白い肌を閃かせて、和子が十六夜月時計の振り子になっておりました。部屋着のたるたるとしたワンピースを来た、わたしの妹が黙ったままで、立ったままでぶらんこを揺らせているのでした。
 これが最後の命綱、とばかりに妹はぶらんこの鎖に両腕をがんじがらめにしています。己が重みを両手首に掛けて、妹は永久機関になっているのでした。肩にもかからない髪の毛でさえも巻上げられるようなすばらしい速さで、半径三メートルの暴風になった妹は、もしくは高速で旋回する錆びた鉄の刃でした。静止した世界を妹は拒絶し続けているのでした。
「和子」
 ちょうど妹のぶらんこの目の前にきて刹那、老いを理由としたぶらんこの悲鳴が一瞬たわんだかと思うと、街灯の白に浮かび上がった肢体が宙に舞いました。原動力を失って崩れていくぶらんことまったく同じ動きをして、わたしも妹の下敷きにひっくり返りました。
 月がぼやけて見えるのは、煌煌とした水銀灯の所為でした。千切れた鎖の切っ先は、餌を飲み込んだあとの蛇のようでした。
「またこんなにして」
「いたい」
「ほら、帰るよ」
「いたい」
 帰るも何も和子のからだは僕の上からどこうともせず、涎を滲ませた唇をしておりました。
相関 ながしろばんり

金属バットとボールペン
小笠原寿夫

 夜半過ぎ、中学校の校舎内にガラスの割れる音が響き渡った。それは、幾度にも続き、管理員の怒声が鳴るまで止まなかった。不審に思った管理員が、電気を点けると既に人影はなく校舎内のガラスはほとんど割られていた。
 時を遡ること一時間前、夜の闇に金属バットを持った男がひとり公園に立ち尽くしていた。男は、中学校までの坂を登り、学校の門をひょいと登ると、いきなり出来たばかりの新棟のガラスを割り、校舎内に侵入した。そして、教室内の椅子や机を散々蹴り倒し、ガラスをパリーン、パリーンと一枚ずつ割っていった。
 翌朝、早速全校集会が開かれた。まずは校長の話である。
「すでに気づいている生徒もいるかと思いますが、昨夜、校舎内に侵入し、ガラスを割った者がおります。金輪際そういった行為はやめてもらいたい」
 その後、生徒指導の教師がその事件について更に厳しく注意した後、「君たちを疑いたくはないが、もし心当たりのある生徒がいれば即刻、名乗り出てもらいたい」と言った。
 犯人は、ぼくらの間では、周知のものだった。常に他の生徒から距離を置き、何かと問題を起こす生徒といえば、K先輩しかいなかった。比較的、優等生なのに何故かK先輩とは親しかったぼくは、放課後、K先輩に呼び出された。
「実は、あの犯人、俺なんだぜ」
「知ってました」
「誰にも言うなよ」
「はい」
「今度、H中学に殴り込みに行くんだ」
「はい」
「お前も来るか?」
「行ってもいいですけど、なんで文化系のぼくを誘うんですか?」
「お前は見てるだけでいいよ。だけど見つからないうちに逃げるんだぞ」
「わかりました」
 数日後、K先輩は予告どおり金属バットを持って、H中学の門をくぐった。ぼくは遠巻きにそれを冷静な目で見ていた。K先輩は、金属バットでH中学のボスを殴り倒した後、ぼくと一緒に逃げ、喫茶店でコーヒーをおごってくれた。K先輩が血みどろの手で五百円玉を差し出す姿は今でも鮮明にぼくの記憶に残っている。
 その晩、ぼくはその日あったことを日記にまとめた。あまりにも痛烈にぼくの脳を揺さぶったその日の思い出は、ぼくにボールペンを取らせない訳にはいかなかった。
 翌朝、母親がそのノートを見つけ、学校に連絡した。K先輩が、休学処分を受けたのは、それから数日後のことである。
 そして、K先輩がもともと優等生で、他の生徒から反感を買っていたという事実をぼくが知るのは、更に数日後のことであった。
金属バットとボールペン 小笠原寿夫

(本作品は掲載を終了しました)

殺人者の夢
相川拓也

 この壁の向こうに中村さんがいると思うと、谷田はぞっとした。これが悪い夢であってくれと願うほどの余裕もなかった。
 中村はよく谷田に難しい問いをしていた。
「人は死んだ後どこへ行くと思いますか」
「さあ……どこでしょうねぇ。……天国、でしょうか」
「私はね、どこへも行かないと思うんですよ。ただ灰になるだけ」
「……」
「結局、天国なんかにしたって、我々の頭の中で造り上げてるだけなんじゃないかなぁ、て思うんですよ。頭が動かなくなったら、もう、おしまいっていうか、ねぇ」
 おしまい、と言ったあとの中村の動揺した眼を谷田はまだ覚えている。
「ここへ来てからずっと考えて、このザマですからね。どうしようもない」
 そう言って中村は笑ってみせた。
 中村はこんなことも言っていた。
「教誨師さんの言う神様みたいなのは、どうも信じられんですね。死んで救われるなら、楽、でしょうが、楽じゃないってことは、救われないんじゃないかなぁって」
 他愛もない話もしたはずだった。しかし今、谷田の頭の中に蘇るのは、こんな話ばかりであった。
 一緒に並んでいる二人の後頭部が見える。ただ静止して階段の上の合図をする係の男を注視している。読経の声がする。ああこの読経を聞いて中村さんは何を思っているだろう、少しは恐怖もやわらぐものだろうか。壁のボタンに添えた指が震えている。谷田はつとめて無意識になろうとした。合図に合わせてボタンを押すだけだ。不思議と無心になった。蛇口をひねるような気持ちだった。
 合図があった。三人の刑務官は同時にボタンを押した。

