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3000字小説バトル

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3000字小説バトル
第56回バトル 作品

参加作品一覧

(2005年 8月)
文字数
1
のぼりん
3000
2
ごんぱち
3000
3
中川きよみ
3000
4
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
5
(本作品は掲載を終了しました)
ウーティスさん
6
伊勢 湊
3000

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古流剛柔~空の巻~
のぼりん

「東間流間合合気術(とうまりゅうまあいあいきじゅつ)」という古武術の流派がある。東間は「盗間」あるいは「闘魔」に通じる。武闘界の頂点に立つほどの人物でこれを知らない者はいないという最強武術伝説の中で常に語られる幻の流派である。
 東間流は大東流柔術の裏流として伝承された綜合武術であった。相手が剣であろううが飛び道具であろうが、すべてに対処して制する術こそ、ここで便宜上言うところの「綜合武術」である。
 ところで、空手、剣術等、すべて武術の勝敗が間合によって決する事に異論はなかろう。いかに真剣といえども触れずば斬れぬ。一撃必殺拳といえども空を切れば空しいのみである。
 この間合いを制する技術として、古来「入り身」と「さばき」があるとされている。これらの技法を究極にまで精錬していったものを間合合気と言うのである。
 さらに東間流は空気を操るとされている。この技法を「空気法」と呼ぶのだが、その実態は謎である。ただし、伝説がある。東間流は、拳銃の弾でさえ見切る事ができるというものだ。
 もっとも、その系統についての全貌は今だ明らかではない。
(植山雅典著:「日本古武術大全」(尚武館新書発行)第8巻「幻の最古流武闘術」より)

 東間流間合合気術は、日本の最古流柔術とされているが、口伝による秘密体術であるため謎も多い。この点について、さらに記しておこう。
 まず、この流派の極意とされる「空気法」であるが、拳銃の弾をもよけるという伝説があることは上記でも触れている。体術としての東間流は「入り身」と「さばき」という間合術を極限まで精錬することによって、相手の攻撃力を常に無にする技法である。
 例えば、人間の横幅は、せいぜい60センチほどのものだ。とすれば相手の攻撃を見切るための移動距離は、極論すれば正中線を左右にずらす30センチほどである。それだけの瞬間移動によって拳銃の弾をよけることは東間流の達人ともなれば充分可能なはずなのである。
 もちろん、人間の動きが物理的に弾の速さに勝るはずはない。が、東間流の「空気法」とは、相手の微妙な筋肉の動きあるいは眼球、呼吸の変化を察して先手を取る技法であると想像できる。つまり「空気を読む」ということである。
 この人間離れした動きについては(別の流派であるが)アメリカ映画「レモ第一の挑戦」で、すでに映像となっている。興味のある人はビデオで確認すればよろしい。
 なお、先の先を読むという技は、プロ野球でも、星某による大リーグボール1号という魔球の存在によって証明されている。ひょっとすると彼も東間流の使い手であるかもしれない。もっとも、それをこれ以上突っ込むのはこの稿の趣旨ではないのでやめておく。

 さて、東間流の起源であるが、日本書紀にある「当麻蹴速」を始祖とする最古流の武闘術と考えられる。東間は「当麻」から来ているという説があるが、私は正しいと思う。
 ご存知のように、当麻蹴速は相撲の起源とされる死闘によって、野見宿禰にあばら骨、腰を踏み析られ殺された。その後、領地まで没収されるが、実は天皇のボディガードとしてその名は存続しているのだ。二三の第三級資料文献にはちらちらと触れているものもあるようだが、もちろん正史とは認められていない。私の持っている資料によると、当麻氏は天皇の護部(まもりべ)という地位を得て、以後、歴史の裏側に潜ることになる(宮内庁は未だに貴重な文献の公開を拒み続けている)。
 なお、東間流間合合気術は、その呼び名から「合気道」の一種であるような誤解もあるようだが、その攻撃技の主体は「蹴り」を中心とした当身術、すなわち空手術に類似したものである。

