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第7回3000字小説バトル
Entry13

ずぼらな死体

作者 : 岡嶋一人
Website : 岡嶋一人ミステリーマガジン
文字数 : 2981
「片岡さんていってね。会社の子なんだけどね。ああ、子なんて言
ったら失礼だな。女性だな。子供がいるんだから。三歳の男の子だ
ってさ。離婚してねえ。おーい、聞いてる?」
 洗面所で髭を剃りながら、美佐子に話し掛けていた。
「聞いてるわよ。それより、早くしないと遅刻するわよ」
 後ろから台所に立つ彼女の答えが聞こえる。
「でね、最近どこへも連れて行って上げてないって言うもんだから、
今度皆で食事でもしようじゃないかって事になってね」
「皆って?」
「俺んちと向こうと」
「ふーん、私は別にいいけど。でも、なんで?」
「友美と仲良くなれれば、一緒に遊べるんじゃないかと思ってさ。
彼女の実家が近所なんだそうだ。だからね……。おい、シェービン
グクリーム、新しいのは?」
「あら、ごめんなさい。忘れてたわ」
 半分剃りかけたところで、シェービングクリームがなくなってし
まった。これで、何度目か。
「おい、昨日もうなくなるから買っといてくれって言っただろうが」
「忘れたのよ。しょうがないじゃない。私だって忙しいんだから」
「忙しいって、お前ねえ、一日家にいるんだから……」
「あら、友美と一日一緒にいて御覧なさいよ。何かって言うとへば
りついてきて、何にも出来やしないんだから」
 またしても、娘を言い訳に使う。いつでもそうだ。いかにも正当
そうな言い訳をする。あいつの頭の中には、『言い訳』と名札のつ
いた大きな抽斗があるんじゃないかと思えてくる。
「ねえ、貴方、早く食べちゃってってば」
 小さな家なんだから、そんなに大きな声を出さなくても聞こえる。
結婚した当初からそうだった。彼女は、自分の思い通りにならない
と、すぐにヒステリックに大声を出すのだ。
「ああ、わかったよ」
 雑に剃ったあごをタオルで拭きながら、台所のテーブルにつく。
「で、いつがいい?」
「何が?」
「何がって、今話しただろうが」
「ああ、そのなんとかさんていう人」
「片岡さん」
「いつでもいいわよ。私はどうせ暇なんだから」
 精一杯の嫌味である。
「じゃあ、適当に決めていいんだな」
「いいけど、食事ってどこ行くの?」
「まだ決めてないけど、その辺。近場で」
「私、何着てったらいいの?」
「えっ?」
「だって、初対面でしょ」
 一体どういう精神構造をしているんだろう。まだ日にちも場所も
決めていないのに、自分の着ていくものを心配するとは……。
 友美は、朝の子供番組に夢中で、パン切れを持った手が途中で止
まっている。食事をしながらテレビを見る癖を付けてしまったのは、
美佐子である。
「友美、おててが止まってるよ」
「はーい」