 その日の夜であった。谷田は夢の中で独房に中村と二人でいた。中村は悲しげに笑っていた。
「ねえ」と中村は谷田に声をかけた。「不思議なもんです。私は死にたくてこんなことをしたのに、いざ死ぬとなると、もっと生きたいと思うようになった……。馬鹿ですよねぇ。私の馬鹿のために、三人も殺してしまって……。何と言ってつぐなえば良いのか。やっぱり私は死んだ方がいいんでしょうなぁ」
 そんなことはない、と谷田には言えなかった。
「全く。人の手を借りなきゃ償いもできない。看守さん、あなたは若いんだし、これから立派になってください」
 谷田はうなだれた。中村の笑みは消えていた。
「私は三人も殺してしまった。一度死ぬくらいじゃ、足らんですよ」
 谷田はたまらなくなった。
「俺は、何人殺すんだ……」
 夢はそこでぷつりと途切れた。
殺人者の夢 相川拓也

別れの曲
鬱宮時間

 他に好きな人が出来たんだ、と言ったら、そう、良かったわね、と顔色一つ変えずに言われた。別れよう、と言うと、うん、と即答される。余裕に満ちた顔でそう言い返されると、まるで俺が別れを告げられた側のような気分になってきて吐き気がした。お前本当にそれでいいのかよ、と聞くと、あなたが幸せならそれでいいのよ、とまたさっきと変わらない表情で言う。確かそれは俺がお前に二年前に言った台詞だろう、と俺は苦笑して言い返すが彼女の目を見ることはできない。あの時の俺には、今、目の前で余裕の笑みを浮かべる彼女のような器の大きさはなかった。立場が逆転しても俺の精神状態は変わらない。頭痛と吐き気が同時に襲ってきたがなんとかこらえて必死で冷静を装う。
 テレビのドラマとかだったら、多分こういう場面でショパンの『別れの曲』が流れてくるのだろう。そう思っていると彼女が俺より先に言う。まさに、『別れの曲』ね。
 俺は黙ってうなずいてから彼女の目を見た。彼女は相変わらずさっきと同じ笑みを浮かべる。お前、本当は悲しいんじゃないのか、と念を押す。別にそんなことはないわよ。強がるなよ、俺だって本当はこういう結果にはしたくなかったんだ。何言ってるの、あなたが昔言った台詞を言っているだけよ。俺はあの時悲しかったよ、お前もしかして、またそのうち俺から復縁しようって言うとでも思っているんじゃないだろうな。彼女はにこっと笑い、優しくうなずいた。
 悪かったよ、やっぱり俺、別れられないかも、いや、別れられないよ。他に好きな人がいるけど、でもやっぱりお前とは別れられそうにない。
 やっぱりね、『別れの曲』はどうだった? 彼女は勝ち誇ったように俺に問いかける。何言ってるんだよお前、もう『別れの曲』じゃなくなっただろ。
 『別れの曲』なんてタイトルはね、日本人が勝手に付けたもので、あれはただのエチュードよ。どうせわかったふりしてるあなたの事だから、典型的な勘違いをしていたんでしょうけど、『別れの曲』は本来、ショパンがパリに出て活動をしていたとき、故郷のポーランドを懐かしんで作った曲なのよ。別にお別れじゃなくて、そうねえ、哀愁漂う優しさに包まれた曲なの。
 お前その意味わかってて俺に『別れの曲』だって言ったのか? 当たり前じゃないの、私は仮にも音大生よ。あなたこそ、知らないくせによく本当の意味を実演するわね。
 わ、わかってたに決まってるだろ。
別れの曲 鬱宮時間

クロネコ
朧冶こうじ

『黒猫』

 彼は黒猫と呼ばれていた。
 いつだって、真っ黒な服を着ていたからだ。
 或いは、その髪の色と吊り上がったキツイ眼のせいかも知れない。
 兎も角、彼はそう呼ばれていた。私は、彼の本名を知らず、他の大人たちと同じように彼をそう呼んでいた。
 彼はいつも陽の当たるスクラップ置き場に座っていた。
 高く高く積み上げられた不安定なバランスの上に静かに腰を下ろし、白く濁って久しい青空を見上げていた。
 そうして何時間でも其処に居て、時々不意に消えた。
 廃油に塗れた脆いコンクリートを踏む音も聞かせず、いつの間にかうんと遠く、私が走ってももう追いつけない程先の道を歩いている。
 真っ黒い点になってやがて見えなくなるその影を見送り、私は彼の座っていたスクラップの台座を見上げる。
 決して私には昇れない危うい高みからは、一体何が見えるというのだろう。
 好奇心は日に日に大きくなっていったが、一人、彼の傍に擦り寄る勇気はなかった。
 彼は街のシステムのどこにも組しない外れ者で、彼がどうして生計を立てていたのか私には分からなかった。
 私は彼の住んでいる場所も、彼の家族も、彼の声も知らない。
 彼はいつだって私の家の裏にある、スクラップ置き場で空を仰いでいた。
 一度、彼と目が合った時がある。
 曇った窓硝子越しに、金にも緑にも見える眼と視線をぶつけていた。
 それが私にとっての黒猫だった。
 □■□
 数年後。
 高く高く積み上げられた不安定なバランスは限界を超え、けたたましい音と共に崩落した。
 いつものように空を見上げていた彼は、びくりと辺りを見回した後、彼の台座の崩壊に付き合った。
 危ないと叫んだような気もする。
 私は窓から眺めていた日常が明日からはなくなってしまったのだと感じ、では彼は一体どうするのだろうと場違いな心配をした。
 彼自身の、明日がなくなったかも知れないそんな時に。
 飛び出した私は黒い切れ端を見つけ、其処に近寄った。
 灰色のコンクリートは油で黒くしみを作り、その上の切れ端は境界を曖昧にしたまま動かなかった。
 巻き込まれた彼に近寄ったはずの私は、背の高かった彼の代わりに小さな黒猫の遺骸を見つけた。
 切れ端は、一部ではなく全体だった。
 彼は逃げ果せたのだろうか。
 それとも。
 誰かの声を聞いた、可哀想に、黒猫は駄目だったか。
 彼がそう呼ばれていたことに理由などなかったのだ。
 彼は、黒猫だったのだから。
クロネコ 朧冶こうじ

