エントリ1
悲劇からの回帰
ディオニュソス
雅恵は見た。
道路向こうから可愛らしい子どもが歩いてくる。無邪気に笑いながら、手を振っている。
母親へ手を振っているのだろうと、雅恵はこの微笑ましい風景を見ていた。しかし、突如として子どもの影が歪み、冷たい銀色の物体が雅恵の前をもの凄い早さで横切った。
悲鳴と血、救急車やらパトカーのサイレンが、妙に空々しく聞こえた。
「田原雅恵!」
私は誰かの声で眠りから覚めた。
「田原、居眠りなんかしてる場合じゃないぞ。もうすぐテストなんだ。だらけているな、最近」
ああ、そうか。授業中に寝ちゃったのか。
「ごめんなさい、先生」
起き抜けの顔で、私はできる限りの演技をして先生に謝った。そのあと、隣の席の優子が話しかけてきた。
「大丈夫? なんか顔疲れてるよ」
「うん、大丈夫だよ。ちょっといやな夢見ちゃってさ」
あの事故から半月、私はなんとか日常生活を送れるようになった。無理もない。何せ、人が轢かれるところを目撃してしまったのだから!
そのせいで、しばらく学校にも行けなかったし、いろいろ大変だった。
「いやな夢? 雅恵、もう事故のことは忘れるようにしなきゃ、雅恵は何にも悪くなんかないんだからさ」
おせっかいの優子らしい。
そんなこといちいち言わなくてもいいのにな、私としてはもう思い出したくない出来事だ。
「ありがとう、優子。本当に大丈夫だから」
「そう、ならいいわ。ね、それより放課後は買い物につきあってくれるよね?」
「あ、行く行く!」
小学生の男の子が車に轢かれて死んだ。その目撃者となってしまった私は、一躍学校の話題となった。
親友の優子(だけではないけど)なんかは色々と気を遣ってくれている。今、私を買い物に誘ったのも、傷心の私の気を紛らわせようとしてくれたのだろう。
「この服なんか雅恵に似合うんじゃない?」
放課後、優子と私は行きつけのブティックに立ち寄っていた。
「そう? こっちも良くない?」
「あ、これもこれも!」
黄色い声を挙げながら服を選んでいると、優子がなにげなく赤い服を手に取った。
「ね、これなんかいいんじゃない?」
赤、血の色だ。
「どうしたの、雅恵? 顔真っ青だよ」
「ごめん、ちょっと、私、外に出るね」
私は店の外に出た。
赤い服を見たとき、あの子どもが血まみれに横たわっているのを思い出してしまったのだ。
「ちょっと、雅恵」
優子が店から出て駆け寄ってきた。
「いったい、どうしたの?」
「優子、ごめんね。私もう帰るから」
「雅恵」
「ほんとにごめんね」
優子と別れて私は家路を急いだ。
ふと、立ち止まった。
「ここは」
そう、あの子どもが車にはねられた道だ。本当はこの道が家に帰るのに一番なのだが、事故の時以来、さけて下校していた。
目の前を車が走った。私はとっさに目をそらした。
必ずしも交通量が多い道というわけではなかった。なのに、何であのときに限って!
何で左右を確認しなかったの?
あのとき近くにいたはずの母親はいったい何をしていたの?
「どうして私がこんなに苦しまなければならないの!」
私は駆け出した。
ここにいたら何か得体の知れない罪悪感に押しつぶされそうになりそうだったからだ。
家に帰った私は、ベッドの上に制服のまま寝転ぶと、とりあえずケータイで優子に途中で帰ったことのお詫びのメールを入れた。
やたらに日差しがきつい。私は手で日光を遮りながら家路を急いだ。
買い物帰りの主婦や自転車に乗ったおじさんが通り過ぎるなか、鼻歌まじりに歩いていると、道路向こうに人影が見える。
男の子だ。あどけない顔で手を振っている。こちら側にいる母親に手を振っているのがなんとなく気配でわかった。
男の子がタタッとこちらに駆け出した。だが、次の瞬間には、小さな身体は無惨にも道路に投げ出されていた。
道に横たわった男の子は動かない。身体は血にまみれ、変に曲がっていた。
私はその場に座り込んでしまった。
人が死ぬ、ということを今この目で見てしまったのだ。
どうしたら、私はいったいどうしたら。
呆然としている私はさらに驚愕した。
今、車に轢かれた男の子が、男の子の目が私を見ているのだ。
どうして助けてくれないの?
どうして助けてくれなかったの?
どうして?
どうして?
私は起きあがった。
「夢?」
優子にメールを送った後、眠ってしまったらしい。私は汗だらけの顔をぬぐった。
「私はあのとき何ができただろう?」
どうしようもなかった。
「私にいったいどうしろって言うの?」
私は何もわるくない。優子もそういってくれていた。それなのに、なぜ私はこんなにも苦しんでいなければならないの?
私は部屋から飛び出した。
「雅恵、どこに行くの? もうすぐご飯よ」
「ちょっと、そこまで」
母にそういって家から出ると、私はあの道へ向かった。
その辺りまで来た。地面を見てみると、微かだが、まだ少し血の跡が残っていた。
「あの子はどんな子だったのかな」
あの満面の笑みが忘れられない。
「両親に愛されていたんだろうな。そうでなかったらあんな笑顔はきっとできないよ」
両親か、子どもが死んでどんな思いなのだろう。
ふと私は足を止めた。電柱のそばに花が供えられている。あの子へのものだろう。しかし、私が足を止めたのは、その電柱のそばで中年に近い女性が手を合わせているからだった。
「あの」
つい、話しかけてしまった私の方を、女性は振り向いた。
「あの、もしかしてここで亡くなった男の子のお母さんですか?」
女性は軽く頷いた。
男の子の母親と私は、事故のことについて公園のベンチで話していた。
「この公園で息子はよく遊んでいたんです。死んでしまった今でも、時々来てしまいます」
ああ、私はなんて馬鹿なんだろう。
男の子にも自分の人生があった。両親を愛し、愛されていた。不幸にも早く死んでしまっただけなんだ。それなのに私は、学校の注目の的になるだとか、自分勝手なことばかり考えていた。挙げ句の果てには“いやな夢”を見る? 私はいったい何様のつもりなのだろう。
そんな私の意を察してか母親は、
「あなたが気に病むことなんてありませんよ」
「でも、私はあのとき何もできませんでした。今でもそれで悩んでしまうんです。何かできたんじゃないかって」
「では、今、あなたは何ができるんですか?」
「今?」
「そう、今。それにあのとき何もできなかったというけれど、警察に連絡し、救急車を呼んでくれたのは誰なのかしら?」
私だ。あのときは夢中で連絡したんだ。気が動転していたんで今まで思い出せなかった。
母親は微笑んだままでいる。
私は少し救われた気がした。
「息子のために思い悩んでくれてありがとう。でも、生きている者が死んだ者に対していつまでも心をとらわれていることはいけないことよ」
こう言って私を諭してくれたが、その母親の後ろ姿を見送りながら、彼女が泣いているように見えたのは、何かやり切れなかった。
家路、あえてあの道を通った。
例の血の場所、血の跡がだいぶかすれてきている。私はしゃがみ、そっとその跡をなでた。
「ごめん、ね」
怖がったりして。
日がだいぶ傾いてきている。道々には家へと急ぐ車や人が往来している。
「今、何ができるか、か」
正直まだ答えは出ていない。
ただ、いま思いつくのは、とりあえずお線香を供えてあげることかな、と思いながら、家に向かって走った。
エントリ2
山裾の庵にて
ごんぱち
薪が音を立ててはぜる。
囲炉裏の前に独り、老いた男が座っている。
火にかかる真新しい鍋で雑穀の雑炊が煮えている。薄かった筈の雑炊は、いつの間にか煮詰まり糊のようになっていた。
思い出したように男は炭を鍋の下からよけ、杓子で雑炊を注ぎ無言で食べ始める。
箸が椀に当たる音と、雑炊をすする音が狭い庵に響く。
空になった椀に、雑炊をつぎ、また食べる。
ほどなく、鍋は空になった。
男は椀と箸を置く。
不意に。
男は立ち上がり、外へ駆け出す。
「おげええっ!」
廁へ向かう途中で、雑炊を吐き出す。
「えおえええっ!」
何度も何度も吐き続ける。
「はぁ……はぁはぁ」
肩で息をしながら、男は口を拭い、その場に座り込んだ。
「お爺さん」
その時、草むらから声がした。
「ウサギか」
男が草むらを見るのと同時に、草むらから心配そうな顔をした白兎が現れた。
