第2回 耐久3000字バトル 第1回戦

エントリ 作品 作者 文字数
1紅葉の色 〜2005年秋〜3000
2  
3しろくま3050
4修羅の国から Vol.1国津武士3000
5ラナ玉井とホワイトジャック石川順一2666
6紙折りの富子さん 1ごんぱち3000



投票・投稿ありがとうございました。

バトル結果ここからご覧ください。



エントリ1 紅葉の色 〜2005年秋〜   百


 道雄は後ろからリュックサックを背負ってついてくる健志に振り返り声をかけた。
「たけ、ケーブルカーとリフト、どっちにする?」
 健志は道雄に追いつくと、きゅっと口を結んだまま顔をあげ、首をかしげてから口を開いた。
「リフトって?」
 道雄は少し考えてからゆっくり答えた。
「ケーブルカーは山道を登る電車みたいのだ。リフトは椅子のロープーウェイみたいのだな。スキー場によくあるんだが、スキーに行ったことないか?」
 健志はうなずいて「うん、ないよ」と答える。
「そうか、じゃあリフトにするか。スリル満点だぞ」
「スリルまんてん?」
「ああ、空中散歩だ」
「空中散歩? 座っているんだよね。じいちゃん、歩くの?」
「あー、まぁ、まず、体験してみろ」
 道雄は孫の健志の生真面目さに苦笑しつつ券売機でリフトの券を買うと渡してやる。乗り場に進むと健志が不安げな声を出した。
「あれに乗るの?」
「そうだよ」
 健志がいつの間にか道雄の横に来ていて、道雄のズボンのポケットあたりをぎゅっとつかんでいる。
「……すこし、こわいな」
「大丈夫だよ。じいちゃんと一緒に乗ればいいんだから」
「うん、大丈夫、大丈夫」
 健志がリフトに乗り込んでいく人々を真剣に見つめ、うなずいて顔をあげると、照れたように笑顔を見せた。
「物を落とすなよ。帽子、脱げたりしないか?」
「うん、大丈夫」
「そうか」
 道雄達がリフト乗り場の係員に促されて、ひとつ前の椅子を追うように乗り場に立つと次に回ってくる椅子が二人をすくいあげる。
「うわぁ」小さい声で健志が言って、道雄の腕にしがみついた。

―加奈子ももう少し健志をあちこち連れて行ってやればいいものを―
 道雄は忙しげな娘の声を思い出していた。

「もしもし、父さん。私、加奈子」
「あー、珍しいな。こんな時間に。今日は仕事は休みなのか? 健志は元気か?」
 電話の向こうで加奈子が苦笑する気配がした。
「えー、今、仕事中。ごめん、急ぎなの。父さん、今週の土曜日、何か用事ある?」
「土曜って明後日か?」
「そう、明後日の土曜日」
「用事はないよ」
「そう、なら、健志を高尾山に連れてってやってくれないかな」
「高尾山?」
「うん。あ、それ、こっちのページと見開きで」
「なんだ?」
「ごめん、仕事が立て込んでて。んで、土曜日、健志と高尾山に行く約束したんだけど、仕事になっちゃって」
「そういうことか、わかったよ」
「ありがとう。あ、そこ再度確認して! 父さん、夜にでもまた連絡する。土曜日、よろしくね!」
 
 受話器を置いて道雄はため息をつく。
 一人娘の加奈子は大手出版会社の雑誌編集の仕事をしながら、5歳になる息子、健志を育てている。小説家の沢口と加奈子が離婚したのは2001年、健志が1歳の時だった。
 健志が気づく前にとさっさと旧姓の相田に姓を戻すと、育休を切り上げ仕事に復帰した。
 元旦那の職業と加奈子の職業の近さや事情を知っている同僚も多かろうと道雄は心配したが、加奈子はそんなことは気にせず、仕事を楽しんでいるようだ。
「仕事は仕事、プライベートはプライベート。ちゃんと仕事をしていれば、何も言われやしないわよ。それに私はプライベートもきちんと整理したの」
 我が娘ながら『強い』と思ったものだ。

「じいちゃん、ここのもみじは紫色っぽいね」
 リフトに慣れてきたのか、道雄の腕にしがみつきながらも健志が周囲を見回して言った。
―前にもこの言葉を聞いたことがあったな―
 道雄は高尾山の暗い紅葉の色に急に眩しさを感じた。

「お母さんは忙しそうかい?」
「うん、2006年しんしゅんごうの準備なんだって。もう、お正月の話してる」
「そうか、まだ秋なのにな」
「うん、クリスマスもこれからなのにね」
 ふたりで顔を見合わせて笑う。
「あのね、途中にでっかい杉の木があるんだって。僕、それ見たいの」
「蛸杉のことか?」
「うん、それ、たこすぎ。お母さんが話してくれたの。子どもの頃、おじいちゃんに高尾山に連れて行ってもらって、巨大たこみたいな杉の木の根っこを見たって」
「ああ、小学生の時だな。あの時は、頂上まで我慢できなくて……」
「お母さんね」
「うん、なんだ?」
「おじいちゃんに高尾山に連れて行ってもらったのが、とてもうれしかったんだって」
「お母さんがそう言ってたか?」
「うん、だから、僕も高尾山に行ってみたいって思ったの」
「そうか……」