束縛
石井伸太郎

 ある晴れた日、私は外に出ようとした。彼も、梅雨時期にしては久しぶりの晴天ということで、快く許してくれた。

 ただ・・・。

 私はいつものように両足の自由を失ったまま。これだけは家の中にいても、外に出ても何ら変わりのないこと。それが私にとってひどく不快にさせる原因ということを彼は知らない。仮に知っていても、彼は私の両足を自由にさせてはくれないだろう。

 風が気持ちいい。

 梅雨時期なので湿気が多いが、それでも家の中にいるときより何倍も清々しい。このままどこか遠く、彼のいない遠い場所まで逃げてゆきたい。もう、彼に縛り付けられるのはごめんだ。家の中に監禁されることも嫌だ。この両足を自由にしてもらって、どこか遠いところへ・・・。

 だけど・・・。

 彼以外の人には私のこんな姿を見られたくない。正直、彼にさえ見られることはまだ慣れていない。彼のことが嫌なんじゃなくて、ただ、素直に恥ずかしいだけ。でも、彼はそんなことはなんでもないというかのような態度でいつも接してくる。どんなときでも。そう、どんなときでも彼は私の近くにいて、離れようとしない。食事も一緒。寝る時だって一緒。その上、お風呂の時も・・・。

 恥ずかしい。いっそのこと死んでしまいたいと何度思ったことか。その度に、涙があふれてきた。何で私が・・・。何で私だけがこんな不自由な生活を、彼に縛られっぱなしの生活をしなければならないのか。
 そんな時、私は一人でいたかった。一人になりたかった。そんな時でも、彼は私のそばを離れなかった。むしろ、そんなときのほうが余計に私のそばにいようとした。抱かれたときもあった。

 嫌だった。恥ずかしくて、死にたくなった。その反面、彼のことを、彼が今まで私にしてきたことをすべて許したくなってしまった。そんな自分が許せなかった。

「どうしてあなたはいつも私のそばにいるの?」

 ある日、唐突に彼に聞いてみた。私は一人でいたいのに。自由になりたいのに。それを邪魔しているのは他でもない彼なのだから。

「約束しただろ?俺はおまえに楽してもらいたいんだ。生まれつき足が不自由でも、俺がおまえの力になる。ずっと、おまえと生きていきたい。」

 私は思い違いをしていたみたい。結局私はいつも彼を信頼していた。彼を頼りにしていた。いつでも・・・。

 でも、

「・・・どうして私なんかに?」

「決まってるじゃないか。・・・おまえのことが好きだからだよ。」
束縛 石井伸太郎

哀しみの午後の為のヘブンズ・ブルー
たかぼ

 長雨が止んで久しぶりに晴れ渡ったある日の午後、風呂上がりに二階の台所の窓から表を見ると、家の前の道(区画整理された住宅街の幅6メートルほどの舗装道)が陥没してどこからか水が流れ込んでいた。私の家の敷地は大丈夫だったが、左の隣家は家自体も少し傾いているように見える。ともかく道路はひどく陥没していて、これでは車が通行することはできないなと思って眺めていると、通りの向こう(左隣の家の向こうはT字路になっている)から家の前までつながっている水たまりの中を鯉が2-3匹泳いでくるのが見えた。もっと近くで見たいと思い、手許にあったアラレを放り投げてみた。すると鯉は思惑通りに窓の直下まで泳いできてパクリとやった。とりどりの極彩色で50センチはあろうかという見事な錦鯉だった。
 何個かアラレを投げ込んでいると数匹の魚が集まってきた。鯉だけでなくもっと小さい魚や子鮫ではないかと思うようなものまでいた。一体どこから集まったのか見当も付かない。アラレを投げ込むとパクリ。また投げ込むとパクリ。それぞれが近くに落ちた獲物にすかさず食いついた。アラレは残り少なくなるのに、魚の数は増えてくる。
 そんな中に見たこともない異様な魚を見つけた。鎧のような鱗、大きな顎、ギョロリとした目の巨大な魚。いかにも凶暴そうなその魚は、こちらを見上げ大口を開けて剣山のような牙をガチガチと鳴らした。どこかで見たことがあると思って急いで図鑑を調べたところ、デボン紀に栄えたダンクレオステウスという魚にそっくりだった。ダンクレオステウスがアラレ好きとは知らなかった。アラレの匂いに誘われて水たまりの深いところから浮かび上がってきたのだろう。水たまりの底は時間の流れもない深海につながっている。
 飢えたダンクレオステウスは餌を待ちきれずに他の魚に食いつこうとするが、図体ばかりでかくて動きが鈍いので逃げられてしまう。気の毒に思い、ひと抱えもある古い陶器の壺を投げ込んでみた。ダンクレオステウスは壺に頭からつっこみ巨大な顎でバリバリと食った。嬉しそうに食えば食うほど、それは蒼く澄んだ水に映えていっそう哀しげに見えた。

 家の向かいはまだ宅地造成中で土が盛り上がっているだけだ。その向こうはただ一面の空、ヘブンズ・ブルー。手を伸ばせば届きそうでしかし永遠にたどり着けないブルー。私と盛り土の間にできた水たまりは、果てしなく広い幅6メートルの海。
哀しみの午後の為のヘブンズ・ブルー たかぼ

ナンバー9
べっち

 音楽でも聴こう。恵里は、そう思った。

 裕也に、本当に好きかと聞かれたとき、素早く好きだと返した。裕也は、よく私の気持ちを確かめるように聞いてくる。キスは好きだけど、セックスは気持ちいいと思ったこともないし、メールや電話はほとんどが裕也から来る。自分からするとするならば、明日会う予定になっているのに何も決まってないだとか、忘れ物した、とか連絡を取らないと困るときだけだ。

 でも(こんな逆接を使っていいのかわからないけど)裕也を愛している。彼以外に、人生を共に歩もうと思った人はいない。

 誰が信じてくれるだろう。

 こうこうこういう理由で、裕也を愛しているんです、と説明すれば信じてくれるのだろうか。毎日ラブコールをしたり、おいしいご飯を作ったあげたり、行動に出れば信じてもらえるだろうか。いや、私にはできない。愛は努力なの?気がつけば裕也のことを考えていたり、意識が足りないのか。いや、足りている。でも、信じてもらえないだろう。