「大丈夫ですか、やっぱりまだ……」
「いや」
青い顔で、男は笑みを作る。
「ただ雑炊が、古くなっただけだ。それに、お前が仇を取ってくれたんだ、もう充分さ」
「そうですね。今思い出しても、泥船ごと沈む狸のザマったらなかったですよ」
頬かむりをした男は、庵の裏の畑に向かう。
畑には大根と里芋と粟が、少し下がった水田には稲が植えられている。
男は作物を見て廻る。
男の足取りの重さと不釣り合いに、畑はよく手入れされており、雑草一つない。
うねを避けるように、大小の兎のものと思しき足跡がいくつも付いていた。
男は葉に付いた虫を取り始める。
芋虫を取っては指先で潰す。
手際よく、淡々と作業を続ける。
日が高く昇り、真夏の陽射しが男を炙り始めた頃、畑の虫取りが終わった。
「ふぅ」
男は汗を拭い、水田の脇の木の根本に作られた小さな墓の前に座る。
墓には、引き抜かれた野の花が供えられていた。
否、野の花があるからこそ、墓に見えるのであって、なければただ盛り上がった土の上に自然石が置かれているに過ぎなかった。
男は無言で墓石を見つめる。
丸い灰色の石が、時折木漏れ日を受けて白く見える。
男の目には、一瞬それが髑髏に映る。
男は顔を両手で押さえる。
『やい、爺ィ、婆汁喰って、おいしいか!』
狸の声が、頭の中一杯に響く。
床下から出てきた髑髏は、一度茹でてから肉を外されたのか、血の色はなく白っぽく煮えた肉が僅かにへばりついているだけだった。すり減り、所々抜けた歯と、何かで殴られて出来た後頭部の穴が、今も目に焼き付いて離れない。
「畜生っ!」
男は激しく首を横に振る。嘔吐しかけて唾を流す。
消化器官の全てを吐き出そうとするかの如く、吐こうとする。
だが、吐ける程に胃は食べ物を受け入れていなかった。いくら吐き捨てても、妻の肉を喰った記憶までは捨てられなかった。
「狸が……あの、狸が」
男は木に爪を立てる。
固い樹皮に爪が剥がれかけ、血が滲む。
幾度となく繰り返された行為なのか、男の手の爪は内出血でどす黒く染まっていた。
その時。
がさり。
草むらが動いた。
「兎か?」
男が草むらを見る。
既に、何もいなかった。
「!!」
いや。
一瞬、ほんの一瞬だけ、それは見えた。
草むらの中に、一瞬のうちに消えたのは、茶色く太い狸の尻尾だった。
男は山道を走る。
(あの狸がまた)
手には、薪割りの鉈を持ち、息を切らせながら走る。
(死んだ筈、兎が殺した筈なのに)
だが男の表情は、歓喜に歪んでいる。
(儂が、儂が自分の手で狸を殺せる、仇を取れる)
脳裏に、狸を切り刻む光景が浮かぶ。
狸の太鼓腹に、鉈を振り下ろす。
重いが切れ味の悪い鉈に、太鼓腹は簡単には破れないかも知れない。
(構うものか、三度でも、四度でも叩き込んでやる)
腹は破れ切れず、鉈の衝撃に骨が砕けていく。
(まずは肋骨)
肋骨が折れ、もう一度振り下ろせば、折れた肋骨が肉を破る。同時に、背骨がずれ、もう一度当てれば砕ける。
痛みと恐怖に泣き叫ぶ狸。
その顔面を鉈の背で殴る。
眼球を片方潰し、突き出た口が折れ、歯が落ちる。
(お前がやった事に比べたら、どれほどのものかっ!)
いつしか皮は破れ、飛び散った血が、男の顔と手と身体を染める。
だが、男の手は止まらない。
何度も、何度でも振り下ろす。
腸がちぎれ、細切れになっても、髑髏が砕け脳味噌がグズグズに崩れても、男の手が振り下ろす事に疲れ肩が抜け手のひらの皮が破れようとも。
「狸め!」
ふと、男は立ち止まる。
道の端に、微かに小さな足跡が残っていた。
足跡は道を外れ、薮の中へと入っていた。
男は息を殺し、薮へ分け入る。
足跡は続いていた。
歩幅の狭い、小さな足跡だった。
鉈を持つ手に力がこもる。
待ち受ける虐殺の予感に、男の頬は歪む。
はやる気持ちを抑えつつ、慎重に足を運ぶ。
ふと。
気配を感じ、男は身を低くし、木に身を隠す。
じっと目を凝らすと。
そこには、狸が座っていた。
大人が一匹、子供が四匹。
男は鉈を握り締める。
大人の狸は――雌だった。横たわり子供に乳を与えていた。
狸の子供たちの顔は、可愛らしくも、弱々しくもなく、ただ生に貪欲に、一心に乳を貪っていた。
そして、その顔つきは、あの狸に。妻を殺し、汁にして男に喰わせた狸と同じだった。
同情の余地などない。
鉈の刃が震える。
子連れの狸。皆殺しにするのも訳はない。
男はじっと狸たちを見つめていた。
鉈が、やけに重かった。
面白半分に、妻を殺した狸の家族。
確かに、最初に殺そうとしたのは妻。
しかし、最初に手を出したのは、農作業を邪魔した狸。
男の鼓動は早まる。
殺す事は容易い。
鶏を絞めた事もある。
猪を解体した事もある。
――と。
雌狸は大きく身をよじった。一瞬見えた顔は憎しみに歪んでいた。
(貴様らが、誰を憎む? 何を恨む?)
男の口元に、嘲笑が浮かぶ。
血まみれの、ボロ雑巾のようになった狸達の姿が脳裏に浮かぶ。
「……兎め」
ぽつり、と、雌狸は呟いた。
恨みに歪んだ顔で、憎しみのこもった声で。しかし怒りに震える腕は、その震えを手までは伝えずに、手のひらはそっと子供たちを撫でる。
そして子供たちは、一切の興味もないという顔で乳を吸っていた。
男は、鉈を見つめる。使い込まれた鉈に、微かに自身の顔が映った。
雌狸と同じぐらい、憎しみに歪んだ顔をしていた。
鍋でぐつぐつと雑炊が煮える。
男は独り、椀によそい、すする。
「うっ、うぷっ!」
椀の中身を半分も食べないうちに、口を押さえ裸足で外へ駆け出す。
「おげええええっ!」
胃の中のものを吐き出す。
「えげぉっ、ぇおっっ」
「お爺さん、大丈夫ですか?」
薮から現れた白兎が、心配そうに男の背中をさする。
「いや」
男は手の甲で、口を拭う。
「狸が憎くて、婆さんを喰った自分が許せなくて、気が狂いそうだ。いや、もう狂っているのか」
「お爺さん……」
「あの狸は死んだ。だが死んでも、儂はこの恨みを一生忘れん。忘れられん。何をしても、絶対に忘れられん」
肩で息をする。顔の歪みは戻らない。
「忘れん。恨みは儂のものだ」
男は歪んだままの顔で、ふっと笑みを浮かべた。
「嫁いだ娘にも、他の村人にも分けん」
もう一度胃の中の物を吐いてから、男は畑へ向かった。
「儂独りで、持っていく。どこまでも持って行く」
叩きつけるような蝉の声で一杯の畑への道を、夏の強烈な陽射しが灼いていた。
エントリ3
禍転じて福来る
中川きよみ
朝、出勤前にいれた安物の煎茶に、もう一度熱湯を注いで数分。結構よい緑色に染まったお湯が出来上がる。もう1〜2杯はいけるが、最後はほぼ白湯である。
私はケチである。大ケチ、というのがあるならば、私は小ケチといったところで、その吝嗇ぶりもとりたてて評判になるほどではなくひっそりとケチである。大損しない代わりに大儲けすることもなく、スケールの小さい生活ぶりだ。世間はこれを堅実と称してくれている。
ある晩、その緑色の湯を作ろうと水道の蛇口をひねったら水の代わりに貧乏神が出てきた。これまた大貧乏ではなく小貧乏、スケールの小さなケチな貧乏神だった。
貧乏神は私が台所に洗って干しておいたサランラップを横目にせせら笑った。
「お前、根っからのケチだろう。」
しみったれた口調でやる気なさそうに断言した。環境に配慮したからではなく純粋なもったいなさから、反射行動のようにサランラップすら洗って使い回していることを見抜いていた。
私は紛れもないケチであるにも関わらず、他人からケチだと見なされることは好まない。
「いいや、違う。」
「じゃあ俺を家に置け。」
「ワケが分からないことを言うな。ケチだろうとなかろうと、貧乏神を好んで家に置くほど酔狂な人間じゃあない。」
どうやって捕まえて放り出そうかとモタモタしている内に、貧乏神は食器棚の奥に立て籠もってしまった。引きずり出そうと腕を突っ込んで追い回したが、ちょろちょろ逃げ回る貧乏神の小汚い洋服が皿を汚すばかりで、出て行く気配がなかった。仕方がないので私は食器棚をガムテープで封印し、その日は蛇口から水を飲んで寝た。
翌朝、もういなくなったかと思って食器棚を覗くと、貧乏神はグウグウ寝ていた。目張りしてあるので空気が薄くなって昏倒しているようにも見えた。
