オメガ星の基地ドームが、突然爆発炎上した。バスロケットも失い探索隊の全滅は避けられない状況である。しかし、幸運なことにミニロケットがドーム外に停留してあった。 制御室に集まった女性ひとりと男性隊員たちに向かってリーダーが重い口を開いた。「ミニロケットで全員助かることはできない。それよりも、ここで得た貴重な研究資料をすべて失うことが非常に残念である」 その思いは全隊員に共通していた。人類のオメガ星開拓史が百年は遅れる。環境破壊によって疲弊した地球に、そんな悠長な時間はなかった。「そこで提案だ」とリーダーが声を絞り出した。「こうなったら皆で一緒に英雄になろう。人類の未来のために少しでも多くの資料を地球に送ろうではないか」 それを聞いて否と答える隊員はいない。「ロケットは250キロという重量制限がある。これは星の重力を振り払って宇宙へ飛び出すために計算されたぎりぎりの制限だ」「では250キロ分の資料やサンプルを積もうというわけですね」「いや、我々は紳士だぞ。皆の許しが得られるなら、女性だけは助けたい」 男たちは口々に賛成と叫んだ。 唯一の女性隊員は、感動の涙を隠せない。「あなたたちの勇気は人類の宇宙史の中で、永久に語り継がれるでしょう」「ありがとう。事は急を要するし、正確でなければならない。すぐ体重を計ってくれたまえ。これから時間との闘いになる」 さっそく女性隊員が別室で体重を計り報告した。「今、彼女の体重が45キロと判明した。幸いなことに実に軽い。よって残りの重量は自ずと計算できる。分担の内訳を確認したら作業の開始だ。さあ、一刻も速く我らの女神を地球に送り返すんだ」 全員が一斉にそれぞれの研究室に走った。 女性隊員を含めて、正確に計算された物資がロケットに運び込まれた。「愁嘆場を演じる時間はない。すぐに飛ぶんだ」「わかりました」 全隊員が見守る中、彼らのすべてを託した小さなロケットが力強い噴煙を残して大空に飛び出した。 ところが突然、制御室に警音が鳴り響いた。室内は騒然となった。「おかしい。重量オーバーです」「なんだって! 何度も計りなおして慎重を期したはずだぞ」 その時、一人の隊員が叫び声を上げた。「彼女の測量記録ですが、体重が58キロになっています。こんな時にサバ読んでます」 その間にも希望のロケットは見る見るうちに失速して、ついに落ちた。 なんとも女心って奴は!
駅のホームだった。「すみません。待ち合わせなんですが、"フクロウ"はどこでしょうか」「改札口を出て目の前……」「どの改札でしょう?」「一番大きな。よかったら案内しましょうか?」「お願いします」 私はモニュメントへ彼を案内した。 後日、車両にその男性がいた。ホームに下りると、「すみません、待ち合わせなんですが」と声をかけられる。「"フクロウ"はどこでしょうか?」 友人にその出来事を報告する。「一回じゃ覚えられないもんね」「でも二度も続けてなんて」「運命?」 ふざけているうちに、一人が神妙な面持ちになった。「私こんな話聞いたことある」 人身事故で亡くなった人間が地縛霊になって人を惑わす、といった話だ。「あれ、幽霊だったんだ」 その後、怖い話をしあう。「すみません」 同じ男性だった。「"フクロウ"ですか?」 男より先に言ってみる。「ええ」「待ち合わせに使うモニュメント、ですよね」「ええ」 薄気味悪く思ったが、案内する。「あの」 決心して切り出す。「……先週も声をかけられたのですが」「そうかもしれません」 一瞬驚いた後、男のしゃべり方は虚ろになった。「何故私なんです?」「あなたを選んだ訳ではないんです。回りくどい言い方ですが、ここで以前、人身事故があったんです。二ヶ月前のこの路線、車両、時間に。私はこの駅に来たんです」 妙なことになった、思わず革靴が鳴るその足元を見た。「初めての待ち合わせだったので。あなたぐらいの背丈の人に場所を聞いたんです。その人は改札はひとつしかないと言ってました」「大きいのは一つです」「私は場所を間違え、彼女は帰ってしまった」「……ふられてしまった、とか」「いや、妹なんで、ふられるも何も。ふられはしないんですけどね、二度と会えないんです」 独り言のように男はつぶやく。「私のせいなんです」 その表情は優しかったが、何故か背筋がぞっとなった。「じゃあ、着いたので」と、私はさよならを言い、別れた。 しばらくして、新聞の片隅に、二十代女性がホームで男性に突き落とされる事件が載っていた。『被疑者Wは16日の午後、K駅ホームにて同じ車両に乗り込んでいた被害者M子さんに道を尋ねた。その直後16時03分、M子さんをホームへ突き落とした。理由についてWは、M子さんの説明が不十分だったからだと述べた。ちなみに被疑者の妹・Y子さん(当時16歳)は同じ路線で列車にはねられ……』