 裕也に信じてもらえなくて、別れた。

 こう結論を出したことに後悔する。私は、彼だけじゃないと愛せない理由を伝えられなかった。努力の余地はいくらでもあった。

 後悔しても仕方ないわ。私は、努力ができなかったんだから認めよう。それが本当に裕也を愛していたかというとそうでなかったのかもしれない、と恵里はだんだんそう考えるようになってきた。

 『ナンバー9』

 恵里と裕也が好きで、いつも聞いていた曲だ。この曲がかかると、恵里は、泣き出した。別れた瞬間から、あれこれ考えていたことが恵里の頭の中をぐるぐると回ってた。その回転速度に、恵里はもうついていけなかった。この歌をきくと、泣いても許される気がした。
 
 なんだか、暖かかった。
ナンバー9 べっち

めなし
ごんぱち

「はいよ、目無しだ」
 茶碗の中のサイコロの出目は一四五だった。
「かーっ、なんだよ、大一番って時に」
 四谷京作は、顔を覆って天を仰ぐ。
「もう一勝負いきますかぃ?」
 博徒がにんまり笑う。
「冗談十郎市川流れ、ドボンと沈んでオサラバすらぁ」
「またどうぞ」
「やかましいやいっ」

「ったく、あそこでこう、もう半分転がってりゃ、四五六の倍付けだったのによぉ」
 ぶつぶつ言いながら歩いていた京作は、ふと目抜き通りの骨董屋の前で足を止めた。
「――ん?」
 店先に並んでいたのは、古い茶碗。
「手になじむ。良い形をしてやがんなぁ」
 京作は茶碗を手にとって上へ返したり下へ返したり。
「お客様、お目が高い」
 もみ手をしながら、骨董屋の主人が声をかけて来た。
「これは有田焼、かの柿本人麻呂の逸品という言い伝えでございます」
「なるほど、道理で良い赤だ」
「御代はお負けしてこれぐらいで」
「なかなか安いじゃねえか」
 京作は懐を探る。
「ひいふうみ……買えない事もないが、しかし」
「いやはや、目利きの上に買い物上手、こうなれば儲けなし、とことん勉強させて頂きましょう」
 パチリ。
「それなら……と、待てよ」
「これ以上と仰られますと……」
「そうじゃない。目無しで負けて、目抜き通りで見つけた茶碗。これを買ったら見る目がないで、落ちちまう。そいつはどうにも勘弁だ」
「差し出がましいようですが、人間の目というのは二つしかございません」
「それがどうした」
「目無しで一つ、目抜きで一つなら、もうそもそもなくなる目がありますまい」
「なるほど、それも道理だな」

 茶碗を買った京作は、足取りも軽く家へ帰る。
「おう、帰ったぞ」
「……おうじゃないよ、お前さん」
 妻の千早が顔を出した。
「たまの休みだと思えば夕方まで、一体どこに行ってたんだい」
「そこはそれ、男には色々あるもんだ」
「女だって色々あるよ――あれ、なんだいそりゃ?」
「おう、聞いて驚け、これは有田焼の逸品で、柿本人麻呂の作だ」
「何言ってんだい。有田焼と言ったら、柿右衛門だよ。柿本人麻呂は歌人だよ」
「えっ、いや、しかし、この赤は……」
「ここらの地面を掘ったら出て来る赤土と一緒じゃないか」
「……道理で手に馴染んだ」
「馬鹿だよこの人は。まったく、骨董に目がない割には、見る目が全然ないんだからね」
「あれれ、もう二つ目のない事が出て来るとは――そうか、よめさんだから、目が四つ」
「聞いてるのかい、ちょっと!」
めなし ごんぱち

『母子』
橘内 潤

 わたしは母に陵辱された。
 母とふたりきりの夕飯の途中でわたしの意識は途切れた。つぎに気がつくと、わたしは丸裸で椅子に縛りつけられていて、見知らぬ男たちに見下ろされていた。
 あまりのことに動転して周囲を見渡すと――そこはやっぱりわたしの家で、さっきまで夕飯を食べていた居間なのだ。そして母が微笑んでいた。
 わたしは母に見守られて、処女を喪失した。
 痛みと衝撃とに泣き喚くわたしを、男たちが嘲笑う。母も笑って見ている。母の手に携えられたデジタルカメラのレンズも、わたしを見ていた。
 夜明けのすこしまえ、男たちが帰っていく。その頃にはもう、わたしは喉が嗄れて一言もしゃべれなかった。しゃべる気力もなかった。
 母が、わたしを見下ろして言う。
「これは罰なの。わたしは苦しまなければならない」
 母は昔、わたしと同じ中学生だった頃に、同級生の少女に売春を強要させて自殺に追い込んだのだという。だから、その罪を償うために、わたしにも同じ苦痛を与えるのだという。
 わたしの陵辱動画はネットを通じて全世界に配信された。
 世間は母の行動を賞賛した。子の喜びは親の喜び、子の悲しみは親の悲しみ――親子は同体であって、その罪もまた共有される。
 学校に行くと、わたしはクラスメイトたちに陵辱される。男女関係なく、笑っている。
 教師はこう言う。
「きみのお母さんはなんて立派なのだろうか。罪を償うことはすばらしい」
 わたしは妊娠と中絶と自殺と手術をくりかえして、汚されつづけた。わたしが汚れれば汚れるほど、母は嬉しそうに微笑むのだ。
 十八歳になったわたしは、フライパンで母を殴り殺した。親子は一心同体なのだから、罪にはならかった。
 それから、わたしの処女を奪った男たちを殺しにいくと、彼らは年老いた父母の生首をわたしに差し出してきた。わたしはそれをゴミ捨て場に投げ捨てた。
 わたしは罪に問われた。
 町内会員でない者がゴミを、それも指定時間外に不法投棄したことで罰金を課された。とても多額だったので、わたしは身体を売って少しずつ支払っている。とっくに子供が産めない身体になってるから、しかたない。世界は変わらない。
『母子』 橘内 潤

