友人の的場から電話を受けたのは早朝のことだった。「今、羽田だ。これから京子と南の島に行く」という連絡である。ふたりだけで?と僕は思わず聞き返した。すると、的場の声が急にくぐもった。「俺はお前のことを親友だと思ったことは一度もない。だから、きちんと言っておく。京子はお前が好きだ。お前はそんな京子を苦しめ続けてきた。気がつかなかったなんて言わせないぜ」 わかっている、と僕は砂鉄を噛むような思いで呟いた。が、今はどうしてやることもできない。「俺がお前に近づいたのは、京子を俺のものにする、ただそれだけのためだ。これは裏切りじゃない、もともとそういう目的だったからな。お前には悪いが、俺は目的のためには手段は選ばない。島へ連れ出せば、彼女は確実に俺のものになる」「彼女を幸せにしてやってくれ」 そういうと、突然、鼻孔の中に酸が溢れるような痛みが走った。感情の抑制ができず、涙が止まらなくなった。 的場を憎くないと言えば嘘になる。だが、電話を使ってくれたことには感謝すべきだろう。 初めて京子がこの下宿を訪ねてきたとき、玄関で綺麗に揃えた小さなパンプスを見た。一瞬それを両手で抱きしめたいと思った自分を、変な奴と憎悪したことがある。しかし、それは彼女を汚す感情ではなかった。京子の匂いを運ぶすべてのモノを、何もかも愛することができたのだ、と胸をはっていえる。 だが、今の僕ではだめだ。京子を不幸にするだけだ。「だから、頼む」と、懇願するのが精一杯だった。 ところが「約束はできん」という冷たい声が僕の耳を抉る。「京子を俺のものにした後はわからない。実際のところ俺の目的は、すでにお前を苦しめることで満足している。お前の存在は、今までそれだけこの俺をイラつかせてきたってことだ」 馬鹿な……と、僕は唸り声を上げた。「―京子は僕のものだ。やはり渡せん!」「遅いよ。あと三十分で二人を乗せた飛行機が出る。大切なものを失う苦しみに悶えるといい」「どの飛行機だ、教えろ」「○○行302便だよ。もう時間も飛行機も止めることはできない。自分の非力を一生後悔するんだな」 飛行機は飛ばなかった。僕はそのため、大変な代償を被った。「302便に爆弾を仕掛けた。情報を提供するので、パトカーで迎えに来てください」 目的のためには手段は選べない。 が、その代償を引き替えにしても有り余るものを取り返すことができた。そう僕は信じている。
先に断っておくが、これは実際に起こったことであり、私自身未だに断ち切れない思い出なのです。 ここではあえてこの事件に関わった者の名を明かすことなく話を進めていきたい。 ――そう、忘れもしない二年前の夏。 久しぶりに故郷へ帰ろうと思った。特別することもなかったし――。その夏は久々に山の青さが見たかった。仕事場に少々無理を言って一週間ほどの休暇をもらい、電車とバスを乗り継ぎ、家に着いたときにはすでに夕方になっていた。 荷物を片付けると、すぐに夕飯となった。家族との他愛のない話の中、それに気づいたのはとても偶然だった。 ――みんな、どうしちゃったんだよ。 会話が途絶えるたびに見せる悲痛なほどの微笑。何か、見ていてとても辛かった。テレビはうるさいからと消しておく習慣が、この時だけはとても恨めしかった。 ―――。 長い静寂が続く。耳が痛い。 みんな、そんな顔するなよ。どうして、そんな笑っていられるんだよ。そんな、魂を抜かれたようにただ音もなく、ニタニタと笑っていられるんだよ。 とても静かで。なにか、ひとりで夕食を取っているような感じがする。 みんな、目の前にいるのに。 「……そういえば、先日、殺人事件があったんだって?」 ぴくっ。 そこにいた誰もが反応を示した。私はそれを確認すると、話を続けた。 「びっくりしたよ。現場もここからそう遠くないって聞いたし。」 