「出して欲しければ私の言うことを聞け」
貧乏神はうっすらと目を覚ますと貧相な顔で私を見上げた。
「……」
「福の神を連れてこい。抱き合わせだったら置いてやってもいい。但し素泊まりだ。食事は出さない。」
「やめとけ、やめとけ。あいつらは高慢ちきで、第一物入りだ。どんなに小振りなやつだって間違いなくハイリスク・ハイリターンだ。お前みたいにケチな人間の手には負えないさ。」
「だったら日払いで家賃を入れろ。」
「やっぱり俺が惹かれるだけあって、お前は本当に不景気な心根の人間だね。まあいい。俺がいると原因もなくどっかしら壊れたりなくしたりするだろうから、そんな時は請求してくれたら現物支給しよう。これなら俺を置いていても実質損はない。」
「得もないんだろう。現物というのはどういう意味だ?」
「現物は現物さ。まあ、この交渉が決裂して閉じこめられたって構やしない。こんなに居心地が良い家は他に知らない。死んだって出てゆかないぞ。」
「死ぬのか?」
そう言えば肝臓かなにかが悪そうな顔色をしている。
「その時は大貧乏が末代まで染みつくぞ。」
少し考えて、とりあえずガムテープははがした。それが運の尽きとでも言うのか、当然の成り行きのように貧乏神は私の家の食器棚に棲みついた。
やがて貧乏神の言葉通り、ケチがついたような事が起き始めた。
なぜか突然窓ガラスに大きなヒビが入っていた。貧乏神に言うと翌朝、机の上に安物の台所洗剤が10本くらい置いてあった。対価の判断根拠は不明だ。ガラスはテープで修理しておいて、洗浄能力が決して高くはないその洗剤を台所のみならずトイレや浴室を洗うのにまで大いに活用した。
電卓が行方不明になった時は正体不明の子供服だった。動物だか人間だかも判断不能な不可思議なキャラクターがでかでかと胸元に縫いつけられた、手縫いなのか既製品なのかも微妙なジャンパースカートだった。100円均一で新しい電卓を買って、着る人はいないであろうと確信させるようなその服は子持ちで風変わりな外国人の友人に進呈した。なんとお礼に「もらったけれど食べないから」と辛子明太子をもらった。割の良さはエビで鯛を釣るどころの騒ぎではない。
「一体どこからこんなけったいな安物を調達してくるんだ?」
玄関ドアの蝶番が壊れてしまった代わりに蛍光黄色で1日で穴が開きそうな安っぽさを極めたLLサイズの軍手をもらったとき、呆れて食器棚に訊きに行った。
「俺は貧乏神だからね。貧乏くさいものは得意なんだ。」
「得意だとか不得意だとかを訊いてるわけじゃない。どこで入手してくるんだと訊いてるんだ。」
「卸業者がいるのさ。」
「うそつけ。」
さすが小者の貧乏神、ダメージの与え方も地味ならば、償いもしょぼいものばかりだった。でもどんなにつまらない品々であろうと、私は絶対に捨てたりしないで120%活用し、結構うまくやっていた。終いに、活用方法を思案すること自体に楽しみを見いだすようになって、呆れた貧乏神をして「捨てる神あれば拾う神あり、だね」と言わしめたほどだ。
ところがある日、貧乏神は卵を産んで消えてしまった。
深夜、緑色のお湯を作るため湯飲みを取ろうとして、その食器棚の奥に鈍い光を反射する巨大なゴキブリが産み付けたような茶色の卵に気付いた。貧乏神の気配がなくなっていた。
ツルの恩返しのように毛でも抜いて現物で弁償していたのだろうか。弁償しすぎてとうとう死んだのだろう。これで私も末代まで大貧乏か、と、食器棚の奥の卵を眺めながらいつもの緑色のお湯を飲んで寝た。
なんとはなし、すうすうするような気分だった。よもや貧乏神が出ていって寂しさを覚えている訳でもあるまいが、居着いていた貧乏神が死んでしまったから大貧乏が末代まで染みつく、という言葉に恐怖を感じているのでもなかった。
もしもゴキブリだったら怖いなあと思いつつも面倒臭さゆえにバルサンを焚かずに見守っていたら、卵はしばらくして孵化した。たまたま孵化したのが深夜で、私はその一部始終を目撃することが出来た。もちろん、全く感動しなかった。
ぱりぱりと無造作に殻を破って中から出てきたのはちっとも可愛くないオッサンだった。親にそっくりの貧相な顔つきの、そいつは福の神らしかった。生まれたてで肌なんかもつやつやしているが、そのくせオッサンという辺りが全く好感を欠いていた。
「よう相棒、お前、なかなかやるね。貧乏神を成仏させちまうとは、大した腕だ。」
なれなれしい口を叩くオッサンを眺めながら、私は相性という言葉を痛感した。福の神よりも貧乏神とウマが合うというのも哀しい性だが、仕方がない。どうにも虫の好かない相手に向かって、先制パンチの宣言をしてやった。
「お前がいると物入りになるそうだが、ライフスタイルは絶対に変えないから心しておけ。我が侭言ったら即刻放り出してやる。」
「お前、彼氏いない歴27年だろう。」
困った顔のオッサンは、捨て科白を吐いて食器棚の奥に引っ込もうとした。が、なにぶん生まれたてなので足元もおぼつかない様子だった。
カチンときて、反射的にふん捕まえて吊し上げた。
「そう言う暇があるなら、気の利いたオトコの1人や2人、連れてきてみろ!」
涙目になった福の神はコメツキバッタのようにペコペコして見せて、放してやると窓の隙間から一目散に逃げ出していった。
それきり福の神は帰ってきていない。
そして結局私は大貧乏になることもなく、以前通りにケチで堅実な暮らしを営んでいる。福の神が嗤おうとも、別に不幸ではない。
エントリ4
牧歌
土筆
僕は電車の振動に身を委ねながら、執拗に襲掛かる睡魔と闘っていた。その眼をようやく開いたとき、電車がどのあたりを走っているのか見当がつかなかった。
白髪で小柄のおばあさんが、僕のすぐ横のパイプに掴まって立っていた。布製の手提げ袋がやや重そうだった。
いったいどのくらい眠ってしまったのだろうか。そして、いつから彼女はここに立っているのだろう。
そんな自問をしながら、おばあさんに席を譲ろうとして立上がった。彼女は初めぼんやりしていたが、僕が席を譲ろうとしていると知って、皺に囲まれた瞳が朝の湖のように耀いた。それほど僕の行為は、タイミングを外れていたのだ。
「あらあら、ご親切に」
「いやあ」
僕は気づかずにいたばつの悪さを、頭に手をやる仕種でごまかしていた。
僕は吊革に掴まっておばあさんの前に立った。彼女はしきりに口を動かして、何か呟いているようだった。ふと、視線が僕の膝の辺りにきて、口の動きが止った。
具合の悪いことになった。僕のジーパンは両膝が見事に擦り切れて口を開け、肌がくっきり覗いていたからだ。それこそ土色の沼のように。
おばあさんはしばらくその辺りを注視していたが、手提げ袋の中をまさぐりだした。その間、電車はおそらく、二つ、三つの駅に停車しただろう。何しろ、内密に事を運ぶのだから大変な苦労だ。そこから小さく折畳んだものを取り出し、その手で僕をつついた。
彼女が何か言っている。今度は口の動きだけではなく、叫ぶほどの声だ。
「こ、こ、これで、ズボンを買いなさい」
僕はまたまた悪びれて、
「これは、その好きで……」
などと、擦り切れたジーンズの言い訳をしていた。けれども一徹なおばあさんの耳に届くはずはなく、容赦しないとばかりに折畳んだものをつきつけてくる。
拒んでいると、彼女は両手を使って、僕の掌に押し込もうとした。
このとき手放してしまった彼女の手提げ袋が床に落ち、中から瓶詰めが二つ転がり出た。弾みで僕は手に五千円札を握らされたまま、床に転がった瓶を拾いにかかった。
拾い上げておばあさんの袋に納めたとき、電車はD駅に滑り込んだ。彼女の降りる駅だった。僕の駅はもっと先だが、彼女に続いて電車を降りた。
「あなたも、ここかね」
「いえ、こんなに貰ってしまって悪いから」
僕は苦笑って、彼女の荷物を持とうとして手を出した。
「何、こんなもの、年寄りの力を甘く見ちゃいけないよ」
軽くいなしてホームを歩き出した。僕は混雑から老人を守るような形で、なんとなくついて行った。
「学生さん?」
「ええ」
「国は?」
「北海道」
そんなことを片言に言い交わしつつ、改札に来ると、おばあさんは僕を押しとどめて矍鑠とした足取りで先に進んで行った。
