白々と空が明るみを帯びてきた。月は青白く西空に溶け込もうとしている。 私は歩き疲れて道端に座り込む。この街でも一緒だろうか。 『優しさが無い』そう言われ、居場所を無くしては街を移り歩く。何度こんな朝を迎えただろうか。 自販機が耀いていた。私は何か暖かいモノが欲しかった。そこには『優しい珈琲』と書かれた淡い絵柄の缶が横一列に並んでいる。これを飲めば優しくなれるとでも言うのだろうか。スカートのポケットには少しの小銭と父から貰った札束が縫い付けられている。私はその厚みを鬱陶しく手で除けながら小銭を取り出した。何を選ぶ事もなく、横一列に並んだ『優しい珈琲』を押す。味わいも何も無いタダの缶珈琲。こんなモノで優しくなれるのなら今頃私は……もうこの街で終わりにしよう。この街で死なせてもらおう。それでいい。 信号が赤から青に変わる。運命もそう簡単に変われば良いのに。 私は信号を渡ると古ぼけた薬屋の前で座る。優しいはずの珈琲はもう既に冷たい。 シャッターが開き地面を擦るように誰かが出てくる。老耄れた足音だ。 「おい、店の前で死んでは困る、あっちへ行け」 よく行倒れになる者がいるのだろう。口慣れた言い回し。私は死ぬのだとその時に感じた。ただ優しさを掴んでから死にたい。今の望みはそれだけ。「お爺さん、ここに優しさの強い薬は無い?」「優しさの強い薬?」「ふふ。あんたの困る顔が見たかっただけよ。でも子供の頃に父からそんな薬があるって聞いたの。もう随分と昔にね」 老耄れはボソボソと何かを言いながら奥へと消えて行った。少しすると店内に明りが灯り奥へ来るようにと老耄れが呼ぶ。冷い店内、消毒の匂い。なぜか溜息が漏れた。「あんたが査がしておるのはこれかもな」 老耄れが持っているのは紅い小瓶だった。何か異様なほど紅い光を放っている。「これは情薬と言う薬じゃ。飲めばあんたの望むモノが手に入るかも知れん。悪いがあんたには、優しさ、悲しさ、温もり、怒り、感謝、それらがワシには感じられん。無情の影のみじゃ」 そう言って老耄れが手渡した紅い小瓶には『情薬』と書いてある。そして老耄れが私に紅いドレスを差出すと、代りにスカートを脱いで行けと言い奥へと戻った。 隣の空地でその薬を飲んでみた。朝陽は既に木々の影を地面に落している。苦かった。 どうやら私は生きていてもいいらしい。お爺さんにお礼を言いたい気持ちが生まれた。
俺と、俺のゴムボート。俺のオール。太陽と、海。それしかいない、俺の世界。 このまま、死んじまうんだろうか。流されて、誰知らぬ水の上で、独りで。焼け付いて、渇いて、独りで。じりじりと、じりじりと、太陽が鳴るようだ。ボートをなでる水音以外は、一切が陽光の中に溶けてしまった。波に揺れる、俺の体。小さな俺の、ゴムボート。オールを握る。水の手応え。どこに向かって? 太陽。俺を弄ぶ。太陽。夏が好きだ。俺は、夏の中で、死ねるんだろうか。 太陽神は、何処に行っても男だが、俺にとっちゃ夏の太陽は、いい女みたいな存在だ。こうして一対一でいると、よく分る。じりじりと、俺を焼く。彼女は笑って俺を焼き、俺が手を伸ばすと、届かない。高笑いが聞こえるようだ。俺は腹の底から彼女を物にしたいと望む。彼女は指先で俺と戯れる。 彼女が疎いと、彼女が憎いと、雲を投げつけて帰れと怒鳴ると、俺の前から姿を消すこともあるだろう。そのくせしばらく顔を見ないと、俺はたまらなく彼女が欲しくなる。 裸になれば汗すら心地良い。俺は汗だくになって彼女を求め、彼女は俺に汗をかかせる。照りつける。俺の肌を焼く。俺の血をたぎらせる。俺の体温を高める。俺をへとへとにさせる。お前は笑う。眩しすぎて目が開けられない。お前の温度を感じる。お前の熱の高まりを。 あああ。太陽。俺はお前が欲しい。俺はお前の物だ。俺を焼いてくれ。俺を受け取ってくれ。お前を俺の物にすることなど、できはしない。お前は空の真中で、そんな小さななりをして、そのくせここらの星の中じゃ一番でかいんだから。そんなお前が好きだ。俺を焼いてくれ。お前の物にしちまってくれ。お前と一緒になりたいんだ。俺をお前の中に入れさせてくれ。気持ちよく、なれるぜ。苦しいのはちょっとだけだ。苦しむのは俺だけだ。お前は、俺を、焼いてくれればいい。 地面の事なんか、お前は気にしないでいい。ここもあそこも、たいした違いはない。何も見えず、誰にも頼れず、何処へもたどり着かず、独り、流離う。たいした違いはない。ただ、人間共が俺達の間を邪魔するか、しないか、それだけの違い。もう、やつらには、うんざりなんだ。 意識が遠くなるようだ。直射光、飲む水はなし。こいつはいい。たいして苦しまずに、お前の所に行けそうだ。太陽。お前は、俺を、焼いてくれればいい。 あれは、陸地? 太陽、今のは嘘だ。俺は漕がなきゃならない。
※作者付記: 夏だ! 暑いぞ!
