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第1回6000字小説バトル Entry19

女菩薩浄土

 もうじき死ぬということはわかっていた。
 たぶん心臓が止まらないせいで生きているということになるのだろう。身体中に転移した癌は、私の生命の回路をまだ遮断できずにいる。
 モルヒネが使えなくなったため、あちこちに神経ブロックの処置を受けた。おかげで苦痛はなくなったが、自分の意思で身体を動かすこともできなくなっている。あとは目を閉じて棒切れのようにベッドの上に横たわるだけだ。点滴と酸素吸入器につながれていても、身体は内側から腐り始めている。自分ではもうわからなくなってしまったが、私の身体からは死期を間近にした者の特有の臭いが漂っているはずだ。
 しかし、ほとんど死体とかわらないような身体の中で、頭だけがまだめまぐるしく動いていることを、周りの人間は気づいているのだろうか。救いは、時間の感覚を無くしてしまったことだ。まさに夢とも現ともつかないところを、私の思考は彷徨っている。だが、これもあと二、三日の辛抱だろう。
 危篤という知らせに集まった親類縁者たちは、私が死なないことでなんともバツの悪い思いをしている。まるで早く死ぬのを期待するような雰囲気になってしまうが、私にはどうしようもない。最後まで人に気がねしなければならない自分に苦笑するが、もって生まれた性分というものは今さら変えようがない。また、今から変えたところで何になるだろう。付き添う娘が看病に疲れ、やつれていくのだけは申し訳なく思っている。ただ、私は、もう自分の表情すら変えることができず、気持ちを伝えることもできない。
 
「お父さん、朝ですよ。窓を開けて、空気を入れ替えますからね。今、顔を拭いてあげますよ。あら、髭が伸びてきてしまいましたね。どうしましょう」
 時々娘は私に話しかけてくる。反応の無い相手に話しかけることを別段不思議に思ってはいないようだ。
 娘が生まれた時、いやそれ以前から、家内は娘に話しかけていた。ひまわりの模様のついたマタニティ。汗で濡れた額を小さなタオルで拭いながらも、洋梨の形に突き出したお腹をいとおしそうに撫ぜて、中の子供に話しかける。家内の声は実に楽しげだった。
「今日はたくさん動いて元気がいいですね。生まれたら公園に連れていってあげますからね。お父さんもいっしょですよ」
 もちろん娘からは何の返事も返ってはこない。横で聞いている私にはそれがどうしても不思議でならなかった。なぜ返事をしない相手にいつまでも話しかけることができるのだろう。しかし、家内はそんなことはお構いなしに、満足げな微笑を浮かべて一心に話しかけていた。お腹の中の何も話せない子供に話し掛ける声。今、娘の声は、あの時の家内の声にとてもよく似ている。

 思えば嫁いで以来、娘とまともに話したことがなかった。以前は電話をかけてきて、家内に夫のことや子供のことなどあれこれと話していたが、家内が死んでからはそれもなくなっていた。話してきても、私が聞かなかったせいだろう。
 私の意に染まぬ結婚をしたことで、娘は私にわだかまりを残している。顔に痘痕のあるフィリッピンの男を、私はどうしても娘の夫として認めることはできなかった。
 ずっとまじめに勤めてきた。役所の出納課勤務というまさに版で押したような生活。酒も飲まず、遊びらしい遊びも知らずに過ごした。だからその代わり自分の家庭にだけは、それなりの思い入れがあった。何が悲しくて娘を外人の男に盗られなければならないのだろう。しかも、たった一人の娘を。
 ただ、娘には一言もいえず、マニラで行なわれた挙式に欠席したことだけが、私のせめてもの抵抗だった。
「いやなら、いやとはっきりいうべきだったんです」
「だ、だけど幸子が選んだ相手なんだから…」
「だったら大人らしく、素直に認めたらどうですか。何もいわず放りっぱなしにしておいて、いよいよ式になってから自分は行かないなんてあんまりじゃありませんか。そういうウジウジしたところが嫌いなんです」
 空港に向かった家内の蔑むような目を私は今でも忘れることができない。
 挙式の日、一人きりの私は広くもない家の中をふらふらと歩き回り、埃の積もった子供部屋でしばらく阿呆のように佇んでいた。
 意味もなく押入れを開けると、書類やガラクタに混じって、赤いビニールのケースに入った習字道具があった。『6年2組平田幸子』 娘の名前が書いてある。ふたを開けると微かに墨の香りがした。太筆と細筆が丁寧に洗われて、硯の横に並んでいる。
 ぽたりと落ちた水のしずくを人差し指でぬぐうと、私は指が黒くなるのもかまわず硯にこすりつけていた。

 娘はやがて色の黒い、瞳の大きな男の子を抱いて里に帰ってきた。
「はじめまして、おばあちゃんですよ。大きな赤ちゃんですね。よかったですね」
 家内はさっそく孫を抱き上げて話かける。
「お父さん、抱いてやってくださいね」
 無理やり抱かされると、なんとも頼りない重さが両手に伝わってきた。黒い瞳がじっと私を見つめる。私もじっと見返していた。結局、腕の中の赤ん坊に一言も声をかけることができず、私は憮然としたまま家内につき返した。これで家内と娘の世界から完全に締め出されたように感じた。娘はこの後さらに二人の女の子と一人の男の子を授かった。
 
