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3000字小説バトル

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3000字小説バトルstage3
第7回バトル 作品

参加作品一覧

(2016年 2月)
文字数
1
サヌキマオ
3000
2
緋川コナツ
3000
3
植木
3000
4
アレシア・モード
3000
5
夢野久作
2586

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阿弥諾寺落とし
サヌキマオ

 この物語をはじめるにあたって当事者に執筆許可を得たところ、ミミミは「どうぞ」と一言、デボゲレアクロシェンモからは十万円を要求された。
「だってそうでしょ。使用するのよあたしを。使用されるのよあたしは」
 流石に高いのではないかという提示に対し「じゃあ使用ついでにアタシとしよう。アタシとお布団の上で二時間くんずほぐれつして小説だかなんだかに使用されてセットで十万。どうよどうよ」
 前作をお読みでない、もしくはご案内のない方に説明するとデボゲレアクロシェンモとは古代パノン語で「大いなる美の神のしもべ」という意味らしい。長いし美しくないという理由でミミミはクロシェと呼んでいたが、デボゲレアクロシェンモの母親に「うちの子のことを『しもべ』なんて呼ばないで!」と怒られるので仕方なく母親の前でだけフルで呼んでいる。本人はデボゲレ(美の神)と呼ぶにふさわしいくらい美しいんだけど。おっぱいも大きいし。
 そういったことを踏まえた上で、始まる話があってもいいじゃない。

「遊ぶって言ったじゃん遊ぶって言ったじゃん遊ぶって言ったじゃん遊ぶって言ったじゃんっミミミせんぱいっ!」
 アタシの家の前まで押しかけてきたクロシェは壊れた機械のように不平不満をセミオートで射出する。ピンクのダウンジャケットにオレンジのマフラーが冬の夕日に照らされて、空気に溶け込みかけている。
「だからサあーねぇ、オソーシキなんだわさクロちゃんよ」
「オソーシキってなんだい、楽しいことかい」
「うちのバイト先の店長さんがずっと入院してたんだけど死んぢゃってね、なんか……オツヤだっけ、とにかくお参りに行くんだよ。お参り」
「あんたバイトなんかしてたの!?」
「してたよバイトー。クロちゃんと一緒にいる時間以外はすげーバイトしてたよバイト!」
「すげーバイトすげー! 何の?」
「とにかく」アタシはごく自然な形で話題を切り上げる。「今日は六時から、なんだっけ、お寺に行かねばならんのですよいいですかクロちゃんさん」
「よくわかんねえけど、それってアタシもついてっていいやつ?」
 よくないかもしれないが、ここでクロシェを野放しにするよりはマシなような気がしていた。
「まぁ、別にいんじゃね? 死者を弔う気持ちはいくつあってもいい」
「じゃあ行くか。行くしか!」
「ただ、喪服がいる。喪服――ない? じゃあなんか、地味ーな服でいいや。なんかあんでしょ。そのくそピンクのダウンじゃなしに」
「OKOK」
「じゃあ一回帰って。急いで着替えてきてよ」
「OKOK」