「走っているレールは交わらないのかな」 僕は靴に踵がうまく入らず、しゃがんだまま言った。 子供服の飾ってあるショーウィンドウを見ていた彼女の細い身体は、少し強ばったように震えた。目の高さに彼女の左手が揺れている。手はゆっくりと握られ、銀色が反射する。「たとえば、たとえば、2人で喫茶店に入ってね。あたしが砂糖は? って聞いたら、あなたは、趣味なものですから、なんて答えないでしょ?」 僕は立ち上がって言った。「うん。答えないね」 彼女はショーウィンドウから目を離して僕を見上げる。「それに」「それにミュージカルやメルヘンは嫌いでしょ?」「そうだね。あんまり興味ないな」 僕がそう答えると彼女は「ほらね」と微笑みを見せ、それからくるりと振り返って歩き出した。「やっぱりダメなんだね」 後ろに縛った彼女の髪が左右に揺れる。「じゃ、君があんなふうに言ったのも、からかってただけなんだ?」「だから、だからあれはごめんさい、って謝ったじゃない」 彼女は振り返って眉をひそめた。「俺、帰るよ。ここで」 僕は消えない眉間のしわを見てつぶやき、彼女に背を向けて歩き出した。さっき彼女が見ていたショーウィンドウを通り過ぎる。派手なフリルのついた子供服を一瞥し、僕は視線を背中に感じながらも振り返らずに歩き続けた。 強い日差しが照りつける中、僕はシャベルを持って剥がされたアスファルトをトラックの荷台に放り込んでいた。手を休めて空を見上げると、汗が目に沁みる。その汗さえ、すぐに蒸発しそうな真夏の午後だ。 蝉の声と排煙をあげる車の騒音の隙間から、着信音らしきメロディがかすかに聞こえた。僕は湿った軍手を取ると、携帯電話を取り出し画面を見る。確かに音は鳴っていたようだ。しかし、それは5分前のことだった。電話の着信記録の後に1通のメールも入っていた。──さっきね、あたしの携帯が鳴ったように思ったの。でも違ったみたい。さっき電話したんだけど、気づかなかった?── 膨張した熱風が頬に吹き付ける。僕は彼女にメールを返信した。──走っているレールはやっぱり交わらないね。たぶん、これからも── 僕は送信後、携帯電話の電源を切った。その瞬間、話し始めの言葉を繰り返す彼女の癖のある声を思い返した。しかし、その声は唸りをあげるトラックのエンジン音にかき消された。僕はまた濡れた軍手に手を突っ込むと、力いっぱいシャベルを握りしめた。
彼女が好きだ。右端が歪むくちびるが好きだ。うっすら浮いた血管が好きだ。陽光を跳ね返す額が好きだ。襟元で自然に巻いた髪の毛が好きだ。数本に分かれた枝毛が好きだ。出来ているのか出来ていないのかわからない微妙なえくぼが好きだ。膨らんだ手のひらが好きだ。フォークダンスで繋いだ手が好きだ。知恵遅れの子に触れるその手が好きだ。残酷な手が好きだ。僕に触れない手が好きだ。うなじの産毛が跳ねている。かすかに見える頭皮が好きだ。丸坊主にすれば、綺麗だろう。うっすら見える血管が好きだ。あまり細くない足が好きだ。膝まである黒いソックスが好きだ。裸足が好きだ。頬紅色の裏が好きだ。土に汚れた感じが好きだ。太ももが好きだ。震える大腿筋が好きだ。走る姿が好きだ。なびく髪が汗でバサバサになった時が好きだ。目が好きだ。男を見るときの目が好きだ。揺れる視線が好きだ。声が好きだ。かすんだ声、耳障りの悪い声が好きだ。胸が好きだ。ハト胸が好きだ。ななめになった感じが好きだ。腰が好きだ。自転車に乗ったときの後ろから見たときが好きだ。匂いが好きだ。甘いというよりも牛乳のような、髪から香るシャンプーと首元につけたコロンが、混ざって香る体臭が好きだ。恥ずかしくて身悶えするような感じが好きだ。体温が好きだ。冷たくて、軽く触れる気持ちが好きだ。誰に対してもわけへだてなく、興味のない態度が好きだ。大人びた言葉をいう所が好きだ。自分が正しいと完全には信じられない自信のなさが好きだ。最初から勝っているのに、反論する口が好きだ。上に下に右に必死に歪む姿が好きだ。 全体的に、好きだ。 駅のホームで友達とわかれて手持ち無沙汰になった姿が好きだ。 僕に気づいて愛想笑いして気まずそうにする横顔が好きだ。 頼りなく揺れる目が好きだ。 決して僕を好きにならない目が嫌いだ。 借りていたCDを今日返そう。 ジャズはとうとう好きになれなかった。 くらえ! コンクリートに投げつけた。思ったよりしょぼい音。 かがんだ僕の頬に、即座に飛んできた膝こぞうの衝撃。 真赤になった世界をはじめて見た。 否定に震える彼女をはじめて見た。 信じられないという具合に醜く刻まれた眉間のしわをはじめて見た。 僕を真っ直ぐ見る目をはじめて見た。 生の感情をはじめて見た。 好きだ。 彼女を好きな自分が好きだ。 CDを買いなおして、彼女に郵送で送った。 やっぱり送り返された。