「もう、意識が混濁していますので、ご本人も何を言っているのかわからないはずです」
 脳溢血の患者は倒れた後、一時盛んに話をすることがあるらしい。医者はそんな説明をして去っていった。
「お前、どうしたんだ。しっかりしろ」
「ああ、こないだの年金はまだ手付かずで残っているはずですよ。通帳は冷蔵庫のとなりの棚の中に…」
 話しかけると意外にしっかりした声が返ってきた。しかし、答えにはまったく脈絡がなかった。
 家内は、もともと血圧が高く、気がついた時には医者に通っていたが、薬を飲むのが苦手でついそれきりになる。いつもらったのかわからないような薬が、あちこちの引き出しから薬袋に入ったままよく出てきた。下手に健康に自信があったのがいけなかったのだろう。頭の中で起きた出血は大量のもので、病院に担ぎ込まれた時はもう医者も手の施しようがなかった。
 最初の日こそ声が聞けたが、それもしだいに弱まっていって、家内は疲れた時のようにいびきをかいて眠ってしまった。何とかしなければならないと思ったが、眠っている家内にどう話しかけたらいいのかわからない。
「喜久江、喜久江…」
 それでも勇気を出して手を握ると、家内の名前を呼んでみた。少し苦しげに眉をしかめたまま、顔をそむけるようにして家内は眠っていた。
〈かっこつけるんじゃない。このまま逝かしてしまって本当にいいのか〉
 そう自分を叱りつけてみた。でも、やはりことばは続かなかった。

 娘は病室に入るなり、家内の頬をペタペタとたたいて、驚くほど大きな声で話しかけた。
「母さん、しっかりしてよ。私よ、幸子。ほら顔を見てよ」
 すると家内はうっすらと目を開けた。しばらくぼんやりと宙をながめていたが、頭を巡らして私を認めると、握っていた手に一瞬だけ力がこもった。
「お父さん、幸子を許してやってくださいね」
 家内は、そう一言告げると、また引き込まれるように眠りについた。
 不思議と現実感がなくて、家内が逝ってしまうことがまだそれほど悲しいとは思えなかった。ただ、手を握ったままおろおろするだけの自分、それをどこかで冷静に観察しようとしている自意識、そのことがなんとも情けなくて、私は声を上げて泣いていた。
 
 鳥の声がした。鼻先をかすめた風は冷たくて、病院の調理場の匂いがした。いつの間にか夕方が近くなっているらしい。
 私がいよいよ入院となると、娘はまたフィリッピンから飛んで帰って来た。実家で何かあると、こうして簡単に娘を送り出してくれる娘の亭主は案外いいやつなのかもしれないと私は思い始めていた。娘は、いつの間にか白髪が増え、背中から見ると中年特有の丸さが目に付いた。死んだ家内も若い頃は折れそうなくらい細い腰つきをしていたが、血は争えず、娘もその後を追うのだろうか。
 しだいに一日の大半を眠って過ごすこと多くなり、目を開けていることが辛く、億劫になった。最後に見た娘の姿はどんなものだったか。私は記憶のファイルをめくって頭の中にその光景を蘇らせようとしていた。手術に立ち会ってくれた時か、それとも集中治療室にいた時のことだったか。いずれにせよ、記憶がひどく朧になっていて、娘の顔の細かい部分が思い出せずかなり苦労をした。
 風がもう一度私の顔を撫ぜた。
 誰かが手を置いたのだろうか。急に枕もとのあたりが沈んだような気がして、ベッドがきしんだ。誰だろう。娘ではない。娘なら先ほど部屋を出て行ったはずだ。看護婦。そんなはずはない。シーツを換えてくれたので、もう夜の検温までここには来ないはずだ。
 柔らかい指先を額に感じた。頬を伝い、首筋に触れ、指は私の胸の上でいったん止まった。目をつぶった私の顔を誰かが間近で覗き込むような気配がする。
 今度は温かい手のひらが、ゆっくりと輪を描くように私の胸を愛撫している。おかしい。娘が帰ってきたのだと考えようとしたが、これはやはり娘の手ではない。
 手のひらは、病身の私をいたわるように、また、なまめかしく誘うようにゆっくりと愛撫を続けた。誰だろう。私は開かない目で、必死に相手を捉えようとしていた。それは女の手だった。
「おまえかい」
 あの世から家内が連れに来たのかと思って、私は頭の中で問うてみた。いや、違うだろう。私は家内からこんな愛撫を受けたことはない。手は、私の乳首を弄び、胸から腹へ、さらには下腹部へと漣のように伸びていった。思わずうめき声が漏れた。しかし、酸素吸入器の間からは痰のからんだような小さな音が一度聞こえただけだった。
 それは、もう奇怪な出来事とは思えなかった。私は、自分の居場所さえあやしげな死にかけの身だ。感覚はいびつに研ぎ澄まされる一方で、思考は曖昧な世界をすでに往き来している。
 ペニスが手のひらに包まれた。おかしい。たしかカテーテルが挿入されていたはずだったが。しかし、ペニスはそんなことをまったく感じさせず、刺激を受けるとしだいに雄々しく昂っていった。もう一方の手がやさしく胸のあたりに置かれる。息がかかると、勃起したペニスは温かく濡れた感触に埋もれていった。私はなされるがまま、快感に身を浸していた。
 いったい誰なのだろう。耳元で鼓動がして、ペニスに与えられた快感は耐えがたいほどになっている。時々下半身の方から、甘い吐息さえ聞こえてくるような気がした。その一方で、夢から覚める時のように、頭のどこかが今の状態を否定していた。もう何年も、射精どころか勃起したこともないはずだ。しかし…。
 ペニスを咥える女の像が頭の中で結ばれた時、ペニスは脈動して、私は果てた。それは無数の星が浮ぶ宇宙に向かって精を解き放ったような快感だった。
「フフフッ…」
 どこかで嬉しそうに笑う女の声がした。
「行かないでくれ」
 私は消え去ろうとする気配に向かって叫んだ。その声は頭の中でこだまのように繰り返していた。
「お父さん、いい子にしてましたか」
 娘が帰って来た。とたんに今まであった感触がいつのものだったかわからなくなった。あれは何だったのだろう。あの射精は本物だったのだろうか。すべては夢の中のことのように思えた。ただ、カテーテルを取り替える時に、娘が恥ずかしい思いをしないようにと私は心の中で念じ続けた。

