第93回1000字小説バトル

01「小さい人劇場 恋の行方」ようこさん。1000
02なくしものは何ですか君繋1000
03俺と藤田揺転1000
04遠くへ行く日越冬こあら1000
05鈍行ぼんより1000
06ねぇ藤原ララ1000
07典型的シチュエーションに関する考察――手紙締めごんぱち1000
08ヒタル千希1000
09きのうのけむりとむOK1000
10いきいき守護霊の舞1000
11あの男は死んだが、我々は生きている(私も生きている)。驚異的である。るるるぶ☆どっぐちゃん1000
 
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エントリ01  「小さい人劇場 恋の行方」     ようこさん。


 入田麻子(いりたまこ)の人生に佐藤登志夫(さとうとしお)はなくてはならない存在だった。ところが柿田真子(かきたまこ)も佐藤登志夫を必要としており三人の関係は一触即発の危機を孕み膠着していた。二人のマコは登志夫抜きの自分など考えられないとまで思いつめており、そうまで望まれた佐藤登志夫の決断のみがこの不気味な均衡を破る手立てなのだが、この男生まれて此の方、事に白黒をつけるなんてした事がない。じりじり焦がれるマコ達はこのまま賞味期限が切れてしまうのではと誰もが案じていた。登志夫の兄の章優(しょうゆう)も三人を身近で心配しつつ内心二人のマコには自分の方が合うと思っていた、それならそうと割り込めば良いのにこの男がまた煮え切らず真子か麻子かを決めかねている』と、ここまで書いてお勝手へ行きコーヒーでも入れようと湯沸しを火にかけた。いつもならここから急展開していく廊下もお勝手も玄関も深としており誰の気配もない。あたりまえだ、これが普通だ、そうだ、そうに決まっている。そういえば今日は庭野もいなかった庭野がいなかったら消ゴムかすは誰がかたずけるのだ?不安が私を打ちのめしコーヒーを入れながら不覚にも泣けてきた泣きながら頂き物のクッキーの缶をパカンと開ける。いつもなら缶にはびっしりまりちゃん達が詰まっている・・だのに、今日は本物のクッキーしか入っていない、あふれる涙をぬぐいながらクッキーを食べ、捨てきれない期待の赴くままに缶底のプチプチもめくってみたが誰もいない。しかたがない、いつかそんな日も来ると思っていたその日が来たってだけなのだ、涙でかすむ目を上げてふと窓から外を見た、住み慣れた住宅街の一角がなにやら不自然に明るく安っぽい電飾がまたたいている、なんだ、みんな外にいたのかと思ったらほっとうれしくまた泣けて来た。行ってみると午前中にもかかわらず店は酔客で満員で入り口近くの庭野宗治と目があった、やっぱりここにいたんだな。狭いダンスフロアで見覚えのある二人が踊っている佐藤登志夫と入田真子だ、なるほど二人がそうなって?柿田麻子は潮床翔(しおとこしょう)とうっとり踊っている、いや〜いったいどういう展開だったのか知りたかったなあ、しかしいまさら聞くのも野暮だしなあ。小さなステージでは雪都まり(ゆきづまり)の歌謡ショーが始まった♪いぃじゃ〜ないの〜今が〜よぉけりゃ〜♪そうだそうだ!いいんだこれで。