それでも日は暮れてゆく。 悲しい事件に巻き込まれた被害者にも、 汗にまみれ、黙り込んで働く労働者にも、 犯罪に手を染めてしまった容疑者にすら、 平等に夕暮れは訪れる。 自然が織り成す、その橙色の光は、謂わば、空気中をすり抜けてきた長波長の電磁波。しかし、それは時に我々を包み込み、時に心を惹きつけ、時に優しく癒してくれる。 旅立ちの日、私を見送る者は既に誰もいない。生まれ育った街、神戸に背を向け、ここで出会い、別れた人達の顔を思い出してみる。 両親、上司、仲間、恩人。 誰一人欠けても、この日は訪れなかったし、誰一人に対しても、素直に「ありがとう」を伝えられた人は人はいない。「もう二度と会えない」と暗黙のボーダーラインを自ら引いていたのかも知れない。 ひたすら北東を目指す空港バスの中で、ふるさとの最後の余韻に浸りながら、そんなことを考える。ふと視線を上げると、窓に差す西日が綺麗だ。西日に反射して、無表情の自分の顔が窓に映る。 「まずは日本一になる」。桃太郎でもあるまいし。そうやって意気がっていた自分が今となっては、恥ずかしくもあり、懐かしくもある。法がある限り、この国は秩序に満ちているが、犯罪が減ることも、恐らくないだろう。しかし、少なくとも一人の人を、欲を言えば、もっと多くの人を幸せにすることができるだろうか。恥も外聞もなく、そう思う。もちろん、幸福観は人によって違う。人は何によって、幸せを得るか。昔、どこかの哲学者が必死で考えて書き下ろした本も出版されている。科学的見地から言えば、脳内のエンドルフィンなるものが分泌されれば、人は快楽を得るとある。そのなんとかいう見えない物質を出すために、ひと頑張りしようじゃないか。私もそのエンドルフィンを出そうじゃないか。日本全土にエンドルフィンを送ろうじゃないか。「将来を見据え、過去を汚さない」。小泉流の考え方だが、言ってる事は悪くない。 もっとも、理想論ではあるが。 「強く生きろ」の父の声。 「二度と帰るな」の母の声。 「社会はそんなに甘くない」。これはいつの上司の頃だったか。 「お前だけには負けたくない」と仲間の声。 そして、「無理はするな」の恩人の声。 「俺を信じてくれ、史上最強のコンビにしたるから」と相棒の声。 花の都に向かう私にいつも見ているはずの夕映えが少しだけ目に染みる。 「泣くな!」 小さい頃の親父の怒号である。
「狼が出たぞ!」 羊の番をしていた少年は叫びます。 しかし、何度も騙されてきた村人たちは、それを信じようとはしませんでした。 狼は柵を跳び越え、中の羊の半分と、少年を殺してしまいました。「なんてことだ!」 村長が、羊の骨を拾い上げます。「一体、どうすれば、子供に見張りを上手くやらせられるだろう?」「嘘を言ったら、縛り首にしてやりやしょう」 一人の村人が言いました。「それがいい」「そうしよう」 村人達は口々に賛成しました。 次の少年が、羊の番になりました。「あーあ、退屈だなぁ」 でも、縛り首が怖いので、退屈しのぎに嘘を言ったりはしませんでした。 そんなある日。 少年は、走ってくる獣を見つけました。「うわっ、狼……いや、旅人かも知れない」 嘘を言えば縛り首です。 獣は四本足で走っています。「やっぱり狼?」 でも、嘘を言ってしまったら、縛り首です。「いやいや、もっと近付かないと分からないぞ」 獣の顔がはっきり見えるまで近付きました。「やっぱり、おお――」 叫ぼうとした時には、少年の喉は食い破られていました。「何という事だ!」 骨ばかりになった羊囲いの前で、村長たちは呆然と跪きます。「嘘を許してもだめ、禁じてもだめ。一体どうすれば良いのだ?」「ふぁああ、それじゃあ」 離れた場所で寝転がっていた、怠け者のファローが半分顔を起こしました。「オレに任せちゃくれませんか?」 遠くから、羊囲いを狙って狼が走って来ました。「来るな来るな!」 見張りの少年は狼に石を投げます。 狼はちょっと怯みましたが、石をかわして近付きます。「おおいっ、狼だ! そっちの羊を小屋に戻してくれ!」 何人か、少年の言葉を信じた大人が出て来ます。 少年は怒鳴りながら、石を投げます。 それでも狼は止まらず、羊囲いを跳び越えると――。「それっ、逃げろ逃げろ!」 少年は羊囲いの門を開け、小屋に入り切れない羊をどんどん逃がしました。 狼は逃げた羊を追いかけますが、囲いの外の羊はあっちへ逃げこっちへ逃げ、狼はようやく病気の羊を一頭殺せただけでした。「むむ、狼が来たのに被害がたったこれだけとは」 村長は驚いた顔で、ファローを見ます。「よくあれだけの事を、子供に教え込めたな?」「いやぁ、面倒なんでね」 ファローはあくびを一つして、寝転がりました。「『お前の役目は、狼を見つける事じゃあなくて、羊を守る事だ』と言っただけでさぁ」