もうあんな沈黙の中ご飯を食べるのなんて嫌だった。何か、ほんの些細なことでかまわない。どんな内容だってかまわない。そう思って、話し始めたのに……。 「………。」 「それにしても、家が無事だったから安心したよ。」 「………。」 「そういや、犯人はまだ見つかっていないんだってね。」 どうがんばってもここが限界だった。誰ものらない話なんて、続けられるほうが困難なことはわかっていた。でも、もう沈黙のなかにいるのは絶えられなかった。 だから。……話を続けようとしたその時、その声の意味することを理解できなかった。 「あなた、どなた?」 呆けているのかとも思ったが、違った。 「何言ってんの?私よ。沙希よ。」 「………沙希なんて、いるはずないじゃないですか。」 その声には、悲しみと、怒りが混じっていた。 「うちの沙希は………先日殺されたのよ?!」 あの一言は今でも私を悩ませます。そんな事があってから、私は家に帰ることが出来なくなりました。
その日は小雨が降っていた。僕は一人、大学病院の精神科に向かった。待合室はどんよりした雰囲気で、例えまともな人間でも鬱になってしまうのではないかと思われた。その中で、一人、頭にバンダナを巻いたおしゃれな女性が目に付いた。18歳の僕は、何を思ったのか、その女性の隣に近づき、声をかけた。「ちょっと喋りませんか?」 標準語にまだ慣れていない僕は、関西弁混じりでそう切り出した。「いえ、結構です」 と、女性は手を横に振り、異様な人間を見る眼差しでそう答えた。 しばらく沈黙が続く。「こういうとこ初めてですか?」 自分も初めてのくせに、初対面の女性に失礼な質問をしたと今となっては思う。彼女は「いいえ」と答え、また僕から目を背けた。再びしばしの沈黙が続いた後、僕がまた余計なことを言った。「僕、初めてなんですよ」「そうなの?」 彼女は、少し緊張がほぐれたような声でそう言って、また黙ってしまった。「大学生の方ですか?」またしても、失礼なことを訊いてしまったが、その時の僕は何とも無邪気に質問していた。「ううん。君は大学生?」 女性が初めて僕に質問を投げかけた。僕は「はい」とだけ答え、また黙ってしまった。「なんでこんなとこにいるの?」 僕は、友達に裏切られた、と答えた。「私なんか、ここに入院してたことあるんだよ」「そうなんですか?」 意外だった。女性がそこそこ美人だったことが何より僕の精神科のイメージと合わなかったからだ。「入院って手術とかするんですか?」 女性は首を横に振った。「毎日、薬を飲むだけ」 僕は黙ってしまった。当時の僕には、精神安定剤を飲むことに多少の抵抗があったのである。「もう涙が止まらない時期もあった。彼氏に浮気されてね。ちょうど玄関入ったら、彼氏が他の女の人と寝てるんだよ」 恋愛経験のない僕には、いまいちピンと来なかった。彼女もそれを察したらしく、「二人でチューしてたんだよ」と言い直した。 頭の悪い僕は、その場で「チューしてもいいですか?」と尋ねた。女性は笑って、「それは駄目でしょ」と軽くあしらってくれた。「手だけ繋いでもいいですか?」という要求に彼女は応えてくれた。初めて女性の手を握った僕の手は汗ばんできた。不快な思いをさせていると察した僕は、「もういいですね」と、すぐに手を離した。「君、感じは悪くないよ。ちょっとオドオドしてるけど」 すでに、僕は、彼女に恋をしていた。