 道雄の頭の中にこちらを大きな目で見上げる加奈子の子どもの頃の表情が浮かんだ。
―また、お仕事なの? 約束したのに……―
 加奈子の大きな目にたちまち涙が盛りあがる。
 そうだ、何度『約束』を破ったことだろう。

―自分のことを棚にあげて、加奈子のことは言えないか……―

 リフトから降りると健志は急に元気になり、駆け出していく。
「たけ、あんまり走るな。先は長いぞ」
 健志に昔のことを言われてから、やけにその時のこと思い出す。
 あの日が初めて加奈子とふたりきりでの遠出だったんだ。そして、健志とふたりきりでの遠出も今日が初めてだ。
「こんなに整備されていたか?」
 独り言を言って、周囲を見回す。
「じいちゃん、早く!」

 張り切って歩き始めた健志だが、すぐに歩みが遅くなる。そんな健志を見て「おい、大丈夫か、休憩しよう」と道雄は声をかけた。
 山道に作られた休憩スペースの椅子に腰掛け、健志は水筒から麦茶をおいしそうに飲み、ぽつりと言った。
「僕ね、こないだお父さんの写真見たよ」
 道雄はどきりとしたがなんでもないように答える。
「そうか、見たのか」
「うん、本屋さんでお父さんの本を見つけたの。表紙の裏の折ってあるとこ、小さい写真があるでしょ」
「どうだった?」
「うん、覚えてなかった。すこしは覚えてるかと思ったんだけどな。あ、お母さんにはナイショにしてね。その、泣いちゃうかもしれないから……」
 真剣な表情で健志は言って、大きく息をついた。そんな健志を見て道雄は言った。
「わかったよ、お母さんにはナイショな。そうか、たけとじいちゃんは同じだなあ」
「同じ?」
「じいちゃんもお父さんを写真でしか知らないんだよ」
「じいちゃんのお父さん? いたの?」
「おい、じいちゃんにもお父さんはいたさ。じいちゃんが小さいうちにじいちゃんのお父さんは戦争に行ってしまって、戦死、死んでしまったんだ。だから、じいちゃんもお父さんの顔は写真の顔しか、思い出せん」
「せんしって、戦争で死んじゃうことでしょ」
「そうだよ」
「かわいそうだね」
「かわいそうか……」
「じいちゃん、もう行こうか」
「よしっ!」

「わっ、本当にたこみたいだっ!」健志が歓声を上げる。
「『蛸杉』と言うんだ。ほら、書いてある」
 健志は顔をしかめると言った。
「変な字、読めないよ」
 道雄は周囲を見回しながら話を続けた。
「たけのお母さんが小学生の時、山頂までお弁当を我慢できなくて、ここで食べたんだよ」
「お母さん、くいしんぼだったんだね」
「そうだな」

 人が通り過ぎていくこの場所でお弁当を食べたいと言い張ったのは加奈子だった。
―食べないとこの先登れない―
―恥ずかしくないのか? 人が見てるぞ―
―恥ずかしくないもん。お腹すいたんだから、しょうがないでしょ―
 思い返してみると、加奈子の性格はこの頃から変わらない。

「ここで弁当にするかい?」
 からかうような口調で道雄は健志に言った。
「僕はくいしんぼじゃないから、大丈夫」
 健志が笑いながら言った。







  エントリ2     


(本作品の掲載は終了しました)





