500字挿し話バトル
  挿し絵を彩る挿し話 500字のメッセージ。

第3回 500字挿し話バトル

  • 小説・詩・随筆など形式は自由です。
  • 投票締め切り: 2011年 3月31日(締め切りました)

    結果発表ページ

課題絵(クリックで拡大します) 課題絵
(Illustration: 塔南光器)
綾田 周
夢見るサカナ

「俺、最近、めっちゃ変な夢ばっか見るんよ。なんちゅうか……こう、泳ぎまくってる夢なんよね」
タカオが言った。口が尖っている。不満がある時の彼の癖だ。
「お前、魚顔やしな」と言ってやると
「そのコメントが何の気休めになるっちゅーねん」
タカオが僕の脇腹を攻撃してきたので、僕は『イナバウアー!』と叫びながらタカオの肘鉄をかわした。タカオの攻撃パターンはいつも同じだから避けるのは簡単だ。

僕らの心は躍っていた。なんせ明日からは夏休みだ。はしゃがない中学生がこの世にいる筈がない。

「まぁ、ええわ。明日とりあえずお前ん家に行くからなぁ」
そう言ってタカオはバイバイした。去り際の横顔まで魚に見えたので僕はにやけて手を振った。

しかし、この日が僕たちの最後の日になった。この直後、タカオは交通事故で死んでしまったのだ。

タカオの葬儀は近所の寺で行われた。僕は周りのすすり泣きに耐えきれず、寺の庭へ逃げ出した。

(タカオ…冗談キツイよ)

ポッチャン。

突然水しぶきが上がり、僕の服を濡らした。
池の魚だった。

お気に入りのポロシャツの脇腹にシミを付けた魚は満足げに尾をなびかせると、水中に消えた。


「イナバウアー」


口にすると、涙が溢れた。




千早丸
夢見て跳ねる

 いつも同じ場所で魚が跳ねるのよ。
 川の縁に古い柳があってね、枝先が川面まで垂れてて、そこで魚がバシャッて、けっこう大きいから重い音。
 最初は音が気になって、しばらく見てたら正体が魚。なんだぁって思ったんだけど、翌日も、その次も、けっこう続いてたな。
 どうして同じ場所で、ひょっとして同じ魚? とか気になり出すと止まらなくて、調べてみた。
 餌の虫を取る為だったり、産卵期の習性だったり、意外と跳ねる魚って多いけど、明らかに種類が違う。
 どうして跳ねるのだろう。魚にとって水の中の方が居心地もいいはず。それなのに全身をうねらせ息も出来ない空へ飛び出し、何をしてるの?
 どうしても分からなかったから、人に聞いてみた。大抵は「わかんない」で終わったけど。
「知らないわよ」
「あなたヒマね」
「石でも投げた?」
「気にするだけ無駄」
「小野道風みたい。魚じゃ無理でしょうけど」
 知らない、無駄、無理。これで終わり。
 いつの間にか柳が伐られて、魚も見なくなった。

 だから私も、無駄なコトは終わらせることにした。

 でも確か1人だけ違うコトを言ったような……思い出せない。
 今更だけど、どうしても気になる。
 もう遅いのに。


小野道風(おの の みちかぜ)
 平安時代の能書家(書の名人)
「蛙が柳へ飛び付くのを見て努力の大切さに目覚めた」の逸話あり。
 逸話の元ネタは江戸時代の浄瑠璃らしい?


水の空

「絵」は案外、季節に左右される。
 例えばこの絵、画面一杯に水面が描かれ、変化と言えば画面隅の小枝と魚が一匹位なもの。この絵を春ならば雪解け、夏はせせらぎ、秋は物悲しさを感じるかも。
 しかし、真冬に見るのは頂けない。いかな暖房のきいた美術館でも、コートが欲しくなる寒々しさだ。しかも40号の大きさに描いているのは青い水ばかり。題名も絵と関係ない「朝」とあり、意図が分らない。館長は何を気に入って駄作を東の回廊なんぞに飾るのか。大きな窓に面したそこは、いっそう寒い。
 そう思って早々に踵を返そうと、したのだが。
「ママ、空だよ!」
 足元から歓声が上がる。見ると、五歳くらいの子供が顔を輝かせて、
「空の波!」
 母親らしい女性がすぐに「すみません」子供の手を引き「黙りなさいっ」怒りながら行ってしまった。
 見送って、絵に向き、あぁ、なるほど。
 空だ。
 夜明けの深い藍色と日の透ける青が、せめぎ合って水面を揺らしている。
 水が青いのでなく、空の蒼を映している。揺らめく波は「朝」という「時間」を閉じ込めた。
 ああ、こんな。いったい何を見ていた?
 先入観、優越感、見下し決めつけ、それなのに、この絵は、美しかった。


付記: 改稿-01(2月25日)


