第86回1000字小説バトル

エントリ作品作者文字数
01「卒業証書授与式」ようこさん1000
02スプーン曲げ藤田揺転1000
03オランピア小笠原寿夫1000
04脳内記事瓜生遼子1000
05兄のうた1000
06鴨と大根ごんぱち1000
07雨と踊る千希1000
08西瓜の迷産地とむOK1000
09白紙ぼんより1000
10けえけえ鳥の巣にてながしろばんり1000
11星と飴玉霜野浩行1000
12味噌屋越冬こあら1000
13メロンるるるぶ☆どっぐちゃん1000
14パッセンジャーアナトー・シキソ1000
15ワイルドフラワー・ガーデン棗樹1000
 
 
 ■バトル結果発表
 ※投票受付は終了しました。
バトル開始後の訂正・修正は、掲載時に起きた問題を除いては基本的には受け付けません。


エントリ01  「卒業証書授与式」     ようこさん


 「卒業証書授与A組担任安井カサ先生」「A組大場加奈子(おおばかなこ)」「はい」「乙津真美(おつまみ)」「はい」「佐藤俊夫(さとうとしお)」「はい」「君路可奈子(きみじかなこ)」「はい」「詣飯界(もういいかい)」「はい」「真田多代(まだたよ)」「はい」「三付太郎(みつけたろう)」「はい」「町木連子(まちきれんこ)」「はい」「瀬加猪一(せかいいち)」「はい」「常段良子(じょうだんよしこ)」「はい」「宇宗継雄(うそつくお)」「はい」「原野井民代(はらのいたみよ)」「はい」「堂島翔(どうしましよう)」「はい」「都路麻里(とじまり)」「はい」「日野庸人(ひのようじん)」「はい」「平井照(ひらいてる)」「はい」「玉手太朗(たまでたろう)」「はい」「庭伸蘭子(にわのぶらんこ)」「はい」「有馬千(ありません)」「はい」「真田郁夫(まだいくお)」「はい」「花津麻美(はなつまみ)」「はい」「神間真(じんましん)」「はい」「千拓樹(せんたくき)」「はい」「清水久美(しみずくみ)」「はい」「王総司(おうそうじ)」「はい」「秋田健(あきたけん)」「はい」「A組26名代表花津麻美」「はい」「B組担任一堂玲先生」「B組浦賀恵理(うらがえり)」「はい」「高井華(たかいはな)」「はい」「井伊完治(いいかんじ)」「はい」「左真紀(ひだりまき)」「はい」「村尾守(むらおまもる)」「はい」「森野泉(もりのいずみ)」「はい」「山仁登(やまにのぼる)」「はい」「行戸万理(ゆきどまり)」「はい」「君徒歩(きみとあゆむ)」「はい」「渡野好実(わたしのこのみ)」「はい」「平木大(へいきだい)」「はい」「多田法世(ただのりよ)」「はい」「伊知晴男(いじはるお)」「はい」「小松多菜(こまつたな)」「はい」「水尾音影(みずおおとかげ)」「はい」「古田ぬき(ふるたぬき)」「はい」「白木恒(しろきつね)」「はい」「野原広子(のはらひろこ)」「はい」「若葉茂(わかばしげる)」「はい」「毛手間千(もてません)」「はい」「高久昇(たかくのぼる)」「はい」「多田見照子(ただみてるこ)」「はい」「路野光二(みちのこうじ)」「はい」「厚井奈津(あついなつ)」「はい」「吹田マリ(ふきだまり)」「はい」「B組25名代表吹田マリ」「はい」「次に理事長毛家内科医院長毛家内造先生よりご祝辞を賜ります」「辺名高校卒業生の諸君卒業おめでとう・・・」







エントリ02  スプーン曲げ     藤田揺転


 グルグルと鳴る腹を抱えてそこいら中をグルグルとうろつき回り、何とか見つけ出したのが、グルグルめまいがするくらい不味い洋食屋だったりなんかしたときには必ず思う。
 スプーン曲げが、できたら。
 他の華々しい超能力なんかひとつも要らない。念動力も、テレパシーも、千里眼も、予知能力も。ただ、スプーンを曲げることさえできたなら。そうすれば僕は、目の前にあるこのステンレスのスプーンやフォークをひとつ残らずくねくねに曲げてやれるのに。
 僕はステンレスのスプーンやフォークをひとつ残らずくねくねに曲げて、満足する。しなびたいいかげんなサラダや伸びきった臭いパスタや沼から汲んできた泥水みたいなコーヒーを無理やり胃袋に押し込めなければならなかった、その果てしない苦痛のうさを、ものの見事に晴らすことができる。
 そうしてもし、僕がくねくねに曲げたステンレスのスプーンやフォークを店員が見つけて、ぼくがステンレスのスプーンやフォークをくねくねに曲げてしまったことをくどくどと咎めるなら、僕はそのくねくねに曲がったステンレスのスプーンやフォークを哀しげに見やって、やれやれ、僕が少し目をつぶっている間に、世界中のあらゆる所で、あらゆる良い物やあらゆる正しい事が、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうんだ。僕はそういう事を非常に遺憾に思うけれど、残念なことに僕個人としては、物事がこのステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうことに対して、何ひとつ手の打ちようもない。何せこの世界自身が、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていくことを望んでいるんだから。僕はただ黙って、このステンレスのスプーンやフォークや、この店のパスタやコーヒー(ここで店員をさり気なくちらとにらみ付けるのも良いかもしれない)のようにくねくねに曲がってしまった現実を、痛みと哀しみの内に受け入れることしかできはしないんだ。何もかもが、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまった。これからも全てが、僕の愛した世界のあらゆるものが、このステンレスのスプーンやフォークのようにくねくねに曲がっていってしまうのだろう。
 というような事をつぶやいて、寂しそうに、肩を落とした風なんかして、キイと鳴る扉を開けて、吹きすさぶ寒風の中に立ち去るんだ。