 以下は、わが国の天皇史を研究する上で、かなり真実味を帯びた意見であろう。
 天皇を中心とした皇族は、歴史のある時点から徹底的に「武」を排除してきた。これは国の呪術的中心であるという地位に甘んじることで時の権力との折衝を避けてきたためであるが、朝廷が清貧とした象徴であるばかりで連綿とその地位を保ちつづけてきたと考えるのは無理がある。
 政治は時として闇の力を必要とする。つまり表面的に「武」を排除しながらも、朝廷が影である種の武闘集団をかかえていたということは想像に難くないのである。実はそれこそが東間流だった。
 すなわち、天皇を守る闇の武闘集団として、当麻蹴速の時代から千数百年の年月を経て現在まで至っているという事実が東間流の古武術としての凄みなのである。
 昨年、初めて公にされた甲斐武田家の「大東流口伝奥義総覧」によると、東間流間合術は大東流柔術の前身となる必殺術であり、限られた者しか伝承されない秘密柔術だったとある。また、その集団は天皇の護部として護国維持のために歴史に暗躍する、いわば朝廷直属の「皇家戦士」あるいは「天照戦士」であるとも記されている。東間流の東間とは「闘魔」を意味し、ここでいう魔とは、呪術的側面からは日本にあざ為す者を言うと考えられる。にわかには信じられないが、彼らが暗躍したと思われる歴史上の出来事は数え上げればキリがない。
 また、現尚武館最高顧問で、武術史研究家の植山雅典氏は、自らの著書「幻の最古流武闘術」で奇抜な持論を展開している。
 (中略)
 前述したように大東流柔術が、東間流の亜流である事は間違いない。大東流は、新羅三郎源義光を開祖とし、甲斐武田家に発祥した。その後、国継により会津藩に伝えられ、藩外不出の武術として一部の上級武士にのみ伝承される。幕末最後の伝承者は、会津藩の家老、保科近眞(西郷頼母)である。会津戦争における歴史上の人物であった。
 また、武田惣角がこの西郷頼母により大東流の印可を受け、北海道東北方面の士族を対象に西郷門人として指導して歩いた。その後、さらに武田が大東流を植芝盛平に伝授することによって大系化され合気道になるのだが、それはまた別の話である。
 ここでは、会津藩の家老、保科近眞(西郷頼母)の半生を以下、別表に詳しく記しておくことにする。
 (別表割愛)
 戊辰戦争の後は、以上のように表向き神社宮司を歴任しているのだが、彼が東間流であることは間違いない。そのことについての詳しい研究は他に譲るが、ここで注意すべきは「志田四郎を養子にする」のくだりである。
 この人物こそ講道館の天才、西郷四郎(姿三四郎のモデル)その人である。当事実は歴史家にとっては常識でも、武道研究という面から考察をしていない片手落ちがある。つまり西郷四郎は、単なる書生として嘉納治五郎に拾われ柔道に開眼したのではなく、当初よりすでに大東流柔術の素養を持っていたということだ。
 否、養父の武人としての高みを考えると、西郷四郎は柔道の前に大東流の達人であり、いわば講道館の傭兵であったのではないか。山嵐のような技は柔道でできるものではない。明らかに合気術、あるいは大東流柔術の系譜から発生した技ではないだろうか。さらにいえば、西郷四郎も西郷頼母と同じく東間流であった可能性が高い。
 これについては、柔術を柔道に統一することが、その時代の東間流の大きな意思であったと思わざるを得ないのである。また西郷はその後大陸へ渡るが、その目的は不明である。時代は、日露戦争を前にして、風雲急を告げている。
 西郷の晩年の空白は、恐らく天皇の密命を受けての何ごとかではないだろうか。
古流剛柔~空の巻~ のぼりん