  エントリ3    しろくま


 中央公園は住宅地の中にある。夜、公園を走る隆の耳には、家々から母親が子供を叱る声や、洗った食器を重ねる音が聴こえていた。
 隆は公園をぐるりと走り、一周する毎に噴水の所の大きな鐘のある時計を確認した。一周に三分かかるのが常で、時間を確認すると、今度は走りながら胸に手を当てて鼓動を聴いた。時々思い出すようにして、隆は走りながら心臓の鼓動を確かめていた。体はいたって健康なのだが、そうするのが癖だった。
 早いピッチにして、無理に走ることはしなかった。大学生活で、鈍った体を動かすために始めたランニングだった。少しずつ、じわっと汗が出てきて首元のシャツに滲み込んでいった。吐き出す息は蒸し熱かった。
 隆の走っている公園の中の道は電灯が立ち並んでいた。等間隔に並ぶ電灯は電球の四方をガラスの板で囲んだ物で、光に引き寄せられた虫が、コンコン、トントン、とそれにぶつかっていた。公園の道の、木に覆われた所に入っていくと、家の音や、向こうの道路を走る車の音が聴こえなくなって、林を抜けるまでの間は、夜の静かさと涼しさを感じることができた。
 そしてそのまま十周すると、彼は走るのを止めて、家に帰るのがいつもの習慣だった。走り終えて、きょうも同じようにして家に向かって歩き始めた時、足元で何かが動いているのに気が付いた。
 しゃがんで見てみると、それは蝉の幼虫だった。隆にとって、抜け殻でない物は初めてだった。隆が正面に居たので、幼虫は前に歩いていたのを止めて、後ろ向きに歩き始めた。幼虫の後ろに手をやると、今度はまた急いで前へ歩き始めた。
 道の真ん中だったので、蝉が羽化するために掴まる木は、幼虫の足では遠そうに思えた。隆は幼虫を捕まえると、持って行って木に掴まらせた。彼は家に戻って風呂に入った後、もう一度ライトを持って公園に戻り、さっきの蝉の幼虫を捜した。幼虫は隆が掴まらせた所から更に登っていて、じっと羽化を始めていた。頭から徐々に背中を割っていく様を、隆は手持ちのライトで照らしながら、静かに見続けていた。
 夏本番になり、昼はたくさんの蝉が啼き続けていた。夜が白けてくると、朝、日が昇って、まずは雀の囀りが聴こえた。そして一番蝉が啼いて口火を切ると、その他大勢も一気に啼き始めた。
 隆は夏バテを起こし、朝の五時頃まで眠ることができなくなっていた。そのため、寝床の上からも外の様子がよく分かっていた。蝉が啼き始めると、煩くてもう眠ることができないため、窓の外が少しずつ明るくなって雀の囀りを聴くと、ここで腹を括って眠るのだった。
 隆が起きて居間に下りてくるのは十時頃だった。起きてきた隆に、母親のさなえがこの日はおはようの代わりにこう言った。
「祐太郎さんが昨晩亡くなられたって、さっき電話があったの。葬式は明後日にあるんだけど、隆も行く?」
 隆の父俊作の兄である祐太郎は、ここ一年ずっと入院していた。肝臓の病だった。元々体の弱い人で、生前も常に先は短いと二人は聞いていた。そのため、話をするさなえもそれを聞く隆も、特に意外であるという様子を示さなかった。
「とうとう亡くなっちゃったのか。もっと、会いに行けばよかったかな……葬式には行くよ。服はスーツでいいのかな」
「そうね。夏用のを出さなくちゃね」
 買っておいたリクルートスーツは、まだ袖を通したことが無かった。薄手の夏用の物だった。大学入学時に買ったスーツは冬用だった。こんな形でまず役に立つとは思っていなかった。
 葬式当日、隆は白いカッターシャツとスーツを着て、黒いネクタイ、靴下、革靴を身に付けて車に乗った。出掛ける時はまだ朝早かったが、空は雲が無く、いつも以上に日差しの強い日になりそうだと思った。車は俊作が運転し、助手席にさなえが、後部座席に隆が座った。
 亡くなった祐太郎は未婚者で、家からも出ておらず、祖父大助の家に住み続けていた。体が弱かったため、正確には実家に居続けることしかできなかった。葬儀は大助の家で行われた。俊作達が着いた頃には、何人か既に居て、葬儀の仕度が整えられ始めていた。
 大助が九人兄弟の長男だったため、親戚の多い家だった。隆も顔の知らない人が多かった。ただ相手は隆のことをよく知っていて、大きくなったね、とか、今は大学生か、などとよく訊かれ、その度に答えた。
 葬儀はしめやかに行われた。隆は子供の頃、祖父の家を訪ねた時に、よく祐太郎に遊んでもらっており、隆の持つ祐太郎の思い出のほとんどもその当時の記憶だった。子供の居ない祐太郎には、自分の子のようにして可愛がってもらえた。隆も祐太郎伯父さんのことが嫌いではなかった。ただ、大きくなるに連れて大助の家を訪ねなくなると同時に、祐太郎とも疎遠になっていった。
「隆君の結婚式まで生きたいなっていうのが、口癖だったのよ」と、祐太郎をよく看病していた三枝叔母さんが隆にそう言った。祐太郎は三枝と俊作の三人兄弟だった。もっと生前に会いに来れば良かったと、隆は後悔した。せめてもと、自分から、納棺された祐太郎を霊柩車に乗せるのを手伝った。
 火葬場は車で四十分の所にあった。知らない山道を車で登り、林の開けた所にそこはあった。
 最後のお別れをして、祐太郎は焼却炉の中へ送られていった。燃え切るまで一、二時間の待ちができたので、控え室で昼食の弁当を食べた。俊作や親戚のおじ達は跡継ぎの話をしていた。隆はそれを聞かずに、一人火葬場の中を目的も持たずにうろうろしていた。焼却炉から出てきた祐太郎は骨と灰になっていて、皆でそれを箸で骨壷に入れた。
 時計の針は午後二時を差していた。外の日差しはジリジリくる暑さだった。ただ、林の木々から抜けてくる風は気持ち良かった。空気が澄んでいた。
 ふと、木の根元を見ると、蟻の群がるアブラ蝉の死骸があった。蟻の中でも一際体の小さな蟻達が、無数に群がっていた。この蝉の死骸は、蟻の食料になり、そして土に返るのだろうと隆は思った。
 食物連鎖。蟻の餌になる蝉の人生とは何だったのだろうか。今も周りは蝉の啼き声が響いている。蝉は何のために短い人生を掛けて、あんなに啼くのだろう。
 また同時に、さっきの祐太郎の灰を思い比べた。振り返ると火葬場の屋根の煙突が目に入った。祐太郎が昇っていった煙突だ。結婚することも子供を持つことも無かった祐太郎。それが人生の全てだとは言えないが、せめて土に返してあげるべきだったのではないか。食物の栄養にすべきだったのではないか。
 人だけ自然の食物連鎖から離れた所に居るのだと知った。なら、燃やされて土に返ることのできない人間は一体どこに居るのだろう。人は、自分達の作り上げた社会に、食物連鎖と同じような体系を作って、その中に居るようだと思った。こちらも食う食われるの食物連鎖だ。祐太郎は、誰のための栄養になったのだろう。
 俊作を大助の家に残して、隆とさなえは電車で家に帰った。電車の中で、隆はさなえに「人の人生とは何なのだろう」と訊いた。「何なのだろうね」とさなえも考えていた。電車は一駅一駅人を乗り降りさせながらゆっくりと進んでいった。家に着いた時にはもう夜も更けていた。
 家に帰った隆は、この日も公園で走った。夜の公園は蝉も啼いておらず、静かで涼しかった。
 夜になれば走り始める自分と、昼に啼いている蝉のことを考えると、トランプの表裏のようだと隆は思った。隆の走っている道は公園の木の深い所に入っていった。隆はずっと林の中に居たいと思った。






