第13回中高生3000字バトル
 投票〆切り5月末日/レッドカードに注意!
  INDEX
 エントリ 作者 作品名 文字数 得票なるか!? ★
 1 恋  ポスト  2570   
 2 岩田直子  紫のマニキュア  2301   
 3 白銀霧理  カリオン  2958   
 4 べっそん  1R.KO  2548   
 5 玖珂陸  願い・憂慮・たまに幻想  3029   
 6 神風夜月  アタリハズレ  3000   
 7 相川拓也  愛は憎しみを貫く  3000   
 8 隠葉くぬぎ  あのころの季節  2673   


訂正、修正等の通知は掲示板では見逃す怖れがあります。必ずメールでお知らせください。
「インディ−ズ、行かせてください有頂天」。ボタンを押して投票ページに行こう!! 読者のひと押しで作者は歓喜悶え間違いなし!!
感想はたった一言「えかった!」「いい!」「面白い!」「天才だ!」「悶えた!」など簡単でオーケー。末尾に!をつけるのがコツなのです。
その回の作品参加作者は必ず投票。QBOOKSの〈人〉としての基本です。文句言わない!

バトル結果ここからご覧ください。




Entry1
ポスト


曲がり角を曲がるとそこには真っ赤なポストがあった。

家から学校まで歩いて10分。
途中曲がり角は5回。
右に曲がるのが2回。
左が3回。
右左右左左。
3回目の、右の曲がり角の先にそれはある。

どこかに送る手紙はいつもそこから出していた。
彼との出会いは突然で
でも必然なものだったように思える。
それは夏休みが終わってしばらくたち、
ようやく毎日学校へ通う生活に慣れた頃。
昼間は暑いのに朝方や夜は長袖が必要になるような
そんな季節の境目の出来事だった。

私が手紙をポストに入れようと手を伸ばしたら
急いで走ってきた様子の彼の手とぶつかった。
これは後から聞いたのだけれど、
彼は郵便屋さんが手紙を回収に来る時間を暗記していて、
その日は遅れそうになったので慌てて家を飛び出してきたらしい。

髪はぼさぼさで、Tシャツにサンダル。
そんな格好の男の人と手がぶつかり
慌てた私は
「お先にどうぞっ。」
なんて言ってしまった。
彼は笑って
「どうも。」
と言って手紙を入れた。

私はすごく恥ずかしかったのだけれど
だんだんおかしくなってきて、
噴き出してしまった。それに彼もつられて、
2人で笑い出した。

このとき私の心の中にはなにか温かい感情が広がり、
これが恋なのだと気付きはしなかったけれど
でもそこで笑っている彼に対して
何か特別な感情が湧き出したことには気付いていた。

でも、そんなふうに感じていたのは私だけだったらしい。
この日私がポストに入れた手紙は
確かいつも読んでいるファッション雑誌の
懸賞かなにかのハガキだったのだけれど
彼が慌てて出した手紙は遠距離恋愛中の彼女への手紙だった。

この日から何度か、私と彼はポストの前で
ばったり会うようになった。
私はこっそり「運命だ。」なんて思っていたけれど
やっぱり彼はそんなこと思っていなかっただろうな。
ちなみに、私が知っている彼についての情報は
会ったときにちょっとずつ聞き出したものである。

ちょうど彼に対する気持ちが恋だと気付いた頃に
彼が出している手紙が彼女を宛てたのものだと知ったときは
しばらく落ち込んだけれど
彼女から彼を奪おうなどとは考えなかった。
携帯も使えないような山奥に引っ越した彼女に
3日に1回手紙を書く彼。
彼にそこまで愛されている彼女に勝てるはずなんて
ないと思ったから。

冷たい風が北から南に向けて吹き、
道を歩く人々がコートを着るようになった頃。
少なくとも1週間に1回はポストの前で会っていた
彼の姿が急に見えなくなった。
風邪でもひいたのだろうかと心配していたのだが
心配は風邪なんかではなく、もっと大きなところで
的中した。

彼は彼女に会えない辛さに耐えられなくなったのか、
携帯が圏外になってしまうような
山奥に引っ越してしまったのだ。
来年の6月には結婚をするらしい
と噂で聞いた。

私は、想いを伝えることが出来なかった。

彼は3日に1度、
彼女に宛てて手紙を出していたけれど
私にはそんなにたくさん手紙を出す用事はなかった。
それでも私は彼に会いたかったから
彼への想いを書いた、日記のような手紙を自分の住所に送っていた。
別にわざわざ手紙を出さなくても
いいじゃないかと思うかもしれないが
当時の私にとっては、手紙をポストに入れるという動作が
彼との繋がりのような気がしていたのだ。