エントリ03  オランピア     小笠原寿夫


「こんちは!」
「おう熊さん、どうしたんだい、そんな顔しちまって。」
「おう、そこにいるのは八っつぁんじゃねぇか。どうしたもこうしたもねぇよ。オイラんとこのカミさんが布団に寝たっきり出てこねぇんだ。」
「そりゃまたどっか具合でも悪いのかい?」
「それがオイラが吉原に通ってるのがバレたもんだから、あの野郎、機嫌損ねちまって。」
「そういうことかい。それなら御隠居に頼むといいよ。お前ぇらの喧嘩の仲裁はみんな御隠居に任せてんだろ。」
「そうだな。それじゃあ、ちょっくら行ってくらぁ。」
「おう、じゃあな!」
「まったくあの野郎と来たら男が吉原に通うなんざぁ、甲斐性のある証拠じゃねぇか。それをなんだい、ふて寝しちまいやがって。こんちは、御隠居。今空いてるかい?」
「おうおう、熊さん、元気でやってるかい。」
「元気も正気もねぇよ。こっちは吉原のことで夫婦モメちまってんだ。何とかならねぇかい、御隠居。」
「そうだなぁ、夫婦の仲は夫婦で解決するのが一番よしとされてはいるが、私もぬしらの仲を取り持った身。そう簡単に解決できるもんでもねぇが。まず己の非を認め、日頃の行いで之を示すべしと昔の偉いお坊さんは言ったな。ぬしもまず自分の過ちを素直に謝り、皿の一つでも磨いてやりゃあ、ちっとはカミさんも考えを改めてくれるんじゃねぇか。」
「そうか。こりゃどうも、御隠居の言うことには説得力があっていいねぇ。まず己の非を認めと来たか。要は吉原に行ったことを謝って、皿を一枚洗やぁいいんだな。わかった。ありがとう、御隠居。」
「うまくやるんだよ。」
「まったく御隠居ってのは当てになるねぇ。皿一枚洗うだけで機嫌が良くなるなんて、女ってのは単純なもんだ。ただいまぁ!今、帰ぇったよ。まずは己の非を認め、日頃の行いで之を示すべしと。」
「なにぶつぶつ言ってんのさ。自分の家なんだから素直に入ったらどうなの。」
「おう、お梅、あれだぁ、なんだ、さっきのことは俺が悪かったよ。皿の一枚でも洗うから勘弁してくれよ。」
「いいよ、あんたがやったら皿が何枚あっても足りないよ。余計なことすんのはよしとくれ。」
「おう、人が下手に出りゃあ、いい気になりゃあがって! そんならどうやったら許してもらえんだい。」
「邪魔だから、こっから出てっとくれ! あんたといるくらいなら幽霊とでも一緒に暮らしたほうがマシだよ!」
「そうだ、己の非を認め……お、オイラここにはいねぇんだよ!」







エントリ04  脳内記事     瓜生遼子


 友人が「あのジジイ殺してえ」なんて言ったから、「じゃあ殺せば?」なんて軽く答えてしまって、挙句の果てに手伝いまでやらされた俺は馬鹿以外の何者でもない、と自分自身思わずにはいられない。乾いていくジジイの血のせいで手が黒っぽく粉っぽくなるのが嫌だ。なんて、そんなこと考えていられるようなときじゃあるまいに、と、自分で自分に突っ込みをいれる。案外冷静だ、俺。
 体が車窓に叩きつけられ、タイヤが大きな叫び声をあげる。友人が運転する暴走車は交通法規も安全も無視して走り続ける。後ろからはサイレンの音。友人の恐怖に見開かれた目が血走っていて怖い。助手席に座る俺のことなど忘れているかのように、彼はぶつぶつと何事かを呟き続ける。
 助手席も座り心地が悪いが、そのうち俺が座る場所は留置所のガタがきたパイプ椅子だとか裁判所のかってえ椅子だとかになって、さらに座り心地が悪くなるんだろうなあ、やだなあ、なんて考えるにつけ、そんな自分が馬鹿らしい。軽く笑うと、友人の肩が、その声にびくりと震える。
「お前のせいだ」
 がたがたと震えながら、それでも手はしっかりとハンドルを握り、足はしっかりとアクセルを踏みながら友人は言う。さっきから呟いていた言葉はおそらくこれだったのだろう。
「お前がそそのかすから……」
 知ったこっちゃねえよ、やったお前が悪いんだろ、と思いつつも言わない。またもや自分の殻に閉じこもり、ぶつぶつと独り言を呟き始めた友人は確かに正気を失っていた。いや、この事態になってまで冷静でいる俺がおかしいのかもしれない。脳内ではしっかりと、朝刊の一面を飾るだろう俺らの記事が浮かんでいた。まるで本物を読んでいるかのようだ。しかし、どれだけ頑張って読もうとしても最後まで読めない。嫌な焦燥感にかられる。
 ふいに両親が、ジジイの親戚に謝罪している姿が浮かんだ。妹がいじめにあう姿がそれに続く。家では鳴りっぱなしになる嫌がらせ電話。ご近所様の白い眼。
 それらが消えないうちに、俺の体はまたもや車窓へ叩きつけられた。
 ガラスが降ってくる。自分に刺さる感触がしたが痛みはなく、どこかおかしなところで、ごきんっ、と音がした。あ、やばい。と思えたかどうか。とりあえず浮かんだのは自分の脳内記事の続き。「犯人二名は逃走後、事故で死亡した」とある。
 俺はにやりと唇を歪めた。脳内記事は本物になる。変な確信。そのまま、俺の世界は消えた。