  エントリ4 修羅の国から Vol.1   国津武士


 夜の県道をサイレンを鳴らしながら、覆面パトカーが走る。
 逃げるワンボックスカーは、交差点に入る。そして、覆面パトカーの存在に気づかずに直進しかけた対向車両の前面を引っ掻けながら、右折していく。
 続く覆面パトカーも、対向車両の前面をこすり走り抜ける。対向車のバンパーが吹き飛び、路上に転がった。
「ノブさん、ぶつかっちゃってますよ、一般車両に!」
 助手席の若い刑事が、後ろを見ながら叫ぶ。
「気づいてる!」
 ハンドルを握る野辺敏也は怒鳴る。
「桐谷、ナンバー控えて、交通課に送っとけ!」
「あ、そか」
 桐谷順二は、内ポケットから携帯端末を取り出し、遠ざかる一般車両に向けてシャッターを切る。
「映画なら、タイヤ撃って停めたり出来るんですけどねー」
「それが出来たら、オリンピックで飽きるほど金メダルが取れらぁ!」
『封鎖完了しました!』
 無線機から声が聞こえる。
『ルート転送します!』
 車載ナビゲーションシステムの画面に、封鎖ポイントを表すマーカーが次々に現れる。
「四つ先の丁字路、ここを左折させれば投了です」
 桐谷が画面を見ながら言う。
「分かった」
 交差点を通過する。
「後三つ!」
 ワンボックスカーは、追われている焦りからか、右左折する余裕がなく、直進しか出来ていない。
「次です!」
 桐谷が怒鳴るのと同時に、野辺はスピードを上げる。
 対向車両にはみ出し、ワンボックスカーの右に付ける。
 ワンボックスカーは振り切ろうとするが、行く先が丁字路である事で思い切った加速が出来ない。
「歯ぁ食い縛れ!」
 交差点に突入しながら、覆面パトカーは急ブレーキをかける。
 右を塞がれたワンボックスカーは左折しようとするが、減速が足りずに道をはみ出し、歩道に乗り上げて電柱に突っ込んだ。

 県警の課長の机の前に、野辺と桐谷は立つ。
「――逮捕した仲買人をからの情報で、麻薬密売ルートのうちの一つが完全に浮かび上がった。これで南米系の麻薬の三〇パーセントがストップする」
 課長は笑顔で卓上端末に表示された報告書を見る。
「良くやった野辺、桐谷。特別に有給をぜんっっぶ使って良いぞ」
「休暇?」
 野辺は眉を寄せる。
「私の抱えている事件はまだまだ――」
「休み、た、ま、え」
 課長の笑顔は、引きつっていた。
「功績は認める。認めるが!」
 机を両手で叩く。
「公道でカーチェイスってなぁ! 新聞でどんだけ叩かれてると思ってやがんだ!」
「お言葉ですが」
「お前は犯人が逃げそうだったら銃で頭ブチ抜くのか!? 日本には日本のやり方がある、空気と刑法読め! それが出来ないなら、日本の国境の外側行ってやれ!」