「ぶえっくしッ――ぜんぜんOKじゃねえずらー。オメガ寒い。マキシマム寒い」
 クロシェが着てきたのは部屋着だという黒いジャージの上下だった。仕方なくアタシの古いコートを貸してみるが、そもそもサイズが違う。おっぱいの暴力が前へ前へとはみ出てくる。
「ホントだねクロちゃん」
「そんなところで同意してくれなくてええんじゃ」もともと色の白いクロシェの顔が外灯で青黒く見え始める。
「早くオソーシキ終わらそうじゃないかい。阿弥諾寺てなぁどこなんだねミミミん」
「阿弥諾寺あみだくじ」アタシはスマホで地図検索をかける。地図は確かに川べりの一角を指し示している。県道沿いのファミリーマートの角を入ることまもなく、浄土宗児沢山阿弥諾寺が、ない。ベクナイ冷熱機」という町工場のゴチック体の看板が見える。冷熱機ってなんだろう。
「あのさ」
 クロシェは細い指でアタシの手からスマホを取り上げた。しばらく目の前に画面をかざして睨めつけていたが、「ふっ」と息を漏らした。白い息が漂った。笑っているようだった。
「ミミミさん、さっきのファミマは何店だったろうね」
「へ?」
「ファミマにはね、本駒込一丁目店も、本駒込二丁目店も、あるんだよ」
 コンビニの前にタクシーを呼ぶというとっさの機転により、阿弥諾寺には三分でついた。下新田前店から下新田店まで車で三分。時間はもうすでに七時半を回っていて、参列者はとっくに誰もいなかった。葬儀社の人らしい見張りの人が、訝しげにアタシたち二人を迎え入れてくれた。二人並んで焼香をする。それなりに大きな規模の式だったらしく、たくさんの供花の最上段に見慣れた顔写真があった。この遺影の元になった写メは私も持っている。一昨年のバイト先の忘年会で撮った記念写真のものだ。この頃はまだ黒縁の眼鏡をしてた。今よりずっと太っていた。
「うわぁ寿司だ! すっげえ寿司だ! ビールもある!」
 すでに片付けモードに入っていた職員が手を止める中、精進落としのテーブルのあちこちに寿司桶が散らばっている。
「これ、食べていいの? タダで? 超やりー!」
 クロシェは椅子に座るとけっこうな勢いで寿司と煮〆をぱくつきだした。焚かれた暖房のせいでずいぶん寿司は乾いていたが、そんなことも気にせずクロシェは怒涛の勢いでイカタコマグロとよく食べ、ほうぼうの卓から中途半端に空いたビールの瓶を調達してきては胃袋に流しこむ。アタシもひなた水ほどに冷めてしまった清酒の一合瓶を開けてコップで飲んだ。砂糖水のように甘い清酒だ。まもなく、店長の息子だという少年と奥さんだという女性が挨拶に現れた。「そりゃあもう店長さんには良くしていただいて」ちゃんとこっちもシフト通りに働いて、前日に休む電話を入れても嫌な顔せずに聞いてくれる。そういうところはとてもいい店長さんでした。でも、それ以外に接点はないの。実のところは、そういうくらいの関係です。少年はブレザー、おそらくは学校の制服で、喪服も持っていないような年頃だから、高校生かな、中学生かな。
 「いい人で」「ほんとにいい人で」と適当な応対をしている視線の端で、どたどたとクロシェが走り去っていくのが見えた。奥さんと少年は「ごゆっくり」と立ち去っていった。備え付けの時計を見ると八時半を回ったところである。そうごゆっくりもしていられまい。
 これだけ呑んだら帰ろう、とグラスに残った日本酒を眺めているとスマホに着信がある。クロシェだ。
「くだした」
「パンツよごした」
「死にたい」
「たすけれ」
 矢継ぎ早に送信されてくるメッセージに、アタシの血管のアルコールが「ぐじゅる」と鳴った。気がする。

 帰りもお寺の前からタクシーを呼ぼうとしたが必死に止められる。前かがみになったままアタシを止めていたクロシェは、そのままの姿勢で回れ右すると、車道沿いの植え込みに「おぶぼべべ」と嘔した。しばらく座り込んでいたが、足が痺れたのか一旦立ち上がると座り直し、さらに自分の口に指を突っ込むと「おごるげ」と吐いた。心配になって自動販売機で水を買ってくると、クロシェは合掌して受け取った。
「病院、行きなよ」
 クロシェは返事をせず、「やっぱタクシー呼んで」と云ったきり、また座り込んだ。

 半月くらいして、またクロシェがアタシの家にきたので肉を焼いて食べていると、宅配便が届いた。香典返しである。
「なにこれ、あれだけ食べて飲んで、その上プレゼントまでくれるわけ? すげえね、お葬式すげえ」
「タダじゃないよ、ちゃんとお香典を払ったからこういう」
「いちまん? ふたりで一万円ならお得感あるじゃん!」
「おめえ払ってないだろ!」
 いただいたカタログはネットで調べたら三千五百円(税別)相当のものだと判明し、ミミミのたっての希望により三元豚の味噌漬け(五枚入り)を注文する。
阿弥諾寺落とし サヌキマオ

うたかたの恋と人魚姫
緋川コナツ

 開け放した窓から、心地よい風が吹いてくる。
 いつもなら放課後になると真っ先に着替えて誰よりも早くプールに飛び込んでいたのに、今の私は空ろな時間を持て余していた。
「あれ、片瀬さん今日は部活休み?」
 誰もいない教室で、頬杖をつきながらぼんやり外を眺めていたときだった。私は同じクラスのタケヤマに声をかけられた。
「辞めたの」
 私はタケヤマの姿をちらりと横目で見て、すぐに視線を窓の外に移した。
「えっ水泳部、辞めちゃったの? あんなに頑張っていたのに」
 写真部に所属しているタケヤマは、いつも首からカメラをぶら下げている。小柄なタケヤマが長いレンズのついた一眼レフカメラを持つと、カメラがやけに大きく感じられた。
「もういいの、水泳なんて。どうでもよくなっちゃった」
「なんだか、もったいないね」
 心底、残念そうな口調でタケヤマが言う。
「しょうがないよ。それに私が退部したことは、タケヤマに関係ないでしょ」
 しばらくの間、無言で机に突っ伏していたら、静かな教室に無機質なシャッター音が響いた。
「今、もしかして写真撮った?」
 あわてて顔を上げると、バツが悪そうな顔をしたタケヤマが頷いた。
「撮っちゃった……ダメ?」
「ダメ、絶対にダメ! 撮ったやつ今すぐ消して。そして、もう撮らないで!」
「わかった、消すよ。ゴメン」
 タケヤマは私の目の前でカメラを操作し、素直にデータを削除した。
 つい声を荒げてしまった。そんな自分の振る舞いのひとつひとつが、更に私を自己嫌悪に陥らせる。
 私は、もう泳げない。泳ぎを忘れた私には何の価値もない。私の体は恋心と共に小さな無数の泡となって、プールの水に溶けてしまった。