※作者付記: 作中雪都まり歌唱のうたは佐良直美さんがうたわれた「いいじゃないの幸せならば」岩谷時子作詞いずみたく作曲であります。






エントリ02  なくしものは何ですか     君繋


 それは桜の花がほとんど散ってしまった少し後のことで、地面の色が一年のうちで一番白黒にはっきりと分かれる頃のことで、コロが死んでしまった。
 コロというのは僕の飼っていた犬のことで、散歩に行く度よくボールで遊んだ仲で、そして祖母が買ってくれた犬であった。
 それからしばらくして、地面の色は黒優勢の時期に戻った頃のこと、僕は彼女と別れた。
 彼女は僕にとっての初めての人で、でも彼女にとってはそうではなくて、彼女にとって僕はどうもゆるい存在だったらしく、それは彼女に言われた事であり、ならばそうなのかと納得してしまう自分はやはり彼女の言う通りの人間なのかもしれない。
 そして、地面の向こうの方が揺れる頃になって祖母が死んだ。
 祖母は僕に買ってくれた犬のコロと僕同様に仲がよく、僕がコロとボールで遊んだ場所は祖母の家の庭で、僕がボールを投げても祖母が呼べばそちらに行ってしまう、祖母とコロはそういう仲であった。
 そんな祖母だから、コロのことは孫の僕同等に大切に思ってくれており、コロが死んでからめっきり生きる気力をなくして、そして今回のことに至ったというわけではない。
 僕はこのところ立て続けに沢山のものを失くしており、辛く、落ち込んでいる。しかしコロが死んでから行った祖母の家で、祖母は元気をなくしているということはなく、それは決して気丈に振舞っている様子でもなく、僕と別れた後の彼女もまた、祖母と同じく気を落とすことはなく、祖母が死ぬ前に新しい彼氏が出来たという話を聞いた。
 失くした者達は僕を除いて皆強く、過ごしていた。僕は今となっては馬鹿だったと思う質問を祖母にしたことがあり、それはコロが死んでしまったあとのことだった。
「おばあちゃんは、コロが死んで悲しくないの?」
「もちろん、悲しいよ。でもね、大事なものはちゃんとコロともう見つけてあるから」
 どんなものにも、どんなことでも、別れはいつか必ず来るものであり、つまり、失くしてしまうことは避けられないわけで、関係というのは投げたボールを返して貰えばそれでいいものではなく、限りあるやり取りの中で、自分に投げ返してくれた訳をちゃんと考えなければならないのだ。
 僕のこの馬鹿な質問に対する祖母の答えを思い出したのが、地面の色が褐色系染まりだすころのこと。僕は次に何かを失くしてしまう前に、何を失くしても後悔しないようにこれからを過ごさなければならない。







エントリ03  俺と     藤田揺転


 憂鬱な時お前はいつでも、ミルククラウンが見たいと言って、グラスを掲げて机に牛乳を零したけれど、俺達の望む瞬間なんてものは、そう簡単に人前に姿を見せはしないという事を、ただ徒に悟るだけだった。逆に言えば俺達の人生は、目では見えない瞬間の、それこそエベレスト級の積み重ねで出来てるんだって、そんな言葉を、胸の中で玩ぶ。

 夜のお前はいつでも、月を探して、曇った空には涼しい顔で「おやすみ」と言うけれど、晴れた空にも月のでない夜はあって、お前は月を探し回る。「月がいない」と辛そうに言う。そんな時俺は、世界は何もお前を中心に回っている訳じゃないんだからと言ってやりたくなる。だけどお前は、「月、大丈夫かな?」なんて、病気の友達でも心配するみたいに言うから、月よりもお前の事の方が心配な俺は、お前に比べたら永遠ともいえる時間と美しさをもっている月が妬ましくて、「死んだのかもな」なんて答える。そうするとお前は不安を露にしてじっと俯くので、そんなお前を見て、俺の輝くことのできるお前の夜はあるのかと、そんな恥ずかしい問いを灰色の自分の中で響かせる。

 朝のお前はいつでも俺に、雨が降っていないかと訊ねる。俺が降ってないと答えると、お前は詰らなさそうにして、それでもベランダに出て確かめる。霧雨も降っていないと、確認したお前は、「降ってないよ」と俺に言う。俺の身からしたら雨など降らないほうがいいのだとも思うけれど、もしも雨の日ならお前はいつでも幸せそうに雨音を聞いて、寝椅子の上でたゆたうので、俺もすこし残念そうにする。

 「あんた」と俺を呼ばわるときお前はいつでも、頬を紅くして、黒い目を輝かせるので、返って俺は嬉しくなったりして、顔は殊勝に繕いながら腹の中でニヤニヤする。お前の心臓を燃えさせるのが怒りであっても、その時こそお前は生を鮮やかに咲かせるから。だから俺が何もかもキスで解決しようとするのは、それが強引な手段だからじゃなくて、瞬間お前が美しすぎるからだ。

 寒いときお前はいつでも、ストーヴを点けないで欲しいという。暖房を付ければ確実に温い幸せがやってくるのだと、知っていてそう言う。「嫌悪と関係のない冷たさって、優しいじゃない」と言う。俺はお前が、暖かくして、それで幸福でいてくれればと思うが、冷気に当てられて流れ出すお前の涙の美しさに、魅入ったりもする。お互いの息の白さにはしゃいだりもする、俺達。