なんだこれ。 足元が遠い。頭のてっぺんから糸でつるされてるみたい。体がのっとられているのか、私が体から抜け出そうとしている、どちらだろう。真後ろに倒れる。鈍い鈍い痛みの波紋が後頭部に広がる。もううごけない。動こうと思えば動けるけど、めまいが。おきなきゃ。おきないと死んでしまうかもしれない。なんで。そのほうがかっこいいから。よいしょ。壁に寄りかからないと全身の重心は安定しない。壁に吸い込まれそうに頭がおもたい。壁に呑まれたら壁女じゃないか。 あ、犬。うちの犬。おいで。やめろ、なめるな。こら。あ。犬? これは手。誰だ。誰の手だ。お前は誰だ。私だ。右手が右頬に置かれている。自分の顔をなでているなんて気持ちが悪い。 このあたまの重さといったらまるで金属だ。あたまが金属、体は軟体動物。そういうかんじ。私はタコだ。ぐにゃぐにゃのタコ。あたまのてっぺんを引きずって足がぞろぞろ進む。タコだ。マダコ。体長155センチメートルのマダコです、隊長。 タコの見た目は好きだけど味と歯ごたえは大嫌い。たこやきを食べるときはつまようじでタコを抜く。カールした濃い赤むらさきのタコの足。真四角のタコの破片。すべて抜く。テーブルの向う、恋人はうれしそうに私を見る。ワックスで少し立たせた髪、タケオキクチとローマ字で書いてある着物のような模様のTシャツ。 あなたの名前はカナザワヨシユキでしょ。なんでキクチタケオなの。 さっきから音がよく聞こえない。いつもどおりに騒いでいる前の家の子供の耳障りな声も。それに指先が動かない。あれ、れ。頭が勝手に揺れる。タコさん。私の手。犬、犬、誰か、助けを。誰かを呼んできて。眼が。よくみえない。まぶたが勝手に下りてくる。私はおしまい? そんなばかな。まだあっちに行くわけにゃいかないんだよ。だいたいにしてこんな汚い部屋で死ねるかよ。オレンジ色のカーペットに灰色のかわいいわたぼこり。掃除機もかけなきゃ。寄りかかった壁、私の隣に脱ぎ捨てたジーンズの山。藍色、少し茶色がかった水色、黒、国防色。こんなところで死んでたまるか。私はまだ若いんだ。あたまが勝手にゆれる。鼻の下をさらさらと液体が伝った。真っ白なパジャマに赤い点々。血だ。あ、急に汗がだくだくでてきたよ。頭も痛い。もしかして私はほんとうにだめなんだろうか。汚い部屋で、自分で汚した部屋で、血と汗にまみれて、私は。 生きるぞ、ちくしょう。
長かった冬もようやく終わる。 暇つぶしに描いた絵には、幼い頃に見た天使と、どこまでも青い空。流れ行く雲がどうしても描けなくて、とうとう2時間もこれに費やしてしまった。「ぷっ」 それにしてはあんまりの出来だ。羽のながさが双方で違っている。顔からはどこか暗い感じが出ている。空も、これでは曇っているのではないかというくらい線が入っている。 でも・・・ これを見ていると何だか懐かしい。今となっては名前さえ忘れてしまったけど、それでも、彼女とは不思議な出会いだった。「私、……死神なの。」 はじめは心底驚いた。だって、どこからどう見ても普通の少女だったんだから。白い羽が背中にあるってこと以外は。天使かとも思った。だって、彼女は本当に清楚で、見とれてしまうほど綺麗だったんだから。 笑顔の似合う、白亜の彼女。後光さえ垣間見るような彼女が、……死神。 その言葉を信じるにはかなりの時間がかかった。最後の決め手は、懐から出した一本の鎌。形状からして剣にも見える。彼女は近くにいた子猫にそれを振りかざした。 思わず目を伏せたが、その心配もなかったようだ。そこにいた猫はそのままの形を残して命だけを奪い取られていた。「本当は、鎌って低級の死神が使うんだけど……。自分の力、まだ使ったことがないの。……怖くて。」 ああ、やっぱりこのひとも感情を持ってるんだな、と思った。死神だって、感情を持っていて、殺すことに抵抗を持ったりするんだな。もしかしたら、俺たちと同じように恋をしたりするのかもしれないな。二人の間に、さわやかな風が流れてきた。それが、別れの合図だった。「それじゃ。いろいろ話せて楽しかったわ。また、機会があったら会いましょう。」 そう言って、彼女は消えるように俺の前からいなくなった。 あれから、もう五年が過ぎたんだな。彼女は今どうしているのだろう。 冬が終わり、また春が来る。彼女に会えるという確証はないのに、どうしても心のどこかで期待してしまう。今年は……今年は……彼女に遭えるだろうか。 なぜか、今年はいつもの年より胸騒ぎが激しい。それは、今年こそは彼女に遭えるということの前触れなのか、それとも…… 窓を開ける。そこから、あの時と同じさわやかな風が部屋の中に流れてきた。 そっと窓を閉める。部屋の中には風の残り香がいつまでも残っていた。
