Entry1
料亭宇田川の茶懐石
榎生 東
「僕は茶懐石は今日が初めてです」と、杉浦が言った。
「頼まれりゃ茶室の設計もやるだろうに、デザイナーってのはそんなことで商売が出来るのか、ワイン飲んで横飯喰らうだけじゃ、世の中の美味いものを半分捨てるようなもんだ」
この程度の太田垣の悪口は屁でもない。杉浦はもう慣れっこなのである。
「お言葉に甘えて、今日は、茶懐石を堪能させていただこうと、仕事を放り出して馳せ参じました」大野は滝本を前に適宜な挨拶だった。
料理を堪能すると言うが、大野等の狙いが軽井沢にある事は誘われたとき既に、滝本は直感していた。
(百歩譲って持ちつ持たれつなら組む手もあろう。だが、喰われるとなれば話は別、ゼネコンだろうが銀行だろうが、勝手にはさせぬ。不肖滝本修治、喰うことはあっても、心中するとも、タダで喰われることは断じてない)と、肝に銘じている。
両刃の太田垣とは本音では誰もが縁を切りたい。その力を借りた報酬として、その都度多額な金子を取られるとしても、後は他人でありたい。
だが、太田垣は一度掴んだ獲物は逃がさなかった。彼を頼った人々はその後もずるずる引きずられ、いろいろな名目で小金をむしり取られている。滝本は後に、彼の常套手段である強請の禁じ手を逆手に取り、縁切りに成功するが、太田垣のアキレス腱を急襲する以外に彼から逃れる方法はなかった。
給仕口の襖が開かれた。
宇田川は両膝の前に指を揃え静かに浅礼をした。
「ご亭主、紹介しておこう、こちらが日本インスツルメントの滝本社長、鹿島工務店の大野副社長、東洋美大の杉浦先生」太田垣は大きな手を広げて指し示した。
「宇田川でございます」ご亭主は今度は仰々しく総礼をした。
「今日の座敷は本来わしが亭主なのだが、茶懐石をみんなで楽しんでいただくつもりだ、適当に運んでくれ」
「承知いたしております」と、滝本に折敷を手渡す。
滝本は両手で受けた折敷をそのまま前に置いた。
ご亭主は後の者に順に手渡すと、
「どうぞ、お召し上がり下さい」と言って襖を閉めた。
向付と汁椀と飯椀が、折敷の中に三角形に置かれ、箸が右の縁に架けられている。
太田垣は左手で、飯椀の蓋を、右手で汁椀の蓋を同時に取り、汁の蓋を飯の蓋にかぶせて、折敷きの右側に置いた。
初めて見る茶懐石の作法に、滝本は苦痛さえ感じている。
大野が箸を取った。
柔らかく炊かれた飯を、一口食べ、三州味噌の香るじゅんさいの汁を一口飲んだ。
汁には水からしが落とされていた。
大野は飯と汁に蓋を戻した。使った箸は、折り敷きの左端に口を付けた先を出して置く。
(なるほど、一々蓋をするのか)滝本は極度に緊張した。が(どうって事はない、飯を食うだけの事だ)と、開き直る。
大野に習い、箸を取って飯を口に運ぶと、緊張が解け始めた。自分を取り戻した。茶室が見えてきた。
滝本に習って杉浦が続く。
倉井は心得があるらしく箸の運びが自然だ。
料亭の料理は酒を美味く呑む料理で、飯は最後に漬け物でいただく事になっているが、茶懐石は初めから飯と汁がでた。
「一汁三菜は、本膳料理に精進料理の侘びを求めて創られている」太田垣が箸を置いて言った。
しかし、具をみると獣肉魚鳥を避ける料理ではない。
「季節感を大切にしますね、材料を吟味して素材を生かす味付けをしていますよ」茶懐石は日本料理の真髄だと大野は言う。
太田垣がズルズルっと音を立てて汁を飲み干した。
(これも作法か……)滝本には嫌な音だった。
これをあいずに倉井が酒を注ぎ始める。
滝本から順に注いで回り、もう一度滝本の前に来て、銚子を預けた。
大野は酒を飲んだ盃を、向付けの右隣に置き、鯒に箸を付けた。