 今から二か月くらい前のことだ。
 水泳部は夏休みになると、秋に開催される競技会に向けて学校で合宿をする。一年生の私にとって、今回の合宿は初参加だった。
「おう片瀬。ずいぶん気合い入ってるな」
 憧れの加藤先輩の専門種目はバタフライで、私と同じだ。そのせいか、先輩は何かと私のことを気にかけてくれている。
「私、次の大会では絶対に優勝したいんです!」
「そうか。よし、俺も片瀬に負けないように頑張らないとな」
 焼けた肌から覗く白い歯が眩しい。加藤先輩は笑顔で私にそう言って、再びプールに飛び込んでいった。
 先輩の力強くしなやかなフォームは若いイルカのようで、見ていて惚れ惚れしてしまう。
 もし優勝できたら、思い切って先輩に告白して胸の内を伝えよう。私はそう、心に決めていた。
 合宿最後の夜に、事件は起きた。
「加藤と紺野マネージャーがいない」
 校庭で花火を楽しんでいたときだった。
 誰かが何気なく放ったひと言に、部員たちは騒然となった。心臓が早鐘のように鳴って、線香花火を持つ手が小刻み震える。嫌な予感がした。何も見たくない。このまま消えてしまいたい。
 しばらくすると、校舎の影からひょっこりと二人が姿を現した。加藤先輩と紺野マネージャーは慌てて繋いでいた手を離したけれど、まわりはそれを見逃さなかった。部員達は大声で二人を囃し立て、甲高い声で笑いながら羨んだ。
「あの二人、美男美女カップルでお似合いだよね」
 隣にいた同級生のエミちゃんが、目を細めながら私に言った。
 
 私は、空気。
 私は、泡。
 私は、うたかた。
 こぽ、こぽ、と、深い海の底から泡が湧き上がる。小さな気泡が私の中を静かに満たす。やがて体は少しずつ透明になり、水の中で、弾けた。

「う、うん……そうだね」
 加藤先輩が照れ臭そうに頭を掻いている。その様子を目の当たりにした私は、それだけ答えるのがやっとだった。

 教室を出て、金木犀に包まれた渡り廊下を歩いていると、そこへタケヤマが通りかかった。
「あ、タケヤマ……」
 何か話そうと思ったけれど、喉の奥で引っかかって言葉が出てこない。部活を辞めてから、なぜかタケヤマとは上手く会話ができなっていた。
「あの、」
 タケヤマが何か言いたそうに、ズボンのポケットをごそごそとあさっている。取り出したものは、小さく折りたたまれたパンフレットだった。
「これ、片瀬さんに見て欲しくて……」
「コンクールの写真展?」
 手渡されたのは写真展の案内だった。会場ではコンクール入賞者の作品が展示されているらしい。
「俺の写真、一番大きな賞をもらったんだ。だから片瀬さんさえ良ければ、写真を見てもらえないかな……」
 タケヤマは照れ臭そうに下を向いて、もじもじしている。
「わかった、行ってみるよ」
 私は頷いて、タケヤマからパンフレットを受け取った。
 
 電車に乗って県の中心部に出る。案内に掲載された地図を頼りに、写真展が開催されているギャラリーを探した。タケヤマに一緒に行こうと誘ってみたけれど「恥ずかしいから」という理由で断られてしまった。
「あ、あった。ここだ」
 会場に足を踏み入れた途端、私は驚いて足を止めた。
 ギャラリーの一番目立つところに展示されていた、一枚の大きなカラー写真。私の目は、その写真に釘づけになった。

大賞『人魚姫』 武山 蓮 

「え? これって、もしかして……」
 フレームいっぱいに、水しぶきを上げて泳ぐ私がいた。
 それはバタフライを泳ぐ私の姿を、真正面から捉えた作品だった。
 息継ぎのため大きく開けた口、ゴーグルは鋭い光を放ち、飛び散る水しぶきは陽射しを浴びて七色に煌めいている。水を掻こうと両腕を広げた姿は、そのまま空へと飛び立とうとしているようだった。
 圧倒的な存在感。
 写真の中の私が、今にもこちらに向かって突進して来そうだ。
 躍動感溢れるその姿は生命の息吹をも感じさせ、身体中に衝撃が走った。足元から新たな力が漲ってくる。この写真の前では私の悩みも失恋も、すごくちっぽけなものに思えた。
 私は息をするのも忘れて、いつまでもタケヤマの写真に見入っていた。