来る、来ない。来る、来ない。花びらをちぎって占うように、ママがくれたチョコレートの数を数える。来る、来ない。来る。来ない。あれ、もう少し柿の種に隠れていたんじゃないの。ああ、もうおしまいか。 カウンター7席の小さなバー。ママは笑顔がとてもすてきで、マミはひそかにここをsmiling barと呼んでいる。どんなに落ち込んでいても、このお店の雰囲気とママのおかげで帰り道には微笑むことができるのだ。 が、今夜のマミは重症。終いには潰れてしまうリスクを忘れているわけでもないのに、ウィスキーのロックばかりを流し込んでいる。幾度となく、見兼ねてママは彼女に声をかけていたが、一向に気付く様子がない。仕方なく、グラスを取り上げる。「何すんのよ、ちょっと返して」「返してじゃないわよ、マミちゃん。今夜は飲みすぎよ。おつまみだって、ちっとも減っていないじゃない」「ほっといてよ。ねえ、お願い。ママ、お酒返して」「この一杯でストップするって約束できるなら、返してあげるわ」 マミは、ふてくされた顔をした。しかし、いつも大層お世話になっているママに、これ以上口答えしてはいけないと感じた。「わかった」 マミが人待ち占いをしていたのを知っていたママは、彼女の器に、そっとチョコレートを三つ足した。そして、グラスを戻した。「ありがとう、ママ。あ、チョコレート入れてくれたんだ」 ママは、入り口付近でひとりで飲んでいる紳士のお相手に向かった。マミが辛抱と信じる気持ちと、打たれ強くなる力を持つようにと願う。いつもなら、微笑みながらやさしくことばをかけているのだけれど、今夜のマミにはひとりで考え込むこと、ひとりで気付くことが必要。 来る、来ない。あ、来る! マミは笑った。あいつが、あいつがくれた約束の通り、ここへやってくるんだ。きっと。そうだ、きっと。必ず。 化粧室へ駆け込み、頬をパンパン刺激する。酔いどれの表情なんてみせられない。ここはsmiling bar。マミは今まで、ママと楽しい話に花を咲かせていたのであって、決してひとりうつうつと飲んでいたわけではない。 カランコロン。カラン、カランコロン。 扉を開けたのはだれ? 扉を開けたのは? マミは駆け寄る。あいつだ。あいつは約束通り、ここへやってきた。ずっと、信じていたの。奥の席から扉まで飛び出していって、嬉しさのあまり、マミは抱きついた。そうしたら、するりすり抜けてしまった。
彼氏が部屋のインターフォンを行平鍋で叩きつけ破壊した。私が宅急便屋と親しげに会話していたからという理由だった。彼氏は怒りで顔が紅潮していた。私は親しげにした積もりはなかった。チャイを煮ている最中の鍋だった。私は彼氏との関係を終わらせた。 夜の繁華街で酔っていたら会社の男と偶然に会った。四〇で既婚者だったが、顔も性格も良いのは知っていた。私は撓垂れた。囁いた。「私まだ二六です」 私と男はタクシーでホテルに行った。部屋の中心に偽物のモーターボートがあり、その中にベッドがあり、壁一面には青空と海原と白いカモメが描かれていた。私たちは性行為をした。 私は性行為の後の開放的な気分が好きだった。日常ではできない話ができた。普段なら上司である男の腹を、皮膚の奥に指が沈みこんでしまうような触り心地のやわらかなたるんだ肉を摘みあげ、だらしないと罵ることさえできた。性行為抜きでここまで他人と親密になる方法を知らなかった。 男が言った。「子どもと付き合うからだ」「大人の回答ですね」 私が迂遠に謗っても男は怒らなかった。私は性行為以外に他人と打ち解ける方法を知らないのだと男に伝えた。それはどうしてだろうと訊ねた。男はあなたの他人に対する警戒心が強いからだと答えた。私は会社での私の様子を知っている人間と関係を持ったことを嬉しく思った。上司は私をよく知っていた。 男は指の腹で私の眉を撫でた。煙草を吸った後の男の指は臭かった。部屋はフットライトだけで暗かった。私たちはベッドの中で、また絡み合うようにして抱き合った。男が言った。「親近感の正体は記憶だよ。見なれた顔や聞きなれた声、誰かが自分にしてくれたこと、自分が誰かにしてあげたこと、そうした記憶が親しみを感じさせる」 私は男の腕に包まれながら、静かに聞いていた。「過去の記憶と現在の出来事が結びつく。ケミストリが起きる。それが親近感を生む」「ケミストリ?」「化学変化」 私たちは眠らなかった。夜明け前に別々にタクシーを呼んだ。 私は血がたぎっていた。明日も明後日も煙草臭い男の指を会社で眺められるのだと想像すると、気分がはしゃいだ。タクシーに乗りこもうとする男の腕を掴み、引き寄せて頬に口づけした。 私はこれから会社でどう振る舞ったらよいかと男に訊ねた。男は今夜のことがなかったように振る舞えばよいと答えた。「するとケミストリは起きませんね」「起きない」