僕は依然擦り切れたジーパンを愛着していた。貰ったお金は、新しいパソコンソフトが出たときの購入に充てるつもりでしまっておいた。
ひょっこりおばあさんに出会ったらどうしよう。そんな不安が頭をもたげて、おちおち電車にも乗っていられない気持になった。
そんな思いが高じると、僕はたまらずジーンズを膝のところで切ってしまい、ショートパンツにした。それでもまだ心配で、サングラスをかけた。
朝夕、肌に触れる風のそよぎに時に冷ややかさを感じる季節になった。僕はまだ短パンにサングラスで通していた。
ある日、席を取って、ふと顔を上げると、前のシートにあのおばあさんが坐っていた。口をもぐもぐやっているので、すぐ分った。
彼女は僕の肩越しに遠い雲のさまでも眺めるように、ぼんやり視線を向けていた。その眼がぎこちなく動いて、僕の脚に落ちた。顔を見られなかったのがせめてもの救いだった。
おばあさんは僕の太腿の半分から下が露であるのに慌てたらしく、老人らしからぬ敏捷さで、顔があらぬ方角へと振向けられた。汚らわしい。ここまでくると、もう援助の手を差し伸べるどころではない。そんな決然とした拒否の姿勢が表れていた。
おばあさんがD駅で降りて行った後、僕らしくもなくしばし物思いに耽っていた。心の奥に刺さっていた棘のようなものが、ずきずき疼くようだった。
おばあさんの善意を、パソコンソフトなどに摩り替えてはならないと思った。
一度この反省が頭をもたげると、僕はたまらず駅近くのヤングショップに飛込んだ。折よく特売日で、ジーパンを激安の値で購入した。
新しいジーパンはすぐ体に馴染んでいき、それに併せるように有難みが湧上がってきた。今こそおばあさんに会って、見せてやりたくてならなかった。
電車が空いているときなど、僕は知らず知らず首を廻らせておばあさんを探すようになっていた。
ある日、席についてすぐ、普段と違った気配に眼を上げた。通路を挟んで向かい合った席に、あのおばあさんがいたのだ。
おばあさんは今日も口をもぐもぐやって、どこか遠くを見る眼つきをしている。
僕は体ごとおばあさんに飛び込んで行き、彼女の前の吊革に掴まった。
「ほれ、おばあちゃん。僕にぴったりでしょう。これ前に、おばあちゃんに買ってもらったんだ」
彼女はぼんやりしていたわりには、敏捷に反応して、目前のジーパンを品定めする目色になった。
「それで、あの半ズボンはどうしたかね」
あまりに予期しなかった展開に、僕はうろたえて、
「半ズボン?」
と返しただけだった。耳の先まで熱くなり、顔が真っ赤になったことは明らかだった。
「私はあの半ズボンのショックが大きかったもので、しばらくどれも短パンに見えて仕方なかったよ。昔孫がそっくりの格好をしていたからね。孫はドライブで飛ばし過ぎ、衝突して死んだけれど」
僕は僕で、あまりのショックから依然ことばを継げないでいた。おばあさんは続けた。
「何を買いたかったんだね。短パンにまでして」
「ゲームソフト、パソコンの。新しいのが出ることになっていたから」
僕は悪びれて頭をかいた。
「パソコンなら、いいさね。危なくないから」
おばあさんは言って、布袋の中をまさぐりだした。しまった。またつまらない事を言ってしまった。今度は五千円札がなかったらしく、千円札を纏めて僕の膝に押し付けてきた。
「悪いよ、そんな何回も」
僕は半ば自分への怒りで、口を膨らませていた。
「孫にもよく騙されたもんさ。みんな車に消えていたんだ。今日遇ったのも何かの因縁さ。いいから、これで買いな」
「でも、買ったかどうか信じてもらえない」
僕は依然身を強張らせていた。穴の開いていないジーパンの膝がスースーしてならなかった。
「信じるさ。しるしはこのズボンさ。ソフトを買わないで、おまえさんはジーパンを買った、じゃん」
「じゃん?」
僕はびっくりして跳び上がりそうになった。衝撃につられて、纏めた千円札を受け取ってしまっていたのだ。
おばあさんの口元には、してやったりといった笑みが浮かんでいた。
僕は涙がこぼれそうになって、顔を上げた。
――人生はこんなに甘くない――
夢を見ているような気がして、僕は眼を落とした。おばあさんが口をもぐもぐさせて、車窓に眼をやっていた。牛が反芻しながら遠い雲のさまを眺めるように、どこかのんびりして優しく、慈愛に満ちた眼差しだった。
僕の前の車窓にも青空が広がっていて、積雲がにじんでいた。その白い雲の一点に眼を据えて、僕は電車に揺られて行った。
後で調べると、千円札は五枚ではなく、七枚あった。
エントリ5
変わった夜と美女の欲
篠崎かんな
「タクシー代ぐらいは出すが……どうする?」
ズボンを掃き終え、シャツを止めながら、アキラは言った。
「泊めてはくれないの?」
シーツにくるまったまま、服を着ようとしない女。
「泊まっても面白い事無いぞ。もう終わったから」
「むぅー」
「そろそろ服着ろ。風邪ひくから」
そう言って周りを見渡す。1R安マンションの中に脱ぎ捨てられた服が転がっている。テーブルの上に置かれた上着、クローゼットの前に転がるブラウス、掴んでベッドの上に投げてやる。スカートは……キッチンの前まで飛んでいる。そっか、俺が放り投げたんだった。下着類は布団にまみれているだろう。
キッチンの換気扇を回す、部屋に香水の香りがこもっていたら具合が悪い、今度ばれたら殺されかねない。
「ねぇー、何で私を誘ったの?」
後ろからまだっこるい声がした。
「美人で、いい体してたから」
冷蔵庫から、葡萄ジュースを二瓶取り出す、よく冷えた甘みが疲れと火照りを癒して行った。
ベッドの上でシーツを頭から被り、顔だけちょこんと出ているのは、クリッとした瞳の少し童顔系の美人。
「遊び人」
栗色のまいた髪がかわいく揺れている。
「どっちが……服着たのか?」
「女ったらし」
「ほら、ジュース」
渡すついでにシーツをはぎ取ると、初めて会った時同様、完璧に着こなした姿があった。気に入らない顔で、受け取ってやけを起こすようにいっきに半分ほど飲み干した。
「今まで何人の女の子泣かしたの?」
「さぁ、覚えてない」
「私もその一人?」
「お前は違うだろ。美人のくせに簡単についてきて、どうせ同じ人種だよ」
「だって欲しかったんだもん」
「俺か? 快感か?」
「ううん、魂」
「はぁ?」
にっこり笑顔がそこにはあった。
「私、魔女なの」
「あははっ、あぁ魔女ね」
「あなた、かっこよかったからさぁ、食べたくなった」
ベッドからぽんと降りて、両手でジュースを掴んで突っ立つ。そう言えば名前聞いてないや。
「……生きる意志は不動の心、人に殺された事を恥じなさい。人に食われるくらいなら、その心を果たしなさい……」
重々しい言葉、これは呪文……
ジュースの瓶が光を放つ、不敵な笑みの彼女の手から、床へと落とされる光る物体。床に当たる直前に、激しい破壊音が響いた。
思わず身を引いたアキラに、緑の細長いなにかが襲いかかる。
「なんだぁ?」
瓶の落ちた所から無数のツルが伸びていた。所々葉っぱもあるが、どう見ても普通の大きさでは無い。足に、胴に、両手首に、ロープのように絡み付く。
「いいわねぇ、かっこいい人の驚き顔って好きよ。でも苦しむ顔のほうが好き」
太い一本が、首に巻き付いてきた。
「殺すわ。たっぷり、苦痛を味わってちょうだい」
「これは……葡萄のツルか?」
「えぇ、あなたに貰ったジュースよ」
アキラは鼻で笑った。そして目の前の自信満々の女を見ながら呟く。
「……大地連唱、森光型正。早く帰れ、自然の者。連鎖を忘れた訳では無いんだろ?」
締め付け続けていたツルが止まり、一瞬にして消え去った。
「なっ」
驚きの声を上げる前に、アキラは腹に向かって拳を突き出した。
やわらかな手応えと苦痛に染まる顔。
「なんだ、美人の苦しむ顔もいいじゃねぇか」
その顔を、横から殴りつける。鈍い音と共に吹き飛んで、ベッドの上へ投げ出された。
床の上には割れた瓶と、紫のジュースが染みを作っていた。
「……正幻の言霊……なんで、知ってるのよ」
荒く息をする女の上に、アキラはのし掛かった。
「昔一人いたんだよ。魔女っていい女が多いのな、教えてもらった」
両肩を押さえつけて、上から痛々しい顔を眺める。赤く腫れてきたほほに、口元からは血が出ていた。