「もしもしタケヤマ? 写真、見たよ」
 私はギャラリーを出て、すぐにタケヤマに電話した。言いたいことが、たくさんある。だけど、何から話したらいいのかわからない。
「見てくれたんだ……どうもありがとう」
「そんな、お礼を言うのはこっちだよ。ありがとう。すごく、いい写真だった」
 胸がいっぱいで、次の言葉が出てこない。それはタケヤマも同じだったみたいで、しばらく温かな沈黙が続いた。
「片瀬さんは、やっぱり泳いでいるときが一番魅力的だと、俺は思うよ」
「本当に?」
「うん」
「あのさ……私の体って、ちゃんと見えているよね? うたかたなんかじゃないよね?」
「えっ? うたかた、ってなんのこと?」
 私の問いかけに、不思議そうに目を丸くするタケヤマの顔が浮かんだ。電話越しに、思わず笑みがこぼれる。
「ううん、なんでもない。それよりあの写真、いつ撮ったの?」
「夏休みの合宿中に、こっそり撮ったんだ……あまりにも片瀬さんの泳ぎがカッコ良かったから」
 悪戯がばれた子どもみたいな口調でタケヤマが答える。
「そうだったんだ。全然、気づかなかった」
「片瀬さんはいつも、わき目も振らずに夢中で泳いでいたからね」
「そっか。でも今度から撮るときは無断じゃなくて、ちゃんと言ってよね」
 私は小さく笑い、タケヤマの答えを待たずに電話を切った。
 
 私は、うたかたなんかじゃない。アンデルセンの人魚姫は失恋して海の泡になってしまったけれど、私は違う。
 その証拠に私の体は、早く思いっきり水を掻きたくてうずうずしている。
うたかたの恋と人魚姫 緋川コナツ