歩若等々伝
ごんぱち

 ごり……ごり、ごり……。
 灯火の明かりが、障子から入る隙間風に揺れる。
 ごり……ごり……。
 茯苓。
 ごり……ごり……。
 半夏、杏仁。
 甘草。
 ごりごり……ごり……。
 細辛……。
「世空様……」
 石連は薬草を潰す手を止め、呟く。
 石連の目には涙が浮かぶ。
「ええいっ、まだ往生されると決まった訳ではない!」
 言い聞かせるように怒鳴り、薬研に干姜を入れ、再び磨り潰し始める。
 折り目の付いた薬学書は、新しいシミが無数にできていた。
 ごり……がり……。
「和尚、様」
 涙と鼻水が薬研の中にこぼれ落ちそうになって、石連は慌てて拭った。

 鉄瓶から、湯呑みに煎じ薬が注がれる。
「世空様、さあ」
 寝床に横たわったままの世空の口元に、石連は湯呑みを近付ける。
 世空は弱々しく目を開き、ひと舐めするが、それ以上は飲み込む力もない。
 顔に血の気はなく、智慧に溢れていた目も、今はまるで力がなく、胸は呼吸するたびに嵐のように鳴り響く。
(替われるものならば……)
 溢れそうになる涙を、石連は衣の袖で隠す。
「じ……石連……」
 世空はそれだけ言ってから、まるで千里も走った早駆け飛脚のように激しく息を切らせる。
「ぅ……」
「せ、世空様、無理に喋らずに」
「……もう……よい」
 世空は弱々しく口の端を歪める。
「お任せ下さい、私に、お任せ下さい! きっと病魔を退散させてご覧に入れます。ですから、お気を強くお持ちになって下さい」
 石連はうつむいたまま、何度も何度も呟いた。
「お任せください、お任せ下さい、お任せ……」

 薬学書にうつぶせたままで眠っていた石連は、顔を上げる。
「治療法は、どこかに、治療法はないのか」
 薬学書には、頁のほとんど全てに印が付けられている。
「新しい本を、薬を、試さねば駄目だろうか。南蛮物なら、何かあるだろうか?」
 窓の外はまだ暗い。
「何が、何が医術だ、世空様を助けられなくて、何の意味がある!」
 薬学書を引き裂こうとして、でも手が動かない。
「頼む、世空様を、救ってくれ」
 石連は再び薬を作り始めた。
「薬師如来、観世音菩薩、不動明王、閻魔、魔羅でも構わない、どうか、誰か、世空様を」
 幾種類も。幾種類も。幾種類も。
 だが疲れは極限まで来ていた。
 眠気が頭にもやを作り、気が付くと、強心用の鳥兜を薬研に入れようとしていた。
「ええい、睡魔よ去れ!」
 石連は薬を刻む小刀を膝に突き立てる。
 痛みに一瞬は気も紛れるが、痛みは馴染むもの、四半刻ももたず、ウトウトとしかける。
「くっ」
 傷口に塩をすり込んでも、身体の奥底によどんだ疲労は、石連の意識を奪っていく。
「駄目だ……作らねば、薬を……助けねば、助けて……誰でも、誰でもいい……」
「その言葉に偽りはあるまいな」
 どこかから声がした。
 温かくも、冷たくもない、人と似た声だった。
「誰……だ?」
「今しがた、何でも良いと言ったであろうに」
「ま、まさか、世空様の病を払って下さるのかっ!」
「おう。容易い事だ」
「ありがとう、ありがとうございます!」
「その代わり」
「何でもやる、金も、薬も、本も、世空様がご無事なら、この身体全てでも」
「――一部で良い」