冷縁月
早透 光

 揺れる電車の窓から、昨日よりも僅かに上に昇った朝陽が差込む。流れる景色に春の色付きが映えている。
 レールが大きく左にカーブして、陽射しが差込むドアの窓ガラスに頬が振れた。
「冷たい……」
 彩りの景色とは違って、窓ガラスは氷のように冷たかった。青空の冷たい月のように。昨日感じたあの人の匂いのように。私が初めて触れたあの人の手と同じように。
 冷たく頬から胸に伝わってゆく。

「香月、昨日はどうしたの?」
「えっ、ああゴメンちょっと酔っぱらったみたい!」

――あの人を初めて見たのは十二歳の時だった。母と歩いた桜道でたこ焼きを売っていた。母が何気無く私にお金を渡し、私がおじさんにお金を渡した。おじさんの手は冷たかった。ただ瞳が、細くなった瞼の間から暖かく覗いていたのをよく覚えている。

「感じのいい店だったね。なのに先に帰るんだもん、びっくり!」
「ゴメン、今度必ず奢るから。ね!」
「そう? じゃあ許すとするか。またあの店に行こうね!」
 そう言って彩は給湯室を出ていった。

 空の明るみが西に傾いた頃、会社を出た私はあの店の前に立っていた。
 もう一度確かめたい。あの人は私の心が探していた人なのだろうか。もし違っていても悲しみは感じないだろうと思う。今更。産まれた時から私には無縁の存在なのだ。そう自分に言い聞かせている事に気付きながらも、私はここへ来てしまった。
 引き返す事は出来る。
 でも、それで本当に良いのだろうか。
 でも、知る事の恐ろしさに、私は耐えられるだろうか。

 扉に振れた時だった。唐突に扉が開き中から人が出て来た。私は驚いて反射的に二三歩下る。暖簾を片手にあの人が出て来た。顔に深い皺が刻まれて、細い目の奥が私をじっと見つめる。私は目を逸らす事が出来ない。
「あ、あの……」
「ああ、昨日のお客さんか、何か忘れ物でも?」
「い、いえ」
(どうしよう、聞こうか、止めようか……)
「あの、オジサンって昔、大原の宮通りでたこ焼きを売ってませんでしたか?」
「ああ、そんな事もやってたかなぁ」
(そうだ、確かにあの時の……、母さんが言っていた私の、私の……)
「昨日は済みませんでした。また来ます!」

 私は走りだした。
 複雑な気持ちが揺れ、右と左の心が激しく揺れてぶつかり合う。
 空には、ほんのりと丸みを浮き上がらせた月が、妖しく紅く色付き始めている。
 私の揺れる心のように、紅く熱く妖しく、冷たい月は輝きを増していた。
冷縁月 早透 光

ガルボ・ナッス
アナトー・シキソ

ガルボ・ナッスに会った。
ガルボ・ナッスは東洋人だ。
髪が長い。と言うか、切ってない。
「一年ほどです」
ガルボ・ナッスは言う。

ガルボ・ナッスは茶色い日本のキモノを着ている。
「伝統的な染めの技法です」
冬でも、そのキモノ一枚で過ごす。
でも、ガルボ・ナッスはすごい寒がりだ。

ガルボ・ナッスの目は細い。東洋人だからだ。
「中国人ほどじゃありません」
ガルボ・ナッスは茄子を持っている。
ガルボ・ナッスが両手で茄子を差し出す。
ガルボ・ナッスの茄子は美味いとみんなが言う。
どこで取れるのか、ガルボ・ナッスは教えてくれない。
買ってるのかも知れない。
「作っています」
ガルボ・ナッスが言う。

ガルボ・ナッスは珈琲が好きで、日に十杯は飲むとみんなが言う。
「でも本当に好きなのは、ココアです」
ココアを飲み過ぎると鼻血が出るので、控えている。
と、ガルボ・ナッスは回りくどく長々と説明した。

僕は、ガルボ・ナッスに茄子をもらって家に帰った。
ガルボ・ナッスの茄子で、茄子のバター焼きを作った。
奥さんと二人で食べた。
ガルボ・ナッスの茄子は、みんなが言うとおり、ホントに美味かった。

ガルボ・ナッスに会いたいわ。
奥さんが言った。

ガルボ・ナッスにまた会った。
最初に会ってから二ヶ月後で、とても寒かった。
ガルボ・ナッスは死刑になるところだった。
柱に縛られていた。
柵に囲まれた中に独りでいた。
茄子は持っていなかったけど、茶色のキモノは来ていた。
まわりには野次馬が大勢。
ガルボ・ナッスの茄子を食べて死んだ人がいた。
だから、ガルボ・ナッスは死刑になると言う。

処刑人が槍を持って現れた。
野次馬がみんな緊張した。
ガルボ・ナッスは、いつもと同じ顔だ。
処刑人は槍を構え、空に向かって叫んだ。
「ガルボ・ナッスよ、お前の茄子はホントに美味かった!」
そして、思い切りガルボ・ナッスの胸を槍で突いた。
ガルボ・ナッスは死んだ。
処刑人は泣いていた。
野次馬達も泣いていた。
僕も泣いて、奥さんも泣いた。
猫もスズメも犬もカラスもみんな泣いた。
ガルボ・ナッスの茄子を食べた者も、食べたかった者も。

王様が変わって一年後、町の広場に銅像が建った。
両手で大きな茄子を捧げたガルボ・ナッス像。
除幕式を、僕と奥さんはテレビで見ていた。

僕と奥さんは同時に気付いた。
中継のアナウンサーのずっと後ろの方。
茶色の服を着てる。
大きな茄子を両手で捧げるように持っている。
間違いない。
ガルボ・ナッスは生きていた。
ガルボ・ナッス アナトー・シキソ