※作者付記: 原文はどこも削りたくなかった。それを二つに分けて、なおかつ削って削って、ホント、血が出ています。






エントリ04  遠くへ行く日     越冬こあら


 はいはい、どなたです。『タロやタロ』って、ずいぶん畏まった呼びかけですねえ。いや、もう少し首を回せば、どなたがお呼びか、わかるんですけど、ほら、見て下さいな、肩のところをジロ君が枕にしてるもんでね、あんまり回せないんですよ。
 いえね、寝つきが悪いんですよこのジロ君がまた、さっきやっと話を終えて、うとうとっとし始めたところで……寝入りばなが大事なんです。このままスーッと、五、六時間寝てくれると、ジロ君も実に機嫌が良い。もう、こっちの言うことなんか『はい、はい』って、つまり『ワン、ワン』って聞いてくれるんですよ。

 話はね、ドッグフードの味わい方みたいなことで、
『開けたての缶詰が一番やなあ』
とか、
『ひと口の中の野菜と肉のバランスが肝心やなあ』
とかいった他愛のない話でして、しかしまあ、こう見えてジロ君もなかなか語りますんでね、私も口じゃあ負けませんから、ドッグフードから、犬の幸福、生まれかわりみたいなことになって、
『今度は人間がええかなあ』
なんて言ったりして、ジロ君は白やから……『白犬は人間に近い』ってよく言いますでしょう。
 ああじゃん、こうじゃん言いながら、結局は、
『歯ごたえが良いのは輪ゴムだなあ』
なんて、元の話に戻ったりして……。
 ああ、失礼しました。で、何でしたかな。ご用事の向きは、はあ、ええ『遠くへ行く日』ですか……。

 そう言われましても、急には、出て行かれませんよ。日が昇って、坊ちゃんが眠たい眼ぇ擦って、
『タロ、ジロ散歩やぞ』
っておいでになったとき、犬小屋がもぬけの空じゃあ、吃驚されるのと違いますか。え、ジロ君はこのまま、ここに居ますんですか。私だけ、そんな、何か忽然と消えたみたいで、ええ、それが良いんですか、
『色即是空、空即是色、天下の法をシラシメル』
って、なんかのマジナイですか。違うの。教育、はあ、そういうもんですか。それでちょくちょく『迷い犬』がでるんですか。

 遠くって、東京辺りまで行きますか。青森。まさか、日本を離れるとか、仰らないで下さいよ。船ならまだしも、飛行機なんて、犬の乗るもんと違いますから、そんなん乗ったら、神様のバチが当たりますから。え、何笑ってますの。『バチは当てん』って、貴方が仰っても……ははあ、わかった。

 まあ、今回はこれとして、次は白犬、その次辺りで人間にして貰いましょうか。どっちかっていうと、女子がええなあ……いろいろ試せるし……。







エントリ05  鈍行     ぼんより


 夜の河川敷を越えて。
 小さく揺れる鈍行の赤いシートに体を預けていると、ふっと力が抜ける。斜に傾く体に、ずれるカーディガンのフード。両の手で弱く握ったメッセンジャーバッグを抱きしめて目を閉じてみる。
 家にビールが一本残ってたっけ。みかんの食べ残り、片付けたかな。散りばめられた街の明かりが見えると鈍行は緩やかなカーヴに差し掛かって、私はメッセンジャーバッグから飴を取り出した。
「ねぇ、そこ解れてるよ」
「ん?……んん、ああ」
 懐かしい女が右に座っている。当時のままの姿。ショートカットの凛とした可愛らしい髪型に薄化粧の頬と、無愛想な佇まい。本当に久しぶりだ。
「何の匂いこれ? 飴食べてるの?」
「そうだよ、それにしても久しぶりだね」
「そうね、それよりみっともないから早く右肩の解れ直したほうがいいわよ」
 駅名を告げる車内アナウンスが響いて、女は立ちあがる。ドアに向かいながら一言、振り返らずに告げる。
「じゃあね」
 私はただ見送るだけ。
 表情も変えないで。
 声も出さないで。
 女の後姿をじっと見つめて。
 女が降りた駅を過ぎると口の中の飴が全部溶けて、薄荷の匂いが鼻を通り抜けた。
 私はまだ、鈍行に乗っている。