俺の欲しいものは、全て賢哉の中にあった。 いつだってぼんやりしている賢哉、彼の面倒を見るのは自然と俺の役割になった。服を着替えさせてやり、顔を洗ってやり、髪を整えてやり、髭を剃ってやり、朝食を取らせてやり、そうして朝一番の仕事から夜眠るまでの行動の全てが、それこそ便所の面倒までも、全てが俺に課された役割だった。 誰もそのことに疑問を抱かなかった。俺が賢哉の傍にいて、彼の考えを代弁してやり、彼の為に自分の人生の全てを無駄にしたとしてもだ、誰一人として俺の行動に疑問を持つ者などいない。 そう、俺の欲しいものは、俺に必要なものは、全て賢哉の中にあったのだから。 唯一、肉親たちは時折賛辞をくれる。その目を見ることは俺には出来ない。彼らは俺の肉親だけれど、やがて彼らが俺を見捨てることは分かりきっていたから。だから俺は少し視線を落としたまま、はにかむように笑って見せる。俺をも大事にしているのだという世間へのアピール、それに付き合ってやる義理などないけれど、それでも彼らは俺の肉親で、儚い俺の一生の中ではカテゴリ『愛するべき者たち』だ。 そう、賢哉と同じように。 俺の全てを台無しにしている賢哉を愛さないわけにはいかない俺は、彼の存在の全てを憎みながらも、自分が生きる為に愛しんでもいた。俺の中には何もなくて、全てが賢哉の中に詰まっていたから。 どれほど俺が尽くしても、どれほど俺が欲しても、決して俺のものにはなりはしない、賢哉の為の宝物たち。口汚く賢哉を罵ることは簡単だった。世の中の不条理を呪うことも簡単だった。誰一人として、俺を責めはしないだろう。 俺が持っているのは、この考え続ける脳味噌と、空虚を紡ぐ口、暗闇を見つめる目。生まれつき造作だけは整った顔も、俺には何の喜びも齎さない。賢哉の持っている全てが手に入るならば、醜く崩れていても構わない。 これほどに、愁傷な俺だというのに。 神は、俺を。いいや、肉親は、俺を切り捨てた。 賢哉はそこに納まっているだろう白い球体を感慨深そうに眺めていた。彼の持っていた数少ないパーツは火葬場の炎に崩れることなく、綺麗な形を保ったままそこに納まっていた。箱から出す事は禁じられている。賢哉はその箱を抱き上げて、小さな声で囁いた。「ご苦労様。 お前は何かと便利だったのに」 生まれたときから傍らにくっついていた、今では骨だけになってしまった半身を、労った。
世の中には色んな人生を歩んでいる人がいらっしゃるもんで、昔、僕がアルバイトしているとき、4つ歳をごまかして、同い年の顔している人がありました。理由を聞いたら、自分より若い先輩に気を遣わせない為だそうで、何とも配慮深い人だったなぁと感心致しました。年齢と申しますのは自己申告でございますから、「私は19です」と言い張って、それが通用したら、それはもう19歳なのでございます。歳をごまかすというのは芸能界ではよくある話だそうでございますね。中には年齢不詳とかいう人もあったもんで…純一(55歳)「おい、とっつぁん、どないや」寿夫(39歳)「おうおう、誰かと思えばおまはんやないか。 どないもこないも子供のおもちゃ壊してもたがな」純一(55歳)「ほうほう、相変わらず情けない親父やのう」寿夫(39歳)「もっぺん直さんならんねんけんども、じゅんいっちゃん、 なんとかならんかえ」純一(55歳)「あとでワシがケチャップとマヨネーズで直しとくさかい」寿夫(39歳)「そらおもろいおもちゃで子供喜ぶわ。 ほんに友達っちうのは、ありがたいこっちゃでなぁ」純一(55歳)「何もし、お腹が空いたらプラスチックでも かじらしといたらええねん。胃も丈夫にならぁな」寿夫(39歳)「おまはん人の子には厳しいのう」純一(55歳)「タバコでも吸わしとけ」寿夫(39歳)「アカンアカンそれがええアカンそれがええ、それがええ」純一(55歳)「ほいで、ワシらはカニみそで一杯やろうや」寿夫(39歳)「それがええわ、どっかで買うてきたんか」純一(55歳)「山登りしよったら、タラバガニが蜂と臼と栗連れて、 サルのところ敵討ち行く言うからやな。 タラバだけちょっとおいでっちうてな。 おむすびぐらいでムキになるなと。」寿夫(39歳)「それでタラバ食うたらアカンがな。 子供に読んで聞かされへんわ」純一(55歳)「サルが負ける話はワシャ好かん。ほれより一杯やりぃな」寿夫(39歳)「おおきに、ありがとう。ところでわい、おまはんと 高校時代に同級生で知り合うてんなぁ。」純一(55歳)「ほうや。」寿夫(39歳)「ほで今、16違う。おまはん、あん時、鯖読んだやろ」純一(55歳)「いやいや、わいが呼んだんはタラバガニや」