今年もやっぱり雨だった。川の水は茶色く濁り、轟々と渦を巻いている。直衣姿の星神が白鳥の背中でまた溜息をつく。「結局僕たちって、人間の勝手なイメージで遠距離恋愛にされてるだけなんだよ」 スペクタクル映画の影響か、はたまた不況のストレスか。人間の想像の産物であるこの天の川、水かさは年々増える一方だ。「恋愛イベントはクリスマスとバレンタインがあるし、もうやめていいと思うんだけどな」 雨は益々ひどくなる。牽牛はぶつぶつと愚痴り続け、決死の白鳥は黙々と濁流を掻いている。「それに織姫もどうかって思うのよ。昔は自分から来てくれたのに。最近特に下界の影響モロって感じ。怪しげなネットサークルにコロんじゃってさ。なーんかウツっぽくて、こっちも一緒に落ちちゃう感じなんだよねえ」 はああああ、と牽牛は長い溜息。白鳥は激流をようやく渡りきり、じゃあ帰りにまた、と言い捨てて、そそくさと飛び立つ。「来たのね」 対岸で織姫が待っていた。よれよれの単衣に、櫛も入れないぼさぼさ髪で。「…やあ、元気だったかい」「こう雨だと出るのが億劫で。今日止めようってメールしたのに」「ごめん、最近メール見てなくて」「じゃあ。顔も見たしこのへんで」「あー待って。幾らなんでも…」 もさもさと帰ろうとする織姫の肩を牽牛が掴んで引き止めた。勢い余って織姫は半回転。そのままよろけて、ざぱんと川に滑り落ちた。「えー、落ちちゃった…まさかこれがオチ?」 織姫はどんどん流される。そしてまだ字数がある。夫婦の道徳として、見殺しはやっぱりまずかろう、と鼻をつまんで牽牛は足からざぱんと入水する。水を吸って重い袂をびたんびたんと水面に打ちつけ、がぼがぼと泥水を飲みながら渾身のクロール。ようやく織姫をその腕に抱きとめた。「まあ、助けてくれるのね」「うーん、助けてあげられるかどうか」「ごめんなさい、あなた。今、思い出していたの。昔は楽しかったわね」「うわー走馬灯だよ。もうだめかも」「そんなこと言わないで。あたしたち、離れていても心は繋がっていたの。これからもどこまでも一緒よ」「そうだね。やっぱり君は最高だ。僕たち人間の悲哀に負けてちゃだめなんだね」「嬉しい。ところで、このまま行くとどうなるのかしら」 濁流は突然に瀧となる。円盤状の神話世界のその果てで、二人はしっかりと抱き合いながら、人間の想像を超えたどこでもない空間に、どこまでも落ちてゆく。
俺は兵隊。ここは戦場。今、戦争をしている。けど、もうすぐ終わる。俺たちが負ける。敵は、兵器がハンパじゃなかった。味方は大抵やられた。そこらに転がる死体は、みんな俺と同じ軍服を着てる。俺は、ビルの残骸の陰で一人、息を殺し耳を澄ます。敵の戦車がギャラギャラ、ゾロゾロ、瓦礫の中を進んでくる。頭のセンサーをグルグル動かして、俺を探してる。さっきの中隊長みたいに、俺もバラバラに吹っ飛ばすつもりだ。降伏しようか?いやあ……。敵にとって俺たちは人間じゃない。ただの破壊目標だ。一人当たり、弾丸二百発は撃ち込まないと気が済まない(ピー)だ。腹が減った。弾もない。あれこれ考えるのもヤんなった。一気に飛び出して、ひと思いに死んだ方がすっきりする。もう、いい。俺は銃を構え、息を大きく吸い込んだ。すまねえ、母ちゃん!一気に飛び出す。と思ったらなんかを踏んづけて、ぶっ倒れた。ぶっ倒れた地面で俺はそれを見つけた。マイクだ。手榴弾に似てるけど、マイクロフォンだ。長いコードがどこかにのびてる。敵が俺に気付いて、戦車が前進を止めた。次々とこちらに向き直る。砲身をキリキリ言わせて、俺に狙いをつける。俺はどうする?なぜかマイクを手に取る。そして?なぜかスイッチを入れる。ポンっとエコーの効いた音が戦場の空に響いた。と思ったら、いきなり目玉に響くエレキギターの嘶き。そいつが戦場を駆けめぐり、敵兵たちの銃を次々叩き落とす。敵兵の一人が何か叫び、あらぬ方を指差す。銃を拾い上げ、一斉にそちらに向かって銃撃を開始する敵兵ども。見ると、ビルの残骸の上に真っ白い肌をした半裸のギタリストが立っていた。青いギターを激しくまさぐって、稲妻のような音を響かせ続けている。銃弾はことごとく、そのギターサウンドに弾き返されていた。そう、見えた。何だ、ありゃ?と思う間もなく、今度は地響きのようなドラムとベース。戦車が何台かまとめてグシャっと潰れる。潰れなかった戦車も、地響きに合わせてポップコーンみたいに跳ね回る。敵は大混乱だ。もう俺のことなんか忘れてる。何だかわからんけど、いい気味だ。一人でへらへら笑っていたら、背後に気配を感じた。俺はゆっくり振り返る。黒いレザーで全身を包んだ背の高いベーシスト。赤い目玉で俺を見下ろし、静かに頷く。そうか。俺は頷き返し、ゆらりと立ち上がる。もう銃は要らない。代わりにマイクを握りしめる。一発キメてやるぜ!