「石連様、石連様!」
 やかましい足音と共に、小坊主が障子を開け、部屋に飛び込んで来た。
「和尚様が、世空様が!」
「世空様!」
 大声を出した小坊主を叱る事もなく、石連は廊下を走る。
 長い廊下を走り抜け、勢い余って引き戸を倒す。
「世空……様?」
 石連は絶句して立ち尽くす。
 世空は、死の床についている筈の世空は、立っていた。立って、部屋の中を歩いていた。
「世空様、容態が」
「はぁ、いえ、それも、はぁ、違うようなのですが」
 後からやって来た小坊主は、息を切らせながら応える。
「……え…………う……あお……ぬ……」
 世空は、半眼のまま、何事か呟きながら歩いている。その呟きは経文のような響きがあり、歩みは雲を歩くようだった。
「小今、世空様は、何を唱えておられる?」
「わたしにはさっぱり」
「……お前は、般若心経と長唄の区別も付かんからな」
「えへへ、それほどでも」
「……ふ……な……を…………えあ……」
 世空は二人のやり取りも全く気にならぬ風に、歩いている。
「世空様――!」
 世空の姿を見つめていた石連は、目を見開く。
 いつの間にか、世空の顔に赤みが差していた。
「本当に、回復して? 一体何故?」
 世空は同じように呟きつつ、部屋の中を歩き回っている。
「――小今」
「はい?」
「筆と紙を持って来い」
「はぁ?」
「早く!」
「は、はいっ」
 小坊主が走り去る。
 石連は、世空の呟きに耳を傾ける。
「……え…………う……あお……ぬ……」
(やはり……同じものを繰り返している。ただの妄言ではない。世空様だけの知っている経か真言か)
「筆と紙、持って来ました!」
 小坊主が、筆箱と帳面を持って来る。
「よし」
 石連は筆を受け取ると、世空の呟きを書き留め始めた。
 書き留める間にも、世空の顔色にどんどん生気が戻っていく。
 どんどん紙は文字で埋まっていく。
「次っ!」
「はいっ」
「次っ!」
「はいっ」
「次っ!」
「はいぃっ!」
「次っ!」
「もうありません」
「だったら、手ぬぐいでも何でも良いから早く!」
「手ぬぐいなんて、とっくに使っちゃいましたよぅ」
「って、これは、下帯じゃないか! こんなものに書かせるな! っと、こんなヒマじゃない! 書かねば!」
「大丈夫ですよぅ、もう一回りしました」
「なに?」
 石連は書き付けをめくり、世空の声と合わせて追ってみる。
「……なるほど、確かに。どうやら全部書き留められたようだな」
「ああ、助かった」
 いつしか世空は、往時の若々しい顔つきに戻り、力強い足取りで歩き続けていた。
 その姿を見ながら、書き付けの内容を確認していた石連は、ふと眉を寄せる。
「千歩で一回りのようだな」
 世空の経は、千歩歩いたところで、ちょうど最初に戻っていた。
「おい、小今」
「もう書く物はありませんよ?」
「お前も、世空様の歩みを数えてくれ」
「千も数えられませんよ」
「……使えない奴だな」

 翌朝。
「なんじゃ、これは?」
 世空は巻物を――後の方には手ぬぐいや下帯がくっついた巻物を――見ながら首を傾げる。
「なんじゃ、と申されましても、昨日世空様が唱えられていた経文でございますが……」
 石連は言葉を濁す。
「経文なのか?」
「それは何とも。ただ、歩きながらこれを唱えておられた世空様が、回復されたのは確かでございます」
「不思議な事もあるものじゃな」
「不思議な事にございます」
「千歩歩きながら唱えておった智慧ある経であるから、『千歩般若経』とでも言うべきか」
「そうでございますな」
「まあ、何だかよく分からんがの」
「ははは、分かりませんな」
 笑いながら、石連は次第に光の失われていく目に溜まった涙をそっと拭った。

 ――『千歩般若経』は、意味は分からないが霊験あるものとして、戦国時代末期に関東近辺の衆生に広まった言葉遊びである。
 その後『歩若』と縮められ、更に意味を曖昧とする『等々』が付き、『歩若等々』となった。
 これすなわち「ほにゃらら」の語源である。

○参考文献:
『天狗塚碑文』(藍川県竜頭市)
『石連鍼灸術写本』(著 小今法師 小額館)
『やってはいけない・危険な民間療法』(著 玉島医療審議会 玉島社)
『マンガで分かる千歩般若経』(原作・監修 瀬戸肉晴美  画 毛塚治虫  大空出版)
歩若等々伝 ごんぱち

