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第7回3000字小説バトル
Entry1

作者 : 河野成年 [コウノナルトシ]
Website : http://y7.net/romantei
文字数 : 2845
 朝。
 多くのサラリーマンや学生達が、駅の構内に流れこんでくる時間。
そんな中、長井孝は一人、流れとは別の方へと足を向けていた。
 別に、長井は会社に行くのを拒んでいるわけではない。もちろん、
喜んで出勤しているというのとも違うが、会社に行けばそれなりに
充実した仕事が待っている。
 彼は、便所へと向かっていたのだ。
 毎朝の便所でのひとときは、彼にとって何物にも変えがたい安ら
ぎの時だった。家で用をたしてもよいのだが、それは娘からの不評
を買うことになる。
 彼女に言わせると、「お父さんの入った後はオヤジ臭くて入れな
い」のだそうだ。それを言うのならば、誰の入った後でもトイレは
臭いものだと長井は考えるのだが、それを彼が娘に言う事は無かっ
た。どんな事を言われようと、たった一人の娘に長井は嫌われたく
なかったからだ。
 それゆえ、長井には駅で朝の用をたす習慣が自然についていた。
 駅の奥にある汚い便所に入って、手前から3番目の個室が長井の
指定席だ。
 個室に入ってほっとため息をつくと、彼はおもむろにベルトを緩
め、ズボンを下ろす。ゆっくりとしゃがみこみ、売店で買ったスポ
ーツ新聞を広げれば、それからはまさに「彼の時間」だった。
 長井が乗る電車が出るまでには、まだまだ余裕がある。また、そ
のために長井は家を早めに出ていた。ゆっくりと新聞を読む時間を、
彼はしっかりと確保していたのだった。
 家では、長井は新聞もゆっくりと読めない。食事中に新聞を広げ
ると、妻が途端にヒステリーを起こすからだ。
「あなた、食事中くらいは新聞を読むのをやめていただけません?」
 妻の怒った顔を想像して、長井は思わず苦笑した。食事中以外に、
一体いつ俺は新聞を広げたのだろうか。結婚してから20年になる
が、長井に思い当たるふしは無かった。
 そもそも、なぜこの安らぎの時にまで妻のヒステリーを思い出さ
なければならないのだろうか。長井には、それが少し悔しかった。
それも夫婦の愛だと言うのなら、こんな愛などいらない。長井が欲
しいのは、ほんのひとときの安らぎだけだった。
 たわいの無い想像に長井は苦笑し、再びスポーツ新聞へと目を落
した。貴重な安らぎの時間を、こんなことで無駄にするわけにはい
かないのだ。
 しかし。
 コンコン。
 突然の軽いノックが、長井の安らぎのひとときを遮断した。しか
し、誰だって、安らぎの時を邪魔されることに寛容にはなれないも
のだ。もちろん、長井も寛容になることは無かった。彼はそれに対
して沈黙で答える。
 しかし、長井の意思を無視するかのように、今度は少し強めにド
アはノックされた。
「入ってます」
 仕方なく長井はぶっきらぼうに答え、再び新聞に目をやった。
 まったく、俺の大事な時間をこいつはなんだと思っているのだろ
うか。こみ上げる怒りをこらえながら読む新聞の記事は、長井の頭
にはさっぱり入ってこなかった。
 確かに、この個室は長井専用のものではない。その怒りが理不尽
なものであることは、長井にもわかっていた。しかし、それでも長
井には許せなかった。
 長井には、この時、この時間しかないのだ。家では厄介者扱いさ
れ、安らぐという事は無い。会社は仕事の場であり、安らぎを感じ
る余裕などあるはずも無い。どんな事であれ、このひとときを邪魔
されることは、長井にはがまんならなかった。
 しかし、だからといって長井にはどうすることもできなかったし、
また何をするつもりも無かった。つまらないことで、この安らぎの
時を台無しにしてしまうことはない。長井はドア越しに向こうにい
るであろう無礼者を睨み付けることで、とりあえずの満足を味わっ
た。
 その時、彼は感じたのだ。ドアの上から彼を見る確かな視線を。
 しかし、その視線もすぐに消えた。「無礼なやつだ」憤慨しなが
ら、長井はようやく襲ってきた便意に身構えた。
 すべての用を済まし、長井はゆっくりとズボンを上げた。これか
ら、彼の長い1日が始まるのだ。長井は、鋭く息を吹くと、ドアに
手をかけた。
 開かない。
 ドアに鍵がかかっているはずは無いのに、なぜかドアは開かなか
った。
 もう1度、長井はドアを引いてみたが、やはりドアは開かなかっ
た。
 おかしい。この個室のドアは、押して開けるものではないし、ま
してや横に引くものでもないはずだ。少し考えた後、長井はドアを
ノックしてみた。
 コンコン。
 反応は無い。当たり前の事なのだが、長井には何か釈然としない
ものがあった。ドアの向こう側に、人の気配を感じるのだ。再び、
ドアをノックする。すると―
「入ってます」
 不機嫌そうな返事が返ってきた。
 それで、長井は納得した。タチの悪い冗談なのだ。先程この個室
に入れなかった奴が、逆恨みに出られないようにしているに違いな
い。
 長井は軽く舌打ちした後、強硬手段に訴えることにした。ドアの
上には、一人分の隙間があるのだ。朝から無駄な労力を使いたくは
無かったが、冗談に付き合うような余裕も長井には無かった。電車
の発車までのゆとりある時間は使いきっているのだ。
 長井はドアの上に手をかけ、最近少し太りがちな体を持ち上げた。
そして、ドアの向こう側に目をやる。こんな冗談を朝からやる奴は、
一体どんな奴なのか。しっかり見定めるつもりだった。
 しかし、ドアの向こう側には、扉を押さえているはずの人物はい
なかった。そして、そこは小便器の並ぶ便所でもなかった。
 ドアの向こう側は、大便用の個室だったのだ。
 そこには、一人の人物がズボンを下ろしてしゃがんでいた。中太
りの身体に、少し薄くなった頭髪。手にはスポーツ新聞を持ってい
る。そして、彼の着ている背広に、長井は見覚えがあった。それは、
長井のものと同じ背広だったのだ。
 その時、しゃがんでいた男がちらりと長井のほうに目をやった。
慌てて長井はドアにかけた手を離し、こちら側へと着地する。飛び
降りる刹那に垣間見た男の顔は、確かに自分のものだった。毎朝ヒ
ゲを剃る時に確認する、40も半ばを過ぎた中年男の冴えない顔だ。
 一体どういう事なのだろうか。長井は考えたが、これといった確
かなイメージは沸いてこなかった。ただ、漠然とドアの向こう側に
いる人物が自分に他ならないことだけはわかっていた。
 おそらく、ドアの向こう側の自分は、これから用をたすのだろう。
それが終れば、ズボンをあげ、スポーツ新聞を小脇に挟んで一息つ
くのだ。
 長井には、わかっていた。
 そこで、長井はゆっくりとベルトに手をやると、おもむろにズボ
ンを下ろした。それは、長井にとって至極自然な行為だった。便所
にいるのに、ズボンをはいている事の方がおかしいのだ。長井は悠
然としゃがみこみ、スポーツ新聞を開いた。
 そういえば、昨日の松井の調子はどうだったのだろうか。やがて、
彼はたわいの無い想像の波の中へと、その身をうずめていったのだ
った。
 そして、それこそが、長井にとって本当の安らぎの時だった。長
い長い、本当の安らぎの中で、長井はゆっくりとした時をすごす…
…。