古流剛柔~空の巻~
のぼりん
「東間流間合合気術(とうまりゅうまあいあいきじゅつ)」という古武術の流派がある。東間は「盗間」あるいは「闘魔」に通じる。武闘界の頂点に立つほどの人物でこれを知らない者はいないという最強武術伝説の中で常に語られる幻の流派である。
東間流は大東流柔術の裏流として伝承された綜合武術であった。相手が剣であろううが飛び道具であろうが、すべてに対処して制する術こそ、ここで便宜上言うところの「綜合武術」である。
ところで、空手、剣術等、すべて武術の勝敗が間合によって決する事に異論はなかろう。いかに真剣といえども触れずば斬れぬ。一撃必殺拳といえども空を切れば空しいのみである。
この間合いを制する技術として、古来「入り身」と「さばき」があるとされている。これらの技法を究極にまで精錬していったものを間合合気と言うのである。
さらに東間流は空気を操るとされている。この技法を「空気法」と呼ぶのだが、その実態は謎である。ただし、伝説がある。東間流は、拳銃の弾でさえ見切る事ができるというものだ。
もっとも、その系統についての全貌は今だ明らかではない。
(植山雅典著:「日本古武術大全」(尚武館新書発行)第8巻「幻の最古流武闘術」より)
東間流間合合気術は、日本の最古流柔術とされているが、口伝による秘密体術であるため謎も多い。この点について、さらに記しておこう。
まず、この流派の極意とされる「空気法」であるが、拳銃の弾をもよけるという伝説があることは上記でも触れている。体術としての東間流は「入り身」と「さばき」という間合術を極限まで精錬することによって、相手の攻撃力を常に無にする技法である。
例えば、人間の横幅は、せいぜい60センチほどのものだ。とすれば相手の攻撃を見切るための移動距離は、極論すれば正中線を左右にずらす30センチほどである。それだけの瞬間移動によって拳銃の弾をよけることは東間流の達人ともなれば充分可能なはずなのである。
もちろん、人間の動きが物理的に弾の速さに勝るはずはない。が、東間流の「空気法」とは、相手の微妙な筋肉の動きあるいは眼球、呼吸の変化を察して先手を取る技法であると想像できる。つまり「空気を読む」ということである。
この人間離れした動きについては(別の流派であるが)アメリカ映画「レモ第一の挑戦」で、すでに映像となっている。興味のある人はビデオで確認すればよろしい。
なお、先の先を読むという技は、プロ野球でも、星某による大リーグボール1号という魔球の存在によって証明されている。ひょっとすると彼も東間流の使い手であるかもしれない。もっとも、それをこれ以上突っ込むのはこの稿の趣旨ではないのでやめておく。
さて、東間流の起源であるが、日本書紀にある「当麻蹴速」を始祖とする最古流の武闘術と考えられる。東間は「当麻」から来ているという説があるが、私は正しいと思う。
ご存知のように、当麻蹴速は相撲の起源とされる死闘によって、野見宿禰にあばら骨、腰を踏み析られ殺された。その後、領地まで没収されるが、実は天皇のボディガードとしてその名は存続しているのだ。二三の第三級資料文献にはちらちらと触れているものもあるようだが、もちろん正史とは認められていない。私の持っている資料によると、当麻氏は天皇の護部(まもりべ)という地位を得て、以後、歴史の裏側に潜ることになる(宮内庁は未だに貴重な文献の公開を拒み続けている)。
なお、東間流間合合気術は、その呼び名から「合気道」の一種であるような誤解もあるようだが、その攻撃技の主体は「蹴り」を中心とした当身術、すなわち空手術に類似したものである。
以下は、わが国の天皇史を研究する上で、かなり真実味を帯びた意見であろう。
天皇を中心とした皇族は、歴史のある時点から徹底的に「武」を排除してきた。これは国の呪術的中心であるという地位に甘んじることで時の権力との折衝を避けてきたためであるが、朝廷が清貧とした象徴であるばかりで連綿とその地位を保ちつづけてきたと考えるのは無理がある。
政治は時として闇の力を必要とする。つまり表面的に「武」を排除しながらも、朝廷が影である種の武闘集団をかかえていたということは想像に難くないのである。実はそれこそが東間流だった。
すなわち、天皇を守る闇の武闘集団として、当麻蹴速の時代から千数百年の年月を経て現在まで至っているという事実が東間流の古武術としての凄みなのである。
昨年、初めて公にされた甲斐武田家の「大東流口伝奥義総覧」によると、東間流間合術は大東流柔術の前身となる必殺術であり、限られた者しか伝承されない秘密柔術だったとある。また、その集団は天皇の護部として護国維持のために歴史に暗躍する、いわば朝廷直属の「皇家戦士」あるいは「天照戦士」であるとも記されている。東間流の東間とは「闘魔」を意味し、ここでいう魔とは、呪術的側面からは日本にあざ為す者を言うと考えられる。にわかには信じられないが、彼らが暗躍したと思われる歴史上の出来事は数え上げればキリがない。
また、現尚武館最高顧問で、武術史研究家の植山雅典氏は、自らの著書「幻の最古流武闘術」で奇抜な持論を展開している。
(中略)
前述したように大東流柔術が、東間流の亜流である事は間違いない。大東流は、新羅三郎源義光を開祖とし、甲斐武田家に発祥した。その後、国継により会津藩に伝えられ、藩外不出の武術として一部の上級武士にのみ伝承される。幕末最後の伝承者は、会津藩の家老、保科近眞(西郷頼母)である。会津戦争における歴史上の人物であった。
また、武田惣角がこの西郷頼母により大東流の印可を受け、北海道東北方面の士族を対象に西郷門人として指導して歩いた。その後、さらに武田が大東流を植芝盛平に伝授することによって大系化され合気道になるのだが、それはまた別の話である。
ここでは、会津藩の家老、保科近眞(西郷頼母)の半生を以下、別表に詳しく記しておくことにする。
(別表割愛)
戊辰戦争の後は、以上のように表向き神社宮司を歴任しているのだが、彼が東間流であることは間違いない。そのことについての詳しい研究は他に譲るが、ここで注意すべきは「志田四郎を養子にする」のくだりである。
この人物こそ講道館の天才、西郷四郎(姿三四郎のモデル)その人である。当事実は歴史家にとっては常識でも、武道研究という面から考察をしていない片手落ちがある。つまり西郷四郎は、単なる書生として嘉納治五郎に拾われ柔道に開眼したのではなく、当初よりすでに大東流柔術の素養を持っていたということだ。
否、養父の武人としての高みを考えると、西郷四郎は柔道の前に大東流の達人であり、いわば講道館の傭兵であったのではないか。山嵐のような技は柔道でできるものではない。明らかに合気術、あるいは大東流柔術の系譜から発生した技ではないだろうか。さらにいえば、西郷四郎も西郷頼母と同じく東間流であった可能性が高い。
これについては、柔術を柔道に統一することが、その時代の東間流の大きな意思であったと思わざるを得ないのである。また西郷はその後大陸へ渡るが、その目的は不明である。時代は、日露戦争を前にして、風雲急を告げている。
西郷の晩年の空白は、恐らく天皇の密命を受けての何ごとかではないだろうか。