エントリ05  兄のうた     葱


 例年なら、夏休みはいよいよ家族の数が減る。
 母は嬉々として出かけてしまうし、父はほとんど仕事を休まない。兄も学期中より家にいなくなる。
 地面にひれ伏してしまいそうな暑さの中、僕はなるべく人通りのない道を選んで自転車をこいだ。自分はほとんど行ってないくせに、皆が休みになるとプレッシャーを感じる。
 川沿いの墓地は少し高い段差の上にあり、石段の手摺りが赤くさびている。自転車を止め、家から持ってきた手桶に水を汲む。花でもあればよかったのかもしれない。
 子供のころ来たきりの墓。やりかたも何も分からないが、とりあえず水をかけてみる。湯気が立って、一瞬蜃気楼みたいに目の前が歪む。歪んだ墓標の片隅に、祖父や祖母の名が刻まれている。その中に見なれない名前を見つけた。親戚だろうか?
 って、そういう話を夜、久しぶりに会った兄にした。兄はニュース番組を見ながら、知らないなあ、それよりお前二学期から学校行けよ、と気のない感じで答えた。うん、考えとくよ、と頼みごとでもされたみたいな返事をした僕を、兄は少し笑った。

 数日後、ドロだらけの兄がきれいな小犬を拾ってきた。そういうのに興味があるのか、世話は誰がするのかたずねても、お前ひまだろ、としか答えない。確かに自分の時間は人よりたくさんあると思うが。
 家族の承諾は得ていると兄は言った。僕の左手に、白いコロコロした綿毛がまとわりついてきている。
 問題は名前だと思った。家族が増えるのだ。僕はその重要性を、兄に訴えた。兄は眠そうに、聞き覚えのある名前を言った。あの墓石に刻まれていた、知らない名前だ。

 一週間振りに、二人で食事をしていた時、父に報告。犬の名前を告げると、父は箸を止めて僕を見た。え、何、と聞いても父は答えない。ん、お前が面倒みろよ、と父は食事に戻る。

 旅行中の母にメールで報告。帰ってきた返事は…。
「いい名前ね。自分で世話しなさいよ」

 両親のリアクションを兄に伝えようと思った。でも小犬をベッドに引き込んで、じゃれているうちに寝てしまった。
 
 朝、涼しい時に小犬の散歩に行った。子犬は途中で疲れてしまい、歩かなくなった。仕方なく、抱き上げて、墓地の階段を上る。
 なんとなく、名前の元の主を見せておこうと思った。墓碑には、よく見ると犬の名前の下、享年零歳と刻んであった。