敗北家族
越冬こあら

 兄貴が人生最大の失恋をしたと半泣きで帰ってきた夜、父さんは営業先のプレゼンテーションで他社にボロ負けし、母さんのバレーボールチームは、地区大会予選で敗退した。

 戦いはバトルロワイアルの様相を呈した。

「夕食は、騒がしいテレビを消して、家族揃って会話を楽しみましょう。それが文化的生活というものですから」
 父さんが何処からか仕入れてきた御意見に従い、我が家の夕食は、ゆったりと静かに始まるようになった。しかし、優雅に繰り広げられるべき一家の団欒は、明るい方には向かわなかった。
 父さんと母さんの話は、いつの間にか愚痴に変わったし、芽生え始めた恋を語っているはずの兄貴も、そのキャラクターゆえ、直ぐに失敗談となってしまった。そして、学校でいじめられていることを打ち明けられない私は、授業のことや行事の話で、適当に誤魔化していた。
 ここでフツーなら「皆で滅入っていても仕方が無いから、テレビでも点けて気分をかえよう」等と提案しそうなものだが、父さんはカレンダーの裏に器用に線を引いて上部に日付の並んだ表を作成し、左端に一家四人の名前を並べ「採点しよう」と言い出した。
 そして、中間管理職の悲哀のような話をもう一度述べ、自分の名前の右隣に七十五点と記載した。
 母さんは、パート先での苦労話で七十点。兄貴は遅刻を繰り返す優柔不断さを打ち出して、五十五点を稼いだ。私の話は可もなく不可もなく四十五点と採点された。
 それから三ヶ月、採点結果は毎月集計され、自己評価が甘い父さんが二ヶ月連続のトップを走った。日本経済の低迷や政治の腐敗、止まらない犯罪の増加まで論じ、その全てを自分の敗北として背負い込んでしまう父さんの論理は、向かうところ敵無しの状態だった。母さんは父さんに追随し、兄貴は痛い失恋を繰り返した。

 そしていよいよ、四半期総決算となる今夜「得点はさらに十倍」というボーナスルールが加わり、バトルは思いっきり加熱した。
 兄貴は恋の相手が全て男子だったと衝撃の告白を行い、驚愕と嫌悪感を勝ち得たものの、高得点には至らなかった。対する父さんは、女性関係のもつれから遂に辞表を提出したと事も無げに発言し、母さんは怒って、捺印済みの離婚届を出してきた。
 私も負けてはいられないので、いじめの果てにバイの片棒担ぎを命じられ、ブチ切れて三人ともタバしちまったと、今日の出来事を正直に報告した。

 そして、一家は離散した。
敗北家族 越冬こあら

本物志向
日向さち

 膝歩きをしていた。
 初めは、ゴミ箱に辿り着こうとしていたのだ。けれど、部屋を見渡してみても見つからないことに気付き、どちらへ行ったらいいのか分からないまま進んでいた。毛足の長い、柔らかな絨毯の上で。手には空になったスナック菓子の袋がある。
 大きく息を吸い込む。止まるぞ、と思って、足を揃え、静止。
 目の前には、細かい彫刻の施された、アンティークらしき箪笥がある。その横には肖像画。瞳が黄色で描かれているが、その意図は掴めない。ただ、収まっている額が金だから、高いのだろうなと思う。天井の照明は、当然のごとくシャンデリアだ。
 立つぞ、と思って、足裏を絨毯に当て、直立。
 部屋の中を改めて見回す。姿勢を変えたからといって新しい発見はない。と思ったら、あった。
 天蓋つきのベッドの隣、窓際で日の光を浴びて色素を生産しているかのような薔薇は、造花だった。そこから腐ったような臭いが漂ってくる。造花を抜いてみると、納豆のパックやら、漁協と印刷されたビニールやらが詰まっていた。そこへ菓子の袋もつっこむ。造花は元通り立てておいた。
 部屋の中央のテーブルには、有名ブランドのティーポットが置かれていた。匂いはアップルティーだ。同じ柄のカップが置いてあったので、使って飲んでみる。
 ……アップルティー。淹れたてのはずはないのだが熱かったので、ズズズと啜る。口腔に残っていたスナック菓子の味は、全て食道を通っていった。そして気付く、飲み物だという確信はなかったことに。
 窓の向こう、すぐ傍から犬の吠える声がしてきた。犬だと分かるのに、キンダンとしか聞こえない。キンダン、キンダン。キンダン。責めたてるような吠え方ではない。が、体の奥から、吐き気とは違った不快なものが込み上げてきて、居ても立ってもいられなくなる。
 ドアノブを握ると同時に、玄関の辺りから、ドアの開く音と数人の足音が聞こえてきた。逃げるのを諦め、箪笥の扉を開けてみると、中は一面がささくれ立っていた。
 人々の気配が迫る。外では犬が吠え続けている。禁断なのか金談なのかを考えている余裕はない。
 ささくれの上へ乗り、音を立てないよう扉を閉める。足裏の肉が破けた。同時に、迫ってきた足音が、部屋の前で止んだ。
 おもむろにドアノブが回る音を最後に、全ての音が耳に届かなくなる。代わりに、耳鳴りが始まった。
 何度も唾を飲むが、治らない。耳を押さえつけても無駄だ。
本物志向 日向さち