通勤電車ですし詰めにされている間は、一日でもっとも幸せなひとときだ。 全身が締め付けられるほどの圧迫感、真冬でも汗が止まらない蒸し暑さ、見知らぬ者同士が狭い空間で寡黙に過ごす気まずい雰囲気。僕だってそれらがいいと思っているわけではないが、些細なことでしかない。 僕は痴漢ではない。女性の体を撫で回したりスカートの中を覗き撮りしたりするような愚劣な行為は許せない。女性専用車両の導入には賛成している。 僕はゲイでもない。性の対象として同性を見たことはないし、そのような性癖は人それぞれと思うが僕には理解できない。 僕は人の匂いがたまらなく好きなのである。 女性から漂う化粧の匂いと混ざった甘酸っぱい香り、男子高校生から発せられる若くみずみずしい汗の匂い、中年男性から漏れる香ばしい加齢臭も素敵だ。性別にかかわらず体臭が豊かな人が傍に来たときなどは、思わず目を瞑って大きく息を吸い込んでしまう。 今日もそれらの香りを楽しもうとワクワクしていた。駅前でエナメル系のワンピースミニスカートを着た若い女性がにこやかに何かの試供品を配っている。受け取るときに彼女の匂いを嗅いでみた。なぜか何の匂いもしない娘だったのでがっかりだ。 ホームに滑り込んできた列車はいつものように満員だ。扉が開いたら乗客が漏れ出てくる。それを押しながら僕の体もねじ込む。無事乗り込んだら、まずは鼻腔を広げて湿った空気を吸い込んだ。 おかしい。なんの匂いもしない。 そんなはずはない。鼻先にはポマードべったり頭もあるし、厚化粧のオバサンだって隣にいる。それなのに、僕の嗅覚を刺激する香りが何もない。風邪でもひいたか? いや、朝からいたって元気だ。今朝嗅いだ自分の腋もバッチリだった。しかしこの車両は何も匂わない。 匂いがなければ満員電車はむさ苦しくて蒸し暑いだけの空間だ。そんなものは耐えられない。この車両はなにかおかしい。次の駅についたので僕は隣の車両へ移動することにした。そこは女性専用だったので蹴り出され、まごついている間に電車は行ってしまった。 がっくりときて自分の手を見たら、今朝受け取った試供品が握られていた。『通勤電車を快適に──超強力脱臭剤』 そういえばみんな、これを持っていた。こんなものの為に僕の楽しみは失われたのか。どうしよう、匂いのしない満員電車になんか乗れない。 僕はそれ以来、満員電車恐怖症になってしまった。
「どんなご用件でしょう? 私、政策秘書補代理の四谷と申します」「総理と話したかったんだけど、まあいいわ。こういうものだけどね」「はあ、フェミニスト協会、馬利武代さんですか」「早速だけど、交通信号、あれ、男尊女卑じゃないの?」「交通信号には男女も何もないかと思われますが」「あるじゃない、あの横断歩道に付いてる信号機よ。四角いヤツ」「ああ、歩行者用信号ですね」「あれに、男の絵が書いてあるでしょう。あれ、なんで男なのよ? おかしいじゃない。横断歩道を渡るのは男だけなワケ? だったら、女はどこを渡るの? それとも、男に手でも引かれてなきゃ、渡れないって事かしら?」「ははぁ、なるほどなるほど」「なるほどじゃないわよ、あんな男尊女卑表現を当たり前としておくことが、男女差別を助長して、会社は男で家庭は女だ、なんて事を平気で言い出すようになるのよ!」「しかしですね、ええと」「なによ」「この絵は……ですね、別に男ではありません」「何言ってんの、どう見たって男じゃない」「シルエットだけですから分かり難いかも知れませんが」「あんたごまかす気?」「いえいえ、そんな。まあ、まずは姿をよく見て下さい」「何度も見たわよ」「ご覧になれば分かりますが、この人物はスーツにソフト帽をかぶっているように見えますよね」「ええ。典型的なサラリーマンスタイルじゃない」「そうでしょうか?」「なに? 違うって言うの?」「はい、確かにスーツ姿はサラリーマンの制服ですが、帽子はどうでしょう? 昨今オフィス街をちらりとでもご覧になれば分かりますが、こんな帽子をかぶっているサラリーマンなんて、磯野波平ぐらいのものです」「波平だって男でしょう。それともあの人、実は女だっけ?」