 ポケットの携帯がぶるぶると震えた。メールだ。登録してないアドレスからのメールだった。内容は、何もない。私はため息をついて携帯をポケットにしまった。
「まだアドレス変わってなかったんだね」
「え?……ああ、そうだよ。きみは変わったんだね」
 さっきとは別の懐かしい女が左に座っている。携帯の画面に視線を落としながら私に話しかけるところを察するに、今の空メールはこの女からだろう。
「疲れてるんじゃない? 表情虚ろだよ」
「そうか?」
「うん」
「そうか」
 出会い始めの頃、女はよく笑った。楽しそうに笑っていた。一緒に酒を呑んで笑い、一緒に食堂でメシを食べながら笑い、一緒に仕事をしながら笑い、いつの間にか、笑わなくなった。
 私も、笑わなくなった。
「あ、私ここで降りるね」
 再び駅名を告げる車内アナウンスが響いて、ドアが開くと同時に女はさっと降りていく。
 あ、という声にならない声をあげた私の口は半開きになってしまい、なんとも情けなかった。


 閑散とした景色が車窓から流れてくる。今夜は月明かりがとても綺麗だ。
 鈍行は終点に近づいて、また緩やかなカーヴを描き始める。ふと気づけば乗客はただ一人、私。
 少しだけ、眠い。







エントリ06  ねぇ     藤原ララ


 駅を出ると突然雨が降り出すのね。慌てて駅に戻ってしばらく雨宿りをするんだけどまったく止みそうになくてさ。家まで歩いて15分の距離をこの雨の中濡れて帰るのもいやだし、かといってコンビニで傘を買うのも何か悔しいし、あ〜あこんな時かっこいい男の人がそっと近づいてきて「どうぞ」とか言って傘に入れてくれたらなぁとか思ってちょこんと佇んで待ってみるんだけど誰も声をかけてくれないし雨も何だか強くなってきてる気がするし、もういいやって仕方なくコンビニで一本500円の傘を買って家に帰ろうと歩き出したら雨が止んできて、何だそりゃって傘を閉じるんだけどその瞬間に私の横を通りすぎたバカみたいにスピードを出した車が水たまりの上を通って水を跳ね飛ばして私の体をビショビショにするの。怒った私は手に持った傘をその車に向けて放り投げてやってそのまま帰るんだけど、そしたらまた雨が降ってきて、うそだぁって思うけどもう濡れてるから別にどうでもいいやってなって走らずに鼻歌を口ずさみながら歩いて帰ってずぶ濡れで部屋に着くの。部屋の中に入るととりあえずカバンを放り投げて着てるものを全部脱ぎ散らかしてお風呂に入って私の体にまとわりついた雨水を熱いシャワーで一気に洗い流してやるのね。お風呂から出てやっと落ち着いて髪をドライヤーで乾かしながらテレビをつけて見るんだけど画面に映ってる人たちが大笑いしてるのが何が面白いのか私にはさっぱりわからないしおもしろくないからすぐに消してCDをかけるの。最近お気に入りのジャズ。女の人が恋のはじまりをきれいな声でうたうようなジャズが特に好きだわ。ラララ〜あなたの事を考えると胸が痛いの♪ とか言ってね。そうしてるとお腹がグルッと鳴って空腹に気がついたから何か食べようと冷蔵庫を覗いてみるんだけどビールとキャベツしか入ってなくて、おいおいって思うけど外はまだ雨だしお風呂も入ったし今から買い物に行く気なんて全くしないからとりあえずちぎったキャベツをかじりながらビールをあけて飲んでるんだけど、そしたら電話が鳴って出るとお母さんからだって、元気でやってるの? とかちゃんとご飯食べてるの? とか聞いてくるから大丈夫だってばなんて強がってちょっといま忙しいからもう切るねって言って切って一人でまたキャベツをかじりながらちびちびとビールを飲んでると、きっと泣いちゃうと思うから、だから、ねぇ私と結婚しようよ。







