Entry1
新しい一日は日の出と共に始まる
伊勢 湊
「ちょっと待ってください。どうしてそんなに急に!」
「別に急じゃない。三ヶ月前から決まっていたことだ」
事務局の椅子に座った所長がくるりと後ろを向きながらそう言った。分からない訳じゃない。所長としても辛くない訳はない。そしてたぶん僕が中国でのフィールドワークに出かけている間にこの決定をし、引っ越しをすませてしまおうとしたのも、たぶん自分一人悪者になろうとした優しさのためだと、そんなこと僕にだって分からない訳でもない。でも、それでも強く拳を握らずにいられない。噛み締めた奥歯が音を立てるのが聞こえた。
「どうして、こんな」
「ハオのやつは明日の朝ここを出る。向こうの国に着いてもあいつなら上手く生きていくさ。おまえも明日は学会での発表があるんだろう? それに三ヶ月も家を空けていたんだ。早く帰って顔を見せてやれ。ハオには、もう会わない方がいい」
「そんな……」
「あいつは分かってくれるよ」
僕は拳を強く握りしめたまま部屋を出た。どこへ向かうべきなのか、頭の中でははっきりしていた。妻と娘へのお土産は買ってある。この動物園で働き、いつしかパンダの研究家とし名を馳せるようになり国際プロジェクトでもあった長期のフィールドワークにも参加させてもらえるようになった。妻も娘も家を空けるわがままを受け入れてくれた。明日からの学会では僕は大きな反響を得ることが出来るだろう。たぶん、いまは少しでも早く家に帰り、二人と一緒に過ごし、そして明日からの学会に備えるべきなのだろう。学会での発表が上手くいけば家族にももっと楽をさせることが出来るようになる。
答えは分かっている。あいつもそうしろと言うだろう。この動物園が有名になったきっかけ、生まれたときから僕と所長でずっと世話をしてきたパンダのハオ、あいつだってそう言ってくれはするだろう。
「帰ってきちゃったんだね」
パンダ舍の前に立ち、でも目を合わせられない僕にハオはそう言った。
「そんな顔しないでよ。そりゃあ海の向こうには行くけどさ、死に別れる訳じゃないんだから」
「ごめん」
僕は声を絞り出してやっとそう言った。
「いいんだって。所長さんから何度も何度も謝られたよ。もう飽きちゃうくらいに」
「どうしてそんなに大人ぶったこと言うんだよ。生まれたときはこんなに小さかったのに」
あの日のことはいまでも鮮明に目に浮かぶ。ハオは初めての日本生まれのパンダだった。
「僕たちは絶滅危機種だもん。僕が外国に行って種が守られるなら行かなきゃ」
「でも、それとこれとは」
「いいんだよ。それに写真見たんだけど僕の許嫁はすごく美人なんだ」
何も言えなかった。言葉にすれば全てが嘘くさく聞こえてしまいそうで。
「早く帰って奥さんと娘さんに顔を見せてあげなよ。それに明日は大事な学会でしょ。ほら、はやく」
僕は頷いてその場を後にした。嘘で塗り固めた優しさに従って。
家に帰ってもうあとどれくらい抱きかかえられるか分からないほど大きくなった娘を抱きかかえ、妻に大きなお土産袋を渡した。数々の手料理と鍋が用意され、家族三人で久しぶりに食卓を囲んだ。僕は中国での話をいろいろ話して聞かせ。妻は親戚や近所の近況を、娘は小学校の出来事を話してくれた。でも僕は心のどこかでそれに集中できずにいた。ふと会話が途切れた。僕はぼんやりテーブルのうえを眺めていたのだと思う。はっとして顔を上げると妻と娘が僕を見ていた。でもそれは予想していたような困惑した表情ではなかった。
「バカね。ふたりして貧乏で、先が何にも見えない頃から一緒にいるのよ。お酒が出てないことに気が付かなかったの?」