片山君のこと
中川きよみ

 片山君は、いつも25本入りの牛乳瓶のケースのど真ん中に空き瓶を戻すこだわりのある少年だった。それから、先生が社会の時間に「戦争をしないためにどうすればいいか」とみんなに質問したとき、「なにもしない」と答えた少年だ。先生を含めてみんなその答えにはとても驚いたが、つまり「なにもしなく」ても、馬鹿げた戦争は結局のところ冷静な大人達が回避するはずだという考えだった。私が片山君について覚えていることは、それだけだった。
 片山君は大きくなってからプロのダイバーになるために南の島へ行った。そして、海に潜っている時に大きな魚を見つけて気が狂ったように追いかけ回しどんどん深く潜りながら自分で「潜水病だ」と思ったらしい。気の利いた先輩がいて、水面に浮上した片山君に「お前は潜水病だから、もう一度潜ってこい」と言って無理やり潜らせたから片山君は死なずに済んだけれど、それでも帰国を余儀なくされる病状で、まだ寒い2月に、南の島を後にした時のままの半袖の赤いアロハシャツ姿で車椅子に乗って自宅へ帰ってきた。
 そんな目立つ姿で久しぶりに帰郷したからか、片山君は近所の商店街でちょっとした有名人になった。私が片山君をほとんど覚えていなくても、片山君の家とうちが比較的近かったこともあって、母親同士は今でも会えば挨拶をするくらいの知り合いらしい。私の母親がアロハシャツの柄まで子細に説明してくれたので、私も少し気にはなっていた。

 でも、バイトで行っている叔父の喫茶店に片山君がふらりと現れても、私はそれが片山君だとは気付かなかった。
「ホット」
 もう車椅子ではなかったし、アロハシャツも着ていなかった。噂の片山君は季節はずれでド派手なアロハシャツ姿として私の脳裏にインプットされていたが、その日は当然のように普通の恰好だった。
 オーダーを聞いてカウンターに戻ると、そういう類の話が大好きな叔父がしきりと目配せしてきた。私がなかなか気付かないものだから、叔父はとうとう鯉のように口をパクパクさせた。
「顔の体操?」
 叔父は首をぶるんぶるん振りながらも、まだパクパク「カタヤマクン」をやっていた。他に客もいない店内で奇怪なその姿はあまりにも目立ったので、片山君は苦笑した。
「僕がカタヤマクンです。」
「あっ、あの? お久しぶりです……私、同級生の」
「山本さんでしょう? 先日、母が山本さんのお母さんに会ったらしいね。」
 意外にも片山君は私のことを記憶しているようだった。
「もう、すっかり良くなったの?」
「うん。まあね。」
 ちょっと照れ臭そうなはにかんだ笑顔だった。誠実そうなものを信用したくない私には、痛い種類の笑顔だった。そして急に、片山君の方も私の噂を耳にしているかもしれないと、暗い気持ちになった。
「回復したんですか。良かったですね。どこら辺でいつも潜っていたんですか?」
 鈍感で陽気な叔父は、とても嬉しそうに片山君に南の島のことなんかを聞き始める。片山君は暇そうで、特に嫌な顔もしないで叔父の相手をしてくれていた。
「そうか、海の中はそんなにキレイなんですね。なんだか私まで潜りたくなっちゃうくらい、生き生きした話ですね。」
 叔父の言葉に、片山君は素直に笑顔を浮かべる。
「ええ、僕は海が大好きなんです。」
 ストレートな言葉は、私をざっくりと切れ味も良く傷つける。ああ、今日はそもそも調子が良くない日だったのだ。もうすぐ雨が降り始めそうだし、生理も来そうだ。バイトなんて休めばよかった……考え始めた時にはもう遅かった。気付くと私は涙の発作の只中にいた。
「すみませんね。この子、涙腺のネジが突然外れるんですよ。ああ、全然意味のない涙ですから気にしないで下さいね。」
 叔父は驚いている片山君に無意味な釈明をしながら、急いで私を店の奥へ押し込んだ。
 サイアクだ、自分の思考の言葉で新たな涙がどんどん溢れる。とめどなく流れる。