「いえ、波平は男ですが、ともかくスタイルは少数派でございましょう? つまりこのスーツにソフト帽というのはサラリーマンではない、と申し上げているのです」「サラリーマンじゃない? それじゃこれ何よ?」「このモデルは、宝塚歌劇団、つまりタカラジェンヌです」「……宝塚」「彼女らは、男役をするに当たり、実によくこのスタイルになります。無論、そうなれば逆差別とも考えられるのですが、生憎性別に中間はありませんので、最も間を取った形でタカラジェンヌの男役を採択したという――」「冗談言わないでよ、こんなに足の短いタカラジェンヌなんていないわよ!」「やば、ヅカファンだった」
最近、つがいの蝶を見てもイライラする。絡まってゆっくりふらふら跳ぶんじゃねえよ、と。 彼は股間のウインドウズから、銀色に光る水道の蛇口を出して、颯爽とキャンパスを歩いていた。あたしを含め、周囲の学生達の目が点になる。一瞬後、それはすぐに冷笑に変わった。 芸大にはそんなやつごろごろいる。わかっているけど、無視できなかった。 彼はあたしの周りで、すぐに話題に上った。純粋に面白がっているやつ、露骨に嫌がっているやつ、したり顔で知り合いでもないクセに彼の芸術パフォーマンスを解説してくれるやつなど反応は様様だったが、どうでもよかった。 たまたま同じ講義を取っていて、あたしは彼と毎週会うことになった。彼はメタリックな性器を誇示するでもなく、真剣に社会心理学の講義に聞き入っていた。どうしても彼が気になる自分が理不尽な仕打ちを受けているように思えてくる。 話してみると普通だった。彼は、したり顔で知り合いでもないクセに彼の芸術パフォーマンスを解説してくれたやつと同じようなことを語った。「これは視覚的なレイプなんだ。人は普段、無防備に無自覚に無批判に視覚を受け入れ過ぎている。過多な情報に思考停止している。僕はそれに警鐘鳴らすんだ」 わたしは見事に彼の策謀にはまったわけだ。余計なお世話だコノヤロウ、とあたしが凄むと、暴力は良くない、と言って彼は席を立った。 やられっぱなしでは悔しいので、あたしは彼を誘惑する作戦を練った。周りの友人は面白がって嗾けるやつと、ヒイてしまって止めようとするやつとに分かれた。前者はやはり男が多い。 あたしが彼にしつこく付きまとううちに、彼は段々、あたしから逃げるようになった。コソコソと学食の席を移動する彼を見つけては、隣の席に無理やり座る。彼はいつも一人でいる。 何度か話しているうちに、彼がどこか可愛そうに思えてきた。聞けば彼は今まで勉強ばかりしてきたと言う。進学校を中退して、一年浪人し、芸大に受かった。一つ年上なのか、とあどけない彼の横顔を見つめた。やはり望まない勉強はしすぎるべきじゃないと思った。 落とすのは、一ヶ月で十分だった。 彼が、目の前で蛇口を取って、股間を剥き出しにし、思いの丈を告白してきた。いきなりだったので、あたしは笑ってしまった。 興味ねえよ、と言う前に、いいよ、と口が勝手に言った。 あたしは翌日、髪を弁髪にした。へへ、びびってる。いいね。
天気予報は午後から雨。そんな日は絶対、傘なんて持って出ない。強くなる雨の匂いを嗅ぎながら、午前の授業は上の空。午後二時三分、祝福のシャワー。今日最後のチャイムを聞く昇降口で、空に向かって親指を立てる。 さあ行こうか。あたしは参考書で重い鞄をぎゅっと抱える。 世界は小糠雨の中。泥をはねないように注意して、はじめからトップスピードで駆ける。 学校を経由したバスが、ワイパーをきゅっと鳴らしながらあたしの脇を通過した。 バス通りを折れた石畳の坂道は雨に滑る。少し速度を落とし、慎重に昇る。転んでパンツまでびっしょりになった日は、さすがに回れ右して家に帰った。 坂の途中にはかわいい喫茶店。