私の部屋には私が彼を想って
自分宛てに出した手紙が山積みになっていた。
彼の部屋には彼女からの手紙が
彼女の部屋には彼からの手紙が
山積みになっていたのだろうか。
きっとお菓子の缶かなにかに大切にしまってあっただろうな。

寒い寒い冬が終わり、
彼の結婚式が近くなった頃
彼から1通の手紙が届いた。
彼は3日に1回手紙を出していたけれど
それは彼女を宛てたものであって
だから彼から私に手紙が届くなんていうのは
初めてのことだった。
挨拶などのあと丁寧な字でこう書かれていた

『実は君に初めて会った時、僕は恋人と別れようか悩んでいた。
遠距離恋愛というものは想像以上に辛かったし、
もともと筆不精の僕が手紙を書き続けるということ自体
限界がきていた。
それでも恋人のことはすごく好きだったし
別れたくなかったから
だから僕はものすごく迷って、悩んでいた。
でも君に会って、
あのポストに手紙を出しに行くのが少しだけ楽しみになった。
君は偶然だと思っていたみたいだけれど
よくポストの前で会ったのは
そんなに偶然じゃなかったりするんだよ。』
ここまで読んで自分が泣いていることに気付いた。
涙で字がぼやけて
手紙が読めない。何度も涙をぬぐいながら読んだ手紙には
その後、大体このようなことが書かれていた。

でもそのうち、
彼女に対して罪悪感が生まれた。
このままではだめだと思った。
彼女に会いたくなった。
何故だか分からないけれど
君に会ったら行くことが出来ないと思い
何も告げずに彼女に会いに行った。
久しぶりに会った彼女は前と何も変わっていなくて
自分の気持ちも何も変わっていなくて
やっぱり彼女が好きだと思って。
何だかすごく安心して・・
そしてそのまま向こうに住むようになり
もうすぐ結婚する。
今は彼女のことをすごく愛している。
でも何の別れも告げずに突然いなくなったことが
やっぱりずっと気にかかっていて、それでこの手紙を書いた。

そして最後に、
『それから、一時的ではあったけれど
君にすごく惹かれていたことを
伝えたかった。
君のことは一生忘れません。
どうか、
どうか幸せになってください。』
と書いてあった。
大声で泣いた。
泣いて泣いて涙が枯れてなくなるほど泣いた。
こんなに泣いたのは久しぶりだった。
誰かを想って泣くのは初めてだったかもしれない。

あれから、手紙が届いた日からしばらくたって
私には彼氏が出来た。
もし彼が携帯の使えないような山奥に引っ越したら
私は別れを告げるだろう。
とてもじゃないけど3日に1度手紙を書くことは出来ない。
だけど私は、彼氏のことが一応好きだ。

何度も恋をしているうちに
いつか3日に1度手紙を書くことが苦にならないような
そんな相手に出会えるのだろうか。

そんな人が出来たら、
私は自分に宛てて書いた日記のような手紙と、
彼から届いた1通の手紙を持って
彼に会いに行こうと思う。

伝えられなかった想いを
告げることが出来たら
新しい関係が築ける気がするんだ。

彼の驚く顔を想像するだけで
わくわくしてくる。
あぁ人生ってなんて楽しいんだろう。

彼の住む、携帯の使えないような山奥にも
真っ赤なポストがあるのだろうか。


Entry2
紫のマニキュア
岩田直子

 この紫のマニキュアは今のあたしの一番のお気に入りだ。角度によって微妙に変わる色合い、主張しすぎない優しいラメ。あたしのこの平均よりだいぶ小振りの爪たちに最も似合うのは、海や空を連想させる青色や絶対的な存在感を放つ赤色なんかじゃない。妖艶な輝きを放ち、時に生命を脅かす毒薬を連想させる紫。あたしはあたしの体を熟知している。なりたい自分、見せたい自分を完璧に演出する方法をあたしは知っている。