 涙はまだ止まらない。壊れてしまいそうなので、裏口からこっそり帰ることにした。外はもう雨になっていた。
「僕の言った何かが、引き金なんでしょう? 一言、謝りたくて」
 裏口の近くで片山君がしょんぼり立っていた。ずっとそうやって待っていたのかと思うと、びっくりして涙も止まった。人相が変わるくらいパンパンに腫れた瞼を伏せ気味にして、私は答えを探す。
「……いえ、ああ、そうだけれど、違うの……」
 私はようやく、自分は傘をさしているのに片山君はびしょぬれになっていることに気付いた。普通、こういう場面では、傘に入れるべきだろう。でも、そんなことをしたら私の涙のダムは完全に決壊してしまう。濡れてすっかり色が濃くなった片山君のパンツの裾を見ながら意を決した。
「……ごめんね、私、片山君を傘に入れてあげられないの。あの……もう聞いてるかもしれないけれど、私、結婚詐欺みたいにして婚約を破棄されてしまって、それからちょっと調子がおかしいの。」
「そう、だったの……しんどいのに言葉にさせてしまって、ごめんね。」
 片山君はますますしょんぼりして見えた。不必要に片山君を傷つけたような気がして、私は深い後悔に襲われる。ああ、どうしていいのか、わからない。混乱しながら、とりあえず笑顔を作ろうとしたら頬が引きつった。
「ああ、そんなに急に浮上しなくていいよ。僕みたいに潜水病になっちゃうから、もう一度潜ってゆっくり時間をかけて気持ちを持ち上げたらどうかな。」
 片山君はとても真面目な顔をしてそう言った。そして、「僕はいつも海に潜って暮らしてたんだから」と、傘をさす私の横を、片山君はずぶぬれのまま並んで歩き始めた。黙って、ゆっくりと、歩いた。穏やかな歩みだった。
「……ねえ、小学生の頃、牛乳瓶を箱の真ん中に返すことにこだわってた?」
 あんまり静かだったので、ふと思い出したどうでもよいことが言葉になった。
「うーん、そうだったと思う。よく覚えてるね。」
「印象的だったわ。」
 片山君は黙ったまま笑った。片山君の方を向いたわけでもないのに、そんな気配がした。水の中を伝播する気配はこんな感じなのだろうか。
「今の山本さんが太っているわけではないから勇気を持って言うけれど、山本さんは小学生の頃は大福餅みたいだったね。」
 本人を前にすごいことを言い出す人だ。
「色が白くてぽちゃっとしたほっぺたで、突っついたら中からアンコが出てきそうな。だから母が山本さんのお母さんの話をしたとき、僕の頭の中は大福餅でいっぱいになったよ。あんまりリアルに想像が沸いたから、すぐに買ってきて食べてしまったくらいだ。」
 思わず吹き出して笑った。片山君も、今度は声に出してアハハと笑った。もちろん、いきなり光あふれる所に立てる訳ではない。でもこのとき、私は確実に光を感じた。少しずつ光を取り戻して私は回復するのだろうと、道筋のようなものが見えた。すごい。
「片山君はまた海に潜るの?」
「左手の痺れが完全に取れたら。」
「怖くない?」
「僕は……ずっと海のことばかり考えて、それが僕の軸みたいなものなんだ。どういう形にせよ、絶対に僕はまた全力で潜る努力をするだろうね。」
 片山君は私を気遣って慎重に言葉を選びつつ、きっぱりと言い切った。それからニッコリ笑ってずぶぬれのまま「じゃあ」と片手を上げると、小さな路地で別れた。
 本降りになった雨の向こうに、片山君の後ろ姿が遠去かる。


片山君のこと 中川きよみ

(本作品は掲載を終了しました)

(本作品は掲載を終了しました)