 青空の下、大型客船『マナナン・マクリル』が進む。
 甲板に並ぶビーチチェアで、横になっていた野辺はあくび混じりに目を開けた。
 水着姿になると、がっしりした身体付きが強調される。
 傍らに置いた腕時計を見る。十四時二十四分。
「今頃……いや」
 呟きかけて、首を横に振る。
「頭も停職処分にしておこう」
「あなた」
 妻がやって来る。手には、オレンジ色の飲み物の入ったカクテルグラスをぎこちなく持っている。
「美佐江」
「また、お仕事の事、考えてたの?」
「つい、ね」
 野辺は苦笑いする。
 ビーチチェアには、他にも老若男女が思い思いに身を横たえ、過ごしている。豪華客船のような広さはないが、それが逆に賑わう浜辺のような温かさを感じさせる。
「まったく、熱心過ぎるのよ」
「何度も言われたよ」
「まあ、お陰で日本人にはあり得ないぐらいゆったりしたバカンスを取れるけど」
 妻は笑って隣のビーチチェアに腰掛け、カクテルを飲む。
「あ、おいしいわね、これ」
「なんていう酒だい?」
「知らないわ。前の人と同じのを貰ったのよ。香りはオレンジみたいね」
 妻が空いたグラスを日に透かす。
 高級品ではないが、よく磨かれたグラス越しに、濃い青空が広がる。そして、水平線にグラスを向ける。
 水平線に、ぽつり、と、小さい影が見えた。
「あら――」
 妻の言葉が途切れた。
「え?」
 野辺が妻の顔を見る。

 なかった。

 甲板に出ようとした老人が叫んだのと、周囲に血が飛び散るのは同時だった。
 頭のすぐ上を風が通り過ぎた。
 瞬時に伏せた野辺は、僅かに顔を上げる。
 水平線に見えた小さい影は、猛スピードで接近して来ている。
 エンジンを強化した高速艇だった。甲板に据え付けられた、船体に比較して不自然に大きなガトリングガン――M134・ミニガン――の砲口が光った。
 まるでレーザーのように光の筋を曳きながら、曳航弾混じりの弾は客船の甲板を貫く。
「海賊だ!」
 誰かの叫び声が上がる。
 客船の船員達は、手に手に小銃を持ち応戦を始める。
 だがミニガンの射程は桁違いに長い。
 船員達は次々に、文字通り粉砕される。
 野辺の目の前に、小銃が転がって来る。手首が付いていた。
「くっ!」
 野辺は小銃を手に取る。
「AK74、一九七四年製旧ソビエトのアサルトライフル……押収品を三度ばかり触った事があるな」
 高速艇は、海賊達の顔が分かる程に近付いて来ている。
 初老の男、若い女、子供を連れた船員、生き残った何人かは、船室に逃げ込む。
 野辺も船室の入り口まで一気に走る。だが、そこで足を停めた。
 暴風に耐える、分厚い鉄のドアに身を隠し、発砲する。
 海賊の一人が、つんのめる。
 高速艇のガトリングガンの銃口が光を曳いた。
 野辺は黙って下を見る。
 野辺の下半身が。

 なかった。

「ヒョォッ!」
 ミニガンを構えたまま、若い海賊が声を上げる。
「ハハッ! あんな薄っぺらいドアで隠れたつもりだったのかね!」
「油断するな、反撃がなくなったらすぐに乗り込むぞ」
 ヒゲをたくわえた痩せこけた男が指示を出す。
「リーダー」
 包帯の巻かれた右腕を押さえながら、小柄な男が船室の影から顔を出す。
「本当にやれるんですか? この数で」
 後に続く高速艇の数は七。各々に乗り込んだ海賊は一〇名前後だった。
「ヒャハッ! なんだウズ兄、一発カスっただけでビビッちまったのか!?」
 若い海賊がミニガンを掃射する。
「あんたが乗り込む頃には、敵は全員ミンチさ! 肉屋の倉庫が怖いってなら話は別だがよ!」
 また、客船の甲板の上で、血が霧のように飛び散った。

 客船に次々に高速艇が取り付き、海賊達が乗り込んで行く。
「――身代金の支払いと、沿岸警備PKFの出動自粛依頼を本社宛に送信した。十四時五十分までに返答がある」
 操舵室で、女の船長が海賊のリーダーに英語で答える。
 床には、通信士と船長以外の乗組員が後ろ手に縛られ横たわっている。
「結構」
 リーダーは、操舵室の奥のドアから、モニタルームを覗く。
「……第二船室の制圧が遅れてるな」
 リーダーは自分の時計を確認する。十四時三十二分だった。
「俺は制圧し切れてねえ場所の補佐に行く。身代金の支払いがあったら全館放送で知らせろ。時刻通りに支払いがされなかったら何があろうと全員殺せ。どっちにしろ、その後はすぐに撤退だ」
「分かった」
 ウズの右腕の包帯には、血の色が透けて見える。
「腕は痛むか?」
「どって事ねえよ」
「舐められたら、遠慮せず殺せよ」
「分かってる」
 リーダーはウズの左肩を軽く叩いて、操舵室から出て行った。
 ウズは操舵室の隅に固まっている船員達に、AK47の銃口を向ける。
(残り、十五分、か)
 ウズは引き金に指をかけたまま、声に出さずに呟いた。