 真昼の入浴は心の底に後ろめたさを抱かせる。外からは下校途中の子供たちの嬌声とそれに答えるかのように吠え続ける犬々。黄緑色のブラインドは音も光も完全に遮断してはくれない。二年間OLを務めた会社を辞め今のお店で働くようになったのはちょうど一年前だ。ホステスという仕事に全く抵抗がなかったといえば嘘になるが、二週間も働くうちにそんな感情は跡形もなく消えてしまう。気が付けば名実ともにすっかり“夜の女”になっている自分がいた。

 お店へは五時までに行けばいい。美容院の時間に着替えや化粧の時間を入れても十分間に合う。ぽっかり空いた一時間をあたしはあたしの為に有効に使う。あの人は今はきっと外回りの時間だ。移動のための空き時間は貴重な二人の時間。きっともうすぐ電話がかかってくるだろう。あの人とお揃いの黒い携帯電話を胸に抱きあたしはあの人の声だけを待ち続ける。視界の隅でピンクのキティ人形が小さく揺れていた。

「アサミちゃん2番テーブルはいって。」
 ロッカーに寄りかかりバージニアスリムをくゆらせていたあたしにオーナーが声をかける。四十そこそこの背の低いオーナーはお店の女の子たちを皆ちゃん付けで呼ぶ。“アサミ”と言うのはここでのあたしの名前。面接の時オーナーから自由に付けていいと言われ適当に考えた。小学時代いじめられていたクラスメイトの名前だった。ロッカーの少し歪んだ右下部分を足先で軽く小突き煙草を灰皿に押し付けると、女の子たちの吸う煙草の煙で白くけぶる休憩室をあとにした。
 
 「アサミちゃんいくつぅ? えっ23? わっかいなぁ〜。俺の半分じゃん。俺が23の頃なんて、えっと何してたっけ、あぁ〜、まだ大学行ってたよ〜。俺推薦だったから入るのは結構楽だったんだけど、なっかなか卒業できなくてよぉ、二年も留年してやっと卒業したのは、ん〜といくつだ、えぇと、ん? 25? 4? かな? あぁ〜そのぐらい行ってたかなぁ。懐かしいよなぁ。俺学生ん時陸上やってたんだよ。中学、高校、大学って。短距離の選手で国体とかもかなりいいとこまで行ったりしてたんだぜぇ。だからほら同年代のおじさんたちと比べても体つきとかもしっかりしてるだろ〜? 病気だってしたことないし、いや風邪とかは別だよ。まぁそれだって人よりずっと丈夫な方だしね。それにエッチだってアサミちゃんのこと満足させる自信、十分あるよ〜。クククッ、今度試してみるか? はっは。あっと、水割りもう一杯ね。アサミちゃんももっと飲みなよ? お酒強い方でしょ? 分かるよそういうのって。酒飲みは顔つきで分かるよ、うん。」

 無意識に蹴飛ばしたコカコーラの空き缶は、煌々とあたりを照らす深緑色の古い街灯にぶつかってひっそりと沈んだ町の背景に輪郭を溶かす。昼間は主婦やなんかで賑わう駅前の商店街も、夜も一時を過ぎるとまるで違う表情を見せる。わざわざアパートの五分手前でタクシーを降りるのはこの時間を歩くためだ。いつしかそれはあたしの習慣になっていた。一度このことをあの人に話したら危ないからやめなさいと言われた。「あたしが心配なら迎えに来てよ。」咽喉元まで出かかったその一言をあたしは飲み込んだ。家庭を持つあの人に今以上のことを望むことがどんな結果を齎すか、あたしは知っていた。新月の夜。あたしの頭上を支配するのは無数の星たちの絶え間ないおしゃべり。煙草から立ち昇る白い煙を心底美しいとあたしは感じた。

 子供の頃、押入れはもうひとつの世界への入り口だと思っていた。微かに漂う黴と埃の乾いた匂い。しっとりと冷たい布団にくるまれて、アルコール依存症の父親が母親に暴力を振るう様子をあたしはひとり眺めていた。そして息を殺し物音を立てずに別の世界への案内人をただひたすら待っていた。それは時に三角の帽子をかぶった手のひらほどの大きさの三つ子の妖精だったり、通学路で見つけたぺしゃんこに潰れて死んでいた仔猫の魂だったりした。