夏の月
伊勢 湊

 窓の外はついこの前まで駆け回ってた夏の太陽に晒されてるのに、蝉の声は妙に遠いし空気も涼しい。僕は病院のベッドからアンバランスな景色を眺めている。丘の上の病院のその窓から見下ろす景色は隠れた絶景スポットにも思える。山裾が広がり、その下に小さな市街地があり、そして港があり海が広がっている。市街地と港の間にある高校の野球部のグラウンドも見える。いまでは人はいない。ちょっと前までは僕もあそこで白球を追い駆け回っていたのだ。でも、先週僕たち三年生の夏が終わった。高校球児のたぶん九割くらいの夏は甲子園大会が始まる前に終わってしまう。そして僕もそのうちの一人だった。

「うわっ、まじじゃ。こいつまじで入院しちょる」
 病室のドアが開くなり聞き慣れた笑い声が響いた。
「なあなあ、手術前はまだ笑かしてもええんじゃろ?」
 キャッチャーをしていた飯野が腹を抱えている。
「笑えんぞ」
 僕は憮然として言うが笑いは止まらない。野球部の頃はピッチャーをしていたせいもあり肩や肘や足首などの痛みがあるとよくこの病院に通ったものだが入院したのは初めてだった。飯野や他のチームメイトも同じでこの小さな港町ではスポーツをするものはみんなたいていその病院に行くのだが、骨折でもしない限り入院することなどまずないのだ。それが野球部を引退し、次の練習のときにはもうグラウンドに立っていない今になって入院。それも怪我とはまったく関係ない盲腸。たしかに笑えてしまって本気で怒れもしない。顔なじみの医者や看護婦にも笑われたくらいなのだ。
「おまえやっぱ切るんか?」
 サードでキャプテンの神野がにやにやしながら聞く。たぶんこいつもう知ってる。
「知っとるんやろ?」
「おお、知っとるぞ、知っとるぞ。で陰毛剃るんじゃろ?」
 四番の大和田が笑いながら続きを取ってそう言った。
「やかましな。じゃからなんやねん。どうせそのへんのおばはん看護婦に剃られるんや。そんなもん事故や」
 いっそう大きな笑いが巻き起こった。みんな口々に「おばはんに陰毛剃られる」と押し殺すように言いながら腹を抱えている。四人部屋だから薄いカーテンの向こうからも笑い声が聞こえてきた。冗談とは分かっていても腹が立つ。ちょっと怒鳴ってやろうか、とそう思ったときである。飯野がふいに顔を寄せて言った。
「でもな、ああいう役はな新人看護婦がするんぞ。香澄ちゃんでもおまえ耐えられるんか?」
 息が詰まった。おまえなにいいよるんか、と言おうとしたけど咳き込んで声にならなかった。さっきまでとは違ったにやにや笑いが周りにある。
 進藤香澄。新人看護婦。去年田舎町に越してきてからこの病院で働いている。入れ替わりの少ない田舎の病院ではまだまだ新人だ。ショートカットのさらさらした髪がきれいで二十歳は越えてるはずだけど童顔で小さいから年上という感じはしない。この田舎町に育った野良牛のような気性の荒い看護婦とは違い標準語の透き通った声でいつも笑顔で話しかけてくれる優しくてかわいい看護婦さん。これで好きになるなという方が無理な話だ。
「香澄ちゃんはオレらみんなのアイドルじゃ。じゃがな、おまえも盲腸で痛い思いをしとる。じゃからもしそういうことになったらわしらみんな嫌やけど、目をつむっちゃるけえ」
 神野が物わかりがいいふうに言う。
「でもな、おまえ勃たすなや。勃起したら香澄ちゃんにどない思われるかよう考ええよ」
 飯野は真顔で言ってから困惑する僕を見てかっかっかっと声をあげて笑った。みんな笑った。僕だけが笑えなかった。もしそうなったら、到底勃起せずに我慢できる自信などなかった。