「人間にも意地ってモンがある。殺すよ、魔女さん」
『おとす』時しか使わない笑顔で、重く呟いてやった。恐怖でこわばって行く顔をじっくりと見つめる。
「たすけ……」
「惜しいな……良い体してたのにな」
片手で首元を抑え、空いた手で体を撫でる。微かな震えは、どんな部分にも現れていた。「嫌……助けてよ……ねぇ」
「聞こえなかった? 殺すって言ったんだけど」
細い首を掴んだ手に力を込めると、恐怖に怯える顔が天を仰ぐ。
流れ出る事すら追いつかない、いっぱいに溜まった涙目が哀願している。せつない風にも見える必死の顔は、静かにアキラの心に響いた。サディスティックな快感が、体中を駆けめぐる。悪い物では無いが、それに溺れるほど飢えてはいない。
アキラは手を離し、ベッドから降りた。
乱れた姿で横たわる魔女を眺め、ため息を一つ付く。
「許して……くれるの?」
「人間には、情って物があるんだよ」
頭をかきながら、さっき飲みかけていたジュースをとる。……こいつは攻撃しないよなぁ。
いきなり女が抱きついてきた。ほとんど不意打ちだった為、瓶を落とさないので精一杯。
「なんだよ、いったい」
「ありがと……」
胸に顔を埋めて呟くような声で言った。
「ありがとう、嬉しい……」
「おい……やめろって」
髪を撫でてやると、うるんだ目で見上げられた。まぁ、何もしなきゃ美人なんだ。近づいて来た唇を避ける事はしなかった。
ただ純粋にしびれる感触を味わっていたが、直感的に感じた危険が、彼女の体を突き飛ばした。
「お前……何をした?!」
体に感じた不自然なしびれ、足から手から、力が抜ける。思わず唇を押さえて、その場に座りこんでしまった。
「魔女には、情って奴無いのよね」
「何を……」
「口から自由に毒を出せるのは、魔女の特権。今のは神経毒よ、すぐ死ぬって訳じゃ無いけど、動く事は出来ないでしょ」
「毒……」
「あら? 前の魔女さんは言ってなかった?……まぁ当然ね。知ってたら絶対キスしてくれなくなるもん」
「なるほどね……だから、あいつ『最後にもう一度だけー』っとか言ってたのか、やんなくて正解」
「じゃあ、私が最後のキスしてあげる。今度は即効性の奴で楽に死ねるわよ」
足腰に力が入らない。おきまりの恐怖は激しすぎて、むしろ麻痺。近づいて来る顔は、何度眺めても、たとえ魔女であっても、魅力的には変わりない。遊びに遊んだ人生、こんな終わりも悪く無いかもな。
覚悟して、どうせなら最後に気持ちよければいいと、すべてを感じるつもりで目を閉じる……。
突然、大きく激しく響いた音、ドアを開け放った音だ。
入り口にそいつは立っていた。
「ゆう……」
目をつり上げて、両手を握りしめる姿が頼もしく感じた。
「何やってるのよ!」
土足のまま駆け上がってきたゆうが、迫っていた魔女の体を突き倒す。
「……何度裏切ったら気が済むの? ねぇ、何のつもり、この女」
「いったいわぁ……あのねぇ私は魔女よ」
「えぇ、あんた魔女よ、悪魔、悪女。許さないから……」
ゆうは、鋭い形相で睨んだまま、キッチンの扉を開ける。取り出したのは……包丁。
「私のアキラを、渡しはしないわ!!」
避ける暇など与えない、ゆうの突き出した包丁が女の喉元に深々と刺さる。一瞬にして辺りが真っ赤に染まった。
……助かった。
安堵感が全身の恐怖を洗い流し、体中に変な汗がにじみ出る。
「ありがとう、助かった、ゆう」
「何が『助かった』よ……、もう嫌よ」
斑に赤い姿で包丁を握りしめたまま、詰め寄ってくる……。
「いや……ゆう、違うって」
「聞きたくないっ! あなたを殺して、私も死ぬー!!」
血のしたたる包丁が、アキラに振り下ろされた。
エントリ6
悲しくなど無いが、悲しみについて
るるるぶ☆どっぐちゃん
悲しみということについて男は考えているがそんなときは大抵誰かに殴られる。階段の踊り場、冷たいコンクリートの床の上には誰かの置いたプランターが置いてあり、草がぼうぼう生え放題に生えていた。男は手を伸ばし、殴り返す。また暴力に暴力で返してしまった。悪意に悪意で応じてしまった。何故それがいけないのか。解らないが虚しくなる。虚しくなってしまう。
男が手摺りにもたれているとこのビルの住人であろう、もしかしたらプランターを置いた人物かもしれないランニングを着たおっさんが、ギザギザと光るノコギリを手に階段を降りてきた。おっさんは男の脇を通過して地面に降り、そしてノコギリをいっぱいに伸ばし、枯れ木の枝を切り始めるのだった。
男は、妻が仕事をしようとしない彼のためにこれならば働けるだろうと開いた絵画教室で教師をしていた。教室はとても広く作られていた。天井は吹き抜けで、常に明るかった。中央はモデルを囲むステージになっていて、そこには椅子と石膏の胸像が、いつもぽつんと置かれていた。胸像はスタンドにネジで軽く固定されているだけだったので、少し押しただけでいつまでもくるくると回った。子供達は胸像を取り囲み、無言で描いた。開業した場所が良かったのか、開業した時期が良かったのか、ともかく教室は繁盛した。いつも子供達でいっぱいだった。
男は絵が上手かった。好きなのは静物画で、枯葉の朽ちかけた葉脈を、彼は執念深く描くのだった。オレンジの皮。花束。小石。男は絵が上手かった。それらは驚くほど精密に描かれた。だから妻は彼のために絵画教室を開いたのだが、良い教師であったかと言えば、必ずしもそうではなかった。何故ならば彼は幼い頃から描き続けていて、自分の思うままに、見えるまま、描きたいままに描いてきたから、描きたいように線を引いてきたから、だからそれが絵であるし、描くとはそうであるのだから、行為自体が絵なのであるのだから、どう描けば良いのか、例えば母親の笑顔、この瞳を、この唇を、どう描けば良いのか、うまく描けないから教えてくれ、そのように聞かれても、何故そんなことを聞くのかさえ、彼には解らなかった。
ちゃんと見て描けば良い。男はそれだけを言って、石膏像の角度を変え、気まぐれに女を連れてきて裸にしてステージに上げポーズを取らせ、それが終わるとまた石膏像をくるくると回し、そしてまた気まぐれに女を五、六人も一度に連れてきた。
子供達は黙々と描いた。子供達の大半は実に才能が無く、全くどうしようもないのだが、数人だけ才能があるものが居た。男は子供達に実に人気がなかったが、二人にだけ妙になつかれ、仲良くなった。一人はお下げ髪で太った、才能の無い女の子で、いじめられっ子であった。もう一人は天才組のメンバーで、実に見事で完璧な絵を提出する痩せた女の子だった。仲良くなった、といっても男と彼女達とでは年が離れ過ぎてているし、だから共通の話題は天気の話くらいだった。
「良い天気だね」
「雨だね」
「ちょっと曇りだね」
「嘘みたいに晴れたね」
「冷たい雨だね」
そのような会話ばかりを、男と少女達はした。夏になり、毎日が晴ればかりになったらどう話をしよう、と男は少しそんなことも考えてたが、結局夏になる前に男は教師を辞めた。新しく出来る馬鹿馬鹿しい形の駅ビルの工事を、男は、こっちの方が自分にあっている、と思ったのだった。妻にその旨を告げると二、三言、もう少し続けてみれば、とかなんとか言ったが何を言ってもどうせ聞かぬとすぐに諦め、解りました、決めたのならばそうなさいませ、ということになった。
妻はすぐに代わりの教師を見つけてきた。色白の大人しい美大出たての若者で、子供達はすぐにこの新しい教師になついた。
男は馬鹿馬鹿しい形の駅ビルで働き始めた。全く持って馬鹿馬鹿しい形であった。柱がくるん、となって、その後、天辺に向けてきゅるん、と巻き上がるのだった。くるんくるんと男は階段を登り、鉄骨を運び、草がぼうぼう伸び放題のプランターを運び、ノコギリで枯れ枝を切った。
工事を受け持つ施工会社の社長は丸まると太った小男で、小心そうな笑みを浮かべながら、三日に一度ほど工事の視察に来た。側には必ず女が居て、それが社長の奥さんなのであった。痩せた美しい女で、いつもその長い見事な髪の毛と同じ色をした、凄いスリットの黒いドレスを着ていて、自分の夫の会社の労働者達を、心底軽蔑しきった目で視察するのだった。