 あの人はあたしがお店で初めて一人で担当した客だった。未だ慣れない仕事である上たった一人で接客する緊張感から思わず泣き出したあたしの手をあの人は何も言わず握り締めていてくれた。その手の温度にあたしは恋をしたのだ。あの人の左手の薬指に光る銀のリングの警告も届かない程に。けれどあの人がそれ以後店を訪れることはなかった。胸の内で燻り続ける恋心を抱えて途方に暮れていたあたしが街であの人を見つけ追いかけた時、すべてが始まってしまった。あたしはあの人を“運命”だと思った。その思いは今も変わらない。けれどあの人にとってあたしはそれとは全く対極に位置する存在なのかもしれない。でも、もう、どうでもよかった。

 ドアに鍵を差し込む手をふと止める。右手の小指の爪が欠けていた。

 あたしはあたしの体を熟知している。あたしはあたしを熟知している。けれどもなりたい自分、見せたい自分を完璧に“演出”する方法しか、あたしは知らない。

 あたしが本当になりたかったのは、客を軽快にあしらうbPホステス? 押入れの中で震える子供? あの人の隣で朝を迎えるひとりの女?

 紫のマニキュアは、何も答えてはくれない。


Entry3
カリオン
白銀霧理

 林檎が置いてある。
 予備校の教務のカウンターの上に、それは所在無く放置されている。何時からあるのか知らないが前面の皮を合格と云う文字の形に剥かれた林檎はこの校舎の(あるいはこの予備校全体の)伝統であるらしい。去年の写真にも一昨年の写真にも同じ様子の林檎が矢張り何処か所在無げにぽつんと写っている。
 暖房の利いた室内で皮を剥かれたまま放置された林檎は当然ながら傷み始めて文字の部分が茶色く変色していた。指先で触れると厭わしい風な柔らかさを感じた。火傷をした時の水脹れに触った時の様な、何と云うか、ぬるりと湿った独特の気味悪さだ。
 半ば腐った食物はその本来の目的を果たされないまま淘汰されようとしていた。
 俺はその林檎に哀れみを感じたがだからと云って何かをしようとは思わなかった。
 林檎を此処に置いたのは俺ではないし、それが腐るのは誰の所為でもない。
 仕方がないのだ。
 そうだろう。
 俺がそのみすぼらしい合格林檎を玩んでいると、不意に知らない誰かが隣に立った。教務に用事のある人間だろうと思って俺は一歩後ろに退いたがそいつは動かなかった。
「林檎」
「え?」
「気になるの?」
 俺と丁度同じくらいの背丈のそいつは悪意の無い様子で俺の顔を覗き込んだ。
 目が合って、俺は突然息苦しい様な気持ちになって顔を背けた。
 シンクロニシティと云うものがある。言葉だとか動作だとか、まあ何でもいいがとにかくそう云うものを通して相手の感じる事を自分も同じ様に感じ、また相手も此方がそれを感じ取った事に勘付いてしまう、そう云う現象だ。何故だか知らないが俺はそう云う部分でとても敏感であるらしく、ある種の他人と話したり触れたり目を合わせたりするだけで互いの感情が筒抜けになってしまう事があった。
 それは決して珍しい事ではない。誰しも一度くらいは経験のある事だ。ただ俺は他人よりその頻度が高いと云うだけの事だ。
 そして、そいつは間違いなく俺と同種の人間だった。
 顔を背けたのはその所為だ。俺は他人の感じた事など知りたくもないし、まして自分の感情を見ず知らずの他人に披露するなど真っ平だった。目を逸らした俺をどう思ってか、そいつは微かに喉を震わせて笑った。
「変だよなこれ、何で林檎なんだか。普通にダルマとか置けばいいのにな」
 そう云いながら俺がしていた様に指先でそれを突付き、軽く玩ぶ。
 カウンターの周囲は人の行き来が激しく忙しない。沢山の人間が入れ替わり立ち代わりする気配を背後に感じながら、俺は返す言葉を見失っていた。体重を掛けたままずっと動かさずにいた右脚が微かに痺れて痛かった。居心地悪く身じろぎながら、俺は早くこいつが何処かに行けばいいのにとふらつき始めた思考の隅で考えていた。顔面筋とか背筋とかが変に緊張して強張っている。
 何も云わない俺に構わず、そいつは相変わらず林檎を玩びながら笑っていた。厭な感じの笑みではなかったが、俺にはそれが愛想笑いだと云う事が手に取る様に解るので気が滅入った。本当に愛想のいい人間は作らずとも笑える。
「……ね、知ってる?」
 不意にそいつはそう云った。
 子供がとっておきの秘密を洩らす様な、それでいて何処か後ろめたそうな顔で唇を歪ませている。威圧されていると感じた。そいつは恐らく俺よりも数段高い位置から俺を見下ろす事で唾棄すべき優越感にその身を浸している。巧妙に隠されてはいたが、そして全く不本意な事ではあったが、俺にはそれが知れた。
 視線が返答を要求して絡む。止めてくれと叫びたかったが、声は出なかった。
「林檎って箱の中の一個が腐ると残りに伝播してみんな腐るんだって。花も咲かなくする」
 そいつはそんな事を笑ったまま云った。
 俺はそいつがどの様な返答を望んでいるのか計りかねて思わず奴の目を見た。薄茶色のひとみは全く笑ってなどなくむしろ冷たく睨み付けてさえいた。俺は奴と目を合わせた事を後悔したが、そいつはすぐに自分から目を伏せた。
「御免。変な話して」
「……別に」
 それから唐突にそいつは顔を上げ、視線を彷徨わせた後一点に目を止めた。釣られて其方を見ると知らない男子生徒がじっと此方を見詰めていた。耳全体に穴を空ける勢いで物凄い量のピアスを刺したその生徒は奴と目が合うと晴れやかに笑った。
 そいつは林檎から手を離し、じゃあと云って其方に歩いて行ってやがて見えなくなった。
 その後姿は優越とそれに相反するもう一つの感情に強く縁取られていて、俺は眩暈を憶えた。
 仕方がないのだ。
 それは誰の所為でもない。