明るいトルコ青の舟皿に、鯒の湯引きが盛られている。
さんごのり、柴芽、ピンクの小さな花穂の紫蘇と茗荷があしらわれていた。山葵と梅肉でまったりした柿色の、かげん醤油をつけていただくのだ。
「うまい!」大野が思わず声をあげた。
「宇田川は元料亭福田の板長だ、美味くて当然さ」太田垣が声を落として教えた。
「福田の板長でしたか、流石ですな。お口に合いますか?」滝本に向かってつい口が滑った大野に戸惑いが見えた。
「はい」
「合うに決まっとる」滝本より太田垣が引っ掛かった。
「ええ、美味しいです」大野の口を吐いた目下の者に対する言葉使いに気付いたが、滝本は素直に答えた。
「今の福田にはこれといった料理はないが、晩年の先代が、板場を宇田川に任していた頃はよかった。それが、事もあろうに、先代が亡くなった時に、女将が男前の若いのを板長にしたものだから、宇田川は飛び出してしまった。腕の良さは知られていたから、引く手は数多だったが、意地もあったのだろう、仲居頭と一緒になって料亭宇田川を開いた。敷地が三百坪もあるこの屋敷を買い取ったんだ。銀行は宇田川の腕を見込んで金を貸した。朴訥な男だがやる事はドラスチックだ」
再び襖が開かれた。
「ご飯をどうぞ」と、ご亭主がお代わりの挨拶をする。
太田垣の前に飯器を置いたご亭主が、
「よそいましょう」
「どうぞ、おまかせを」
太田垣は飯器を受け取って膝の上に抱き上げる。
自分の椀に飯を盛って滝本に手渡す。
「左手に抱えて、私のように盛りなさい」小声で教える。
滝本は太田垣を見習って一文字に盛る。
「盛ったら渡しなさい」太田垣は手取り足取り教えた。
滝本は飯器を大野に手渡した。
この間に、ご亭主は滝本の汁椀を持って行き、直ぐに汁を持って引き返し、今度は太田垣の汁椀を持ち帰った。同様にお代わりの汁を運んで、最後に空の飯器を下げて行った。
次に、椀盛りと、四人分を一緒に盛りつけた焼き物が運ばれた。
ご亭主は滝本の椀盛を丸盆に乗せて運び、後は長盆で一緒に運んだ。
「冷めないうちにどうぞ」
ご亭主の言葉に従い、直ぐに平椀の蓋を取る。
鱧の葛たたきに、熱いすまし汁が張られていた。
汁を一口味わう、柚の香りに包まれる。
鱧に箸をつける。葛がとろむ鱧の舌触りが、量感を口の中に感じさせた。
「黒の平椀に、細い沈金の流れる線模様、透明感のある葛の汁、白い鱧、その上に緑の柚の細切り、土色の牛蒡につる葉の濃緑が添えられる。華やかなれど、静かな深みを覚える。これぞ和の美意識です」と、杉浦が悦に入って表現した。
「どうだ杉浦先生、縦飯も悪くあるまい。茶懐石は料理だけではない、閉めた襖を再び開ける間、料理を運ぶ間に、最大の気を使うんだ。これが、本当のもてなしなんだ。早過ぎては客を追い立て、遅すぎては席がだれる。微妙な呼吸に全神経を集中する。もてなしの大切さ、難しさだ」
太田垣が蘊蓄を披露した。
「客も料理の向こうの心を感じていただく、これが大切ですな」と、滝本を覗き見る。大野はこうして時折滝本を注視した。が、それ以上のことはなかった。
「忙しい時間を割いてでも、料理人は様々なジャンルの客と触れあい、嗜好の変化を感じて自分の味を変える。変える勇気を持った上で、守り続けるものは頑固に変えない。一流の料理人であり続けるには、俎板を離れた修行が大切なのだ」太田垣は専門家としての片鱗を垣間見せた。
「言うは易く行うは難しですな」大野と二人の掛け合いだった。
初めて知る食の文化に滝本は一層寡黙になった。
倉井が二献の酒を注いで回る。