 うちの家族は犬好きだっただろうか…。

 兄は、僕の知らないことを知っているらしい。







エントリ06  鴨と大根     ごんぱち


 鴨汁をごちそうすると言われ、大根汁を振る舞われた吉四六さん、次の日庄屋様の家に慌てて飛び込んで来ました。
「た、た、大変だ庄屋様! オラの庭が、鴨でいっぱいだ!」
「なんだって!?」
 庄屋様は鉄砲を引っ掴んで吉四六さんの畑に来ました。
 ところが。
 畑には青首大根がずらりと並んでいるばかり。鴨の姿は一羽だってありません。
 庄屋様は、目を細めて大根の葉っぱの間をじぃっと見つめてみますが、鴨はおろか、雀もカラスもいませんでした。
「おい……吉四六?」
「何でしょう? 庄屋様?」
「鴨はどこだ?」
「何を仰っておりますやら。ほれ庄屋様、そこに鴨がおるでしょう?」
 吉四六は畑の大根のある辺りを指さします。
「どこにおる? 鴨の姿はさっぱり見えないが? どこの陰におる?」
「ほれそこ、そこです、陰も何も丸見えでしょう」
 吉四六さんはニヤニヤ笑いながら、一番手前の大根を指さしました。
「昨日の鴨汁にも劣らん、大きくて立派な鴨が、びっしりと土から生えておりましょう?」
 そこまで言われて、庄屋様もようやく気付きました。
 吉四六さんは、大根の汁を鴨汁だと言った庄屋様の言葉を逆手に取って、大根を鴨だと言ったことに。
「なるほど」
 庄屋様はうなりました。
「どうです庄屋様、ほら鴨じゃ、鴨じゃ、立派な鴨じゃ!」
 吉四六さん、大はしゃぎです。
「そら鴨じゃよ、庄屋様、ほら立派で首の青い鴨じゃ! わははは、鴨じゃ鴨、庄屋様の晩飯は、今日も鴨汁のごちそうじゃな」
 はしゃぎ、笑いまくる吉四六さんから視線を逸らした庄屋様は。
「なるほど吉四六」
 鉄砲に弾を込め、胴火で火縄に火をつけました。
「え? 庄屋様?」
 吉四六さんの「どうだ顔」が固まります。
「立派な、鴨じゃのぉ」
 庄屋様は大根に狙いを定めると。
 ズドン!
 鴨撃ち用の粒弾を受け、大根が飛び散りました。
「し、庄屋様!?」
 驚く吉四六さんに構わず、庄屋様は早合で次弾装填、再び発砲します。
「うわっ、ちょっ、庄屋様! 待って待って!」
 ズドン!
「鴨じゃ鴨じゃ!
 ズドン!
「鴨じゃ鴨じゃ吉四六!」
 次々にカラ早合が地面に散らばっていきます。
「ぎゃはははは、鴨じゃ! ぎゃはははははは!」
「止めやめてくれえええええ!」
 ズドン!
 ズドン!
 ズドン!

 血色の夕日に染まった畑に僅かに残った大根が、まるで墓標のように長い、長い影を落とす。
 立ちこめた大根と硝煙の臭いは、当分消えそうになかった。







エントリ07  雨と踊る     千希


 薄くくすんだ灰色の空から、水が落ちてきた。
頬に落ちた雨粒は一滴。それはだんだんにビートを増して、やがて本格的に雨になった。
慌てて鞄から折り畳みの傘を出して広げたが、それから雨はすぐに土砂降りになった。折り畳みの華奢な骨組みは雨粒の振動を直に腕に伝えて、傘を持つ手はすぐに疲れてしまう。まもなく膝から下が水の跳ね返りを浴びて濡れ始めた。
まだ、家までの道は遠かった。私がため息をついてアスファルトの道路から顔を上げると、雨でけぶる道の向こう私より10mほど前に人影があった。
 全身びっしょりと濡れた男の人だった。長身に見合った手足と肩幅でびしょ濡れでさえいなければきっと着ているそのスーツが似合うのだろう。歳は、私より少し上だろうか。その人は何も持っていない両腕を広げて顎を上にあげ、気持ちが良さそうに目を瞑っていた。繰り返すけれどかなりの土砂降り、顔に浴びれば痛い程の雨だと思うのだけど。それでも彼は時折踊る様にくるり、くるり体の向きを変えながら嬉しそうに雨を浴びていた。
彼を半ば呆然と見つめているうちに、雨を防ぐために必死で傘を掲げていた自分がなんだか急に馬鹿らしくなった。濡れて困るようなものは今日は持っていない。彼のように雨を浴びてみたくて、傘を開いたままに道の端へ投げ捨てた。その音でやっとこちらに気付いたのか彼が初めて目を開いた。そしてあっという間に水へ染まっていく私を見て微笑み、腕を私へ伸ばしてくれる。
「こっちへ」
私は自然その手をとった。濡れた手に彼の熱い手のひら、高い体温が心地いい。そして何より降り続く雨が気持ちよかった。着ている服の布へ余さず水が染み込んでしまうと皮膚ごと水に溶けてしまったようだ。頭からつま先へ水が全身を流れ落ちると、それが血液のように自分の一部に、いや私自身のほうが雨の一部になってしまったかのように感じられた。
土砂降りの雨の中、彼と踊る。彼も私もこの美しい雨の一部だ。永遠に、止まなければいい。
 そう思ったのに。
縋る様に伸ばした私の手。地べたに座り込んで見上げた掲げた手の向こう雲の切れ間には青い空。空はもう泣かなかった。代わりに私が泣きそうで、急いで辺りを見回したけれど彼もいなくなっていた。
私は泣くのを堪えてぎゅっと目を瞑って、それから立ち上がった。放り出したままになっていた傘の水気を払い、畳んで歩き出す。水を含んで重い体。私はもう一度だけ空を見上げた。