週替わりのフルーツタルトが美味しい小さなお店は、友達と来るのもいいのだけど。 腕の中で重くなってきた鞄を抱え直す。彼の前で波打ってると恥ずかしいから、なるべく本は濡らさない。 速度を上げて公園へ。小さな森の息吹に癒されながら速攻で西出口を抜けると、目の前に彼のマンションが見える。ラストスパート。タイル貼りの五階建ては、晴れた日は夕日にまぶしいバーミリオン。今日はしっとりクリーム色。 雨が降るといいことばかり。 あまり好きじゃないくせっ毛が、落ち着いたストレートになる。 濡れてしまった制服の変わりに、あなたがセーターを貸してくれる。 お風呂上りみたいにタオルを巻いてくつろぐわたしに、あなたが熱いコーヒーを淹れてくれる。濃い目に淹れたあなた好みのコーヒーは、背伸びするなよって、はじめからミルク入り。別に平気なんだけど、ちょっと甘えてそのまま貰う。 去年一度だけここの玄関で見た、落ち着いた女性。あなた、濡れないように傘差し掛けて寄り添って、タクシー呼んで見送った。あなたより背が高いんじゃない? 頬を伝うはずだった涙も、あの日の雨が隠してくれた。 背伸びはしない。したって叶わない。反則だよ、あの人。だからあたしは場外乱闘。 彼は雨に濡れたあたしを見た玄関で、タオルでがしがし頭を拭いてくれる。痛いくらいに力強く。あたしは彼の大きな手を外から包む。その温度で、あたしの小さな時がほっこり静止する。 これが楽しいんだよって彼は笑う。子どもの頃からずっとそう。けど、そろそろちょうどいい高さじゃない? 今日こそ抱きついてみようかな。 三階の三番目のドアの前。水も滴るあたしは今、精一杯胸を張ってチャイムを鳴らす。
ベンチは赤褐色で、私はマスクを放り投げた。横隔膜を巧みに操り、もみじの清純な香りを体内に収める。白の横縞が滑らかな飴玉を、愛らしい少女がほうばっておかっぱ頭に天使の輪が光る。少女は桃のリボンと桃のワンピース姿。私の背後には鉄棒があって、鉄棒に群がる少年たちは、私の存在に気付かない。「ねぇ、おじちゃん」 少女が上目遣いに私の顔を覗き込む。「早くしないと、鐘が鳴るよ」「ああ、そうだったね……」 かちかちかちかち…………。 目の前に浮かぶ巨大な時限装置が、機械的にリズムを刻む。 時間がないことは明白だった。でも、どうすればいいのだろう。向こうのコンクリートの土管を抱擁すればいいのか、古めかしいアヒルの蛇口をひねったまま逃げればいいのか。わからない、マスクはどこへ放ってしまったのだろうか、顔を晒したくない。 塞ぎこんでうずくまると、ベンチからジョーズのあの恐ろしいBGMが聞こえてきた。少女は新しい飴玉をほうばって、私の横に座る。「おじちゃん、手ぇつなごっ」「うん……」 少女の手を頼りなく握ると、見る見るうちにベンチがカラス色になって、少女が顔を歪めた。少女の掌は汗ばんでいる。「なんでこんな色になっちゃうの? あたしと手ぇつないでもだめなの?」「ダメみたいだね……」「じゃあ、こうするもん」 女は私の膝の上に頭を乗せ、艶やかな唇を微かに開いた。しっとりと鮮やかな色気が、辺り一面にたちこめて、女の指が繊細で美麗だと思った。よく見ると女の髪の毛は長かった。毛先は市松人形のように揃えられ、麗子像を思わせる。ささやかな寝息をたてる女の横顔に、私の心臓は激しく鼓動した。 そしてベンチは腐り始める。私の後ろでは半透明になった少年たちが連続逆上がりに夢中で、女はうっすらと慎ましやかに瞼をあげる。「ダメね、タイムリミットが来たわ。もうすぐホログラフは消えるの、残念ね。虚しい乾いた音だけが響くわ、本当に残念ね」 女は立ち上がり、私を一瞥して空に向かって歩き始めた。 遠く、遠く、遠く離れていく彼女の姿が再び愛しくなって、哀しくて。 遥か中空に微かに見える桃のリボン、桃のワンピース、おかっぱ頭の少女はまた一つ飴玉をほうばって、空の闇の中へ還っていく。鉄棒少年たちは完全な透明体になって、同時に時限装置から女が言った通りの鐘の音がひとつ、かーん、と鳴った。 ベンチは粉々に砕け散って、私はマスクをはめた。
