いつも同じ場所で魚が跳ねるのよ。
川の縁に古い柳があってね、枝先が川面まで垂れてて、そこで魚がバシャッて、けっこう大きいから重い音。
最初は音が気になって、しばらく見てたら正体が魚。なんだぁって思ったんだけど、翌日も、その次も、けっこう続いてたな。
どうして同じ場所で、ひょっとして同じ魚? とか気になり出すと止まらなくて、調べてみた。
餌の虫を取る為だったり、産卵期の習性だったり、意外と跳ねる魚って多いけど、明らかに種類が違う。
どうして跳ねるのだろう。魚にとって水の中の方が居心地もいいはず。それなのに全身をうねらせ息も出来ない空へ飛び出し、何をしてるの?
どうしても分からなかったから、人に聞いてみた。大抵は「わかんない」で終わったけど。
「知らないわよ」
「あなたヒマね」
「石でも投げた?」
「気にするだけ無駄」
「小野道風みたい。魚じゃ無理でしょうけど」
知らない、無駄、無理。これで終わり。
いつの間にか柳が伐られて、魚も見なくなった。
だから私も、無駄なコトは終わらせることにした。
でも確か1人だけ違うコトを言ったような……思い出せない。
今更だけど、どうしても気になる。
もう遅いのに。
小野道風(おの の みちかぜ)
平安時代の能書家(書の名人)
「蛙が柳へ飛び付くのを見て努力の大切さに目覚めた」の逸話あり。
逸話の元ネタは江戸時代の浄瑠璃らしい?
「絵」は案外、季節に左右される。
例えばこの絵、画面一杯に水面が描かれ、変化と言えば画面隅の小枝と魚が一匹位なもの。この絵を春ならば雪解け、夏はせせらぎ、秋は物悲しさを感じるかも。
しかし、真冬に見るのは頂けない。いかな暖房のきいた美術館でも、コートが欲しくなる寒々しさだ。しかも40号の大きさに描いているのは青い水ばかり。題名も絵と関係ない「朝」とあり、意図が分らない。館長は何を気に入って駄作を東の回廊なんぞに飾るのか。大きな窓に面したそこは、いっそう寒い。
そう思って早々に踵を返そうと、したのだが。
「ママ、空だよ!」
足元から歓声が上がる。見ると、五歳くらいの子供が顔を輝かせて、
「空の波!」
母親らしい女性がすぐに「すみません」子供の手を引き「黙りなさいっ」怒りながら行ってしまった。
見送って、絵に向き、あぁ、なるほど。
空だ。
夜明けの深い藍色と日の透ける青が、せめぎ合って水面を揺らしている。
水が青いのでなく、空の蒼を映している。揺らめく波は「朝」という「時間」を閉じ込めた。
ああ、こんな。いったい何を見ていた?
先入観、優越感、見下し決めつけ、それなのに、この絵は、美しかった。
付記: 改稿-01(2月25日)