「今度の金曜日に決まったよ」
 夕食の時に、今朝の話の続きをする。
「決まったって、何が?」
「今朝話しただろう。片岡さん」
「何だっけ、ああ、食事の事ね」
「食事の事ねって、お前ねえ。一週間も二週間も前の話じゃないぜ。
今朝だよ、今朝」
「あら、ごめんなさいね。ほら、友美の世話で大変だったから、色
色と」
 友美はアニメに夢中で、手に持った小さなフォークには、ハンバ
ーグの切れ端が刺さったまま止まっている。
「友美、おててが止まってるよ」
 テレビに釘付けになっていて返事もしない。
「友美」
 つい声を荒げて、テレビを消す。
「あっー。いやー。だめー」
 次の行動はわかり切っている。足をばたばたさせ、これでもかと
いうほどわざとらしく大きな声で泣き叫ぶのだ。
「貴方、消すことないじゃない」
「食事の時にテレビは良くない」
「あら、何でよ。貴方だって見てるじゃない」
「大人と子供は違うだろうが」
 そう言っても、美佐子には屁理屈としか写らないようだ。
 友美をなだめすかして、食事を終え風呂に入る。ふと、隅のほう
に水垢が溜まっているのを見つける。
「まったく、風呂掃除ぐらいしろよな」
 コーナーボックスのシェービングクリームの缶を手に取る。空っ
ぽだ。
「おーい、クリーム買ってきてくれたか」
 風呂場の中から声を掛ける。返事がない。
仕方なく、ドアを開けて再度声を掛けようとする。テレビの馬鹿で
かい音が聞こえてくる。ついつい、こっちも大きな声になってしま
う。
「おい、クリーム買ってきたか」
 居間から、間の抜けたような声が返ってくる。
「なーにー」
「クリーム買ってきてくれたかって聞いてんだよ」
「忘れたー」
 そうだと思った。
「おい、いい加減にしろよ。それから、風呂場の掃除してるのか」
「日曜日にやるわよ」
 石鹸もないじゃないか。
「おい、石鹸は?」
「そこに、あるでしょ」
「どこに?」
「コーナーボックスの一番下」
 言われた場所を覗き込んでみる。
「ばか、これは洗濯石鹸だろうが」
「いいじゃない。取り敢えずそれ使っててよ」
 金曜日の夕方、約束の食事会をした。向こうは、つとむ君を連れ
てきた。友美とはとても気が合うようだった。
 打ち解けた楽しい食事会だった。ただ一人、美佐子だけは一線を
画していたが。
 日曜日、久しぶりに友美を連れて動物園に行った。美佐子には、
「たまには一人になりたいだろ」と言って。
 一日、遊んで帰ってきたら、風呂場で美佐子が死んでいた。触っ
てみるとすでにかなり硬くなっていた。
 一応、救急車を呼んだが、すでに手遅れであることは一目瞭然だ
った。日頃不健康と言うわけでもなかった。死因に不審な点がある
と判断した救急隊員が警察を呼んだ。
 検死の結果、塩素中毒だと判明した。風呂場に置いてあった、塩
素系の洗剤と酸素系の洗剤を混ぜて使ってしまったのがいけなかっ
たと、担当の刑事は説明してくれた。
「奥さんは、そういう知識はお持ちじゃなかったですか」
「さあ、どうでしょう。割とずぼらなほうでしたから。洗濯石鹸で
体を洗えって言うような」
「えっ?」
「いや、ですから、そういうことには無頓着だったわけです」
「なるほど」
 事故死と言うことでかたがついた。生命保険からは、一千五百万
円が振り込まれた。問題になるような金額じゃあない。
 美佐子の四十九日を待って、引越しをした。それほど近所付き合
いをしていたわけではないが、それでもこのままここにいるわけに
は行かなかった。

 あれから三ヶ月、巧くいったと思っていいのだろう。今は親子四
人の穏やかな生活である。
「ねえ、良心の呵責ってない?」
「なんで?」
「だって……」
「いいか、俺は何もしちゃあいない。やったことと言えば、洗剤の
ひとつをほとんど捨ててやったって事だけさ。ほんの少しだけ中身
を残してね。そんなの犯罪でも何でもないよ」
 あの日、食事会をしたのは言ってみれば、子供を含めた見合いみ
たいなものだった。子供同士が互いの親になついてくれなくては、
巧くいかないから。
 最初から美佐子は居ても居なくても良かったのだ。だが、彼女に
内緒で、それをするわけにはいかなかった。友美はまだ三歳だ。表
であったことを平気でしゃべってしまうだろう。だから、最初から
公明正大に彼女の目の前でやったのだ。
 あの食事会で決心が固まったのは言うまでもない。
 洗剤を捨てたのだって、必ずしも彼女が注ぎ足して使うと確信が
あったわけじゃあない。だが、シェービングクリームだって何日も
買ってこないようなやつだ。洗剤が足りないからって、わざわざ買
いに走るとも思えなかった。まあ、ずぼらなあいつらしい最後では
あったが。唯一、彼女らしからぬことだったのは、約束どおり、日
曜日に風呂場の掃除をしたことぐらいか。