窓には不機嫌な顔が幾重にも貼り付いていた。 その中の一人と目が合った。しかし向こうはこっちを見たというより、たまたま視線の先にこちらの目があっただけのようだ。窓が去っていく間にこちらを振り返るようなことはなかった。 不快な視線だけが残った。ねっとりとした感触に悪寒が走る。 空に月は無かったがあたりはさほど暗くない。ほろ酔いだしさほど暑くもないのでゆっくり歩くのも悪くない。むしろあの窓の中に自分がいることを思うと、いくら時間が掛かったってこっちのほうがずっと良いように思えた。 やがて沢山の窓が視界に広がった。明るいのもあれば真っ黒なのもあるが、うすボンヤリと灯りが洩れ出ているのが最も多い。さっきとは違って、無気力だが刺すような視線も息が詰まる重い空気も感じられない。暖かいか冷たいか、それだけだ。 無数の窓から逃れるようにして視線を足元へ移した。自分の窓を思い浮かべてみたくなったのだ。でも、何も思い描くことが出来なかった。考えたら自分の窓は見たことがないような気がする。暖かいのだろうか、冷たいのだろうか。このあたりにある窓と同じように、窺い知る事の出来ない内側を持った無機質なガラス板でしかないのだろうか。 足元を照らす異質の光に気がついた。顔を上げたら開け放たれた窓があった。網戸がはまっているがカーテンもなく窓の向こうがはっきりと見える。そこには老夫婦が座っていた。扇風機の首だけが音もなく左右に振れている部屋で、彼らはただボンヤリと卓袱台の上に置かれたガラスコップを眺めているようだった。 思わず足を止めてしまった。彼らとの間にあるはずの窓がなかった。自分は彼らと同じ場所にいるのだと気がついた。冷たい麦茶が入ったガラスコップに水滴がついている。老夫婦と全く同じようにそれを見つめた。 道端に立ち止まって中を窺う姿に気がついたのか、卓袱台の向こう側に座っていた老婆がこちらを見た。それにつられたのか、背中を向けていた男もゆっくりと振り返ってこちらに目を向けた。しかし彼らはこちらを咎めるでもなく、また自分たちの手元にある麦茶へ目を落とした。老夫婦にとってもここに窓はないのだろうか。それとも彼らにとって窓というのは、外と中を隔てるものではないのだろうか。 自分の窓も開けてみようか。そうすれば外と中の隔たりはなくなるのだろうか。いや、なくならないにしても少しは縮まるのかもしれない。
捜査員は、床下の収納に続いて、電子レンジの扉を開ける。「そんなところに人間が入るか!」 下田両次巡査部長は、彼の頭をはたく。「どこだって一緒よぉ」 台所に桜井香織が入って来る。ゴミ箱に丸めたラップを捨て、サラダの皿と箸を流し台に置く。「京都に出かけてる夫が、家の中にいる訳ないじゃなぁい」 彼女は薄ら笑いを浮かべながら、細い煙草に火をつける。「刑事さん。どぉ?」 吸いかけの煙草を差し出す。ラメの入った口紅が付いていた。「禁煙中なので」「付き合い悪いわねぇ」 桜井は、冷蔵庫の引き出す製氷室から氷を取り、グラスに入れ焼酎を注ぐ。濁りのない氷の、澄んだ音が鳴った。「そろそろ帰ってんない? これから晩酌すんのよねぇ」「ご迷惑をおかけしました」 下田は一礼してアパートを後にする。「下田さん」 捜査員の一人が耳打ちする。「あの女、真っ黒ですよ。だって桃井哲也が――自分のダンナが行方不明だってのに、あの態度」「証拠がねえだろうが」 下田はくやしげに、禁煙パイプの吸い口をかじる。「糞っ、てんで余裕で、飯は食うし、酒までかっ喰らいやがって」「飯って言っても、サラダだけでしたけどね。流石にスリムでなかなか……」「何を下らん事を――」 と、下田は足を止める。「おい、あの女サラダ食ってたな?」「ええ。作り置きして朝晩食べてるとか何とか」「戻るぞ!」「捜査は終わったんじゃないの?」 桜井は部屋の隅で腕を組む。「よし、こいつだ」 下田はラップの塊をゴミ箱から拾う。「お皿にかけてたラップでしょお?」「皿にかけた、か」 下田はニヤリと笑う。「この新型冷蔵庫『台魔新』には」 冷蔵庫の引き出しを引っ張り出す。「ラップなしでも乾かない、新鮮野菜室が付いている!」 そこには、翌日用のサラダが、ラップなしで皿に盛られて入っていた。「人間、濡れた紙一枚で窒息させられる」 下田はラップを傍らの捜査員に渡す。「鑑識に回せ」「ラップ一枚がなんだって言うのよ」 桜井の表情は、まだ余裕がある。「それだけじゃあねえよ」 にやりと下田は笑う。「製氷室を開けたので、ごまかされたが、『台魔新』は自動製氷室と冷凍室は別々。そして、一見コンパクトな冷凍室は」 下田は冷凍室を引き出すと、中には、真っ白になった桃井哲也の死体が入っていた。「人間だって、すっぽり入る大容量だ!」「こういう冷蔵庫のCMは――」「ダメに決まってんだろうが!」