「まったくねえ、まったくぜんぜん燃えんのだよ」 そう言って博士はどぼどぼと本に油をかけていく。「さっきからこやってねえ、がんがんねえ、こうやってがんがんにやっているのだがねえ、まあまったくねえ、燃えんのだよ」「はあ」 煙が凄まじい。煙に目を瞑る。 通りの向こう側では借金取りが家を破壊していた。どかんどかんと凄まじい音があたりに響いている。コンクリートが回りにばらばらと飛び散っている。「君は寒くないのかい、ねえ、どうなんだい」 氷の上には猫ちゃんが座っていた。プリティーきわまりない黄色い瞳の、ロシアンブルーの猫ちゃんである。「君は寒くないのかい。僕は寒いのだけれどねえ。コートも何も無いしねえ。全く持ってこの街の寒さは堪えるよ」「にゃあ」「かなり、寒いのだがねえ。寒くないのかい。猫ちゃん、寒くないのかい」「にゃあ、にゃあ」 タキシードの襟をかき抱き、わたしは舞台へと出かける。「あなたは、なんてむすめなの」 舞台には微かにピアノの音が響いている。 あの娘は白い服を着て、長い黒髪をひっつめにしてピアノを弾いていた。「あなたは、なんて。なんていう、なんていうメロディ」 ぽつん。ぽつん。鈍い響きが途切れ途切れに響いている。 娘は女優では無くピアニストであった。ピアニストではあったが数年前、怪我をしてピアノが弾けなくなった。事故と発表されたが違った。自分で自分の手をずたずたに引き裂いたのだった。わたしは知っている。娘は、自分の手で自分の手をずたずたにしたのだ。(もっとうまく弾きたい。もっと。もっと。もっと)「あなたはなんていう、ああ、なんていう」 この舞台に娘を出すべきだったのかどうか、良く解らなかった。ともかくわたしは席を立った。客席からはピアニスト役の娘へ万雷の拍手。舞台の上の娘へ万雷の拍手。 会場を出る。わたしはめくらめっぽうに歩き回る。街を歩き回る。「だんな、ねえ、これ、どうだい。これ、綺麗、だろう」 わたしは花売りの男に捕まった。「これ、買いなよ」「いらないよ」「買いなよ。綺麗、だろ」「いらない」「綺麗、だろ」 雨が降ってきた。遠くから万雷の拍手。わたしは言う。「いらない」「買わないと、こうだぞ」 男は何を思ったのか花にどぼどぼと油を注いだ。「火を、付けるぞ」 ライターを構え、男は叫ぶ。 男は鮮やかな緑の服を着ていた。「いらない。絶対にいらない」 わたしは強く言い切る。
川辺の砂利ところころと可愛い石ころを見つめて、クマのできた目をこすっていた。さらさらとはいかないけれど、健気に流れている川の匂いが微かに漂っている。私は今すぐにでも同化しそうなぐらいただ薄暗い夕暮れの川辺に佇んで、密かにまるく座っている。 虫がぶーんと飛んできた。ぶーんと私の周りをはしゃぎながら飛び去ると、興味は右上に見える石橋に向ったようだ。石橋には犬を連れてるだろうおじいさんが一人、のそのそと散歩をしている。おじいさんと犬なら、朝散歩すればいいのにと思うのは私だけだろうか。 おじいさんは立ち止まって川の流れを見ている。決して綺麗とはいえないけれど、この川を見ていたくなる気持ちは分かる気がする。昔からおとなしくてちょっぴり寂しい気持ちを抱いてきた。川の気持ちなんてわかるわけないくせに、そんなふうに思わせるのがこの川だ。それはきっとただ流れているだけの川だから。座禅を組んでいるような川だから、沿っている、そう思った。 中途半端に欠けた月が見え始めると、少し風が吹いてきた。私はますます縮こまって、より目立たなくなってしまった。少し寒い。肌寒いというのに、体は眠りたがっている。まずい。このまま寝たら逝ってしまうかもしれない。もう少し頑張って生きていたいので、私は目を見開いてみた。目の前にどんどん明るさを失っていく水面が映し出される。凹凸のない水面は緩くラップを張ったような感じだ。なんだか川に触れたくなった。 ゆっくりと立ち上がって川の流れを私の手で遮断してみる。冷たい。手の甲も平も違和感がたっぷりとしたが、それはちょっとした快感にも似ていた。川の水は特別なのかもしれない。 ところが手の感覚が川の水に慣れてきて、調子に乗って手首まで浸からせたところでカップラーメンの容器が見えた。瞬間一気に私の気持ちが萎えた。汚いよ。たんなる汚い水に変わってしまった。カップラーメンをここで食べるな。というよりゴミは持ち帰れ。 くぼんだ目がサインを出している。眠いならここで寝ればいい。少し背中が痛いだろうけど、少なくとも私はこの川が好きだからなんとかなる。でもうつ伏せになってしまったらどうしよう、その前に仰向けに寝るつもりなのか。 さっきのおじいさんはやっぱり犬を連れて散歩していた。虫の音は何も聞こえなくなった。日暮れが刻々と進む中、川はそんなことなどどうでもよさそうに涼しげに流れている。