同僚には苦学生が居て、バイトしながら大学に通っていた。頭が良く、実際一流校に通っていて、性格も良く、だから彼は悲しみについて良く考えるのだった。悲しみについて考えているときは、誰かに殴られる。男は彼を殴った。くだらん、と思った。悪意を向けてしまった。暴力を振るってしまった。全く持って何がいけないのか。全く持って虚しい。男は芸術を信じていなかった。芸術の力を信じていなかった。だから絵が描けた。絵が上手かった。男は同僚の目に鉄パイプを突き立ててぐりぐりと回した。
社長の妻がその現場を見ていた。暴力にすっかり驚き、興奮した女は、男を震える目で見上げ、誰か、誰か、いませんか、大変なんです、怪我で、と言い、さあ水ですよお飲み下さい、とコップを男に差し出した。
「こっちですこしおやすみに」
女はそう言って、怪我人は放っておき、男の肩を持ち、よろよろと歩き出した。じめじめと暗い部屋に二人は入り、男がベッドに座り、水を二杯飲み干して、目を上げると、女が服を脱いでいた。
「そんなにみないでくださいまし。はずかしいです」
女はそう言って白い裸体を男に開いた。全く持って真っ白だった。ぎしりとベッドが鳴り、二人は抱き合い、倒れ込んだ。
「ああ、いやです、そんなにしたらいやです」
と女は言いながら、男の手を取り、胸や脚にぐいぐいとこすりつけた。胸や脚やおまんこに飽きると、女は男に首を絞めさせた。女はそれが気に入ったようだった。
「だめです、そんなにしたら、わたくし壊れてしまいます」
女は会う度会う度ごとに、そうやって男に首を絞めさせた。暴力とは何か。虚しさとは。男は考える。悲しみ? 「そんなにはげしくなさらないで。なんでもいうことをききますから」。
悲しみ。
ある日家に帰ると妻が雇った教師に言い寄られていた。若者は実に真っ直ぐな瞳をしていてだから男は、あなたの好きになすって下さい、と妻が言えば良いと思っていたが、妻は困ったような笑顔を浮かべるだけで若者に何も答えないのだった。
「おかえりなさい」
若者が諦めて去ると男は部屋に入った。
男は苛立ちから妻の頬を打った。
妻は少しだけ微笑み、飼い猫が死んだことを男に告げた。
教室にはいると、誰も居ないと思っていたが、少女が一人居た。
「良い天気だね」
「良い天気だね」
少女は窓の外の風景をスケッチしていた。教室で提出する絵とは全く違う、恐ろしく空虚で、恐ろしくエッジが立っている、感動的な絵だった。
「わたしは人殺しですよ」
絵を見ていると、そう言われた気になり、そして
「だからあなたとわたしは完全に同じなんですよ」
と言われた気にもなった。
窓の外には駅ビルが見えた。駅ビルの工事は進み、ますます馬鹿馬鹿しい形に伸びていた。少女はその線を的確に捉え、生真面目なまでにその紙の上へと再現していく。
エントリ7
サンデーディナー
伊勢 湊
鏡に映ると右と左が反対になるのに、どうして上と下は反対にならないのか。あくまで偶然だが、僕はその答えの一つを知っている。それはかなり科学的な答えで鏡というのは前後を反転させるもので左右を反転させるものではないというものだ。僕はそれを本で読んで知り、その中には鏡に向かっていろんな方向に指を指してみると分かりやすいと書いてあったが、それを実際に頭の中で理解するまでに相当の時間を要した。知って、世界は縮んだ。僕にはそれがどうしてもこの謎のあるべき答えには思えなかった。
僕には時間があり、するべきことは少ない。日曜の午後はたいてい東京駅の地下待合所で彼女を待つ。そこが待ち合わせの場所だからだ。
「日曜の午後には戻るから。そうだ、東京駅で待ち合わせしてチーズフォンデュを食べて帰らない? とっろとろであっついやつ」
彼女はそう言って新幹線に乗って実家に帰省した。法事だとか何とか言ってた気がするけど正確な理由は覚えていない。日曜日に僕は東京駅で待っていた。特にすることもなくて午前中から地下待合所の端のほうのベンチに座り途中で買ってきた文庫本を読み始めた。読み終わっても彼女は現れなかった。携帯に電話してみたけど繋がらなかった。圏外にいるわけでも電源を切っているわけでもなく、どうやらその番号はもはや使われていないようだった。暗くなってから東京駅を出て、家の近くのスーパーで文旦が僕の記憶にあるそれよりもひどく安かったので買って帰った。僕は十分な時間をかけてナイフを使わずに文旦の皮をむいて食べることに挑戦した。食べにくい、という点においてのチーズフォンデュとの共通点も見出せた。それから幾分夜が遅くなってから彼女の実家に電話した。ベルの音が鳴りつづけるだけだった。
次の日曜日も、その次の日曜日も僕は文庫本を手に東京駅に出かけた。彼女は日曜日に戻ってきて、僕たちは一緒にチーズフォンデュを食べに行く約束だった。僕には他にやることがなく、そして、やることがないことに気が付いても何かが変わるというわけでもなかった。
一人では映画に行くのも面倒臭く、趣味の写真は誰に見せればいいのか分からなくて撮らなくなっていた。自分のためだけに何かをするというのはひどく難しく思え、僕はいまだ戻ってこない彼女のために待合所で時間を過ごした。
「あきれたわ、本当にいた」
何度かの日曜が過ぎたある日、待合所のベンチで文庫本を読む僕の前に一人の女の子が立った。
「ごめん、誰でしたっけ?」
誰かと話をすること自体が久しぶりで僕は思わず不躾な質問を投げつけた。でも目の前の女の子は嫌な顔一つせず、帰ってこない彼女の友達の浅川深雪というものだと答えた。僕はそうですかと答えた。その浅川さんという女の子は僕の前に立ち僕を見下ろしていたが、やがて口を開いた。
「あなた何も聞かないの?」
「なにを?」
「例えばあの子のいる場所とか」
僕は少し考えたが聞くまでもないように思えた。
「実家に行くって言ってたんだ。用事が終ったら日曜日に戻ってきて、ここで待ち合わせてあっつあつのチーズフォンデュを食べに行く。そういう予定になっているんだ」
浅川さんは小さくため息をついた。
「本当にこんな人いるのね。いい? あの子はここへは帰ってこない。どうしてかは聞いてない。私はあの子とは全然、本当にぜっんぜん親しくないけど、大学のときゼミで一緒だったことがあって連絡先を交換したの。電話をもらうまですっかり忘れていたけどね。あの子は突然電話してきて電子メールのアドレスを尋ねて、そして一枚の写真を送ってきた」
浅川さんが目の前に一枚の紙をかざした。普通紙にプリントされたらしい写真には確かに僕が写っていた。
「それからこう言ったの。冷静に考えるとあなたがここであの子のことを待っているような気がするから代わりに行って、もう戻れないって伝えてくれないか、って」
「どうして君が?」
「どうして私に頼んできたかは分からない。私にしても青天の霹靂。どうして私が来たのかは、私には本当にこんなところで待ちつづけている人がいるなんて信じられなかったから。そう言ったらあの子、じゃあ確かめてみて、なんて言うの。つまり乗せられたわけ。ついでにどういうわけか分からなかったけどあなたが私にチーズフォンデュを御馳走してくれるって聞いたから。私、大好物なのよね、チーズフォンデュ」
僕は理由を奪われたようだった。感情にはまだ名前はない。
「つまりあいつはもうここには戻ってこないんだね?」
「そう」
「僕がもうここで待つ意味はないということだよね?」
「そう」
とりあえず僕は、再びページを開くかどうかは分からなかったけど、栞を挟んで文庫本を閉じた。待合所にはどういう訳か壁にやたらめったら鏡が貼り付けてあって、それじゃなくても人が多いこの空間の人口をさらに増やして見せていた。それに鏡の向こうに続く空間は方向性が曖昧で、その世界を歩く人たちの目指す道はあまりに不明確だった。少なくとも、一度ページを閉じてしまえばそこは読書には向かない場所に思えた。
浅川さんが僕の前に立って僕を見下ろしていた。たぶん、僕にいま必要なのはさっさとここを出て、初夏の気持ちのいい夕暮れを散歩して、やはり一人で食べてもかなり寂しそうだから浅川さんを誘ってチーズフォンデュを食べ、少しばかりいつもよりワインを飲みすぎて気持ちよく眠ることだろう。でも、それがどこにあるのか分からなかった。出口を探した。いろんなものに意味を見出すように。
「お願いがあるんだけど」