植木

 七草の頃を過ぎると鎌倉駅前の賑わいもようやく落ち着き、暖かい冬と相まってどこかのんびりとした空気を取り戻しつつあった。
 駅を背にして東口のバスロータリーを右に向かうと東急ストアのビルがあり、自転車置き場を囲っている柵には買い物客が繋いだそれぞれの飼い犬たちが退屈そうにねそべったり、不安げな目をしてふるふると震えていたり、中には道行く人に吠えかかったりして思い思いに過ごしている光景を仕事からの帰りによく見かけた。
 そんなある日、ピンクの蛍光テープで縁取られた張り紙が忽然と現れた。その張り紙を見るまでそんなところに電柱があることにも気付かなかった。遠目からでも目を引くものだったが、朝は時間がなくちらりと目をやっただけだった。夕方その前を通るとき、やはり気になり近くに寄ってじっくりと見てみた。
 「釦オチテマシタ」と素人目にもわかる程、達筆で書かれた文字の下にジッパー付きのビニール袋に入れられた「もの」が入っており、張り紙の中央にテープで張り付けてある。五センチほどの細長い木製で、真ん中に一つ穴の開いたそれは一見するとボタンには見えずヨーロッパかどこかの木製おもちゃの小さな部品のようにも見えた。
 その場に立って見ていると、通りすがりの人もやはり気になるのか何人かが足を止めて張り紙を見つめていた。その中でシアトルマリナーズのキャップを被って氷結の缶を手に持った七十過ぎぐらいのオジサンが僕と釦を交互に数回見比べて、最後に三十秒ほど釦を穴の開くほど(穴は開いているのだが)見つめ、なぜか大きなため息を一つつき東急ストアの中に入っていた。鎌女の生徒たちはスマホで写真を撮り、笑顔で去って行った。一体写真に撮ってどうするつもりなのかはよく分からなかったが何か手掛かりになるのかもしれないなと、ふと思った。
 それから三日が過ぎた。
 朝の通勤時にも近くに寄ってそこにまだ釦があるかを確認するのが日課になってしまった。その日の朝も張り紙の前立っていると、しばらくして鳩おばさんが横に立った。鳩おばさんは「鳩にエサをあげないで下さい 鎌倉市」の看板の前で毎朝、鳩にパンくずを与えているおばさんで、服装はちょっとだらしないけれど、いい笑顔をするどこか憎めない人だ。僕とは会えば時々話をする間柄だ。
「今日は落とし主が現れるといいのにね」
「そうですね」
「初詣にきた人だったら、もう取りに来ないかもね」
「そういう可能性もありますね」
「そもそも誰が張り紙を貼ったんだろうね、お兄さん」
「さあ、でもかなり達筆な人ですね」
「書道の先生かもしれないね」
「そうですね」
「……親切ってさムズカシイね」
鳩おばさんは最後にそういってから、にっこりと笑うとまた鳩の輪の中に戻って行った。
 職場の昼食時に同僚のミヤワキ君に張り紙の話をした。ミヤワキ君は同僚といっても僕とは二回りも歳が離れていて会話には少し苦労するのだが、ミステリー作家志望の彼はこの張り紙の話題に少し興味をもったようだった。コンビニ弁当とおにぎりを二個、それにカップラーメンを食べ、仕上げにノンカロリーゼリーを平らげたあとこう言った。
「それマジすか」
色白やせ形のミヤワキ君はしゃべるとき首を左右に振りながらしゃべる癖がありその振幅の具合で本気度がわかる。見たところ結構、本気だ。いつもの事だが顔は笑っていても目だけは笑っていない。
「そんな張り紙気付かなかったすよ、俺としたことが、まさに不覚っ」
「ピンクの蛍光テープで縁取ってあるよ」
「そんなものかえって風景に埋没しちまいますよ、派手にすれば目立つと言うのは錯覚でかえって目立たないものなんですよ」
「なるほどね、それにしても持ち主は現れるかな」
「いや俺の見立てだと自作自演ですよ、きっと。愉快犯の仕業ですね防犯カメラの映像でもチェックすれば一発で犯人はわかりますよ」
「まさか、なんでそんな手に込んだことするのさ」
「最近は色んなヤツがいますから、そりゃ、きっと暗号ですね」
「んなわけないだろ、それより、このネタで一本書けるかい」
「無理っす、俺、鬼畜ミステリー系なんで、この手の地味な話じゃプロット作れません」
「作れないのか、それにしてもなんだいそのジャンル」
「あ、俺、作品で語る方なんで、今度読んでくださいよ。持ってきますから」
「あまり気乗りがしないけど、まあ、いいよ」
 家に帰って夕飯の時に母に張り紙の事を聞いてみたら、普段から東急ストアを利用しているからか、知っていて当然の様に答えた。
「それにしても、誰が張り紙をしたんだろう」
「なんだアンタ知らなかったの」
「知ってるの」
「言わなかったかしら」
「聞いてないよ」
「雪ノ下のお花の先生よ」
 最近、母が凝っているフラワーアレンジメントの先生が張り紙の主だとは思わなかったが、この辺りの妙なと言うか不思議な人との繋がり方は鎌倉にはある。ミヤワキ君が小学生だった頃、鳩おばさんはその学校の音楽の先生だったという話だし、とにかくパズルのピースのように時として小さな欠片が集まって一つの画を作り出すことがあるのだ。残りのピースは依然として電柱に張り付いたままなのだが。
 翌日は出張で認知症に関する研修に参加した。半日を充て認知症の基本的理解について座学と演習が行われたのだけれど、その間も釦の持ち主が誰なのかが気になってあまり身が入らなくて、演習中に同じグループの女の人に「もう少し積極的に参加してください」などと注意され、発表係なるものを押し付けられて散々な目に遭った。
 家に帰ると母が
「ボタンがなくなってたって」と教えてくれた
「落とし主がみつかったの」
「わからないけど先生からメールがきたのよ」
「いたずらじゃないのかね」
「今頃それはないんじゃないの」
「最近は色んなヤツがいるからわからないよ」
「とにかく張り紙は外したらしいわよ」
 翌朝、電柱の前を通ると鳩おばさんがいた。
「釦が」
「そうなのよ」
「なくなったそうですね」
「そう」
「持って行ったのは落とし主でしょうかね」
「わたしにもわからないのよ」鳩おばさんは困ったような、うれしいような判別の付かない表情で言った。
「気付いたら無くなっていたのよ、交番に連絡したほうがいいかしら」
「それは……、しなくてもいいんじゃないでしょうか」
「そうかしら、でも心配だわ」
「ともかく張り紙も無くなったし、できることは無さそうです」
「そう、そうね」鳩おばさんの周りに鳩たちが集まってきた。
 関東地方にも雪が降るという予報があった日の夕方、施設の和田さんの様態が急変し緊急搬送することになった。救急車に同乗して湘南鎌倉総合病院に行った。家族と合流してタクシーで施設に帰り、書類書きなどをしていたらすっかり帰りが遅くなってしまった。しんとした空気の中で耳が痛かった。東急ストアの前を通ると電柱に張り紙がしてあった。蛍光ピンクの縁取りがしてあったので、釦が帰ってきたのかと思い近づいてみると、まえのと様子が違う。そこには子供の字で「ありがとうございました」と書いてあり、その下にモスグリーンの暖かそうなダッフルコートを着た小さな男の子の写真がプリントされていた。
 東急ストアの前はもう人影もまばらな時間でサラリーマンがコートの襟を立てて足早に僕の横を通り過ぎていった。小さく伸びをして吐き出した息は真っ白で明日の朝は少し雪が積もるかもしれないと思った。

鳥三態
アレシア・モード

 郊外の住宅地を外れると、そこはたちまち野趣に富んだ風景となる。昨日にはお気に入りだった。今はただ寒々と腹立たしいばかりだ。午後三時の空は――押し寄せる鉛色の雲に覆われてすでに暗く、寒風はみぞれ混じりの塊となって枯れ山を下り畑地を駆け抜け、そのまま私の顔へと容赦なく打ちつけてはマフラーの隙から肌を凍えさせた。
 私――アレシアは肩をすぼめ、顔面を歪ませながら、レジ袋を提げ家へ向かって県道沿いを歩く。「災害級の」寒気団が列島を覆い、北部はすでに吹雪という。何が寒気団だ。この赤道小町、颱風圏の女、アレシアがそんなに憎いのか?
 人は冷たいと腹が立つ生き物なのだ。レジ袋がばりばりと風に鳴る。私は片手はポケットに突っ込んだままだったが、もう片方は袋を提げねばならなかった!