植木
これから

 浮気がバレた。魔がさしたとしか云いようがない。
 女房は背をむけて洗い物なぞをしているが、オレはその間合いにうっかり入ってしまったのだ。「さあ、風呂にでもはいってこようかな」なんて、結婚してから一度も口にしていない台詞をオレは何気なく呟いてしまった。マズい。瞬間、背中を冷たい汗が流れたが、しかし、そこはそこ、何気ないフリを装いオレは風呂場へとむかった。
 それにしてもだ、浮気も今度で四回目。女房のもあわせれば七回目だ。いくら魚心あるところに水心ありと云ったって世間じゃマトモな夫婦と見てはくれまい。共働きだと云ってもお互い別れられるほどの金があるわけじゃないが、浮気するぐらいの小金を持ち合わせているのがよくないのかもしれないな。またそんなことを考えつつ丁寧に摩羅を洗ってから湯船に浸かる。ああ、地獄の釜も極楽だ。
 風呂からあがるとテーブルの上には冷えたお茶と新聞が並んでいる。女房はもう床に就いたらしい。新聞を広げれば、こんな日に限って「主婦が夫を殺害、度重なる浮気が原因か」なんて見出しが躍っているのだから始末が悪い。そうこうするうちに奥で女房が軽い咳払いなぞを始める。
 ははん、呼んでやがる。



お魚は電気クラゲの夢を見るか?

 今月の課題絵はパンダと予想していたが、魚だった。魚について無知なので非常に困った。そこで、いいネタを探しにネットを徘徊していると“さかなクン”が実は結婚していたとか子供がいるとか、そんなエサに逆に釣られてしまうのであった、ギョギョ~。
 さて、ひとしきり泳いでみたところで見つけたのは魚の痛覚問題と云うやや微妙なお話である。
まあ、これは読んで字のごとく魚が痛みを感じるか否かと云うことなのだが、科学・非科学ひっくるめて「ないない派」と「あるある派」に分かれてカンカンガクガクと日夜討論に明け暮れている問題なのですよ。
 現時点では、魚には外的刺激を感知する神経がないので痛みを感じない、と云うのが科学的通説になっているらしいが、いやいや見つけましたよと云う研究者も一部には存在するらしい。実際、「ないない派」の主たる主張はこの科学的根拠により、一方、「あるある派」は釣りや生き造りなどに対してその残虐性を糾弾し「魚のきもち」を重視することによって痛みの概念を魚から引き出そうと云うスタンスをとっているようだ。
 この問題は500字で伝えられるものでもないので、実際、自分でいろんなサイトを見てくださいね。



 
小笠原寿夫
河川

 雀が群れをなして飛んでいる。
 猟師は、それに狙いを定め、鉄砲を弾く。音と共に地面に吸い落ちる一羽の雀。猟師は、雀の落ちた所に駆けつける。静かに拾い上げると、一軒の瓦葺きのこぢんまりとした家へ持ち帰る。
 雀の肉は焼いても煮ても喰えないが、毛は短く硬く針になる。
 雀の毛を剥ぎ取ると、一本、また一本と劍を作っていく。劍を折り曲げ、形作り、糸に付けると、落ちている蠅を集め、川柳に向かう。
 笹を釣り道具に、糸を垂らす。暫し待つこと二刻半。竿の先がピクッと動けば竿を引く。

 一方その頃、大海では、活きのいい鮭が河川の上流に向かい、泳いでいる。産卵のため、必死で泳ぐ鮭の姿は、とても清廉だ。岩や石に、卵を産み落とす雌の鮭と、種を巻く雄の鮭。どちらも子孫を残そうと躍起になっている。
 身震いしつつも種を巻く雄の鮭が生き絶える。雌の鮭が餌を見つけ、それを目指して、泳ぎ切る。口に何かが引っ掛かったかと思えば、グルグルと目が回る。
 ぴちょんと上がった空を見上げると、雀が群れをなして飛んでいる。

 川柳の畔で収穫を待つ猟師は、舌を打ちながら、
「ちっ、またしくじったか」
と空の魚籠を片手に、家路に着き、また腹を空かす。



 
石川順一
魚とヒトラー

 私は魚の首を刎ねた。当然だ。私の女に手を出したからだ。
 そこでヒトラーに電話した。
 「どう思いますか」
 「そうだね、自分の女に手を出したんだもの。首ぐらい刎ねるさ」
 ヒトラーは首肯してくれた。
 「ところで君は今般ズデーテン地方をドイツ国へ編入するそうだが」
 「それなんだよね、一生に一度の大ギャンブルだよね」
 私は無性に笹が食べたくなった。川辺だけに生えると言う川辺笹をだ。幻の川辺笹を食べれば200年生きられる。
 「ヒトラー君に調達して貰いたいんだが、頼まれてくれんかね」
 「私は川恐怖症でね。川だけには近付けんのだよ」
 「そこを何とか。君の部下のヒムラー君とか、ゲルデラー君とかに頼んでさあ」
 「ゲルデラーの名前を出すんじゃない。きゃつは裏切り者だ」
 北上の岸辺目に見ゆ~柳目に見ゆ~泣けと如くに。私は石川啄木の短歌を独りごちた。
 そしてヒトラー君君の一生に一度は何度あるんだいと独り言を呟いた。
 私は五条川で鯉が跳ねるのを見た。川が涸れて居る。冬の為なのか。春になると元に戻るのか。私は言い知れぬ不安を抱えたままヒトラーにかけた電話を切った。