「なに?」
「そのへんのキオスクでマジックを買ってきて欲しいんだけど」
「マジック?」
「そう。油性のマジック」
「理由聞いたほうがいい?」
「聞かないほうがいい」
浅川さんは肩をすくめて歩き出し、しばらくするとマジックを手に戻ってきた。
「それでね、そこの壁にある鏡に矢印を書いてみて欲しいんだ」
「ねえ、そういうのって質の悪い悪戯って言うのよ」
「あいつだって浅川さんをここに寄越した。それだって随分質の悪い悪戯だよ」
「それが私があなたの質の悪い悪戯に付き合わされる理由にはならないとは思うけど」
と浅川さんは肩を一度すくめてから言葉を続けた。
「他に先に言うことないの?」
「ここを出たら一緒にチーズフォンデュを食べに行かない? ご馳走するよ」
「了解」
浅川さんはマジックを袋から取り出し、すたすたと僕の目の前にある鏡まで歩き、思ったより豪快に大きな矢印を書き付けた。いくつかの視線がそっちに動いたみたいだったけど特に誰かが浅川さんに声をかけることはなかった。
僕は座ったままで後ろを振り向いた。後ろの壁にも鏡が貼ってあって、そこには振り向いた僕と、マジックを持った浅川さんと、前にある鏡に書かれた矢印と同じ方向を向いた矢印が映っていた。
「うん」
僕は満足して思わずそう口に出した。
「なんなの? 勝手に一人で納得しちゃって。そういうのなんか腹立つ」
浅川さんがまた僕の前に腕を組んで立っていた。
「浅川さんは随分ノリがいい人なんだね。あんな矢印書いちゃうんだもん」
「あんたがやれって言ったんじゃないの!」
「ほら、早く行かないと駅の人が来て怒られちゃうよ」
僕はそう言うと立ち上がり、一度だけちらりと鏡の中の矢印の方向を確かめてから浅川さんの手を引いて空の下へ歩き出した。
エントリ8
われ鍋にどじ蓋
冬日 洋
〜朝寝してひとつ布団で寝てみたい。
いい気持ちで唄いながら、人気のない夜の大川橋を渡りかけた時である。平吉は闇の中からすすりあげる女の泣き声を聞いた。
――季節外れの幽霊か。
おそるおそる近づいていくと、案の定、一人の女がしゃがみこんで欄干に縋りつくようにして泣いている。だが、髪飾りは赤いが、地味な模様の着物の尻ばかり目立って顔が見えない。
「おい‥‥」
女は相変わらずしくしくと声をあげるばかりで動かない。
「なにか、あったのかい」
繰り返しているうちに平吉は焦れてきた。
「おい、どうしたっていうんだ」
次第に言葉も雑になってくる。さてはのっぺらぼうでも出るかと、半ば期待をしながら振り返らせてみて、平吉は今度こそがっかりした。
なるほど年は十七、八。だが、ひどく不器量な娘である。まず口が大きい。目と目の間が離れている。次に鼻が上を向いている。おまけに色黒である。
――化け物か。
娘はこちらの気持ちを悟ったかのように、一層激しく声を立てた。
「犬にでも噛み付いた、‥‥いや、噛まれたのかい」
娘は一瞬泣きやんで、平吉を睨つけた。
「‥‥あたし、あたし‥‥」
娘は、思わず後退りをする平吉に近づいた。
「あたし、独りぼっちなんです」
「‥‥身寄りがねえから、泣いているのか」
「そうじゃないんです‥‥」
しばらく言いよどんでいたが、やがて思い切った様子で、
「‥‥男の人に構ってもらえないんです」
と言った。
「そりゃあ、まあ‥‥」
平吉は遂に最後の興味まで失ってしまった。娘はじっと平吉の顔を見守っている。
「‥‥ま、ここで待ってな。あんたでもいいって奴がきっと来るから」
娘はふいに男の着物の裾をつかんだ。
「‥‥あの‥‥」
「‥‥なんだよ‥‥」
振り向いた平吉の目に、襟足からのぞく女の肌がうつった。
「‥‥なあ、いつまでもここに居ると、悪い奴がやってくるぜ」
娘は着物を握ってうな垂れている。
「‥‥おい」
ひとこと慰めを言って別れようと思う。
「でも行く所があれば、そうしているよな‥‥まだ夜は冷えるし‥‥困ったな‥‥どうする‥‥来るか‥‥」
知らぬ間に自問自答をしていた。だが娘を立ち上がらせた途端、平吉は、捨て猫を押し付けられた者のようにしかめ面になった。
寝静まった街の中をどうにか花川戸町の長屋までたどりつき、酒のまわった頭で娘の話を聞いてみるとこうだった。
下総の百姓の娘で、名はおかめ。つてを頼って江戸へ奉公に来たが、朋輩たちが次々と嫁に行く中で一人取り残されてしまった。年季は明けたものの、どうにも身の振り方を決めかねていた矢先、居残りするしかないのだろうと店の連中にからかわれ、思わず口から出任せの話を作って飛び出した‥‥。
と、以上のことを口の重い様子で夜明けまでかかってようやく話した。平吉はこのお荷物をどうやっておっぽり出したものかと考えていたが、娘が間の抜けた顔ながらも真剣に自分の方を見ているのに気づくと、ひょいとその前に人差し指を突き出して言った。
「これを見ろ。眼が真ん中に寄ってくるから」
娘は素直に瞳を寄せようと努力している。平吉はさらに自分の鼻を掴んだ。
「こうやって下におろすんだ。やってみろ」
相手は言われるままに、自分の人差し指を目の高さに出して試しながら、もう片方の手で鼻を撫で下ろし始めた。平吉はあきれ顔でその様子を見守っていたが、やがて決心した。
「しょうがねえ。しばらくここに居な」
おかめはよく働いた。散らかり放題の平吉の家をその日のうちに片付けてしまうと、数日後にはかみさん連中の手蔓で手内職まで始めるようになった。隣近所には田舎から呼び寄せた妹ということにしてあるが、女房ほどうるさくなく、身内よりも丁寧に面倒を見てくれる。平吉は次第に休まず左官の仕事に出るようになった。相変わらず夜遊びはするがそれでも帰りが早くなっている。おかめはいつも夜なべ仕事をしながら待っていた。時にはひどく酔っ払って帰ってくる。家に着くなりわめき散らして、出迎えに出たおかめの顔にさんざん悪態をつく。それでもおかめは笑って寝床まで運んでやるのだった。
ただ一度だけ、無性に淋しくなった時、おかめを相手にしたことがあった。それもごく軽い気持ちだったが、翌朝になって女の顔を見た途端、訳もなく気が引けてしまった。
「すまねえ‥‥な」
おかめは襟元を合わせて伏目がちに起き上がり、ゆっくりと首を振った。
「‥‥こんなふうに、構ってもらえただけで‥‥」
涙ぐんだ眼でちらりと男の顔を見たが、ふいに顔を背け、そのままそろそろと夜具の乱れを直し始めた。やがて一番鶏の声を聞くと、何事もなかったように立ち上がり、普段のとおりきびきびと働いたのだった。
梅雨入り前のいっとき、空が底ぬけに青く晴れあがる時期がある。暑からず寒からず万事まことに過ごしやすい季節であるが、平吉はこのところ妙に冴えない。今日もへら先でこねていた壁土をそっくり大工の頭にかぶせてしまった。棟梁に怒られ仲間に笑われ、風邪でも引いたのかと自分から弱気になって仕事を終えると早々に帰ってきた。長屋に帰ってくると、今度は出会いがしらに大家にぶつかる。
「いけねえ、店賃の催促だ‥‥」
逃げ出そうとする平吉を、じいさんは皺っこい腕で捉えた。
「平さん、噂を知ってるかい‥‥」
と、いつになく笑顔をこすりつけるように寄せてくる。
「‥‥おかめちゃんのことだよ‥‥」
平吉は引きずられるように家の前まで来た。
「嫁にしたいと言う者がいる」
平吉はぎくりとして立ち止まった。
「どうだ‥‥」
「‥‥」
口を開けて突っ立っている相手を見て、じいさんは顔いっぱいの笑みを浮かべた。
「やっぱり、お前さんだったな」
と言うとすたすたと歩いていってしまった。
――えらいことになりやがった。
あの様子では、近いうちに長屋中で押しかけてくる。平吉はため息をついた。
「なんで俺があんな奴を‥‥」
そう呟くと、ふいに背中をびくりとさせて表通りへまた出ていった。
家の中では、おかめがぼんやりと鼻をさすりながら聞いていた。あの晩以来、平吉の手は伸びてこない。知らぬ顔をしていたけれど、自分に対して急に無口になった平吉の、気持ちも迷いも分かっていた。そういう男が恨めしくいじらしい。おかめは、もう三ヶ月前とはまるで違う自分に気づいていた。
その晩、例によって平吉はひどく酔っぱらって家に帰ってきた。
「てへ、おたふく野郎め」
盗むようにおかめの顔を見て、平吉は慌てて目を反らした。