1【黒白のセキレイ】長い尾をもつ小さな野鳥。水辺や水辺と関係ない路上をよく走っている馬鹿な鳥

 ここに羽を膨らませた黒白のセキレイが、目の前をすっとこ走って県道を横断して行くのだった。飛べよ馬鹿、と私は思う。ずぼら者。その姿はまるでダウンのポケットに手を突っ込んだまま、小走りに道路を渡りきろうとする小生意気な小学生のようだった。お前はそれでも鳥なのか。そんなに羽を開きたくないか。お前に鳥の沽券は無いのか。
(だったら、死にやがれィ)
 願ったことは、実現する。私にはそういう力があるのだから。ただ、その多くは予想外に発動する。
 ほら、ほら……すぐに車がやって来る。速い。車という奴は、なぜか寒ければ寒いほど速度を上げてくる辺りに悪意を感じる。奴は殺しにかかっているのだ。私は強張った唇を舐める。ここまできてセキレイは、なお走って渡り切ろうと足を急がせる。あいつ死ぬかな。可哀想に。でも何もしない。冷たく白く薄汚れた商用車は、躊躇なくその速力のままに間を詰めて。
 刹那、鳥は目前から消え、私は微かな胸の痛みとともに不徳の声を漏らしていた。ほら……やっぱり巻き込んだ。アディュー、小鳥は声もないまま舗装の上に、パートカラーのスチルと化したのだ。哀れな奴。と思いきや、鳥は道路の向こうへと白黒しながら飛んでいるのだった。飛べば飛べるのだ。
 黒白のセキレイは道路の向かいに止まると、いま気づいたかのように振り返り、尾を回しながら私の顔をちらりと見た。ここで私が目から怪光線でも発射してやれば一瞬に黒焼きと化したのだろうが、出ないということはつまり二度目の命拾いだ。ああ、今日はお前の勝ちとするわ、明日も賽を投げやがれ。


2【黒白茶色の細かな斑模様の鳥】素性不明、小汚い野鳥

 その頃、名も知らぬ小汚い鳥が、整骨院の玄関前の、冷え切ったタイル張りのポーチの上で、天を仰いで落ちていた。県道沿いの整骨院は休診日で、ガラス張りの入口の戸は施錠されカーテンが閉められていた。そのすぐ前で鳥は黒白茶色の細かな斑模様を、吹き溜まった枯れ葉や枯れ枝の色へと生前同様にすっかり馴染ませ、ごみとしては何の違和感もなく転がっていた。整骨院の二階はなぜか学習塾で、この強風に倒れもせずに並んだ小奇麗な自転車が通行の邪魔で、しかしもっと邪魔なのはその持ち主たちだった。
 ダウンのポケットに手を突っ込んだ小学生らは、スズメよりは相当大きいこの鳥の骸を遠巻きにして、無責任極まりないコメントを呟いているところだった。
「やべ死んでる」
「インフルじゃね」
「嫌がらせとか?」
 無論、私にも責任など無い。私のせいじゃ無いよね。無いのだろうが、通りすがりといえこういうのを放置して帰ると後で色々気になるのだ。私は無言で小学生らを押し分け、鳥の前にしゃがんで検視に入る。鳥は固く羽を閉じ、足を縮め、腹を上に、首をぴんと伸ばして転がっていた。傷は見当たらない。寒気のショックに打たれたか、それとも戸に衝突したのだろうか。もしもまだ運良く息が残っていれば、持って帰って温めてみるべきだろうか。
 私は指を伸ばし、そっと鳥の腹を突いて押す。温もりはない。それはまったく乾いた落ち葉の感触で、昔、理科室にあった古い剥製を思わせた。脇から押してみると、まさに空っぽであるかのように鳥の身体は軽くごろりと横に転がり、黒い瞳が真っ直ぐこちらを向いた。開いたままの左眼が潤んで落ち窪んでいるのを見た時、私は何か濁った気配がすうっと入るように感じ、思わず息を殺していた。
 ああ、これはダメだわ。私は立ち上がり、斑模様の鳥を足で脇へと軽く押しやった。再び山から吹き降りた風が音を立てて枯葉を巻き上げたが、鳥はその中心で微かに左右に揺れても、もう舞い上がることはない。今までお前がどんな勝負を重ねてきたかは知らないが、それも今日で終わったのだ。
 顔を上げると、一人だった。小学生らはいつの間にか私を置いて場を離れ、恐らくは浮薄なテーマへと話題を移しながら立ち漕ぎの自転車で県道を渡るところだった。
「あれって、あのおばさんの鳥か?」
(死にやがれィ……)
 私は強く念じかけて止め、息を吸い込み、吐き出した。またつまらぬ命を救ってしまった。