  エントリ5 ラナ玉井とホワイトジャック   石川順一


  ストロボ城のラナ玉井には娘も二人居た。息子二人の方が目立って居たので、あまり広く知られて居なかったが、城の中ですくすく育って居た。
 隠し子と言う訳では無かったが、父親の違う異父兄弟だったので、娘二人は世を憚って城内でひっそり生活して居た。
 或る日城をヒトリ族とヨガリ族によって襲撃された。
 夜のうちに堀の水を抜いてから襲撃して来たので、跳ね橋を上げても効果が無かった。あっと言う間に城内に侵入され占領されて仕舞った。
 多額の賠償金を要求されたのでラナは資金繰りに困った。
 北洋にイッカクを取りに行く事にした。
 その為にイッカク専用に船を特注した。
 3億円かかったがしょうが無かった。
 そのかわりその船で昼も夜もイッカクをとりまくり100億円儲けた。
 船長には女だが腕の立つイッカク専門家の千田金子さんになって貰ってこれも大成功だった。
 「キンコさんやったね」
 「イッカクゲットだぜ」
 どうも金子さんはポケモンのファンらしかった。

 ヒトリ族とヨガリ族に対する賠償金が払い終わると、ラナはもっと娘にも広い世界を知って貰った方がいいのではと思う様になった
 ラナの二人の娘は姉の方は玉井麻衣子、妹の方は玉井玉子だった。
 「なんで私の名前が麻衣子なのよ、そりゃお母さんが伊藤麻衣子のファンなのは分かるんだけど、名字にも「まい」があるのに、まいまいこじゃないのよ。まいっOOぐ真知子先生みたいで、もうまいっOOぐ。」
 と不満を折に触れ言っては居たが、そう嫌いと言う訳では無さそうだった。
 玉子のほうも
 「もう、なんで「たまこ」なのよ。名字にも「たま」があるのに。これじゃこれがホントの金玉なんてからかわれたらどうするのよ」
 とこれもまた、不満タラタラだったが矢張り、めちゃくちゃ気に入らないと言う訳では無さそうだった。
 命名の不満はともかく玉井家は室町時代から続く名門の家柄で頭だけは抜群に良かった
 二人とも男子の名門東大にはそっぽを向かれたが、女子の名門西大にはトップの成績で合格した。
 卒業時の成績もトップで二人で卒業式の時には答辞を読んだ。
 企業に就職するのも詰まらんと言うので、本当は財閥のヨツイに採用通知を貰って居たのだが、丁重に断って自分たちで事業を起こす事にした。
 金貸し業がいいと言うので東京の渋谷で金貸し業をやる事にした。丁度そのころ兄貴二人もムショから出所して来たころで、二人にも協力して貰う事にした。
 「兄貴たちは取締役がいいよ。取締役に名前を連ねてよ」
 「いいよ。だけど悪用しないように」
 二つ返事でオーケイを貰ったが、これからが大変だった。
 商号は「ラスコーリニコフ」とし、利率は占いで決めると言うのは非常に受けた。
 ある時はみこさん、ある時は神父、牧師など、好みのコスプレと該博な博識に裏打ちされた占いが好評であった。
 コスプレは普段は玉子と麻衣子の好みで、オプションで希望のコスプレを要求するとチャージはゼロが余分に付くほど高かったが、結構好評で、オプションのコスプレは毎日のようにリクエストがあった。
 「玉子も麻衣子もやるねえ、勉強だけが得意の牛乳瓶眼鏡じゃ無かった訳だ。これで俺らについた不名誉な綽名「ムショノコウジ」も帳消しになるってもんだ」
 と兄貴1の稲荷は思った
 「やるねえ、玉井家の名誉は守られた」
 と兄貴2のロンドは思った。
 「イナリさんこれはひょっとするとひょっとするかもですよ。我が家の名誉が守られただけではなく、もしかすると」
 「ロンドさん、先走ってはいけない。せいては事をし損ずると申します」
 イナリとロンドは期待に胸を膨らせて過ごす日々となった。
 
 ところがである。玉子も麻衣子も激務に疲れた為か、癌になって仕舞った。
 一挙にやる気も失せて仕舞い、家でパソコンの無料動画を眺めるだけの日々になって仕舞った。
 母のラナも心を痛めた。どうにかならないか。世界中の名医を探しだしては高額な医者料をむしりとられるだけの時もあった。
 その中には噂の名医ホワイトジャックも居たのだが、彼ですらさじを投げて仕舞ったぐらい二人の癌は重かった。
 ホワイトジャックはあのスーパーでの伝説の治療事件以来、精力を使い果たしてしまったのだ。
 あの後は予定変更につぐ予定変更で世界中を駆け巡り、神経を使い果たして仕舞った。
 各界から引っ張りだこだったが、その事も彼の能力を使い果たす事に貢献した。
 玉子と麻衣子を治療する頃には、ほとんど廃人同然で彼の方が治療を必要とするぐらいだった。
 それでも何とか、治療しようと、頑張ったが、駄目だった。文字通りの一回限りの超人的なスーパー治療の為に彼は精神に異常をきたして居た。
 彼自身の方が治療が必要だったのだ。