枯れた夜空だと思う。 湿り気がある夜気を肌で感じていても、空は確かに枯れている。暗がりを歩いているとそんな気配をひしひしと感じてしまう。 もうどれだけ歩いただろう。靴底は随分擦り減ってしまっている。辺りは背の低い雑草や掃除道具が入ってるような小さな倉庫しか見えない。枯れた夜空の下なのだから、暗闇の中の倉庫はきっと錆付いているだろう。 ポケットの中から草鞋を取り出す。ボロボロの草鞋はくたびれきっている私の足に、しっくりとはまる。あまりにもしっくりとはまるので、少しだけ泣きそうになった。靴とはそこでバイバイ。地球に優しくなくても、そっとお礼を言った私は、多分靴には感謝されるかもしれない。白と黒のシンプルなスポーツシューズ。四九八〇円。そう思うと、靴との思い出でまた泣きそうになった。 夜気はますます湿り気を帯び、夜空との確執を強めている。 どこかで犬の遠吠えが聞こえてきた時、私はその場に座り込んだ。疲れていたのもそうだけど、小学校の先生に怒られている気がしたから、歩いていることに後ろめたくなった。寄りかかる場所も人も何もなく、仕方なく自分で自分を抱えて、おやますわりをしながら周りを見渡してみる。それで淋しいことに気が付くと、怖いことに気が付いた。そうして初めて夜が暗いことに気が付いた。夜が暗いことは知っていたけど、淋しくて怖いからだとは、全然知らなかった。もっとマシュマロみたいにふわっとしていて、埋もれていくような、それが夜の暗さだと思って今まで生きてきたのに。 風がのろのろと吹いて、月明かりに浮かび上がる厚い雲はめんどくさそうに動いている。 私は、夜の暗さを知らなかった私を思い、また泣きそうになった。 再び立って歩き出す。お尻が痛くなって、だから地面も圧迫されていただろうから、ぱんぱんとお尻をはたいて歩き出した。地面の温もりが、ひんやりと私のお尻に余韻を残している。後ろめたさはもうない。 なんで歩かなきゃならないのかな。 ついに普通の疑問を抱いた。待ちくたびれた私と、できればその思いを避けたかった私が、奇妙な具合で意気投合している。 帰らなきゃ。でもどこへ? わからない、でも止まっていてもしょうがないもの。そうね。たしかにそうね。 歩くと淋しくも怖くもなかった。ただ濃紺の世界が広がっているだけだった。安堵した私は少しだけ泣いて、いつまでもこの三千世界を歩きたくなった。
巨大なユリの黄が空で光り輝く。風で曲がりくねって轟音を出し、震動する花弁。もし落ちれば、死人が出るかもしれない。 笑は、ただ眺めていた。 不思議な声が彼女を呼んだ。笑は縁側を立ち、トテトテと歩いて、老人のしわくちゃ笑顔に出会った。 「ほら、今夜のメシだ」 麦わらで影になった目元。老人の日に焼けた両手が大きな物体を差し出した。 ユリの花がやがて桃色に染まる。 粗末なちゃぶ台いっぱいに並んだイモ料理に、笑は目を丸くした。動物の油脂をぬったイモを食べると、笑に本来の表情が戻る。食欲は止らず、次から次へと口にかき込む。長い間、空腹だった胃が痙攣して、笑ったまま倒れた。老人が身を乗り出す。「おい大丈夫か、姉ちゃん!」 彼女がやっと寝ついた頃、外で鈴虫が大音量の咆哮をあげた。老人は「うるせえっ」と叫んで、猟銃を持ち出した。笑は布団の中、震えていた。黒い光沢を持つ大型犬ほどの鈴虫と老人がにらみ合う。鈴虫はほえ続けた。薄闇に弾ける閃光、破裂音。鈴虫がドウと倒れる。老人は虫の足をつかんで、納屋へと姿を消した。 老人の小さな古民家は朝、ユリの一ひらによってつぶされていた。爆睡していた笑は誰かに布団のまま、畑に連れ出されていた。唖然としている笑の横に老人が錆びた自転車を乗りつけた。 黄色い砂利道を、笑は老人の背にしがみついて自転車で駆け下りた。硝煙が微かに匂う。 突然、海が目の前に開けた。老人は腹から何かを叫んでいる。 水平線上、島と見まがうほどの何かがユリにも負けない水柱を二本、天に向かって吐き出した。グーという低音が遅れて、皮膚を撫でる。 老人は砂浜に自転車を止めた。散水が豪雨のように二人に降り注いだ。 そして、はしゃぎ過ぎ、笑い、語られて、ゆったり時間が流れる。「布袋海鳥だ。すげえだろ」「潮に乗ってみな」「嗅いでみな」「ここにいるか? どこも同じなら、長く笑えよ」 笑はすべてに、曖昧な笑みで返した。 瓦礫になった家に戻り、はじけるように笑った。笑は体を粗い布地でふいてもらった。背後を子供達が泡立った声で、駆け抜けていく。「あ、コラ、待て」 笑は、老人が止めるまえに走りだしていた。シワシワの子供達が丸い動物の骨を蹴りあっていた。不器用であり、エネルギッシュで、不思議な声をしていた。 笑は、無骨に骨を蹴った。高く遠く。 皆が見上げる、そして、空。 ユリの天頂がギラギラと輝いていた。