3【文鳥】またの名をジャワすずめとかいう南方の鳥

 玄関のドアを閉め、空気の温もりにようやく落ち着きを取り戻す。静かな部屋へ戻ると、鳥かごの中で白い文鳥はいつものようにばたばた暴れて迎えるのだった。
(これは私の帰宅を喜んでいるのか、抗議なのか)
 きっと前者だなあ。私は黙ってレジ袋を置き、手を洗った。
 この白文鳥のことを、私は「鳥ちゃん」と呼んでいた。鳥なのだから鳥なのだ。だから私は彼のことを鳥と呼ぶ。その当たり前な行為が彼には気に食わなかったのか、小さな雛の頃から飼っているにもかかわらず、鳥ちゃんと私との関係には――いわゆる世間一般の――私がそう信じてるだけかも知れないが――あの手乗り文鳥と飼い主との交歓に見られるような――無条件な親密さは皆無だった。
 撒き散らされた餌のかけらと水跳ねによって、鳥かごの周囲は悲惨な有様となっていた。私は静かにそれを掃除し、さらに新しい餌を補充してやる。餌は小動物医から購入する低脂肪高栄養なペレットで、これをコーヒーミルで荒く砕き、北米産オーガニックのカナリーシードとともに殻付き餌に混ぜたものだ。そして肝機能向上のお薬も。鳥ちゃんはもう中高年の身なのだから。飲み水はVOSSのウォーターに同じく医者に処方されたホルモン製剤とヨード剤を数滴加え、これは甲状腺の腫れを緩和し、肥満体の呼吸を楽にする効能があるという。
 空調の温度を上げ、鳥かごの前に座ってさっそく野鳥図鑑を開いてみる。さてどうやら先刻の哀れな鳥はつぐみというらしい。まるで人間の子供のような名前だった。そう思うと私は無意味に楽しくなり、得意げに鳥かごへと這い寄ると、ペレットを撒き散らす白文鳥の前で、指をくるくる回しながら語り掛け始めるのだった。白文鳥は苛立たしげに私の指先を追って白い首を回した。
「鳥ちゃん、鳥ちゃん、あの子はねえ……つぐみちゃんって言うんだよ。学習塾のすぐ下の、冷たい石畳の上に。横たわっていたんだよ」
 白文鳥はぷいと横を向く。邪気の左眼がこちらを見る。この王様ときたら、生まれてただの一度だって、自分で賽を振ったことなどあるまい。
「鳥ちゃん、鳥ちゃん、つぐみちゃんはねえ」
 王様はカルッと唸って振り返り、鉄格子の隙から紅潮した嘴で私の指を一穿した。
鳥三態 アレシア・モード