 その男がこの予備校の中でもかなりの上位成績者であると云う事を間も無くして知った。そいつがあの後すぐに事故で死んだからだ。
 俺は奴が何をするつもりなのか大体分かっていたが結局何も云わなかった。
 俺が何かを云ったから奴が考えを変えたとは到底思えないしまた何よりも無意味だった。
 事故があったと云う日の翌日にあの男子生徒に会った。俺がまたあの教務のカウンターの前でぼんやり立っていたらそいつが声を掛けて来たのだ。林檎の優等生と違って気性の読めない、抜け目がないのか何も考えていないのか全く察知出来ない男だった。真横に立たれると、あの不可解なほど大量のピアスが余計目に付いて目の遣り場に困った。俺より少し背が高い所為で厭でも目線がその辺りを漂ってしまう。
 利き過ぎた暖房の所為で林檎は明らかに数日前よりも溶けていた。腐臭がしないのが不思議なくらいだった。
 ピアスは云った。
「あいつこれ嫌いだっつってたでしょ」
「……憶えてない」
「俺は何時も云われてた。何でわざわざ腐るものを祈願に使うんだ、縁起が悪いってずっと云ってた」
 意外な気がした。あの男は縁起を担ぐ様な性質にはとても見えなかった。
 ピアスは何でもない風に暫く林檎と戯れていたが、やがて頬杖を付いてぼそぼそと何か云った。あいつはもういないと云った。
 それは謡うような調子でありその中に哀愁と云ったものは感じられなかったが、俺はこいつは悲しんでいるんだろうな、と遠い処で思った。よく見るとアンダーにしているシャツは裏返しで、目の下の柔らかい処が厚ぼったく腫れていた。
 俺はこの男に微かに好意を抱いた。特に理由はない。
「別に俺は腐るものでも構わないと思ってたんだけどなあ」
 腫れた目を重たそうに瞬かせながらピアスは云った。
 そしてカウンターの上の林檎をひょいと爪先で摘み上げ、大概温まってしまっているそれを一口、口にした。

「不味そう」
 俺が正直に云うと、
「林檎は林檎」
 とピアスは呟き、その林檎を持ったままふらりと自動ドアを潜って雑踏の中に消えた。

 ピアスとは今でもたまに会う。
 あいつは相変わらず寝不足の様に目蓋を腫らして縒れたシャツを羽織り、たまに煙草を喫いながら他愛のない話をした。
 追い込みのシーズンはとっくに過ぎていたがピアスはもう受験する気がないらしく、どんよりと曇った空を見上げながら暇そうにブランコを漕いでいたりした。
 死んだあの男には悪いが、俺はそう云う欠落したピアスを以前の屈託なく笑ったかれよりも好きだと思った。
 俺はと云うと特に何も変わらない。
 強いて云えば、最近つけたばかりの耳朶の傷が綺麗に治るかどうかを少し心配する様になっている。