一球目内角をえぐる直球はファール、高めに抜けたカーブは運良く見逃し。さて、そうすると二球続けての高めは狙われる。外角一杯、縦に割れるカーブが食い込めばきっちり抑えられるはずだ。右手は利き腕、片手で取って手首を捻ろうものなら明日の仕事に差し障るが、この場面を抑えないと、またプレイヤーランクが下がってしまう。 ホログラムの左投手が振りかぶる。芸術的な縦に割れるカーブ、背番号28に対するは蟹股打法の背番号3。放られた球は指示したサインよりも若干外気味に流れてミットの先っぽで軽い音を立てて収まった。同じくホログラムの打者もフルスイングで制止している。115km/hの球は軽い音のわりに重く、祐輔の耳の奥で手首のみしりと鳴る音がした。「文房具関連の事務職、へぇ、そうなんですか」 案の定、手首には手首が入ってしまっていた。アイスクリームの棒のような添え木を包帯で器用に巻きながら、医務室の白石という女医はなんともいえない笑みを作った。四十絡みの女、なんともいえない笑みというのはどうとでもとれる笑みということで、高卒から仕事一筋、妻一人で二十五年の祐輔にとってはなんとも処置に困る表情だ。「楽しみったら野球を見るくらいしかなかったんですがね、やっぱり自分でやってみたくなるんですよね、本当にこういうところがあって良かった」 声が上ずる、自分自身でこの女性への好意をひしと感じる。「ランキングでもよくお見かけするし、どんな方かと思ってましたのよ」 知ってか知らずか女医もにこりとする。ふつふつと口先が滑らかになる。目尻のすっきりしたいい女だと思う。「いやなに社のほうではあちこち窮屈でさ、好きなことったら野球見るくらいしかなかったから、ちょっとね」 包帯の終いにしゅ、と音がして治療が終わる。「しかしこれで休んじゃうと、記録なんかあっという間だよな」「あんまり根を詰めると、何事もよくないですよ」「そうなんだけれどもなぁ」 祐輔はもてあまし気味に俯く。包帯、突き出た指先は綺麗なままだ。包帯の所為か余計赤みが差して見える。――根を詰めないでいられたら、どれだけ楽に生きられようか。 受付で治療代の五百八十円を払って入口に向かう。掲示板の捕手・奪三振部門の月間ランキング第一位、宮路祐輔(179、A級)、二位の山田裕太(43、D級)と見比べる。「早く治さなきゃな」 白日の下へ出る。 捕手奪三振部門に第三位は、現れない。
※作者付記: キャッチングセンター、お待たせいたしました。このシリーズ、だれか次の方が続いてくれますように。
ゲロゲロゲー。 不快な内蔵からの悲鳴が混濁した脳味噌にこだまする。煙草臭い濃霧の向こうが少しずつ明るくなり、朝を感じる。尻の下にアスファルト、背中にブロック塀の感触。どうやら戸外で一夜を明かしたようだ。昨夜は……また、やったらしい。 左遷される副部長の送別激励会。部長の笑顔、副部長の赤ら顔、日本酒のグラス、副部長の泣き声、部長の怒声……。 二軒目の店の名を思い出そうと首を捻って、胸に貼られたシールに気づいた。自治体名が明記された五百円分の粗大ゴミ回収シールだった。「何もここまでしなくても」 呆れると同時に、大胆な行動に妻を駆り立てた怒りの原因を想うと胸が痛んだ。『問題飲酒』『アルコール依存』 嫌な言葉が頭に浮かぶ。しかし、夫を粗大ゴミ扱いして、近所に恥をかくのはむしろ妻だし、学校で友人に囃し立てられるのは娘じゃないか。 サンケイ、毎日、日本経済、新聞配達青年のバイクが通り過ぎる。犬が来た。コーギーとかいう足の短い太った犬だ。お洒落な出で立ちとは裏腹に貪欲にゴミの匂いを嗅いで放尿、寝ぼけ眼の飼い主に引き摺られて去って行った。 山田さんの御主人が出勤して行く。前傾姿勢をとり、こちらに一瞥もくれずに突き進んで行った。続いて根岸さん夫婦。こちらは気付かない振りをして、小さなゴミ袋を私のそばに置いて行った。その後、何人かの見知った人間や犬が通った。「一体、彼らの目にゴミ集積所の私はどう映ったのだろう」 トロンとした頭が考えた。皆無関心を装っていたが、よく見かけるフリーター君は、余程びびったのか出すタイミングを計り損ねたゴミ袋を携えたまま駅に向かった。 午前九時過ぎ、ゴミ収集車がやって来た。作業員が飛び降り、手際よくゴミ袋を収集車のホッパーに放り上げる。「おじさん、可笑しな冗談で邪魔しないでよ。こっちも忙しいんだから」 と顰蹙を買うかと思いきや、無言のまま私に赤いシールを貼って、収集車に戻った。 収集車が走り去るのを見送り、シールを確認した。「ご注意」「曜日違いで回収出来ません。お持ち帰りになって、下記の正しい曜日に出し直して下さい」 と書かれており、下記リストの内『木曜、生ゴミ回収日』に丸がされていた。 正午過ぎ、土下座を覚悟して、枯渇と空腹を抱え、ゆっくりと立ち上がり自宅に向かった。「せめて」 革靴を引き摺りつつ考えた。「金曜、リサイクル品回収日に丸してほしかった」 と。