中学から高校にかけて、感じていた孤独には、転校や不健康、不幸といった名前が付いていた。孤独で退屈な日々の遊びは部屋で独り、眼鏡を外して右手人差し指で右目を掻くことから始まった。 掻き出すとなんでもなかった痒みが増して、どうしようもなくなり、中指、薬指も交えて必死で掻くことになる。そうしているうちに、中指が目蓋の合わせ目から奥に入り、目玉がドロッと掻き出されてしまう。ドロリと右手中指に絡みついた目玉は、奥の方と繋がっていた視神経の筋も外れてしまい、ポトンと机の上に落ちる。ベットリとした目玉を右手と左手で交互に転がし続けると、いつか果たしてスベスベのガラス玉に成る。 右手の中指を親指で止めて力を込め、狙いを定める。本式のビー玉には、あと幾つか必要なのだが、取り敢えず筆立てをターゲットに息を詰める。 パチンと弾くと、右目の景色が急速に回転する。耳と鼻の奥に違和感が走り、気持ちが悪くなる。やがて目玉はガチンと筆立てに当たる。それは、独特の痛みを伴うのだ。独特の痛みが退屈な時間を埋める。そしてまた、弾きたくなる。 何度も何度も右目を弾く、天井と壁と机がグリグリ回る。飽きずに目玉を転がして、孤独で退屈な日々をやり過ごした。 そんな日々から五年と少し、奇声と歓声、タバコの悪臭とカンチューハイ、入社してしまったことをもう一度、心底後悔した。 今日は「新人の歓迎の意味も兼ねた」ボーリング大会なのだそうだ。ただでさえ窮屈な思いがボーリングシューズの中にギュウギュウ詰めにされていた。 何か飲めと命令される。順番にボールを投げ、何か喰い、ピンを倒せと命令される。ボールはしかし、ガーターばかりだ。 罵声と嘲笑。目が痒くなった。掻いてみると痒みが増して、右手中指が目蓋の隙間から眼孔に入り込んだ。懐かしい感触。 薬指をゆっくりと、左の目蓋から眼孔にめり込ませ、口を開け、親指で上顎を持ち上げるようにコンベンショナルグリップを固める。意外と容易に首が外れた。 驚嘆と叫び。ゆっくりとしたフォームで、頭をレーンに転がす。ポツンポツンと血痕を残し、頭が不器用に転がっていく。回る照明、床材とワックスの仄かな香り、低い回転音がゆっくりと伝わる。頭は溝に捕まらず無事にピンのど真ん中に辿り着いたが、勢いが足りずに七番十番のスプリットになってしまった。 強気でスペアを狙いたい場面だが、身体はその場に静かに倒れた。
毎年この日になると、達っちゃんは必ず「海を見に行かんか」と誘うのだ。是非もなく、わたしは達っちゃんと旧型のマーチに乗って、海に向かう。 達っちゃんの車は十年間変わっていない。達っちゃんが買ったときすでに十年物だった車は、毎年乗り心地が悪くなる。わたしと達っちゃんも、毎年、確実に古くなりながら海へ向かう。乗ったことはないけれど、互いの乗り心地も、相当に悪くなっているはずだ。 居酒屋やファミレスで向かい合っていると、何か喋らなくては、とあせってしまうけれど、車に乗っていると黙ったままですむ。わたしと達っちゃんは百年も連れ添った老夫婦のように黙りこくって、しなびた心と性器を携え、とけ出すような暑さの中を進むのだ。マーチのクーラーは三年前から壊れたままで。「どこまで行くん? あんまり遠いとこは嫌やけんな」「わかっちょる」 最初の数年間は、一日がかりで県南の海水浴場までに行っていたが、最近は近場ですますようになった。片道一時間のところにある漁港が、このところの達ちゃんのお気に入りだ。天気がよければ四国が見える。高台からのぞむ対岸の陸地はブロッコリーのようにこんもり青く、手をのばせばひょいとつまめそうなほど近い。「泳いでいけそうやな」 達っちゃんは毎年そう言う。わたし達と四国のあいだには、あんこ玉みたいに黒々した海が横たわる。足裏に油を塗ればそのまま歩いて対岸に渡れそうな穏やかな海だが、水色の暗い部分は案外流れが急だ。「関サバが育つところやで。泳げるわけないやん」「でも、四国って行ってみたいやんか。俺、坂本龍馬の銅像、見てみたいけん」 銅像があるのは高知県。目の前の海の向こうに見えているあれは、愛媛県。何度教えても達ちゃんは毎年必ずそう言って、水を掻き分ける仕草をする。わたしは毎年同じ言葉を飲み込む。泳いでいくだけじゃあ坂本龍馬には会えないんだよ。たぶん。 眼下の岩場では、紺色の海パン姿の男の子が二人、銛とペットボトルを持って歩き回っている。地元の子なんだろう、赤茶けた岩と区別がつかないほど日に焼けて、小さなアシカみたいだ。 子どもの頃、海の日なんてなかった。あってもきっと、間近にせまった夏休みに浮き立って、海の日なんてどうでもよかったに決まっている。年々じじむさくなる達っちゃんのシャツの趣味とか、嫌になるくらい濃い色で染めるしかない自分の白髪頭のことなんか、想像だにせずに。