おかめは、灯りを消して呟いた。
「‥‥長い間、すみませんでした‥‥」
「‥‥う」
――ずいぶん、あっさり言うじゃねえか。
平吉は眠れなくなった。
夜明け近く、女が身支度をしている様子に、平吉ははっきりと目を覚ました。だがじっと息を殺して待っている。女はそろそろと戸口に進んでいく。そのとき、おかめの口から漏れるのはすすり泣きを聞いた。
「ま、待ちねえ‥‥」
平吉は裸足のまま土間に降りて女のたもとを掴んだ。
「朝まで待ったらどうだえ」
おかめは男の顔を見上げて、挑むように尋ねた。
「‥‥朝になったら‥‥」
平吉はその顔を初めてまともに見返した。
「次は‥‥夜まで‥‥と言うだろうよ」
――俺は、とうとう言っちまった。
平吉はいよいよ強くおかめのたもとを握りながら、ためていた腹の力がいっぺんに抜けていくのを感じていた。
エントリ9
『睡眠病 ―夢喰い― 』
橘内 潤
ある時ある日ある瞬間を境に、世界に蔓延した奇病「睡眠病」。それは過剰に発達したネットワークの叛乱だとか、生命としていきすぎた労働に対する警鐘だとか、専門家と評論家の数だけ、あれやこれやと言われた。
睡眠病の症状は、その病名の示すとおりに眠りつづけることだった。眠りつづけて食べもしないし排泄もしないから、身体じゅうチューブだらけにしないとすぐに死んでしまうような病だった。
しかし、だんだんとそうではなくなっていった。眠りつづけても死なない患者が現れ、その数は瞬く間に増えていった。彼らは冬眠とか仮死状態とかいうような、新陳代謝を著しく抑えた状態でこんこんと眠りつづけた。
そして睡眠病はさらなる段階を迎える。
眠りつづけていた患者が、ある朝いっせいに目を醒ましたのだった。人々は「不治の奇病は飛び去ったのだ」と手を叩いて喜んだのだが、そうではなかった。
目を醒ました彼らは、寝食を必要としなかった。眠くなることもなければ、食べることもしないのである。食べないのだから、もちろん排泄もしない。
覚醒者と称された彼らは、忌避と嫌悪の目で迎えられた。最初は目覚めを喜んでいた家族や友人も、食事もとらずに一晩じゅう起きている彼らを不気味におもうようになった。
この頃はまだ「気味が悪い」というだけだったのだが、やがてひとつの研究結果が公にされた。
覚醒者は健常者の夢を食べている、というのである。
夢を食われてしまった人間は、もう二度とその夢を見ることができなくなってしまう。それが嫌な夢や見たくない夢だけに限定されるのならば歓迎されたのかもしれないが、覚醒者のほうで食べる夢を選ぶことはできなかった。
覚醒者にとって夢を食べることは、「食事」というよりも「呼吸」に近い現象なのだと推測された。
正確には、夢喰いは夢のパーツを食らう。食べられたパーツは二度と使われなくなる――固定さえた生活習慣の人間が見る夢の内容など、数種のパーツを組み合わせたものにすぎない。
日々の生活が似たようなことの繰りかえしている人間の夢など、見日替わりランチのようなものなのだ。覚醒者と一週間も過ごせば、たいていの人間は夢を構成するパーツのほとんどを食べられてしまう。そうするともう、眠っても夢を見ることがなくなる。
夢を憶えていることに意味はなくとも、夢を見ることには深い意味がある。夢を見ることで、起きているときのストレスを解消したり、考えていたことをまとめたりという精神活動が行わるのだ。夢をみることは脳の自浄作用と言ってもいいだろう。
だから夢を見なくなった脳は、どんどんと汚れていく。汚れが溜まるとやがて、動かなくなってしまう――痴呆やアルツハイマー、脳卒中などが引き起こされるのだ。
この研究結果が公表されると、覚醒者は夢喰いと呼ばれるようになって、社会から放擲された。各国政府は保護や治療の名のもとに彼らを集め、人里はなれた施設に隔離させた。
夢を食べることができなくなった彼らがどうしたかというと――どうもしなかった。夢を食べなくても、餓死したり禁断症状に襲われるということはなかった。空腹感を憶えることもない、と取材にきた記者に彼らは語っている。
夢食いが隔離されているあいだにも、彼らについての議論は白熱した。ある科学者は「物理的エネルギーを必要としないのはおかしい。エントロピーに反する。不自然だ!」と罵り、ある哲学者は「燃料も休息も必要としない夢喰いこそ新時代の労働力だ。我々は働かないでも暮らせるようになる!」と賞賛した。
「他の生命を摂取せずに、ただ人間のみを害するように再調整された存在――それが夢喰いだ。人類がゆっくりと滅びを迎えられるように用意された救済こそが、夢喰いなのだ」、そう言った詩人は夢喰いたちとともに暮らし、三十五日目に痴呆症を自覚。五十六日目に衰弱死した。食事を取ることを忘れてしまっていたのだ。
この詩人の体験は、詩人自らが記録していたレコーダーと、施設で一緒に過ごしていた夢喰いたちの証言をまとめた手記として出版され、世界的ベストセラーとなった。詩人の遺族はまたたくまに億万長者となった。詩人の葬儀は盛大に執り行われ、半笑いの遺族と詰めかけた見物客で、急遽、交通整理が行われるほどの盛況振りだった。
「詩人は死後に名を成すものである」と皮肉ったのは、とある経済学者だった。彼は、詩人とはまったく違う角度から夢喰いたちに興味を持っていた。経済学者が考えたのは、彼の職業を考えればひどく真っ当なこと、「夢喰いを使って金儲けできるか」だった。
ある哲学者が言っていたように、夢喰いを労働力として利用できれば、大幅なコスト削減を実現できる。なにせ食べないし寝ないのだから、まず深夜帯の仕事をやらせるのに適していると考えた。けれど問題は、彼らが夢を食うということだった。
夢喰いが夢を食べることできないようにしてしまわなくては、どんな計画も机上の空論だった。
経済学者は、医学会や科学会を焚きつけて夢喰いを徹底的に調べあげるように仕向けた。その裏で、夢を食べなくなった夢喰いを使ってのビジネス計画を練っていた。
夢喰いたちの研究は難を極めた。なにせ、研究に根を詰めて仮眠をとろうとすると、夢を食われてしまう。一晩眠るために、いちいち夢喰いたちから十分な距離をとらなければならかった。また、隔離施設での研究を余儀なくされていたことも困難のひとつだった。研究施設に連れていくには、周辺住人をどこかに移動させなければならず、物理的経済的に不可能なことだった。
隔離施設の近くに資材を持ち込んで、実験しては夜遅くなるまえに離れたところにある宿泊施設まで帰って睡眠をとり、朝にまた施設に赴く――研究員たちはそんな生活を一年近くつづけた。
一年してようやく、報告書が形になった。その中身は簡潔にして単純にして明快で、経済学者の希望を裏切るものだった。
解明不可能――それが報告書の内容だった。ある科学者が言っていたように、夢喰いの存在は自然の摂理、物理法則、因果律……あらゆる科学的概念から逸脱した、「不自然」な存在だった。科学は「ありえない」ことを証明することができないのだ。
かくして、夢喰いに近づくのは、人里にいられなくなったものたちだけになった。これまでならば首を括るか富士の樹海に迷い込むかしていたようなものたちが、夢喰いの住む施設に逃げ込むのだ。
死を覚悟している彼らは、かつて詩人がそうしたように、夢喰いたちとの生活で人生に幕を下ろしていく。詩人は二ヶ月以上生きたが、多くのものは一ヶ月を待たずに衰弱死していった。多くのことを体験し、夢のパーツを多くもっているものは一ヶ月以上生きた。
それでも、だれもが最後は夢を見れなくなって死んでいった。
全世界での夢を食われたことが間接的原因による死者数が、戦争やテロによる死者の四割を越えたとき、各国政府は足並み揃えて対策を講じた。夢喰いの一斉殺戮に踏み切ったのだ。
施設に押し込められていた夢喰いたちは、特製のシャワー室に連れていかれて、眠るように死んでいった。事前に麻酔を噴霧したのは、せめてもの情けというやつだった。
かくして世界から夢喰いはいっそうされた。
この三日後、第二次睡眠病が世界各地で広まっていた。
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