宮田の奴随分廻しよって。なんや胃ィぐるぐるして気持ち悪いやんか。まあしゃあない。ここはカッコいいとこ見せなあかんし。みんなしてカップルで来よって、ほんま胸クソ悪いわ。それにしてもわからんなあ。どっち行ったらええんやろ。みんな好き勝手いいよるし。えー右か、右やな。右、右っと。何歩進むんや。あと三歩? 一、二、三。そこじゃないあと左に一歩? はいはい。さあいくでェ。何、違うて? どないしたらええねん。三十度右? さんじゅうどってどないやねん。こんくらいか。さあ今度こそ。え、何やて? その入り口をくぐれ? 入り口なんかあるかいな。またしょうもないこと言う奴がおるな。しゃあないつきおうたるわ。で、くぐったらどこ行くねん。豆腐屋の角を曲がって? 四軒目? あほかいな。随分遠くまで行かすんやなあ。自転車でおいでってなところやで…って誰もわからんか。は、信号て? おわびっくりした! ダンプかい。こんなとこでとばすなや。ほんま危ないわ。で、青なったか。渡ってええんやな。四軒目ってここかい。扉開けて。不法侵入と違うか。海パンに目隠しの男が棒切れ持って上がって来よったら変態やがな。おわあ何か悲鳴あがっとるし。何? 打つんか? スイカ? ここにあるんか? じゃあ打つで。おいおいごきっつったで今。ごきって。何や女が叫んどるが。こっちも打てって? ほんまにええのか? なに同棲カップル? ほなしゃあないわな。ほい、ごきっと。これでええか。おい何やピーポー言いよるで。囲まれとる気配。武器捨てて投降せえって。どうしたらええねん。抜けって? これ仕込み杖やったんかい! 斬るのか? 突くのか? 刺すのか!? WMスラッシュや!! はー、警官隊もやってまった。どないなるんやろこれから。は? 前方三十メートル、ラブホテル『サマーオーシャン』占拠率九十パーセント? みんなええ思いしとんな。むかつくわ。うち三組は男同士? えぐいのう。ミサイルハッシャシマス。わし、いつそんな機能付いたんや! しかもオッパイミサイルかい! …ほんまに発射しよった…おー、地響き。えらい爆風やのう。ここまで来たら驚いてもられんわ。テキヲセンメツシマシタ。はいはい。サクセンシュウリョウ、ジバクシマス。なんじゃあそりゃあ! ちょっと待てや! バクハツゴビョウマエ。ヨン、サン、ニ、イチ。スイカワリて、スイカワリて、こんなんでええんかあ!?
冷房の効いた真夜中のタクシーに乗り込む。閉じこめられた冷気が目や鼻の奥や鼓膜に貼り付く。運転手はどちらまでとも訊かない。私は一言、行き先を告げる。タクシーは出発した。町の灯りがゆっくりと流れ去っていく。やっとのことで持ち出した鞄を一つきり、私は胸に抱えている。「でも、あなたはもうすぐその鞄を手放すことになるのよ」隣に座った女が正面を見たまま私に言う。私には既にあらゆることがうまく思い出せなくなっている。例えば、大事なこの鞄の、その大事の理由が思い出せない。そして、例えば……。タクシーは目的地に向かっている。私は、ひとり後部座席に身を沈め、目を閉じる。路面から伝わる振動は静かなざわめきに似ている。ふと気付いて、服を調べる。ひどく汚れている。軽く叩くと埃が舞った。両方の手が微かに震え出す。あわてて両手の指を組み合わせ、親指の付け根を噛む。唇にも手にも感覚はない。私の体は麻痺し始めている。タクシーは目的地を目指している。窓の外の景色は、もはや町中ではない。私はひとり、顔中に脂汗を浮かべて座席に沈み込んでいる。体中全ての関節が妙な具合に曲がろうとする。特に右腕は、放っておくと胸の前で半円を描く奇妙な運動を勝手に繰り返す。左手でなんとかその動きを押さえる。タクシーは確かに目的地に近づきつつあるようだ。だが、運転手がいない。気がつけば、私がタクシーを走らせている。後部座席には男の死体。胸にしっかりと鞄を抱えている。タクシーは目的地に到着した。粉々に砕けた岩が散らばる暗い場所。タクシーの後部座席のドアは開いたが、降りる者はない。運転席にも人影はない。ヘッドライトの光とエンジンの音を、無人のタクシーが垂れ流す。ふいにヘッドライトの光の中にさっきの女が現れる。女の横の暗闇には、両側に一人ずつ別の誰かが立っている。更にその外側の暗闇の中を走り回るたくさんのなにか。女がこちらに向かって静かに言う。「鞄はどこ?」鞄はタクシーのボンネットの上にある。女は、しかし、気付かない。その鞄の底から黒い液体が滲み出し、ボンネットを伝って地面に落ちる。地面が白煙を上げて溶けていく。液体は流れ落ち、焦げる匂いが続く。やがて白煙が晴れ、地面に人型の穴が現れる。私は、その穴の中に横たわっていた。「見つけたわ」女はそう言ってタクシーに近づき、ボンネットの上の鞄に手を伸ばす。ヘッドライトが消え、エンジンが止まる。
