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第7回3000字小説バトル
Entry9

美談

作者 : akoh [アコウ]
Website : http://www.geocities.co.jp/Milkyway-Orion/8896/
文字数 : 2967
 よもや、こんなことが起きようとは夢にも思っていなかった。
 馬場は、一瞬我を失った。
 しかし直後には、事故を起こした張本人である、青田に詰め寄っ
ていたのである。
「馬鹿! おまえなんて事をしてくれたんだ」
 後悔と恐怖におののき不気味に引き攣った青田の顔は真っ青であ
った。
 
 事故のあらましは至極簡単である。
 馬場が青田にガラスの指輪の事を聞いた。それを聞いた青田は、
偶然近くにあったそれを拾って馬場のもとに持っていこうとした。
そのとき手を滑らせて落としてしまう。さらに勢いあまって、足で
踏み潰しさえしたのである。指輪は袋の中にあったのだが、いつの
間にかそれを突き破り、破片となって辺りに散乱していた。
 ただのガラスの指輪であったのならば、取り返しのつかないこと
もないだろう。けれど、その指輪は何かで代用できるようなもので
はなかったのである。
馬場は勿論、怒りがこみ上げてくるのを感じていた。だがそれは青
田を糾弾する怒りではなく、むしろ彼の将来を案じての怒りに近か
った。指輪の崩壊後、時が経つに連れ馬場のその思いが強くなって
いたことは間違いない。
 馬場は、青田を救うことを決心した。
「落ち着け。大丈夫だから」
 青田は答えない。わずかにうなずいただけである。
「いいか。幸いこのことを知っているのは俺たち二人だけだ。そこ
で、だ。まずは証拠を隠滅する。指輪の残骸を片付けるんだ。ホウ
キとチリトリを探して来い」
 とたんに青田は顔を上げた。驚愕という言葉が、大げさでなくあ
てはまるような表情をしていた。
「そんなことしていいのか」
「馬鹿野郎。今までいっしょにがんばってきた仲間じゃないか。そ
んな仲間を、俺が見捨てると思うか」
 青田は、いまだ引き攣り気味の顔にこわばった笑顔を浮かべた。
「けど、証拠を無くしたところでどうすればいいんだ?」
「簡単だ。この指輪は、結構いろんなところに売ってるんだぜ」
「偽造するのか?」
 青田は唾を呑み込んだ。それとほぼ同時に、部屋の電話が鳴った。
 馬場は受話器を取り、平然としばらく会話をしていたが、ふいと
受話器の口を抑えると、青田に向かって小声で言った。
「三島さんがこの指輪を見たいらしい。ここは俺がなんとかするか
ら、おまえはさっさと新しいのを買って来い」
 言い終えると、馬場は会話を再開した。しかしちらちらと、青田
のほうを見やる。
 その視線に促されるように、青田はその部屋を後にした。

 三島がその部屋に現れたのは、馬場が指輪の残骸の処理を終えた
のとほぼ同時であった。
「指輪は見つかったかね」
 馬場は指輪が見つからないと言い逃れていたのである。
「それが……」
「まだか」
「はい。すいません。ご覧の通り誰も居りませんもので、片付けた
者がいればすぐに分かるのですが……」
「携帯か何か、連絡はできないのか」
「それが、つながらないんです」
 三島は小さく舌打ちした。と、その拍子に思い出す。
「そういえば青田はどうした。ついさっき見かけたが、いないの
か?」
 馬場は一瞬顔をゆがめたが、すぐさま平静を装って答えを創り上
げた。今は三島の機嫌を損ねるようなことはしないに限る。馬場は
懸命に、されど表には平静を装って、三島の不満轟々たる質問の数々
に対応した。それはもう、よくやったといってよい。
 しかし、この質問にだけは、馬場はすぐ答えることが出来なかっ
た。
「見つからないのではなくて、なくしたか壊したかして、実はもう
見せられないのではないのかね」
 馬場は、一瞬、心臓を杭で打たれたかのような動悸を感じた。核
心を突かれ、さすがに動揺を隠し切れなかったのである。ところが
三島は、馬場の見せたこの隙を突くこともなく、
「まあいいさ。特に急いでいるわけでもない。今日の午後五時まで
に見つけてもらえばいい」
 と、あっけなく近くの椅子に掛けたのであった。しかし一言、
「ただし。見つからなかったときには相応の責任を取ってもらうよ。
いいね」