Entry4
1R.KO
べっそん

〜1R.KO・・・三分間の1ラウンドで勝負が決まること〜          

机の上に置かれたカップ麺一つ。
口から湯気を立ち上げながら、運命の音はだんだん近づいてくる・・・
男は、説明も読まずに火薬だけ入れて、お湯をぶち込んだ。 
「ぬわぁ!!!」
お湯がはねて手に飛んだ。

男にとってカップ麺は命。 
365日、朝飯、昼飯、間食、晩飯、夜食全てがカップ麺。
男は間違いなく世界中で最もカップ麺を愛する男なのだ。

男はカップ麺の蓋を閉め、その上に割り箸をのせた。
戦いのゴングは鳴った。この瞬間、男の壮絶な三分間が始まった!!
チャラらーらら、チャラらららら〜♪
携帯の電子音が、部屋に鳴り響く。 男は立ち上がり携帯を手に取った。
「もし?!」
「おお〜麺吉か?! わしじゃ。今東京さ来たんじゃ!」
「はぁ? おやじか?!! なんで東京なんか来たんだよ!おふくろも一緒か?」
「いや、母さんは来とらん。 あんな、わし母さんと喧嘩したんじゃ。んで、家さ飛び出して来てしもたんじゃ!! たのむ、わしをお前の家に泊めてくれ!」
「何言ってんだよ!! 無理だよ! 彼女とか来たらどうすんだよ! さっさとおふくろんとこに帰れや!!」
コンビニ袋から、割り箸を取り出した。
「もう、遅い!!おじゃましま〜す♪」
「うわ!!!」
父親が携帯片手に入って来た。 
「何来ちゃってんだよ! しかもなに携帯買ってんだよ!!!」
「DOCOBOの最新モデルじゃ! ラーメンの応募プレゼントでゲットしたんじゃ。」
「そんなこと聞いてねえよ! なんで来たんだよ! 彼女とか来るって言ったじゃ ん!」
「お前まだあんなそば好きの女と付き合ってるのか? やめとけやめとけそば好き の女はろくなやつがおらん!!」
「おふくろがそばが好きだからだろ! 耳にた〜こができたよ! ってか、ぶっち ゃけそんなことどうでもいいけん、出て行けよ!!」
父親は、男の言葉は聞いていなかった。なにかに気づいたらしい。
「お、こんな所にいいものが!」
「こんなところにいいものがじゃない、早く帰れ・・・・って、それに触るな   ー!!!」
息子はラーメンに向かって駆け出した。父親は空を飛んだ。 そしてカップをつかみ、ソファーの上に一回転して着地した。男は、机にクラッシュした。
「ふん、まだ甘いの〜!! いただきます!」
「甘い!!」
男は、台拭きをピザ職人が生地を回すようにして父親の頭目がけて投げつけた。父親は避けきれず、衝撃でかつらがはじかれて床に落ちた。
「ぬわぁ!! おやじいつのまに・・・」
「去年のクリスマスくらいからてっっぺんが寂しくなって・・・」
「お、おやじ・・・」
二人は沈黙のまま見詰め合う・・・かと思ったらおやじが割り箸に手を伸ばし、男はそれをを先に奪おうと手を出した!!  割り箸は男が先につかみ、おやじは悔しそうにはにかんだ。 

「一分経過だ・・・」
男は割り箸を割って二刀流の構えをしながら言い放った。
お互の放つ殺気が部屋中に立ち込めている。
突然、テーブルの上の携帯が鳴った。
二人は一点に注目した。
「スキあり!」
男は箸を父の手にダーツの矢のごとく当てた。父親は痛みでラーメンを離してしまった。
 男はすかさず、地面に落ちるカップに向かって飛びつく。そして、地面スレスレのところでそれをキャッチして、父から離れた。
「おのれ〜」
父親は恐ろしい形相になって男を見つめた。 
「これは、おれのラーメンなんだ! 命にかえても守ってみせる。」
男は、腕の時計を見下ろした。   ・・・残り一分。

「死ねぇ〜!!!!」
父親はバックから日本酒の小瓶を取り出して持ち、男に向かって殴りかかった。
「おやじ、堪忍しろ。」
男は宙高く舞い、父親の後頭部にかかと落としをお見舞いした。 親父は地面に倒れた。
かつらのとれた親父の頭は暗い部屋の中で異様な光を放つ。 だが、男の心の中では父親を落としてしまった後悔の念よりも、自分がこよなく愛するラーメンを食べれる喜びの方が勝っていた。  時計の針はタイムリミットの30秒前に指しかかっていた。