そらのいろ
隠葉くぬぎ

「告白されたんだって?」
 望月は少しびくりとして顔をこちらに向けた。少しひきつれたように歪んで、すぐ戻る。いつもと同じかお。
「うん」
 答えてすぐに、でも自然に視線を空に向けた。澄んだ青い空に雲が遠くでうずくまっている。屋上から、こんなに遠くまで見晴らせるなんて思わなかった。すこし寒い。
「誰に?」
「一年の川中くん」
 野球部でレフトを守ってるやつだよ。友達におしえてもらった情報が脳裏をよぎる。顔をイメージするのだが、野球をやってる別のやつの顔がとってかわる。わざわざ部活中によびだされて、あいつだよ、あいつ、と指差したおせっかいな友人の顔なら思い浮かぶのだが。
「年下、嫌いじゃなかったのか?」
「うん。だから振ってやったわ」
 すこし嬉しそうに(と見えるのはおれの錯覚なのだろうか。)望月は言って伸びをした。きもちいいね、すごく晴れてるから。ぼんやりとおれは遠くにうずくまる雲を見ていた。空のうえのほうは風が強いのだろうか。さっきの位置からずれている。地上では(屋上にいたって)風はほとんど吹いてない。凪のように。
「とおやまくん?」
 のぞきこんだ望月と、きゅうに目があって少なからずぎくしゃくする。
「どうしたの? ぼーっとして」
 その眼であいつも見たんだろ? 優里先輩かなしそうな目、してますよって、ぜんぜんたのしそうじゃないですよって言われて、どんな目であいつのことみたんだよ。
「べつに」
「わたし、ちゃんと言ったよ」
 何を、とは訊けなかった。責めているわけじゃない。
「……ちゃんと、言ったから」
 雲が流れているのを望月は見ているだろうか。
「望月」
「うん?」
 目を見るのが怖かった。望月みたいにうまく自然に視線を動かすことができなくて、望月のセーラーのえりの紺のところが、ふるえるように細かく揺れるのをじっと見ていた。
 泣きそうだった。言わなくてはいけない言葉なんていくつもないのに。
 本当に言わなくてはいけない言葉なんてたったひとつなのに。
「もう会わない方がいいよ。おれたち」
 そよと風がふいた。凪が破れる。肺が冷えるほど冷たい風ではない。でも気持ちがいいとは言えなかった。
 悲しそうな顔なんて見たくなかった。
 悲しそうな顔なんて見せたくなかった。
 その言葉は一生出てこないままなのだろう。
そらのいろ 隠葉くぬぎ

そしてカッパ居なくナッパ
影山影司

 博士は天才で、博士は偉い。
 とても賢いから、どんな問題も変な方向から解決する。

Q、人口増加への対処法は?
A、人間河童化計画を始動する
 
 くわしいせつめい。
 人が増えれば棲む場所が無くなるし、食料が沢山必要。
 水中で生活できるように人間を改造すれば、海の土地を沢山使える。それに、河童になれば胡瓜栽培工場があれば、喰っていける。すると人口が増えても大丈夫、らしい。
 博士は黒板に山盛りの式を書いて、説明した。
 政府の役人、ビール腹は太鼓腹を叩いて計画に賛同した。
「人類のために、お願いします!」
 ビール腹は頭を深々と下げて、博士にお願いした。
 かくして、人間河童化計画が始動した。 

「やぁ、なかなか河童というのも良いものですなァ」
 改造手術を終え、頭に水を波波と注いだ皿をくっつけたビール腹が、腹を揺らしながら豪快に笑った。
「ビール腹君、改造手術の結果、筋力が増加し、水中での呼吸が可能になるが……どうだね?」
 博士は、自信満々で聞く。博士に間違いなんて無いから、当然だが。
「いやぁ、さっきコップを砕いちゃいましてねぇ、ふっふっふ。力があるってのも困るね。手術を受けるまでは、フィットネスジムに通ってましたが……せいぜいバナナを潰すのが精一杯でしたよ。おまけにプールへ行ったらいつまでも泳げちゃうんですよ。まるで魚……いやいや、河童でしたなァ!」
 困る困ると言いながらも、ビール腹は緩んだ表情。ジムへ行っても、お腹周りは鍛えなかったらしい。腹の肉が上下に揺れた。
「おっと、気を付けるべし。あまり笑いすぎて皿の水が全て零れると……分かってるな?」
「分かってますよ。河童なんですから。ハッハッハ」
 博士は時計をちらりと見た。ビール腹と話し始めて、既に30分程。博士に無駄な時間は皆無。こんな事をしている位なら、早く次の研究を始めなくては。
「ビール腹君。君の身体が人間河童化計画の成果だ。書類は全て、秘書に持たせた。人類を河童化するも、君だけが河童として生きるも、自由だ。報酬は例の口座に振り込んでおくように。次の研究が待っている身でな、もう行かねばならん」
 博士は慌ただしく退室し、私はそれに続く。

「博士、ありがとうございました!」
 ビール腹の声が扉越しに聞こえる。
 そして、ばしゃりと水の音。
 あ。私は思わず声を上げる。
 博士は足を止めない。
 だから私も止まらない。
 人が増えすぎた時代の、暑い夏の事だった。
そしてカッパ居なくナッパ 影山影司

変われない春
空人

「さすがに十年も経つとみんな変わるね」
 同窓会の帰り道。私は恵と一緒に桜通を歩いていた。堀川を渡る風はいつもの嫌な匂いではなく、ほんのりと生暖かい桜の香りを運んでくる。日曜の夜。街は賑やかさを失い、車の流れが途切れると辺りは急に静かになった。
「十年かぁ」
 私は呟いた。十年。私はあの時からどれだけ成長したのだろうか。独り言のつもりだったが、恵は隣りに来ると私の顔を覗き込んで言った。
「淳はどうだった?」
「何よ、それ」
「だって、一回も話してなかったじゃない。久しぶりとか、元気だったとか、あいさつくらいすればいいのに」
「それは、そうだけど」
「なぁんか、凛々しくなったと思わない? ちょっと後悔してるでしょ?」
「してないよ」
「またまたぁ、無理しちゃってぇ」
「してない」
 確かに淳は他の誰よりもかっこよかった。昔とは全然違っていた。自信が満ち溢れているような逞しさがあった。仕事のできる男。そんな空気を感じた。淳は私を見てどう思っただろう。さっきはそんなこと気にもならなかったけど、何だか急に自分が子供のように思えてきた。
「まだ気にしてるの? あのこと」
 恵は少し角張った声で言った。私はどう返事をしていいのかわからなかった。気にしてないと言ったら嘘になる。でも。
「確かにね、あの時はアンタのこと刺してやろうかと思ったよ。でもさ、仕方ないじゃない。よくある話よ」
 上を向く恵。あの時、恵の目からみるみる涙が溢れてきて、教室を飛び出していった姿を今も忘れられない。
「ま、でもすぐにダメになっちゃったからいいか。バチが当たったんだよ」
 踊るような声でいじわるな笑顔を見せる恵。でも、私はそんなやさしさをすぐに冗談で返すことができなかった。
「ちょ、ちょっと、冗談よ、冗談。もう、ほんとマジメなんだから」
 真面目、真面目、真面目。いつも私に浴びせられる言葉。通知表にも真面目。今の会社でも真面目。融通が利かなくて、頑固で、くよくよして。淳は頼りない淳から変わった。恵だって、あの時の辛い気持ちを笑い飛ばしている。私だけが、私だけがいつまでも変われないでいる。涙が滲んだ。もう、どうしてよ。何で涙なんか。
「あれ、思い出しちゃった? もう、勘弁してよね。ほんとに」
 そう言いながらも恵は甘く微笑んで頭をなでてくれる。
「違うの、違うの」
 私は複雑に入り組んだ気持ちのまま、繰り返しこぼした。春の苦い空気を噛みしめながら。
変われない春 空人