 ラナはホワイトジャックに失望した。このこけおどしが、地獄に落ちやがれと散々呪いの言葉をはいて悪態をついた。
 「ホワイトジャックさん私はあなたに失望しました。どうしてくれるんです。治療代は返還してくれるんでしょうね」
 「そうおっしゃいますがお母さん、私だってつらいのです。わたしは、あの超人的な治療の後、訴えられましてね、しょば代を払えってんですよ。その為に治療費と相殺されて、私はもんなしかと失望したもんです。ところがです、事態はもっとひどかったのです。なんと私はあの超人的な治療の後治療費をとれなかったのですよ。治療費をとれなかったのにしょば代だけ請求されてふんだりけったりです。おかげであの年のクリスマスイブはすごかったですよ。クリスマスイブの前日つまり12月23日のクリスマスイブイブなんか、御笑いのライブにもうやけくそだってんで、行ったら、これがまた私の笑いの壺にはまっちゃって、失望して居る時は笑い易いのかなあと思いつつも笑いすぎちゃって、顎は外れるは翌日のクリスマスイブはやけ食いでファストフード食べまくったら食べ過ぎちゃって脱糞しちゃうしで、もう大変なんてもんじゃなかったのよ」
 ラナはとてつもなく失望した。こんなつまらないプライベートな話を顧客にするとは。
 「私はですねえそんなつまらない話を聞きに来たんじゃないんですよ」
 「分かってます。勿論、策はあります」
 「だったら、何故早く本題に入らない」
 「ふふうふ、私だって生活があるし、妻子が居るのです」
 「たばかったわね、だったら猶の事、洗い浚いしゃべって楽におなりなさい」
 ホワイトジャックとラナは目と目をむきあわせ、真剣に見つめ合った。
 果たしてホワイトジャックに本当の良策があるのだろうか。






  エントリ6 紙折りの富子さん 1   ごんぱち


 玄関に入ってもただの農家にしか見えなかった。
「いやぁ、こんなべっぴんさんが雑誌記者とは、本当、時代は変わって行くもんだね」
 宿の女将は、半月分の宿賃を受け取りながら、笑顔で児玉富子と日野彩世を迎える。
「ご厄介になります」
 富子はふわふわした笑みを浮かべ、ハンチングを押さえたながらお辞儀をする。
 長い髪が肩から頬にこぼれる。
 年の頃は十六、七。少々目尻の下がった大きな目、控えめな鼻、乱れなく歯の並んだ口、シミ一つない肌。すらりとして男よりも背丈があり、ジャケットにズボンの洋装がよく似合っていた。
「よろしくお願いします」
 彩世も頭を下げる。歳は十歳ぐらい、おかっぱ頭で、勝ち気そうな目をしている。
「あら」
 挨拶を終えた富子が、ふと顔を上げる。廊下の曲がり角の向こうから、坊主頭の少年が覗いている。
「息子さんですか?」
「ええ……こら、重治郎、きちんとご挨拶なさい!」
 女将に怒鳴られた少年は数歩近寄ったところで止まり、そして。
「き、客とるなら、よそへ行ってやれ! うちでやるな!」
 怒鳴るなり、走り去って行った。

「あのガキぃいいい!」
 二階の部屋に案内された彩世は、憤怒の表情で柱を連打する。
「芸妓呼ばわりなんて、今に始まった事じゃないでしょ、ふふ」
「でもでも、せっかく、姉様があたしたちを」
 富子はジャケットの内ポケットから、竹筒を取り出した。片側はコルク栓で塞がれ、太さは男の親指ほどで、水筒として使うには細すぎる。
 竹筒の中から出て来たのは、紙だった。三寸四方ほどの白い正方形の紙が十数枚、筒に丸めて入れてあった。
 富子はその紙を折り始める。
 繊細に動く指先は、折り筋のズレを一切出さない。
 間もなく折り鶴が出来上がった。
 富子は折り鶴を宙に放る。
 折り鶴は一瞬のうちに小さな鷺の姿に変わり飛び始める。もう一羽、またもう一羽と折られて行き、たちまち鷺の群が現れ、彩世の周囲を飛ぶ。鷺は飛びながら、隊列を扇のように開いたり閉じたり。それから宙返りに急降下、急上昇から高速のすれ違い。
 彩世はいつの間にか鷺の曲芸飛行に見入っていた。
「うふふ、機嫌、少し治ったみたいねぇ?」
「あ、いや、姉様! 四方式を玩具にしちゃダメでしょう?」
「玩具じゃないわよぉ」
 にこにこしながら、富子は窓の障子を僅かに開ける。
「よろしくね、七の式さん達」
 鷺は次々に外へと飛び出して行った。