「高木くん大丈夫? 盲腸ですって?」
 チームメイトたちが帰った病室でふいに声を掛けられた。心臓が止まりそうになった。香澄ちゃんだった。
「えっ、あっ、はい。そうなんです」
「痛い? 切っちゃうんだって?」
「うん、そうなんっすよ」
「でも、盲腸なんていうのはさくっと切っちゃった方がいいものよ。試合残念だったけど、せっかくの夏休みなんだからやりたいこと一杯あるでしょ? だから早く治しちゃおうね。高木くん受験だっけ?」
 僕は曖昧に頷いた。考えがまとまらなかった。目の前の香澄ちゃんはすごくかわいくて、自分のあれが握られて毛を剃られることを考えてしまい、もうあそこがむずむずしていた。それと同時に気に障ることもあった。確かに下馬評では僕たちは甲子園出場なんて夢にも思われていなかったし、実際に予想通りの強豪校がその切符を勝ち取った。でも僕たちがその強豪と闘って破れたのは決勝戦だったのだ。
「なんも考えてないすよ。甲子園、いくつもりでいたから」
 微妙な空気。ごめん、と香澄ちゃんが小さく言う。
「そうだよね、あんなに何度も怪我してここに来るくらい頑張ってたもんね」
「うん。でも、仕方ないや。夏どうしようかなぁ」
 変な空気を吹き飛ばしたくて無理に笑った。

 夕方、退屈で飯野が持ってきた雑誌をぱらぱらしていたら手紙が出てきた。飯野の字で宛名は三年野球部一同と書かれていた。
「おまえは香澄ちゃんが毛を剃るんやったらどうせ勃ってしまうじゃろう。やからいい方法を教えちょいちゃる。はっきりと好きやと言うんじゃ。好きな女の子にあそこ触られて勃起するんは当たり前じゃ。そうならんほうが変態じゃ。おまえは知らんかもしれんが香澄ちゃんが監督と会っとるのを神野が見たんじゃ。あの監督がじゃぞ。嫌な監督じゃないけど三十過ぎのおっさんに香澄ちゃんはやれん。おまえに一番手を任せる」
 天井を眺めて大きなため息をついた。

 まったく寝れなかった。明日は陰毛を剃られる。もしかしたらそれは香澄ちゃんかもしれない。告白の一番手に命ぜられ、ついでに監督とできている可能性まで聞かされた。寝付かれずに自動販売機でスポーツドリンクを買って裏口から駐車場に抜け出た。大きな夏の月が僕を見下ろしていた。アスファルトに腰を下ろし月を見上げているとどこかから声がした。思わず車の影に身を潜めた。
「ダメです。私と一緒になるということは何千万もの借金を背負うことなんですよ?」
 それは香澄ちゃんの声だった。何千万の借金?
「あなたに苦労をかけたくありません。言ったでしょ?」
 詳しいことは分からない。でも香澄ちゃんの家庭の事情というやつは相当重そうだった。それに対して聞き慣れた声がした。監督の声だった。
「全部ちゃんと考えたよ。無理をするつもりもない。ただ二人で頑張って働けば、もっとはやく借金から自由になれる。オレはそうしたい。君はオレとじゃ嫌か?」
 そのあとの返事は聞こえなかった。ただ香澄ちゃんのすすり泣く声だけが聞こえていた。なんだよ、それ。そう思って大きな月を見上げた。動けないままぼんやりと「たとえば一千万円ってどうやって稼ぐのだろう」とぼんやりと考えてみたが、それは月への行き方と同じくらい僕にはまだ謎だった。

 結局次の日、予想と期待に反し、おばさん看護婦が僕の陰毛を剃り、僕はそれにぴくりともしなかった。やっぱり恥ずかしくはあったが、自分で剃るとかそういうふうにいうのもバカらしくて素直に剃られた。
 手術が終わり数日して僕は退院した。その足で受験のための参考書を買うために本屋まで歩いた。蝉の声がうるさくて、照りつける太陽が暑くて、開け放たれた民家の窓から高校野球のテーマ曲が流れていた。