ラスト
るるるぶ☆どっぐちゃん

「人間は滅ぶね。みどりの怪獣がアメリカの主要各都市を壊して回っているからね。人間は滅ぶね。滅んでしまうね」
「セックスの時くらいテレビは消しましょうよ。本当にテレビっ子ですね先生は」
「気にしないでおまんこ舐めて。ああ、滅ぶね人間は。みどりの怪獣、グリーンモンスター」
「でもあおい怪獣のようなオチにはならないでしょうね。知ってます? あおい怪獣のおはなし」
「知ってる知ってる。子どもの頃何回も読んだ。小さなあおい怪獣を連れて帰ると、あおい怪獣がどんどんものを食べてしまって」
「『だめじゃないか僕のママとパパを食べてしまって、どうするんだよ』」
「『ごめんよう、でもおなかがすいて、がまんができなくて』。あおい怪獣はどんどんどんどんいろんなものを食べてしまって、どんどんどんどん大きくなって」
「『あおい怪獣はビルよりも大きくなって』」
「で、最後に食べられた主人公が怪獣のお腹の中で、怪獣の食べた世界がそっくりそのまま残っているのを見る。あれは怖い話だねえ。とても怖い話だよ。世界に対して食べるという行為しかできなくて、世界の全ての、世界の全部の物の、世界の全部の人の、その外側にしか存在できないのだからねえ。なんていう孤独だろうね。なんていうひとりぼっち。なんて寂しいのだろう」
「じゃあ先生、その寂しさで一つ、なんか書いて下さいよ。真っ白な本はどんな印刷屋に頼んでも印刷出来ないんですからね」
「最近は寂しくもないし悲しくもないからなんにも書けない」
「良いからなんか書けよ」
「だから書けねえんだよって言ってんじゃん」
「全く困った人だなあ。来月二人目生まれるのに。路頭に迷うなあ」
「また生まれるんだ。奥さんとはお尻でしないの?」
「しますよ。両方でします。あの女、尻好きそうに見えるでしょう」
「見える見える。だからっ、あたしは無理だって。いたたたた。痛いって。馬鹿、痛い痛い痛い。ていうかなに、みどりの怪獣がやられた? 黄色の怪獣に? なにそのオチ、超くだらなっ。つまんない。テレビ最低。ていうかもうあたしの代わりにあんたがなんか書きなよ。下手くそですよ僕、って解ってるよそれくらい。最初は誰もそうなのっ。ってなにこれ、ぷっ、超下手くそ。才能ゼロだね」
「才能ゼロですよ」
「そっか……。じゃあしょうがないね……。まあお互い頑張ろうか。ていうか見て、黄色の怪獣格好いいよ。ファンになっちゃいそう。頑張ってー、って自分で言ってて嘘臭く感じるのは何故。本気のつもりなんだけれど。ここがあおい怪獣の中だからか。仕方ないから薬でも飲むか」
 部屋中に散らばる薬を一粒手に取る。偽の宝石のようなその輝きを、あたしはつるりと飲み込む。
ラスト るるるぶ☆どっぐちゃん

春風とスヌーピー
伊勢 湊

 僕には呪いがかけられている。獣になってしまったとか、お婆さんになってしまったとか、そんなすごいものじゃない。少し熱さに弱いくらいでだいたいは普通の人たちと同じような生活が出来る。実際僕は普通に会社に通っているし、煙草は止めたけどお酒だって飲める。2LDKのマンションに住んでいて、結婚だってしているのだ。ただ僕の体はマショマロで出来ている。

 マショマロで出来ているといっても見た目は普通と変わらない。妻だって僕の体の秘密には気付いていない。気が付いているのは僕の体に呪いがかけられたときに我が家にやってきた大きなぬいぐるみのスヌーピーだけだ。スヌーピーはちゃんと生きていて、非常にゆっくりではあるが動くことができ、いつか僕の体を食べてやろうと狙っている。ただしこいつは亀よりものろいので例え眠っていても僕を食べることなど出来やしないのだ。

 結婚していまのマンションに引っ越すときにはさすがにどこかに置いていこうと思っていたが、妻がスヌーピーを見て「かわいい」などと言うから捨てられなくなってしまった。あろうことか妻はこいつを洗濯してキレイにしてやったり、ブラッシングしてやったりした。僕を食べようとしているやつなんかにそんなに優しくしなくていいと思ったけれど、全部ばらすときっと僕が呪いをかけられた理由も話さなくちゃいけないし、たいした理由でもない気もするけど、なんとなく「なんでそんなことしたの、この変態」とか言われるのが怖くて言えずにいる。

 ある日、家に帰ると妻が台所で泣いていた。見るとガスレンジ近くのカーテンが焦げている。「どうしたの?」と聞いてみると、炒飯を作っているときに窓から吹き込んできた春風がカーテンを揺らし、レンジの火が燃え移ったらしい。すると棚の上に置いてあったスヌーピーのぬいぐるみが突然落ちてきてカーテンにぶつかりそのままベランダに飛び出した。おかげでカーテンは焦げただけで済んだという。ベランダを見るとスヌーピーが転がっていてお腹が燃えていた。放心する妻に僕はバケツに水を入れるように言って、少し考えてから、やっぱり僕はそれをスヌーピーにかけて火を消してやった。スヌーピーは僕にだけ分かるようにちらりと目で御礼を言った。お腹はだいぶ焦げてはいたけど致命傷ではなかったらしい。

 そんなわけで僕と妻とスヌーピーのぬいぐるみもどきは東京の外れの2LDKにいまも暮らしている。