エントリ08  西瓜の迷産地     とむOK


 仕事から帰ると身に覚えのない西瓜がいた。
 梅雨明けの蒸し暑い部屋に耐えられず窓を開けて扇風機をつける。学生時代から住んでいる部屋は今時風呂共同の六畳一間でクーラーも入れていない。当時から付き合っている彼女にそろそろ引っ越そうよと言われているが、さほど不便を感じないのでなかなか思い切れなかった。
 西瓜を前に胡坐してじっと眺めていると、濃緑ストライプの果実が二つに割れて、妙な生き物が現れた。白っぽいがま蛙に子どもの手足をつけたようなそいつは不吉そうな藪睨みで僕を見上げた。僕は西瓜をぽたんと閉じた。中で暴れる気配がするが僕は力を緩めず、頼むから消えてくれと祈り続ける。あなたってどうにもならなくなってもまだ誤魔化そうとするのよね、という最後の夜の彼女の言葉が耳の奥をこつんと叩いた。やがて動かなくなったので恐る恐る開けてみると、白いがま蛙は赤い果肉と黒い種にまみれてぐにゃりとしていた。さすがに気が咎め、抱き起こして身体を拭いてやるうちにそいつは息を吹き返し、青黒い顔色で僕を睨んだ。大した悪さのできそうにない風体に少し安心した僕は、背中をさすってやりながらごめんごめんと謝った。
 そいつも西瓜も気になったけれど、腹が空いていたのでコンビニのハンバーグ弁当を開けることにした。もそもそ食っているとそいつが口元の箸をじっと見るので、僕は弁当のふたに少し取り分けて押しやった。そいつは黙々と食べ始めた。あまりうまくはないけど我慢してやるかという表情だった。僕はビールを喉に流し込んだ。するとまた僕の口元を見るのでおちょこを出してビールを注いでやると、両手でくいっと開けて、甘い西瓜の匂いの大きなげっぷをした。テレビをつけると野球中継をしていた。僕はいつもどおり特に見るでもなく流したままビールを飲み、時々おちょこにも注ぐ。そいつはやはり大してうまくもなさそうにビールを空け、何度も甘いげっぷをした。青黒かった顔は赤紫色になっていた。
 トイレに立った隙に、そいつは部屋からいなくなった。割れたままの巨大な果実からうっすらとビールの匂いがする。野球中継はとうに終わって、扇風機の音がやけに響いていた。僕は急に彼女の手料理が食べたくなって携帯を取り出し、着信履歴の上の方に残っていた彼女の番号を押す。きっかり五コールで、二週間ぶりの不機嫌そうな彼女の声が、どう切り出そうか迷ったままの僕の耳をちくりと噛んだ。







エントリ09  白紙     ぼんより


 朝の海岸は初めてだった。
 人気のない朝の海岸は美しいと思っていたが、はたして美しかった。
 なるほど、女に言われるがまま夜明けのドライブを敢行するのも悪くない。働きもしないで惰眠を貪ってばかりいるが、女は稀に美しい言葉を囁く。
「白いわ」
 女が呟いた通り、海は白かった。白、白、白、どれだけ見渡しても海は白い。仮に朝の海が青かったとしても、人々は白いと言わざるを得ないほど海は果てしなく白かった。私は呆然とした。真っ黒な海や蛍光色の海だったならこれほど立ち尽くすこともないだろう。女は華奢で長い髪をたなびかせながら、私の頬に唇をあてる。女も白かった。
「昔ね、テストを白紙で出したことがあったの」
 女の唇が、私の頬に沿って口元に近づいていく。
「それはね、満点で私の元に返ってきたの」
 私の唇の端に女の吐息が触れる。
「何のテストだったかなんて覚えてないわ」
 対峙。
「でも嬉しかった」
 女は私を呑み込む。私も女を呑み込む
 波打ち際まで歩を進めながら、私と女は互いを貪りあう。なんて美しいのだろうと、心の内で叫んだ。なんて美しいのだろう、白紙の答案もきっと美しかったに違いない。
 荒々しい息遣いで、なおもお互いを強く激しく甘く拙く貪りあいながら、波の音を聴いていた。やがて波が私たちをあっさりとさらっていくと、私たちはびしょびしょのびちゃびちゃの濡れ濡れになった。
「あはははははは」
 女は白い海に向かって貝殻を拾っては投げ、拾っては投げ、その度にぴちゃん、ぴちゃんと僅かな頼りない音が聴こえてきた。波は何度も何度も私たちをさらっていく。私たちは何度も何度も貝殻を投げては、腹を抱えて笑い転げる。そのうち歌を歌って、踊り始めた。詩を吟じたり、ハミングしたり、ロミオとジュリエットやエマニエル夫人を演じたりもした。どれもこれも美しく、本当に朝の海に来てよかったと思った。
「あの時と一緒だわ」
 女が目を輝かせている。
「白紙の答案を出したときと」
 震える細い線。
「その答案が返ってきたときと」
 かぶりを振る。
「まるで一緒だわ、あはははははは」
 私たちはもう数え切れないぐらい波にさらわれているだろう。疲れることも知らないで、朝の白い海にずっとさらわれ続けている。
「あはははははは」
 ぬるりとして纏わりつくような風が体を揺らす。晴れるでもなく雨でもなく、低くたちこめる鉛色の空の下で、波打ち際は絶望的な幸福に満ちている。