会社からの帰り道、ビル街を駅に向かって歩いていると、いつもはひらけて女子医大の病院が見えるところが真っ暗なのであった。はて、こいつは妙だな、と思っているとなにやら夜景に覆いがされているようで、まじまじと見るとそれは長い長い玉袋なのであった。 私は下品なものが心底嫌いなのであっけにとられつつも、そこはかとない怒りが徐々に燃え上がり、ついにはこんな見苦しいものを野放しにしておく警視庁はいったいなにをやっておるのだ、と一通り癇癪玉を破裂させたのである。だがしかし、玉袋はその黒々とした毛を秋の夜風にそよがせながら、実に堂々としているのであった。昔アメリカにいたときにためしに見たポルノビデオの男優の玉袋はすべすべとしていたが、この玉袋はそれはもうぞろぞろと、まごうことなき日本の金玉であった。見事なまでの威厳に満ち溢れていた。 絶望感にも似た怒りでその場に立ち竦んでいると、一人の男がずかずかとやってきて私の隣に並ぶのだった。若干背骨が曲がっているのか、上のものを見上げるのにも難儀そうな顔つきをしている。濃い紫のツイードにあごの先だけ爆発したようなひげをたくわえている。「やあ」男の声は割れ鐘のようだ。「こいつは見事な金玉ですわい」 私がしかめ面で見ていると、おとこは不満そうな顔をこちらに向けるのだった。「なぁ」男は明らかにこちらに向けて喋っている。「立派だとは思わないかね」「ええまぁ」見知らぬ男とは極力係わり合いになりたくない。「だがしかし、けしからんですな、こんな街中で堂々と……」「けしからんなら、注意してやればいいじゃないか」「そんな、アタシは別に、いいんです」「いいってことはないだろう? 現に、よくないんだから」「いや、別にそういうことじゃなくて」「するとなにかね」男はいかにも不審げな目を私に向けるのだ。「失礼だが君は、電車で席に座っていて、眼の前で立っている人のチャックが開いていて、あまつさえムーミン柄のパンツが見えていたとしても、教えてやらんのかね」「ええ、私だったら、云わないように思います」「じゃあ、しょうがない」男は金玉に向きなおった。「私は、云うとも……おおい、屋上にいる方。金玉が垂れていますよぉー」 すると即座に「あ、すみませぇぇん」と返事があり、実にスムーズに金玉は秋の夜空に戻っていったのである。 邪魔するもののなくなった天空には、晩秋の満月がかかっていた。
豆しるの中にスプーンが沈んで動かない。水死体のような静かなたたずまい。僕は別のスプーンで、一つずつ白い花福豆を掬って口に入れる。スローモーションで背中から落ちていく美しい少年。確実な死に向かっているのに、落ちていく少年は微笑んでたりする。映画にありそうな、そんなシーン。スプーンは、そうやってこの深さ3センチの汁の中に落ちてきたのかも。などと思いながら、また、花福豆を一つ口に入れる。僕が豆を食べるたびに、スプーンの沈んでいる汁は浅くなる。つまり、豆を食べることが、即ちスプーンを豆しるから救い出すことになる。イソップか何かの話で、カラスが瓶の中の少ない水を飲むのに使った手の逆だ。皿を傾けたり、ひっくり返したりは、なしだ。もちろん、いきなり指を突っ込んでスプーンを引き上げるのは論外。理由? 理由なんて要るか!などと思いながら、また黙って豆を口に運ぶ。数分後、とうとうスプーンが水面から出た。「遅い……」スプーンが言う。「て言うか、遅すぎ」僕はスプーンを見る。ただのスプーンだ。ただのスプーンが僕に不満を漏らす。「溺れ死ぬかと思たで。