エントリ07  典型的シチュエーションに関する考察――手紙締め     ごんぱち


「……これは」
 姑の黒山利子の引き出しを片付けていた美佐代は、ふと手を止める。
「どうしたんだい、美佐代?」
 夫の広伸が尋ねる。
「あなた、これ」
 美佐代の手には、一通の封筒があった。
 表には「美佐代さんへ」と書かれていた。
「オフクロが? あんなに美佐代の事を嫌ってたのに」
 広伸は封筒を受け取ろうと手を伸ばす。
「待って!」
 美佐代は封筒を引っ込める。
「これ読む気?」
「ごめん。美佐代宛だもんな」
「そういう話じゃないわよ」
 封筒をパタパタさせながら、美佐代は肩をすくめる。
「これ読むんだら、間違いなく、お義母さんがいい人で、あたしたち悪役になるわよ」
「え? あのサディストでエゴイストな上にスーパーで万引きを繰り返してたオフクロがいい人?」
「そうよ、いくら、あなたを虐待&あなたのお兄さんを虐待死させた容疑で懲役二十年を喰らって、ヤクザの情婦になって人々をさんざいじめ抜いて、歳を取ったら取ったで人に相手にされない腹いせに毎日牛肉五〇〇グラムパックを万引きしては捕まって逆ギレして暴れるようなお義母さんでもよ」
「でもさ、あれだけの人の印象をすっかり変えてしまえるもんかな?」
「それが死後の手紙マジックってもんよ。殺人なら二十人ぐらいまで同情されるわね」
「でも実の息子の虐待死はダメだろう?」
「分からないわよ。実は殺されたお兄さんは、強姦同然にやられた時に出来た子供で、見れば見るほどその男の顔を思い出してしまって、ついつい手を出してしまった、とか」
「だって、裁判の時そんな事言ってなかったぞ?」
「だからこそよ。殺した後に、罪の意識が芽生えて、本当の事を隠したとか何とか言っといたら?」
「……なんか凄く反省してるっぽく聞こえるな」
「でしょ? 万引きだってあなた、殺してしまった息子に、せめて食べさせてやりたかった、とか何とか」
「なんか、腹立って来るなぁ、どうするよ、その手紙」
「ケツ拭いて便所に流しましょ、それが良いわ」
「お、ナイスアイデア!」

 用を済ませた美佐代は、封筒を破いてから、もみほぐして柔らかくしようとする。
 その時。
 大きな太い文字で、たった一文だけが、目に入った。
『ありがとう』
「……し、しまった、畜生!」
 破れた手紙から目が離せない、涙がこぼれ、鼻水がたれ、嗚咽が洩れる。
「ち、畜生、あのババア!」
 美佐代は何度も何度もその、たった一文を繰り返し読み続けた。
 下半身を丸出しにしたままで。







エントリ08  ヒタル     千希


 爪先からゆっくりと液体に浸っていく。
 触れた足先の肌は痛いほどの冷たさを訴え、思わず脚の筋肉が引き攣った。じわじわと這い上がって来る液面は粘度が高く大部分は揺らがない。私の足の甲を這うその周りだけが微かに震える。肌の表面は接する液体を弾いて僅かに窪んでいて、その囲むラインだけが刺す様な痛みを伝えていた。
 ラインが足首まで達した時点で気づく。そこを境に、感覚が消失していた。視覚では確かに存在する足首から先、淡い桃色の液体に包まれたそれを私の体は認識していなかった。触れる液体の触感はもとより、完全に沈んだ足指が随意筋であることの実感すらもわかない。先までそれが自由に動いていた事が不思議だった。私の意識という血流がそのラインの手前で全てUターンしているように感じる。不快感はなかったが、酷く空虚な心持ちがした。
 膝までが私から奪われた。もう足首の動かし方も忘れてしまった。ラインが伝える痛みは鮮烈さを増している。傷が疼くぬるい痛みではない、カミソリを横に引くその瞬間、肌が裂かれる一瞬の新鮮な痛みが私の肌を這い上り、大腿を削り取っていく。
 ラインが性器に達した。液体は隙間無く表面を覆い、同時に内部をも埋め尽くしていく。凍る様な痛みが内と外から私を埋めていく。粘膜を這い、僅かなオウトツをも正確に舐めていく痛みは声にならない程だった。だがそれは同時に圧倒的な充足感を私にもたらした。足りないものが埋められる、満たされる快感。
 やがて性器と臀部も失った。液面は下腹に達する。そこで私は頭の上で組んでいた両腕の存在を思い出した。長年連れ添ったそれらに別れを告げて、ゆっくりとラインを潜らせていく。自ら身体を差し出すその行為は奇妙な陶酔を生んだ。拘束され、縛られていく時の心持ちにそれは似ていた。
 肩を全て下ろしてしまうとラインは乳房に到達していた。半球上の表面を丁寧に形通りになぞり、徐々に背筋を分断し、鎖骨を越え、喉を舐め上げ、とうとう、顔が呑まれる。口唇、鼻、耳、閉じていた目蓋はラインに溶かされて消えたが私は前を見ていた。眼球だけが残っているのか、それとも視覚だけを残されたのかは分からない。私はただ呆然と、目の前の巨大な眼球と見つめあっていた。