「女将は福田の仲居頭でしたか、言われてみれば、福田の座敷で記憶がありますな」大野は思い出すように言った。
「惚れた同士だ」
この座敷が仕事の場である事は宇田川の女将ですら承知している。
男たちは仕事で飯を喰っているのだ。
滝本は太田垣の狙いは察しがついていた。が、誰も仕事を口にしない。駆け引きは当たり前、腹の底は見せない。
(設計は太田垣の顔で杉浦で良い。事業資金融資が絡む建設工事は金融機関の意向を無視できない)銀行は融資にゼネコンの導入預金を、滝本は工事完成保証を取り付けたいと望んでいる。
「高級料亭の料理が美味いからと、吉兆や金田中に食事に行く奴はいやしない。料亭は政治家や財界人などが、卑劣な裏取引の内密の場に利用するのが本筋だ」太田垣の言葉に、
「仰るとおりです。私らゼネコンもダーティな利用をする張本人です」大野が嘆いて見せた。
「料亭は料理だけじゃ駄目なんだ。外部を遮断する豪壮な建物と信用が売りなんだ。料亭は主の一代のセンスで築かれるものと言っても過言ではない。創業以来の危機を大衆化で食い繋いだ京都の老舗の料亭もある。そもそも二十歳過ぎまで大学で遊んで『はい、二代目で御座います』と、出来る商売じゃないんだ」
「昔から大阪や京都には料亭や割烹が沢山ありますけれど、消えていく店もあるのでしょうなあ」
「明石から播磨灘にかけて魚介類がふんだんに揚がるから出来たのだが、何の商売でも永く続けるのは難しい」
襖が開かれた。
「どうぞおとりまわして下さいまし」ご主人が強肴を太田垣の前に置いた。
手書きの鹿の絵の染め付け皿に焼きものが五切れ、一緒に盛られている。
「鱸の塩焼きだ。白身に青竹色をチョロっと垂らしただけだが、たで酢はたでの葉に白飯を少し加えてすり鉢ですり、裏ごしにして二割酢のだし汁で少し濃いめにのばしたもので、手が込んでいるんだよ」太田垣がご亭主に代わって説明し「器を暖めてある」と言った。
水に濡らした両細箸で太田垣が一切れ取り、以下順に取り分けられた。「瓢亭など自らを料亭と称していますがあれは料亭じゃないでしょ」
「瓢亭の朝粥は本当に朝しか食べられないそうですね」滝本も瓢亭の朝粥は知っていた。
「祇園で朝まで遊んだ旦那衆が、お屋敷に帰る途中、南禅寺の門前の茶店を叩き起こして腹を整えたのが始まりだよ。銀座の帰りに杉浦大先生とホステスが腹ごしらえする赤坂のラーメン屋と同じでござんす」太田垣の冗談は言い得て妙だった。
「まあ、料理は割烹で料亭じゃないですな」大野にも一家言あった。
「今年の春、我々の仲間が七にんが七つの茶室をデザインして、ニューヨークで展示しました。宗家の三男坊が企画したのですが、現地では大変な好評を頂きました」杉浦は本題に繋げようとするのか、自らの仕事を話題にした。
宗家の機関誌『枯淡』の発行責任である三男坊は杉浦と同期であった。
家元は長男が継ぎ、次男以下は宗家の関連会社に従事させる習わしになっている。不祥事を起こし、宗家が巻き込まれるのは勿論、非難が及ぶ事も避けるためだ。
「ニューヨークですか」滝本が関心を示して杉浦は気が入った。
「外人には躙り口が窮屈ですから広くしたり、正座も駄目ですから、掘りごたつ式に亭主の側の床を落とし、テーブルでお茶を頂く様式にしたりして」
「そんなもの茶室じゃない」太田垣は一言で切り捨てた。
「アルミの柱とパネルに、透明度の高い和紙を貼って造りました。露地の飛び石なども、ポリでコーティングし白モルタルを塗って、バリアフリーにしました。外人は日本のお年寄りみたいに飛び石に躓きますから」杉浦は太田垣に構わず滝本に語りかけた。