ひきこもり。そう呼ばれる現象を君たちは知っているだろうか?あ。こら。そこ。「うわぁ。やたら重そーな話題始めやがったよ、こいつ。」とか叫びながらページ閉じないよーに。単に、私が今、その現象に陥っているとゆー自己紹介の冒頭だ。こんな事でくじけてどーする。さあ、本題に入ろう。うむ。とりあえす、前文で述べたとおり、今、私は「ひきこもり」という現象にみまわれている。余談だが、なかなかの快現象である。まぁ、社会現象とかに指定されているから、知らないヤツはいないと思うが、一応説明しておくと、よーするに、「家(部屋)の中でのんべんたらりん。外界は俺の世界じゃねぇ」という素敵な主義主張を死守せんと、己の意志を貫く、主に若者を中心とした哀と涙の物語である。あ。ツッコミはいらないから。ちなみに、良い子は絶対真似しなよーに。親が泣く。それはともかく、実は私の場合、世間一般の「ひきこもり」とは少々様相が異なっている。単にお金と仕事(をする気)がないから家にいるだけで、外出することは度々あるからだ。よって、「ニート」に近い。んで、君たちは、ここに至って、何でそんな冷めた目で、この文章を読んでいるのかな?何故か、あらかさまな蔑みを感じるよ? おい?はっ。誰だい?今、ボソッと「堕落した人か」とか呟いたのは?チッチッチッ。違うよ? 全然わかってない。私は「堕落した人間」ではない。「ダメ人間」だ。ん?どうしたんだい?何を奇怪きわまる顔をしている?ああ。もしかして最近はそーゆーコンタクトのとり方が流行っているのかい?すまないが、こーゆー暮らしをしていると、人間のコミュニケーションの取り方が忘却の彼方へ学業知識共々流れ去っていくのでね。自慢ではないが、このままいくと、人語を解するのも危う――‥って――いや、やめておこう。なんか今、これが遺書になりそーな色んな意味で嫌な予感がした。そうそう。「堕落人間」と「ダメ人間」の話だったね。しかし何だって、そんな辛気臭いことを考え出すハメに?何か、ものすごく下らない事に脳みそを活用しているような気がするよ?まぁいい。とにかく、何が言いたかったかと言うとだ、「堕落」は、もと居た地点から下降した状態であるが、「ダメ」なものは最初っからダメなわけで、だから「ダメ」だから諦めろ、と。まぁたった、これだけの事だ。おや?何故に引く?あ。ちょっと待て。捨てよーとすんなって。原稿っ。
仕事帰りに屋台のラーメン屋に行ったことはありますか?「おやっさん、味噌ラーメン。」注文をするとすぐに屋台のおやっさんはどんぶりを渡してきた。「あいよ。」俺はどんぶりを受け取るとすぐに食べ始めた。「おいおい。そんなに焦って食わないでくれよ。せっかく作ったのに、もう少し味わってくれ。」そんなおやっさんの言葉を無視し、俺はあっという間にラーメンを平らげた。「……うまいな。この味、どうやって作ったんだ。」ものの2分程度で食べたにもかかわらず、舌に纏わりつく味。それが麺の味なのか、それともスープの味なのかは分からない。だが、その味は不思議にも俺の食欲をさらにそそり立たせるものとなった。「……それは企業秘密というやつだ。教えられんな。」「……どうしてもだめか。」「ああ。どうしてもだめだ。」しかし、すでに俺はこのラーメンの虜となっていた。だめだと言われ、はいそうですかと諦められる筈がない。教えてもらえないのなら、自分で確かめるまでだ。「おやっさん。ラーメンもう一杯くれないか。」屋台のおやっさんは一度渋い顔をしたが、拒否することなく、これまたすぐに二杯目を渡してきた。先ほどとは違い、ゆっくりと味を確かめながらラーメンを食べていく。(……あの味、麺じゃないな。だとすれば、スープのほうか。)どんぶりを傾け、一口すする。「うまい!」その味は、先ほどよりもより濃厚な味になっていた。あの一瞬でここまで味が濃縮するとは思えない。しかし、おやっさんが何かをした気配もない。それではいったい何が……「ん?」ふとスープを眺めているとひとつの疑問が浮かんだ。どんぶりの中にあるアカイスープ。しかし、何度味わってみても辛さは感じない。そして、この舌に粘りつくかのような味。「おやっさん。これって、もしかして……」「分かっちまったか。今後は一人一杯限定にするか。」そうおやっさんは呟き……「だしはおまえの思ったとおり、人肉だよ。」そう、答えた。「そうそう、三杯目を出す気はないから、支払いでいいよな?」その声に、背筋が凍る。「い、一杯、いくら……なんだ?」「そうだな。腕一本ってところか。おまえは二杯食ったから、両腕を貰うとするかな。」そう言って、おやっさんは隠し持っていた中華包丁を取り出した。「そうそう、食い逃げが出来るとは思うなよ?」その声で、俺はあたりを見渡した。いつの間にか、俺は片腕のない人々に囲まれていた。