マジに」しかも関西弁。無機物を相手に喋るのもどうかと思ったので、聞こえなかったことにした。が、ちょっと怖かったので洗うときは端っこをつまんだ。テーブルに置いて、しばらく眺める。スプーンは黙ったままだ。こうして見ているとただのアルミ合金。それ以外の何ものでもない。「僕が救ってやらなければ、君はもう二度と掬うことは出来なかった」と、独り言のフリをして言ってみる。スプーンの反応はない。ほっと一安心。と思ったら、スプーンの奴、やはり我慢できなかったのだろう。「今のダジャレな、凍死するかと思たで」僕は覚悟を決めて訊いてみる。「君みたいに喋るスプーンは他にもいるのか?」スプーンが、へっと鼻で笑う。「今度いっぺんゴミ捨て場に行ってみいな。宴会並みのエラい騒ぎや」「本当に?」「そや。みんな、自分を捨てた元持ち主のこと、わーわー、ボロクソ言うとるわ」ついでなのでもう一つ訊いてみる。「君達が死ぬってどういうこと?」「使いもんにならんようになったときかなあ」アルミ製のスプーンが使い物にならなくなるなんて滅多にない。「そや。そやから、わしらは半永久的に死なん」「さっき溺れ死ぬとか言ってたよね?」スプーンが変な声でヒャッヒャと笑う。「シャレやんけ」なんか腹の立つスプーンだ。
※作者付記: ハリウッドでよくあるリメイクです。オリジナルの作者ユキコモモさんの承諾済み。
奇声を上げて子供達が駆けて行ってしまうと、白熊公園は急に静かになり、日曜日の午後のベンチはやっと、読書に適した環境になった。私は続きを読み始めた。 週五日を単純事務作業に捧げている為、文学的素養に基づく欲求を満たすには、休日の読書が欠かせない。そんな乙女の読書は、翻訳詩集なのだった。 暫らく活字を追っていると、ふと、頁の先の砂場に見慣れない物体が投棄されていることに気付いた。子供たちの忘れ物だろうか。何か気になったので、読書を中断し、近づいて見ると、それは黒いシルクハットだった。仕掛けとしては、読んでいる詩に類似していた。 曰く『汝、大平原にうち捨てられし暗黒の帽子を空高く投げんか放らんか』 そこで、本の記述通りに放り投げるべく、シルクハットを拾い上げた。「っと、お嬢さん、驚かさないで下さいよ」 突然現れて、私を死ぬほど驚かせた頭頂部が言った。ギリギリ砂から出ている両眼が上目遣いに私を捕らえていた。何か大声で叫びたい衝動に駆られたが、現実の異常さに飲み込まれ、タイミングを逸してしまった。「帽子を元に戻して下さい」 私は、詩集と帽子を持って、口を開けたまま動けなかった。「興味本位なのでしょうが、正直困ります」 砂の中の口でどうやって喋っているのだろう。「私はお嬢さんの心に直接的伝達を行っているんです。テレパシーですね。読心術も心得ております」 心を読んで心に語る……。不思議な仕掛けだ。きっと……「いいえ、呪いの人形でもなければ、開発中のロボットでも、学園祭の行事でも、地方自治体の文化事業でもありません」 すると、て、手品師、ぺ、ペテン師。「お嬢さん、ずい分混乱されているようですね。私は才能です」 才能。「才能は埋もれるべき運命にあるのです」 自惚れ屋のペテン師か。「違いますが、もうよろしい。元に戻して下さい」「帽子をです」「前後を間違えないように、お願いします」「自分で直せませんから」 特に納得した訳ではないが、疑問を抱くと際限なく反論されそうなので、仕方なく文句の多い自己満足型マジシャンに元通り帽子を被せた。 しかし、きびすを返すと見せかけて、次の瞬間、被せた帽子を右足でペシャンコに潰した。 曰く『大切なもの、元に戻ろうとするシキタリを全て粉々に破壊せよ』 断末魔の叫びは聞こえず、潰れたシルクハットが転がった。頭頂部は消滅していた。 才能は完全に埋もれてしまった。