 次の日も、女はやってきた。私は密かにこの逢瀬を心待ちにしていた。
 耳朶からはじまり首筋を伝い下腹部へと伸びていく情熱的な愛撫に、私は全身を震わせて応えていた。私は私の身体を覆う女の肉体を全身で感じていた。滑らかな肌。薄い皮膚を通してはじけるような弾力が伝わる。私もいつの間にか全裸になっていた。豊かな乳房が押しつけられて、尖った乳首が私の胸の上を這いまわる。私の足にしっかりとからみつく足。
「いったい誰なんだ」
 そういった途端に、唇を唇で塞がれた。濡れた髪が私の額に触れると、微かに桃の香りがした。
 私の脳裏にはふくよかな女の姿が現われていた。いつか展覧会で見た版画家の作品にある女菩薩ような、白い豊満な肉体だった。黒い陰毛がくっきりとしたコントラストを作っている。その時、私の身体も、痩せ衰えた老人から若くみずみずしい肉体へと替わっていた。身体には力がみなぎり、その中心であるペニスもまた屹立していた。
 女の身体は一度ふわりと浮き上がると、私の中心の上に座禅を組むようにして、ゆっくりと沈み込んで静かに交接した。女が微笑むと全身が鼓動とともにわななき、何度も何度も繰り返し精を放った。
「お父さん、お父さん」
 誰かが呼ぶ声がする。
〈放っておいてくれ〉私は思わず叫んだが、声にならなかった。ぼんやりと目を開けると、私の頭を抱きかかえるようにした娘がいた。
「がんばって。いま先生を呼んでくるから」
 身体中に重い疲れが乗って、呼吸がひどく乱れていた。心臓のモニターが大きく複雑な波形を描いている。やはりそうだったのか。私は笑いたくなった。今ならはっきりとわかる。女の名前は死だ。それにしても、なんと甘美な死を私は思い描いていたのだろう。それほどまでに死を恐れていたのか。やがてモニターの波形はゆっくりを形を変えると、しだいに静かな直線になっていった。

 白い世界が広がっていた。
 上空からは一条のまばゆい光が降りそそいでいる。もはや私も、私自身の実態を失い、思考だけが漂うようにこの白い空間を流れている。その時、私は妻の気配を感じた。
「やはりおまえだったか」
「他の人だったらお父さん恐縮するでしょう。それとも冥土の土産に別な人の方がよかったかしら」
「よそう。久しぶりなんだから」
 家内の姿は見えなかった。しかし、私は家内を身近に感じて、ゆらゆらと漂いながら意識だけで話しかけている。
「淋しかったですか」
「葬式のあと独りになってからな」
「いやに今日は素直じゃありませんか」
「そう…。もうこうやって話しているのだから、自分の気持ちなんか偽りようもないじゃないか」
「これで赤ちゃんと話ができるってことかしらねぇ。お父さん…」

「お父さん、お父さん」
 呼ばれて、目を開けると今にも泣き出しそうな娘の顔があった。医者が心臓をマッサージしている。
「か、母さんが…」
「母さんがどうしたの」
 私はがくがくと揺れながらいった。
「ちゃんと、礼を…いえって…」
「母さんに会ってきたのね」
「その…つまり…。ありがとう」
「何いってんのよ。お父さん…」

 続きのことばはいらない。たぶん娘とは、何もいえなくなった私でも、また話ができるのだろうから。私は微笑むとまた白い世界の中に吸い込まれて行った。

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