エントリ10  けえけえ鳥の巣にて     ながしろばんり


 鳥の巣にいる。捉まってヒナの餌にされるところを足の下にもぐりこんだ。ヒナも俺より少し小さいくらいで、全部で三匹いる。隣にいても一向気にしない風なので、そのままでいる。地上五メートルなので上り下りもそう難しくはない。
 鳴声がけえけえと人を小莫迦にしたようなのでけえけえ鳥と読んでいるが、なんとなくワシっぽい。でも、日鉱大の相撲部の主将だった俺を掴んで飛びたてるのだから、けえけえ鳥の巨きさは推して知るべしだ。ぱかんと口をあけているとなりの三匹も、いづれは親鳥と同じ巨きさになるのであろう。
 餌は人だったり牛だったり、自分が掴める動物が主らしいが、大抵は巣の外へ出てしまう。考えてみれば、牛を呉れたところで、俺と同じ巨きさの生き物が、どうやって牛一匹なんとかできようものか。ずれている。全生物的に考えてもコンマ3でずれている。たまに、ネコとかスピッツとか、そういう小さいのが来ると取り合いになる。大体死んでいる。死んでいないとつかまえられないのだ。トロいんだから、動きが。小回りも効かないし。おかげで、巣の下には落っこちた死体が累々としている。風の無い日には異臭も立ち上る。でも平地なので元気な動物は自分で逃げ帰っている。人間なんか特にそうだ。携帯で電話して、車を呼んで帰っている。国道までは車でせいぜい5分らしい。一度、ジッポーのライターを落としたという男が戻ってきたときに聞いた。やあ、結構いいところに住んでるんですねえ、って、アホか。
 そんなだから報道の車も時々顔を見せる。車を降りたときから深刻な顔をしてテレビカメラに顔を向けたまんま、最後まで現場は見ない。
 あ、人が居ます! 人が居ます! 監禁されているのでしょうか! 巣の上から見ていると、三匹のヒナはそろっておびえた声を出す。親鳥は餌を穫りにいったまま朝から帰ってこない。あなたもこの怪鳥にさらわれたのですか。まあそんなところです。怪我をなさっているんですか。別にどうってことは無いけど、お姉さん、そこは彼らの便所だから汚いよ。恐るべき光景です! まぁ、ねえ。
 親鳥が帰ってくる。逆光のシルエットが二倍になっているのは、よほどの大物と見える。鯨だ。大海原に浮かぶ鯨の往生を鷲掴んで、時速40km/hで、母が、帰ってくる。ああ、ああ、怪鳥です! 怪鳥が帰ってきてしまいました! 巣の倍はあろうかという肉塊を、迷うこと無く、どすーん、ばさばさばさ。







エントリ11  星と飴玉     霜野浩行


 米軍の爆撃機は、海と山に挟まれた小さな軍港町を灰燼にし、僕たちから母親を奪った。
 連日、大勝利を伝える電器屋のラジオ。けれど、それが嘘だったとわかったのは、町が瓦礫の山に変わっても、子供二人が身を寄せ合っていても、誰も助けてくれなかったからだ。
 4歳の弟を連れ、僕は山向こうの村に行くことにした。そこには疎開した友達がいる。毎日白米や新鮮な野菜が食べ放題だと、手紙をもらった。夢のような話だった。
 場所は大体わかっている。食べ物も途中の農家から盗んだ。だけど、4歳の弟にとって山道は想像以上に厳しいものだった。
 元々体が弱かった弟はたちまち弱っていった。盗んできた白米もすぐに吐き出すようになった。
 そんな弟が唐突に言った。
「飴が食べたい」
 すると、小さな腕をゆるゆると上げ、夜空を指さした。
「あれ」
 弟が何を指しているのか、わからなかった。それが「星」だと理解するのに少し時間がかかった。弟は必死になって星に手を伸ばしている。その目は深く黒ずんでいて生気がない。
 あれは飴じゃない。
 泣くのをこらえた。
「ああ、兄ちゃんと一緒に取りに行こうな」
 土気色した弟の顔が、一瞬パッと輝く。
 そして事切れた。
 僕は弟を背負い、再び暗い山道を登り始めた。
 とうとう一人になった。父は名誉の戦死。母は家の下敷きになり、弟も……。そう思った時、漠然とした不安が襲う。
 多分、僕はずっと誰かのために生きてきた。父のため、母のため、弟のため。だが今、僕は自身のために生きる事を強要されている。自由という状態。だが、それは絶望とよく似ていた。
 僕は冷たくなった弟を背負い、闇の中を進む。「飴を取りに行こう」という弟との最後の約束に、まるで赤ん坊のように縋りついた。
 ひんやりとした夜気を感じた時、僕は山頂に着いていた。周囲の山々の稜線が月明かりに照らされはっきりと見える。夜空はその稜線に乗っかり、全天を覆っていた。
 雲はない。星がよく見えた。砕いた飴の破片を空にばらまいたような星々が。
 僕は飛び上がって、星を掴もうとする。何度も。だが取れない。涙が出てきた。
 悔しい。
 人は大地を灰に出来るのに、何故星を掴めないのだろう。
 それじゃあ、湖底の魚と変わらないじゃないか――。
 そう思った時、僕は飛び上がるのを止めて、弟を手厚く葬った。
 そして山を降りた。