「茶室は精神性の高い空間で、禅の思想を根底としているんだぞ。くだらん事をするな、宗家自らが茶事の精神性を否定するものだ」太田垣は本気になっている。
「茶に対する価値観によって変わるとしても、茶事をする空間なのだから、自ずとルールはあるだろうな」大野は柔らかい口調で取りなした。
「そんな事じゃない、人間の原罪を顧みる精神を具現化した苫屋、それが茶室だ。アルミだのモルタルだのバリアフリーだのと茶のなんたるかも判らんで、冒涜するのも甚だしい、怪しからん」太田垣は顔を赤くし、目を剥いた。
襖が開かれた。険悪な空気が入れ替わる。
「ごゆっくりお召し上がりください」と、ご亭主が鉢肴を太田垣に預けた。
ブルーの切りガラスの鉢に、冬瓜と小茄子に、車えびの叩き寄せを盛り合わせてあった。
極細に刻んだ柚の皮が添えてある。
「小茄子の茶筅の切り目に料理人の丁寧さが現れている」小茄子に箸をつけた太田垣が板場を褒めた。ケロッとしている。太田垣のいいところだ。
「えびの香ばしいだし汁がよく浸みている、美味いなあ」大野は小茄子を一口に頬張っている。
「色がいい、エビ団子の赤と紫の取り合わせが鮮やかです、切りガラスのブルーも涼しい」杉浦も色彩のコントラストを楽しんだ。
「この冬瓜、なかなかの食感ですよ」珍しく倉井が口を挟んだ。
茶懐石は大野を相手の太田垣の独壇場であった。
作法に疎い事が仕事の立場をも悪くするのを滝本は懸念していた。
美味いの不味いのと食べ物に拘るのを生活信条として嫌う滝本だったが、仕事となれば茶懐石でも居酒屋でも料理や酒で男を下げてはつまらない。滝本は下手な信条は捨てねばと考えた。
それにしても、軽井沢のカの字もでない。杉浦の話は本題に繋げる仕事の話ではなかったのか。
襖が開けられた。
「不加減で失礼致しました」ご亭主が給仕盆に箸洗いを乗せて入ってきた。
箸洗いを滝本の前に出して空になった器を下げる。後は長盆で残りの箸洗いを配り、空の器を下げた。
続いて、八寸の四方盆を左手に持ち、右手にお銚子を持って来た。
三献の酒は太田垣が注ぎ始めた。
八寸とお銚子を持ち、滝本の前に座り、酒を注いで、山のものを付けた。
「お流れを」戸惑う滝本に「別盃を持ち合わせませんので」と、催促した。
「盃を懐紙で拭いて私に返しなさい」太田垣はまた例によって滝本には優しく教える。
滝本は盃の飲み口を懐紙で拭き、盃台に乗せて太田垣に差し出した。
「肩の力を抜きなさい、美味い物をいただき、いい酒を飲んでいるのだから、楽しくやらにゃあ」太田垣はそれでも満足そうに滝本に微笑んで言った。
大野が太田垣に酌をする。
「お流れを」と、大野が盃を乞う。
「この盃を暫く拝借させてください」太田垣は滝本に断りを入れ、大野に盃を渡し、酌をする。順に肴を付けながら太田垣は倉井まで献酬して廻った。そして最後に滝本に盃を返してもう一度酌をした。
滝本は少し酔った。
湯桶と香の物が運ばれる。
「どうぞおまかせを」と、太田垣がご亭主から湯斗を受け取る。ご亭主は空の箸洗いを長盆で下げた。
やがて太田垣が促し、箸を一斉に落として茶懐石は終了した。
誰もが仕事を忘れて堪能した表情をした。
門前の迎えの車に乗り込む滝本を大野が追った。
「近々に、御社へ伺いたいのですが」と、初めて仕事の伺いを立てた。
「どうぞ、お出で下さい」滝本は真顔で答えた。
大野は最敬礼をした。
今日一日の仕事に滝本のこの一言が欲しかったのである。運転手がドアーを閉める。車はゆっくりと去っていく。
「お見送りなさっております」運転手が滝本に知らせる。
杉浦と倉井が、日照りの路地に並び、深々と頭を垂れている。太田垣は木陰に立って上機嫌に手を挙げていた。