 数日が過ぎた。
 収穫が終わったナス畑には、小さな足跡が幾つもある。子供達が遊んでいた跡だった。
 泥だらけの着物を着たまま、畑の畦に腰かけ、ぼんやり草鞋を見つめていたのは、重治郎だった。
 一匹の三毛猫がのんびりと歩み寄って来る。
「またお前か」
 猫は座っている重治郎の太腿に頭と身体をこすりつけてから、尻尾を絡める。
 重治郎が胡座をかくと、猫は組んだ脚の上に乗って丸くなった。
「……宋八のヤツ……はぁ」
「溜息をつくと、幸せが逃げるらしいわよぉ」
 びくっ、と身体を震わせ、重治郎は声の方を向く。
 富子だった。
 猫を七匹ほど従えている。
「あ……あんた」
 重治郎は口ごもり、俯く。
 沈黙が流れる。
「西南戦争でね」
 最初に口を開いたのは、富子だった。
「私の家は、西郷側――賊軍だったの」
 僅かに重治郎は富子の顔を見る。
「父上は、よく大将の西郷隆盛さんの話をして下さったのよぉ」
 富子は遠くを見つめるような目をする。
「大きい人だったって。もう本当に大きくて」
 風が通り抜ける。
「人間の頭ぐらい大きかったそうよ、金玉が」
「……は、玉?」
 傾きかけた日は、僅かに赤みを帯び始めていた。
「ははっ、ごめんなさいねぇ、古い話に付き合わせちゃって」
 富子は立ち上がる。
「そろそろ寒くなるわ。日が落ちる前に帰った方が良いわよぉ」
「っと待て! なんか、いい話した後っぽい帰り方するな! おいこら!」
「またねぇー」

「――三顧の礼ってのはあるけど、もう五日目じゃん、姉様!」
 彩世は思い切りむくれた顔で歩く。
「式で家の中なんてすっかり見れてんでしょ? もう取材なんてしないでそのまま書いちゃえば良いんじゃない?」
「そういう訳には行かないわねぇ。許可は貰っておきたいし、盗み見じゃ引き出せない話もあるわ」
「それにしたって、五日も無駄足で」
「大丈夫よぉ」
 富子は笑う。
「周りの人たちとも仲良しになって来たし、巳之助さんも大分揺らいで来たみたいよ。今も、派出婦さんと相談してるわ――あら」
 富子の笑いの質が変わる。
「どしたの?」
「後三日来るようなら、会うだけあってやろうかな、だって」
「……三日もぉ?」
 うんざりした風に、彩世は肩をすくめる。
「目標が定まればどうって事ないわ。月旅行だって、行き先が月って分かっているから出来た訳だし」
「姉様、現実と小説と混同しないで」
 二人の上空を鷺が旋回していた。
「そうだ」
 ふと、富子は足を停める。
「忘れ物してたわ。彩世ちゃん、先に帰ってて?」
「え? まあ……いいけど、また?」
 宿へ帰って行く彩世を見送ってから、富子は今来た道とは違う路地に入って行った。

 夜の星は消え、ようやく山の間から陽光が射し始めていた。
「取材のし残しはないのかい?」
 涙ぐみながら、女将は尋ねる。
「お陰様で、たっぷり取材出来ました」
 富子はリュックを揺すって見せる。
「ほら、取材メモと原稿がこんなに」
「そうかい……」
 富子は女将の両手を握る。
「お身体に気を付けて。たまには日に当たる事も、膝の痛みには効果的ですよぉ」
「あらまあ、そんな事も気付いてたのかい? 心配してくれてありがとう」
 二人は宿を離れ、建物の多い町中から離れ、畑を抜け、道は荒れ始め、少しづつ山道に近づいて行く。
「姉様?」
「なあに?」
「宿の子とよく会ってたみたいだけど、何かあったの?」
「あの子が私たちに言ったような事を、友達があの子のお母さんに言った、それだけ」
「……ええと、何か言われたっけ?」
「そ。その程度」
 日が昇っていく。
「多分、私が関わらなくたって、仲直りが昨日が今日になったぐらいの違いしかなかったでしょうねぇ」
「あたしには話が切れ切れで、全然よく分かんないんだけど」
 日は昇り続け、二人の行く手には、長い影が伸びていた。

「いい部屋ですね」
 窓縁に腰かけ、熟年の男が外を眺める。
「いやぁ、見晴らしだけは良くってね」
 恥ずかしそうに女将は笑う。
「東京から来られた人には退屈でしょう?」
「そうでもない」
 冬の夕暮れの風を頬に受けつつ、男は目を細める。
「じゃ、布団敷きますんで」
 女将は畳の上に置かれた男の荷を隅に寄せようとする。
「あっ」
 杖を持とうとした女将は、取り落とす。
 床に落ちた杖は、中途から外れ、刃が見えた。
「廃刀令には、違反せんのですか?」
「ははは、まあそうなんですがね」
 男は仕込み杖を拾い、柱に立てかける。
「守衛という仕事柄、これがないと不安で仕方ないんですよ」
「お武家さんというのは、そういうものなんですかね」
 女将は釣られて笑った。
 再び男は窓辺に腰かけ、庭を眺める。
 庭では、重治郎達が遊んでいる。
「見事ですね」
「はい?」
「ご子息の持っている折紙。この距離からでも、トンボとはっきり分かる。子供ながら、大した腕だ」
「いやぁ、まさか! 大方、誰かに貰ったんでしょう」
「ふうん」
 男はじっと少年を見つめていた。
 その目は冷たく鋭く、幾許かの殺気すらこもっていた。








QBOOKS耐久3000字トップ