妻が微笑みかけていた。娘がとことこ走って僕の上着をとってきた。
「たぶん、そういう気持ち、理屈じゃないから。ねっ」
と妻は娘に笑いかける。
「うん。カナもハオちゃん大好きだから」
いつだって僕は一人じゃ何も出来ない。でも僕は決して一人じゃない。気持ちさえ後押ししてくれる誰かがいる。
「カナ、夜更かしは今日だけだぞ」
僕は無理に表情を作ってそう言ってみたけど二人は笑っていた。みんな大人で、そしてみんな子供だ。
車を走らせて動物園へ向かう。動物園に着くとまだ明かるかった所長室から所長が車の鍵を手に出てきた。
「その車じゃ、ちょっと手狭だな」
ここにも自分だけでは走り出せない大人が一人。まったくバカばっかりだ。僕たちは最後にもう一人素直になりきれずにいるハオのところへ向かった。
「みんなこんな時間にどうしたの? 所長もテルユキさんも。奥さんにカナちゃんまで。あした朝早いんじゃないの?」
ハオが驚いて僕たちを見ていた。
「ああ、早いさ」
僕は今度こそはハオを正面から見て言った。
「でも明日は明日の太陽が昇ってから始まるんだ。まだ、まだ今日は終わらないぞ。さあ、どこへ行きたいんだ」
所長はとっくに道を調べている。ハオが行きたがっていた場所はみんな知っている。それはまだ見ぬ海だった。
「なに言ってるの……。そんな急に」
「ハオちゃん。ねっ、言ってみて。声にして、どこへ行ってみたい?」
妻がそう言った。ハオは自然に口から答えが出ていた。
「海を見てみたい」
カナが歓声を上げて、みんなで動物園の大きなバスに乗り込んだ。
明日確実にくる別れが悲しくない訳じゃない。所長だって僕だってハオだって、そしてみんなだってそれを寂しくない訳ではない。だからって下を向いてただそのときを待っているだけでは納得なんて出来ないことが、そんなことが僕にだって分からない訳でもない。だから僕たちは歌う。海へ向かう夜の道の上を走りながら、みんなの知っている歌を海が見えるまでずっと、ずっと。
冬の空は澄んでいて、星は明るくて、そこには淡い光に照らされた海が広がっていた。
「うわぁ、大きい。これが海なんだ」
ハオが砂浜に立ち尽くす。眼前の海は静かで、そして全てを飲み込むほど大きかった。
風が少し冷たくて、カナがハオにしがみつく。
「ハオちゃんあったかーい」
妻も抱きつく。僕と所長はその風景に「仕方ないなぁ」という感じで顔を見合わせたものの、やっぱり僕たちも考えていることは同じだった。所長は背中からハオに乗りかかる。
「まったく大きくなりやがって。おまえ、いい父親になれよ」
背中をとられた僕はハオの前に回って正面から思いっきりぶつかった。ハオはびくともしなかった。
「これなら大丈夫だ。ちきしょう、おまえ昔は手に乗るくらい小さかったんだからな」
ハオが突然僕を抱え上げて肩の上に乗せた。
「テルユキさん、あの大きな海の向こうが見える? 僕のいくのってあっちなのかな?」
僕は大袈裟に手をかざしてみせた。
「うん。このテルユキさんは人間の中でもとびっきり目がいいんだ。ああ見えるぞ。ちょっと遠いけど」
波の音がした。そう、嘘じゃない。僕にはきっと見えている。
「じゃあ寂しくないね」
「バカだな。寂しいわけないだろ。あんなのすぐそこだよ」
もうすぐ日は昇るだろう。たぶん変えられない一日がそこにあって、所長は動物園の門を開き、妻は朝食と弁当を作り、カナはランドセルを背負って、僕は胸を張って学会へ赴くだろう。そしてハオも、きっと胸を張って飛行機に乗るだろう。でもそれは明日の話。僕たちは今日を、いまを、一瞬たりとも逃さないよう、暖かいハオに精一杯しがみついて遠い海を一緒に眺め続けた。