恐ろしい東京
今月のゲスト:夢野久作

 久し振りに上京するとマゴツク事や、吃驚させられる事ばかりで、だんだん恐ろしくなって来る。田舎にいると、これでも相当の東京通であるが、本場に乗り出すと豈計らんやで、皆から笑い草にされる事が多い。
 横浜から出る電車は東京行ばかりと思って乗り込んで、澄まして新聞を読んでいるうちにフト気が付くと大森林の傍を通っているのでビックリした。モウ東京に着く頃だがハテ、何処の公園の中を通っているのか知らんと思って窓の外を覗いてみると単線になっているのでイヨイヨ狼狽した。車掌に聞いてみると八王子へ行くのだという。冗談じゃない。這々の体で神奈川迄送り戻された。
 銀座尾張町から上野の展覧会へ行く積りで、生まれて初めての地下鉄へ降りてみる。見渡す限り百貨店みたいで、何処で切符を売っているのかわからないし、プラットフォームらしいものもないので、間違ったのかなと思って又石段を上って見ると、丸キリ知らない繁華な町である。そんなに遠くへ歩いたおぼえはないが……と不思議に思い思いモトの階段を降りて、反対側の階段を昇ると、又も素晴らしく巨大な、知らない時計店の前に出た。上野の広小路じゃないか知らんと思い迷ってキョロキョロしていたが、そうでもないようである。……とにかく今一度モトの処へ帰らなければと思い思い、タッタ今見て来た店の順序をタヨリに最初に降りた階段を上ってみるとヤットわかった。三つの町は三つとも銀座尾張町なので、入口が四ツ在るのを知らずに、同じ四辻を別々の方向から眺めたから町の感じが違ったのだ。同時に、ホントの地下鉄はモウ一階下に在る事も、音響の工合でわかったので……ナアンダイ……と思ったが、しかし何となく心細くなったので、そのまま宿へ帰ってしまった。
 山の手線電車が田町に停まったら、降りた人が入口を開け放しにして行って寒くてしようがないので、入口を閉めようとしたがナカナカ閉まらない。直ぐ傍に立っている喜多実君と坂元雪鳥君とであったかが腹を抱えて笑っている。理由がわからずマゴマゴしているうちに、自動開閉器で閉まって来た扉に突き飛ばされかけた。
 この恨みは終生忘れまいと心に誓った。
 銀座の夜店で机の上にボール箱を二つ並べて、一方から一方へ堅炭を鉄の鋏で移している。一方が空になると又一パイになっているボール箱の方から一つ一つに炭を挾んで空のボール箱へ移し返し始める。それを何度も何度も繰り返しているから不思議に思って見ていたが、サッパリ理由がわからない。二つのボール箱の左から右へ、右から左へと一つ一つに炭の山を積み返し積み返して、夜通しでも繰り返しかねないくらい。やっている本人は落ち着き払っている。それを又、大勢の人が立って見ているからおかしい。今に理由がわかるだろうと思って一心に見ていたが、そのうちに欠伸が出て来たので諦めて帰った。
 家に帰ってからこの事を皆に話したら、妹や従弟連中が引っくり返って笑った。その炭を挾む鉄の道具を売るのが目的だという事がヤットわかった。
 こんな体験をくり返しているうちに、筆者はだんだんと東京が恐ろしくなって来た。すくなくとも東京が日本第一の生存競争場である位の事は万々心得て上京した積りであったが、このアンバイで見るとその生存競争があんまり高潮し過ぎて、人間離れ、神様離れした物凄いインチキ競争の世界にまで進化して来ているようである。アノ高々と聳立している無電塔や議事堂も、事によると本物ではないかも知れない。あの青空や、太陽や、行く雲までもがキネオラマみたいなインチキかも知れない。田舎の太陽や、樹木や、電車や、人間はみんな本物だがナアと思うと、急に田舎へ帰りたくなった。真黒に日に焼けた、泥だらけの子供の笑い顔が見たくて見たくてたまらなくなった。
 その帰る前日に某名士の処へお暇乞いに行った。某名士氏は八十幾歳の高齢で悠々と白髯を扱いて御座った。
 そこへ四十恰好の眼の鋭い、腕ッ節の強そうな刑事然たる人が羽織袴で面会に来て某名士氏の次の間にヒレ伏した。
「初めて御意を得ます。私は××県の者で御座いますが、私の友人で△△と申す者が個人的の特志で、日本政府の軍事探偵となりまして○○政庁の統治下に入り込んで活躍致しておりまするうちに、過般来、日本と○○政庁の外交関係が緊張致しました際、△△は部下十二人と共に一網打尽、引き上げられてしまいました。その捕縛された一刹那に△△はピストルで頭を撃って壮烈な自殺を遂げ、一切の真相を調査不可能に陥れましたので、部下十二名の罪はまだ決定致しかねている状態でありますが、その△△君の死は元来が特志でありました関係から、お上から勲章、年金等も頂戴出来ませぬは勿論のこと、その死因すら永久に公然と発表を許されない事になってしまったのであります」
 某名士氏はゆるやかにうなずきながらその男の顔を凝視していた。筆者もその男の咄々と吐き出す肺腑の声に動かされて胸が一パイになって来た。そのうちに、その男の眼が真赤になって来た。
「その自殺致しました△△には妻と男の子が三人ありまして、今申上げましたような事情で路頭に迷うておりますのを、微力ながら吾々友人が寄り集まりまして、どうにかこうにか喰えるように処置いたしましたが、ここに困りますのはその三人の子供に父の死因が知らせられない事で御座います。今でも『お父さんは、何処で、どうして死んだか』と母親や私共に代る代る尋ねるので御座いますが、皆泣くばかりで返事が出来ません。それで……その父の死にました理由がわかりますようなお言葉を、先生に一筆書いて置いて頂きましたならば……その子供たちの成長後に……」
 あとは声が曇って、わからなくなった。畳の上に両手を突いて男泣きに泣くばかりであった。
 某名士氏は静かに白髯を掀しながら立ち上った。次の間に毛氈と紙を展べさして、墨痕深く「安天命致忠誠」「為△△君」と書いて遣った。その男は拝喜して帰った。
 アトで某クラブへ行ってこの事を話したら、集まっていた男の中の一人が突然に笑い出した。
「アハハハ。その字は帰りに十円で売ったろう」
 皆ゲラゲラと笑い出した。「東京にはその手が多いからね」
 筆者は愕然とした。トタンに東京が底の知れないほど恐ろしくなった。心の中で某クラブの連中に永久の絶交を申渡しながら東京を去った。