鏡台にうつる母の姿が蛍光灯の灰色のひかりに照らされている。ぼんやりとした揺らぎない暗澹は畳に微妙な陰影をつけ、閉め切られたカーテンからはかすかな音があった。バイクであったり、自転車であったり、話し声であったり、ゆっくりと流れてきていた。 風呂上がりに母は鏡台に座る。娘はそれを眺めるのである。 整頓された化粧瓶の数々から一つを抜き取ると、雨のような柔らかで湿った香りが部屋に立ち込めた。娘は幼さ故か、それに大人を覚え、まだ見ぬ世界を夢想するのであった。 その日、天頂を目指しいく陽光に眼を細めながら、母が鏡台に座っていた。母には時折こんなときがある。そして、いつも口紅をさすと此方を向き、「どう、きれい」と子供のような微笑を娘に投げるのだった。 娘は母にどこに行くのかを尋ねない。どこか不粋な心地があった。なんにしても母は夕暮れ時には必ず帰って来るのである。 鴇色の紅がいつもより眩しく見えていた。照らした陽光が薄紅の寂しい色をしていた。前日打たれた頬が痛かった。様々な事象の複合が娘を鏡台に足を向けさせたのかもしれなかった。母の禁を破ることは娘にとって、一つの甘美な抵抗のようにうつり、椅子の冷たさは伝わる掌を通してさらに助長させた。 彼女は残された道具を手に取ってみては細かに観察した。蓋を明けてみたり、ラベルを覗いたりした。飽きると、彼女はあの口紅を手に取った。不思議な指紋の感触が残っていた。滑らかな母の指先がそのままあるようなであった。 薄らと唇にあてた。微かに温かく、確かに冷たかった。鏡の顔がほうっと揺れた。鏡の娘があやしく笑う。染まった口元も陰気くさく弛んでいた。 娘はとたんに怖くなった。さした口紅の艶やかなかがやきは、娘の見知らぬ何かの色をしていた。母の秘密に不用意に飛び込んだ気がした。娘の知らぬ母の匂い。唇から立ち上る粘り着くような匂いが鼻腔にまとわりついた。それが不快で、不浄で、慌てて掌で拭った。拭った掌と唇から腐って行きはしないかと思われた。少なくとも汚れた気がしていた。 洗面台で顔と手を丹念に洗った。石鹸の匂いが口紅に代わって肌についた。鼻先から水滴が滴る。鏡の自分は別人のように年を取っているように思えた。 娘は口紅を握りしめ、窓から捨ててやろうかと思った。窓を開け放ち振りかぶった。しかし、結局口紅は鏡台に戻された。なぜなら、自分の嫉妬に気が付いたからである。
バカ宇宙人がまた変なものを拾ってきた。「ねえねえ、美知ぃ。これ、なんだとおもう?」「知らないし、知りたくもない。いいから捨ててきなさい。今すぐ」 どうせまた不発弾とかワープホールとかで、バカ宇宙人が弄くりまわした挙句に爆発したり亜空間に吸い込まれそうになったりするに違いない。五度あることは六度あるに決まっている。「美知……人類の進歩は失敗の数に比例していると考えたことはないのか!?」「黙れ、宇宙人」「がーんっ、差別だ。宇宙人差別、反対!」「差別が嫌なら家賃でも入れてみろ、居候バカ宇宙人」 喚きちらすバカ宇宙人をとりあえず蹴っ飛ばす。バカの手から丸いものが畳みに転げ落ちる――バカ宇宙人が湾岸産廃島から拾ってきたのだろうオーパーツだ。「まぁた、こんなゴミ拾ってきて……なにこれ、スイッチ?」 スイッチがあれば押してしまう。それは人間として仕方のないことだとおもう。だから、わたしは悪くないんです。あんなことになったのも全部、無銭飲食バカ宇宙人が悪いんです。ええ、もう。『――続報です。国会議事堂の上空に突如開いたワープホールは、依然として膨張をつづけ――』「……ねえ、ドロップアウト宇宙人」「その素敵なニックネーム、まさかボクのことじゃな――げふっ」 とりあえず殴った。そのままシャツの襟首を捻り上げて、安普請の黄ばんだ壁に叩きつける。「いい、落ちこぼれ街道まっしぐら宇宙人。あんたは何も拾ってきてないし、あたしも変なスイッチなんて押してない。っていうかスイッチってなに? あたし、なんにも知らない憶えてなぁい」「はっはっは。美知は物忘れがひどいな――ぐほっ」 ボディーブローは地獄の苦しみ。「いいね、わたしもあんたも、なにも知らない。変なスイッチ押した途端に『業務用亜空間式掃除機、起動しました』なんて音声案内のあとにワープホールが開いて議事堂を飲み込もうとしてるなんて、知らない――いいね!」「ゴミ掃除で国会議事堂を狙うなんて、シャレの効いたオーパー……ぁ、ぅ――」 顎をかすめるショートアッパーで脳味噌を揺らしてやると、ずるずる倒れこむ墜落系バカ宇宙人。「これで忘れられたかしら?」 にっこり微笑むわたしに、うつろな目で頷いたから許してやることにする。 ワープホールはそれからすぐに消えた。どうやら電池切れだったらしい。被害は……宇宙人排斥派で売ってる若手議員のズラひとつで済んだそうな。