 弟との約束を守るため、科学者になる。

 僕はそう決意したんだ。



※作者付記: 今回の挿し話&挿し詩バトルの課題絵から。






エントリ12  味噌屋     越冬こあら


 ウィーン
「いらっしゃいませ、コンバンハ。本日はどういったお求めでしょか。今月はこちらの『青春フラッシュバックセット』がお買得ね。パイロット、スポーツ選手、モテモテキングだった過去の思い出が、節目節目に蘇ってくる優れものね。もちろん、日常作業も通常の1.5倍(当社比)の処理能力でこなしますし……」
「いや、あの、女房に勧められて、なんと言うか、故障って程じゃあないんだけど、パーツ交換かなんかで、保証期間とかで、ちょっとご相談に……」
 便利な世の中になったもんだ。脳味噌もこういう店で取り扱うようになったと妻から教えられた時には、全くの半信半疑だったが、実際、訪れてみると、確かに家電量販店と見紛うようなレイアウトに様々なセットやパーツが並んでいる。店員もコンビニ並みのミニスカネーチャンロボットだし……。
「はい、パーツ交換ね。セット購入と比べて割高感は有りますが、即効性ありますのよ。当店では、ご希望の機能をお惣菜感覚でお選び頂けます。デワ、お客様の現行脳を拝見しますんで、そちらの椅子にお掛け下さいな」
 何やら電線が幾つもついた椅子に座ると、ヘルメットを被せられた。
「はい、あらあら、だいぶん使い込んでらっしゃいますね。トラウマも多いし、女性関係も込み入っちゃって……ミナちゃん、ルミちゃん、崔小姐、ジェニー……海馬もストレスでずいぶん萎縮しちゃってますね。うーん、パーツ交換しても、半年程でまたお買い替えになっちゃいますねよ。保証期間も過ぎてますし、全トッカエが得策かなあ。全トッカエでも、手術はね、直ぐなんですよ、片耳からジュルジュルっとバキュームしつつ、反対側から、ソフトクリームみたいにニョロニョロっと入れちゃいますんで、記憶の中断も最小限ですし、まあ、耳の大きさによりますが、三、四時間でOKなんですよ」
 耳穴からニョロニョロと新しい脳味噌が入り込んで来る感じは、ずいぶん気持ち良さ気だが、長年使った自分の脳味噌がジュルジュル吸われるのは不気味だ。
 ピーピーピー、突然ヘルメットが鳴り出した。
「わっ、こっこれは、たいへんね。お客様、このままではパーツ交換も不可能です。うーん、世渡り下手なんですねえ。いえいえ、大丈夫です……」

 結局、ネーチャンロボの口車に乗せられたのかも知れないと疑いつつ、教わった道順を辿った。

 ウィーン
「へい、らっしゃいまし、魂屋へようこそ、本日はどんな魂を……」







エントリ13  メロン     るるるぶ☆どっぐちゃん


 段ボール箱を抱え、男は電車を待っている。
 小雨がぱらぱらと降り続いている。
 電車を待っているのは男のほかにはいない。駅員が時折暇つぶしなのかホームへ出てホウキをばさばさと使い掃除をする。


「久しぶりだね」
 電車を乗り継ぎ、男は会いに行く。
 旧友は変わらず、男を迎えてくれた。
「見せておくれ」
 K・トモヂロウはそう言って男にその細い腕をすっと伸ばす。男は段ボールをがさごそやり出した。
「あなたは変わらないね」
 Kは言う。
「変わる気なんて無いのだろうね」
「あなたも、変わらない」
 男は段ボールから包みを取り出し、答える。
「そんなことない。僕は変わってしまったよ。みんな変わった。みんな変わっていく。君だけだね昔のままなのは。わあこれは良いね。凄く良い。こういうのはこの街では中々手に入らないんだ」
 二人は喫茶店を出る。ふらふらと街を彷徨い、ごみバケツを蹴飛ばしながら路地を抜け、二人は大きなデパートへ入る。
 エスカレータを二人並んで上っていく。
「さあ、これでどうだい」
 男は口ごもる。どう、って言われても。
「とても良いんじゃあないかと思うのだけれどね」
 書店に並んだ本の上に、男の作ったメロンが置かれている。
 Kが置いたのだ。
「悪くは無いね」
 男は辛うじてそれだけを答える。

「乾杯」
 レストランで二人は乾杯する。
「君という人間はいつまでたっても解らないね」
「何が」
「凄く、何ていうか、解らないよ」
 Kはそう言ってグラス越しに男を見つめた。
「君みたいな人が僕と付き合いを続けてくれて本当に有難く思う」
 儚げな首筋。細い手首。長い睫毛のついた瞼。それをゆっくりと動かして瞬きしながらKは男を見つめている。
「俺だって、お前が解らない。いや、解ることなんて他にもあまりない。俺はあまり頭が良くないから」
 手の触れられそうな位置にKが居た。
 触れたらどうなるのだろう。男は思う。
 きっと、壊れてしまう。太陽が砕け散るようにばらばらに、壊れてしまうんだ。男はそのように思う。
「乾杯」

 男はホームに降り立つ。帰り着いた時にはもう日が随分暮れてしまっていた。駅員に会釈をし、男は家へ帰る。
 帰ってからも僅かな光を頼りに男は畑に立った。鍬を持ち、大地へと打ち付ける。何度も何度も何度も。憎んでいるかのように男は鍬を打ち付け続ける。動けなくなるまで鍬を振るい続ける。
 そうしてそのまま、泥のような眠りの中へと男は落ちていく。