 テーブルに置かれたガラス製の容器を、幼い少女が見つめていた。円柱状のその容器の中には薄桃色の液体に浮かぶ小さな人間。
 少女は嬉しそうに笑っている。







エントリ09  きのうのけむり     とむOK


 浅い海底のような蒼闇の中で電話が鳴る。男は受話器を上げる。
「あ、あの…」
 黒い受話器には幾つかの穴が開いていて、そこから女の声が漏れ聞こえる。
「やあ」
「やっと届いたのね」
 安堵の吐息に、甘えるような幼い響きが混じる。声は少し遠い。
「初めて?」
「え?」
 男の部屋には古い電話機のほか何もない。そういう仕事だ。窓には街灯ひとつ見えない石炭の闇が嵌め込まれて、部屋はどこまでも閉じている。
「ここにかけるのは、初めて?」
「…ええ」
「最初にルールを説明するよ」
「ルール?」
「そう。ルールは一つ。君は昨日の話をする。僕はそれを聞く」
「それだけ?」
「整理されゆく記憶回路に、安息は生まれる」
「なぜ?」
 男は穴の深さを女の声音で確かめる。自分の耳の傍に開いている穴の深さを。
「ねえ。どうやって番号を知ったかわからないけど、議論で安らげるタフな人なら他を…」
「ずっと呼んでたのよ。初めてキスしてくれた日から」
 受話器の奥の闇に男は記憶を辿る。耳に届く息遣いは記憶でなく身体に吹きかけて、埋み火をかすかに熾した。
「君にキスなんかしてないし、会ったこともない」
 昨日とは終わりという意味だ。終わりは終わりでなければならない。今日を揺さぶってはいけない。彼に通じる回線は、終わりを繰り返し確かめるための簡潔な装置だ。
「頼むよ。こんな風に話していることを知られたら、後で僕が叱られるんだ」
 長い沈黙。彼女の息が少しずつ遠くなる。二人を包んだ石炭闇に、熾火の朱がまだ消えない。
「昨日の話ね」
「昨日の話だ」
「きのうのけむり」
「きのうのけむり?」
「河口近くの工場の煙突が昨日出してた煙よ。今日という日になると誰もが讃えてやまないの。その過ぎ去った美しさを。工場はそれを缶詰にして売ってるのよ」
「それは良いね」
「本当にそう思う?」
「本当さ」
「缶詰はどうなると思う?」
「さあ」
「私が全部壊すのよ」
「困ったな」
「話はおしまい。今から会えない?」
「何度も言うけどルール違反なんだ。僕は君の話を聞くためにここにいる。昨日の話をね。誰もがそのために僕に電話する。その気がないならもう切るよ」
「バカね。誰から電話が来るって? 今まで一本でもかかって来たの?」
 男は電話を待つ仕事について考える。しかし思い出せない。誰と話しただろう。一体誰の電話を待っていたんだ? 受話器の奥で声がゆらめく。
「ねえ。私、あなたのすぐ近くにいるのよ。ずっと前から」