 老獪という言葉が、三島には見事に当てはまろう。
 馬場はもうかなり参っていた。肉体的にではなく、精神的にであ
る。
「さあ、指輪はまだ見つからないのか? それともやっぱりもうな
いんじゃないのか。正直に言ってしまえよ」
 そんなことを言われつづけるにも限度というものがある。ある瞬
間に、馬場は三島が事実を知っているのだと確信してしまった。も
ちろん事実はどうだか分からない。だが、馬場の中では、三島は知
っていてわざとじらしているのだということになってしまったので
ある。そう思い込んでしまえば、そこから先は針のムシロである。
刺さる視線はすべてお見通しなのである。
 ギリギリの精神状態の中で、青田を信じることだけが馬場の拠り
所であった。なんとか状況を伝えることにも成功していた。あとは
ただ青田を頼るのみ。
けれど、三島はその信頼の匂いすら嗅ぎ付けたかのように、馬場
に言い放つ。
「それとも、本当に知らないのか。別の奴がどうにかしてしまった
のか。だとしたら、そいつはひどい奴だな。他人に責任を押し付け
て、自分は知らん顔だ。逃げたのだ。まあ、人間とはそういうもの
かもしれないな。一番大切なのは我が身だ」
 責任。
 馬場は思う。このままならば、責任はすべて自分の上にかかって
こよう。青田は無罪だ。なぜ自分がすべての責任を負わなければな
らない? それはただ青田の利益になるだけではないか。卑怯者。
 青田は逃げた。
 その結論にたどり着く。
「三島さん……」
「なんだ? とうとうしゃべる気になったか。いいことだ。他人な
どをかばうものではないよ。人間同士の信頼などは、もっともあて
にならないものだ。そんなものは捨ててしまえ」
 はっとした。我に返った。馬場は、目の前を覆っていた霧が晴れ
たような心持になった。
「やっぱりなんでもありません。時間の限り、俺は探しつづけます
よ」
「……そうか」
 そうだ。青田は自分を信じているのだ。その信頼を裏切ることは、
人間として最低のことではないか。信頼には、報いねばならない。
そもそもこれは、自分から押し付けた信頼なのだからなおさらだ。
 馬場は、一瞬でも信頼を裏切りかけた自分を恥じた。

「もう日が暮れる。時間切れだな」
 窓際で外を眺めながら三島が言った。
「まだもう少し残っています。探させてください」
「無駄だ。もうやめろ。潔く、あきらめるんだ」
「嫌です」
「だが、もう時間だ」
「……」
 馬場は、力なくその場に立ち尽くした。
 と、そのときである。
 外を見ていた三島の目が大きく見開いた。その顔は、夕日に紛れ
てはいたものの、明らかに昂揚していた。
「おい、馬場。こっちに来てみろ」
「なんですか?」
 馬場はゆっくりと窓から外を見下ろす。
「見たまえ。勇士のご帰還だ」
 青田であった。馬場には、その手に握られたガラスの指輪の輝き
までが見えた。包装の上からでも確かに見えた。
 と、思い直す。
「やっぱり知っていらしたのですか?」
「当然だろう」
「それじゃあやっぱりクビ……」
「いや、君たちにはいい物を見せてもらった。今回だけは特別に見
なかったことにしようじゃないか。だからはやく、壊れた指輪を処
分してしまいなさい」
「はい! ありがとうございます!」

 どこか誇らしげな青田の姿が警察署の中に消えていく。
 これは、心優しき警察官たちの物語なのである。