エントリ14  パッセンジャー     アナトー・シキソ


走り続けるでかいバスの腹の下にへばり付いている。
ゴンゴンとすごい機械音。においも強烈で脳みそがやられそうだ。
けど、高速道路をひたすら走っている。
どうしようもない。
手を離せば、くるくるっと転がって脱出できるかもしれないけど、どうだろ?
バスの下をすり抜けて喜んだところで、後続車にキュッとイカれるかも。
まあ、止まるまではどうにもならない。
それに、もうすぐサービスエリアじゃないかな。
そんな夢を見て、目が覚めると、僕は木箱のような寝台の中にいた。
棺桶じゃない。
横に円い小さな窓がついている。船窓だ。海が見えた。
さっきからゴンゴンうるさかったのは、僕の真下が船の機関室だからだ。
おお、起きたかと、船長が言う。
船長というか、漁船だから船頭だ。
けどまあ、船長だ
僕はコンパスをのぞき込む。
北に向かってる。正確には北北西。
ホクホクセイ。

港に着いた。
岸壁に降り立った僕に、船長が手を振る。
船は去り、三つ揃いの僕は岸壁の上でまだユラユラしてる。
ずっと小さな船の上で揺られてたせいだ。
陸に立ってもまだユラユラする。

岸壁の上で書類鞄を開ける。
戦争中にドイツ海軍の将校からもらったというじいちゃんの形見。
完全防水で、水に浮くから浮き輪代わりになる。
大学ノートに時刻と日付を書き込む。

少し遅れている。

書類鞄を提げて、岸壁を歩いていく。
網を手入れする漁師のじいさんが僕を指差す。
アテク、アテクと聞こえる何かを言ってる。
本当はなんと言ってるのか全然分からない。

階段を下りる。
コンクリートの、干上がった排水溝の中を上流に向かって歩く。
排水溝は広くて長い。
折れ曲がった排水溝の中をグルグル進む。
軽トラが逆さに落ちて潰れている横を通り過ぎる。
仰向けに口を開けた冷蔵庫から、何かの植物が生えてる。
その回りを青い蝶々がぴらぴら飛んでる。
他にもある。
ビールケース、パソコンのモニター、束ねた雑誌。
それから……ありゃ何だ?
人か?

散々歩いて、やっと行き止まり。
破れたソファと、倒れたロッカー。
その二つを踏み台にして、排水溝から這い上がると、目にも鮮やかな芝生の緑。
やれやれ。
僕は円筒形の白い建物を見上げる。
このホテルだ。

「いらっしゃいませ」
「部屋、あるかな?」
「はい。ご予約を承っておりますので」
「いや、予約は入れてないんだけど」
「いえ、あちらのお客様から」
見ると、ロビーのソファにバスの運転手風の男。
僕にウインクして、グイっと親指を立ててみせる。







エントリ15  ワイルドフラワー・ガーデン     棗樹


 その光景をわたしはけして忘れないだろう。
 空はまだ暗く霞んでいたが、じっと立っていると東の山の端から朝の最初の光線が現れ、夜の名残に少しずつ浸透していくのがわかった。気がつくと、頭上にまで、うっすらと金粉を掃いたような青空がひろがり、澄みきった空気の訪れを予感させた。
 わたしは、日の出前の寒さに震えながら、朝露に濡れた花を見つめていた。コスモスに矢車草、ヘリオトロープ、ナデシコ、桔梗、白地にオレンジの斑のある野生の百合、そして名前もわからない小さな花達が、山裾に広がる田んぼの中で入り乱れて咲いていた。茎や葉は細かい水滴に覆われて銀色に光り、開いたばかりの花びらのきわを一層淡く可憐に見せていた。
「どうや?」
 傍らに立っていた伯父がたずねる。
「どうって、すごいわ」
 わたしは、昨夜から彼と口をきいていなかったことも忘れて答えた。
「田んぼ三枚つぶしたけんな」
 口の端を曲げてつぶやいた伯父は、「お前の親父には参った」と付け加えた。けれど、横顔はまんざらでもなさそうだ。
「春先、田んぼ一枚貸してくれっち頼まれて貸してやったら、下の二枚まで勝手に耕して種を蒔いとってな。気づいたときには芽がびっしり出ちょって、そりゃたまげたで。一度くらいお前のために何かさせてくれっち両手を合わすもんじゃけん、返せとも言えんじゃったわ」
 男は娘に「父」と呼ばれることのないまま死んだ。わたしは仏前で初めて、それまで父と思っていた人が伯父であり、本当の父親は彼の弟であったことを知った。
 「父」は若い頃から、人に言いにくい場所と繁華街を往復しながら生きていて、わたしが生まれたときもそこに入っていたそうだ。わたしを産んだ人もすぐに行方をくらましてしまったので自分たち夫婦が引き取った、と伯父は教えてくれた。
 花畑から帰る道すがら、伯父はひとりでしゃべっていた。山の上にようやく姿をあらわした太陽が、わたし達に長く黒い影を引きずらせる。
 不意に伯父が立ち止まって、地面にかがみ込んだ。喪服に包まれた背中と肩が目の前にさらされた。十九年間無条件に甘えてきた頑強な体が、ひどく薄く骨張って見える。手をのばそうとしたとき、伯父はズボンの裾に絡みついた蜘蛛の巣をはらって立ち上がった。
 ねばつく大きな手を握った。そんなことをするのは何年ぶりだったろう。伯父は目を細め、あれを見られてよかったな、とささやいた。うん、とつぶやいた。