※作者付記: テーマ「汽水域」第二章






エントリ10  いきいき守護霊の舞     葱


 観葉植物に桜様の花開き、雲多き空ぱっくりと切り開きぬである。
「急に晴れたよ?(あれ、パキラって花咲くっけ?)」
 男白々しく女に問い、女億劫気に答えようとして満面の笑みを浮かべる。
「それがどうかした?」
「何で笑ってんの?」
 女苛立たしげに知らないわよ、と呟くも男から顔を背けることならぬのである。男不思議そうに女を眺めて真意を計ろうとするもどうにもならぬ。
「晴れてるならスーパー行って来てよ」
「えー」
 言いながら男は寝間着を脱ぎ捨てチャキチャキと着換えを始める。女もつられて薄化粧をするのです。
「あれ、どこ行くの?」
 男はとぼけた顔で問う。女は真顔で男と同じ行き先を言いますです。
「スーパーよ」
 男は黙々と着換え、マンションの外に出、女を待つのである。女は感が鋭いです。女が外着に着換えて出て来、私の存在に気付く気がしますである。
「ねえ、さっきから変な声が聞こえる気がするんだけど…」
「何が?」
 二人は歩き始めるである。無論手を繋ぐこと厭わない。何故厭う必要がある? なんでやねんである。
「何か、俺もおかしい気がしてきた…」
「ねえ」
 おや、二人の表情が固い。笑いを誘う言葉を。
「さっきから何でニヤニヤしてんの?」
「そっちだって引きつってるわよ」
「買いもんが終わったら荷物まとめるよ」
 YESを言わせてはならぬである。気を抜いてしまったのです。男に台詞を言わせてしまった。行かないで、であるか。どうか。
「久し振りに海鮮パスタが食いてーな」
「……イカないで」
「買えばいいじゃん」
 女の性格上考慮を忘却。男とて気は同じはずである。男側から接触を試みるべし。どういうか、会話の文脈を考慮するべきはずである。
「あのさ、俺、別れたくないんだけど」
「はあ?」
 女の怪訝な顔。直球無効か。男の性格考慮を忘却。まるで子供の如き素直。軌道修正するである。
「ごめん、今の修正」
「しゅうせい?」
 混乱が混乱を呼び、我が手違いも相まって、無知の嵐。再び女に接触を試みるべき。我が確固たる自己を持たなくてどうするである。
 どうする。言わせる。私も。
「あたしも。…って聞こえた」
「……俺も。テレパシー?」
 我失態。大失態。大混乱。遁走。何処へ。二人は何処へ。我は誰? 二人笑ってる。何故。我を笑う。我を理解した? 不条理。可笑しな話。我に残りし全ての言葉を。孤独を嫌悪。我も同調。傍にいることを望む。また花咲かぬ草に花咲かせてでも。







エントリ11  あの男は死んだが、我々は生きている(私も生きている)。驚異的である。     るるるぶ☆どっぐちゃん


 信号機の三色を赤、青、黄色に決めたのはバックミンスター・フラー博士であったが、それではパンクの創始者は誰だっただろうか。ラモーンズで良いのか? と男は気になりだして、本棚に向かった。
 男は一人で暮らしていた。娘が一人いるが一緒には暮らしていない。娘は片目だった。片目部隊の一員なのだった。あまねく総ての片目の人は、片目部隊に入らなければならない。数年前に世界中で身体が腐って溶けてしまう奇病が流行したあの時、娘は片目を失った。
 その娘が今日休暇で帰ってくる。夕飯を共に食べようと思い、男はキッチンに向かっていたのだが、パンクのことが気になりだしてしまった。男は本棚に向かう。
 男の家の本棚は立派なものであった。本棚に住んでいると言っても良いくらいに立派であった。三階まで吹き抜けになっていて、その壁一面にずらりと本が並んでいる。男は螺旋階段を昇る。上から手をつけるつもりだ。
「どこかな、パンクの本は。見つからないな。これか? 違うな」
 手当たり次第に本を調べていく。


「ただいま」
 娘は暮れかけた明かりの中、螺旋階段に座って本を読む父を見上げた。
「ああ。おかえり」
「最近は信号の青色が綺麗なのね。街中できらきら光ってた」
「青色発光ダイオードなんて開発したらしいからね。信号の青で金儲けを企むなんて。博士が聞いたら泣くよ」
「良いじゃない。綺麗で」
「ああ、この本も違うな。最近の本は全部こんなのなのかい? 全然駄目だね。なっちゃあいないよ。タイトルと、途中までは良いんだがなあ。オチが無いんだよ。何を言いたいのか解らないよ。途中までは良いんだがなあ」
「良いのよ。オチだとかきちんとしたお話だとか主張だとか整合性だとか、そういうものを人類は遂に諦めたのだから。そういうものを金輪際拒否することに人類は決めたのだから。それこそが人類の究極的な進化であり、リニアな思考からノンリニアな思考へ解き放たれることによって、ええと、なんだっけ。教科書読めば載ってるんだけど。とにかくそういうことよ。人類は救われたのよ」
「つまらないな」
「そんなことを言うと身体が腐るわよ」
「そうだね。まあ掛けなさい。ご飯を作ってあげよう」
 男は階段を昇り、屋上へと出る。
 屋上には小さな菜園がある。
 昨日の風で、温室がめちゃめちゃに壊れていた。
 良くあることだ。男は気にしない。きらきら光るガラスを器用に踏み分け、男は野菜を摘み始める。