ピンポーン 
 
不吉な音が玄関から聞こえてきた。 男は緊張で硬直した。 自分の最愛の時間を邪魔する者がまた現れたとでもいうのだろうか。 

ピンポーン ピンポーン
 
男は、玄関にすぐさま行ってドアを勢いよく開けた。 暗い部屋に外の光が入ってくる。
眩しい光に満たされた外の世界に立っていたのは、母親だった。
「おふくろ? どしたんだよ。」
「お父さん、来てるでしょ?」
母親は少し涙ぐんでいる。
「ああ、来てるよ。」
男は後ろを少し振り返りながら言った。
「喧嘩したんやって? 大人気ないことはもう二人ともやめんと。」
男は母親を見下ろしながら言った。 少し、縮んだ気がする。その時そう思った。
「私もそう思うわ。お母さんとお父さん大人げなかった。 もう、仲直りしたいと 思って、お父さん追いかけてきた。 お前に迷惑かけたらいけないと思って。」
そう言いながら、母親は下を向いた。 
優しい雫が一滴、母親の小さな草履に落ちた。
久しぶりに会った、母親が泣いている。  そうか・・・大変やったんか。 
男は故郷に残してきた老夫婦の生活を今さらながら考えてみた。
 男は、優しく母親を抱いた。
「もう、気にすんなや。俺は全然大丈夫やけん。 元気だしてーな。なぁ?」
母親は顔をあげた。 いつもの元気な顔をしていた。
「ありがと。もう大丈夫や。」
母親は背伸びをして、息子の頬に手を当てて言った。 そして、笑った。
もう、いつもの母だった。
「お腹すいたな! 何かある?」
男は微笑みかえした。
「ああ、そうだな〜・・・」

「ぁあああ!!!」
男は時計を見た。タイムリミットからすで二分経っていた。
振り返り、再び暗い部屋の中に入っていった。 今なら、まだ間に合う。
少し麺が伸びているかもしれない。少しスープが冷めてしまっているかもしれない。でも、男はラーメンが大好きだ。 絶対食べたい!
死に物狂いで部屋に入って、男は目を疑った。
そこにあったのは、すでに復活してラーメンをたいらげ爪楊枝で歯をつつくハゲおやじと、空になったカップ麺の残骸だった。

1...一人で R...ラーメンを K...食った O...おやじ 

男の壮絶な三分間は幕を閉じた。


Entry5
願い・憂慮・たまに幻想
玖珂陸

 彼に早く逢いたい。

 それが綾奈の切実な願いだった。

 瀬戸内海に浮かぶ小さな島。そこが彼女の生まれ育った場所だった。その島に向かうフェリーの甲板に、綾奈は立っている。
 波に陽光が幾重にも反射してできる幾何学的な模様を彼女はずっと見つめていた。
 彼女には中学校時代から付き合っているボーイフレンドがいる。名前は亮治。彼は綾奈と同い年で、幼馴染みだった。二人の関係は、年を重ねるごとに変化していった。親友から恋人へ。中学時代のお遊びだった恋愛期間を過ぎて、二人は本気で愛し合うようになっていた。それは、綾奈が岡山の高校に進学し、亮治が島に残ってからも同じだった。
 彼は今どうしているだろう?
 そんな思いが綾奈の胸を掠めた。

 フェリーが島に着き、着岸すると、暖かい風と家族に出迎えられた。家族の笑顔に、綾奈も同じ笑顔を返したのだが、そこに亮治の姿はなかった。何故この場に来ていないのか、その理由は分かった。きっと気恥ずかしいのだ。しかし、それでも綾奈は亮治に出迎えてもらいたかった。
 そう思いながら、綾奈は家路についた。

 その夜は一家団欒の時を過ごした。綾奈が帰ってきたことを知ってわざわざ彼女の家を訪ねてくる親類もいた。しかし、それでも亮治は姿を見せなかった。

 翌朝、綾奈は亮治の家へ向かった。涼しい風が彼女の側を通り抜けていく。陽はまだ完全に昇ってはいなかった。彼女は歩いて十分ほどで着く亮治の家への道のりを、足早に歩いた。彼に早く会いたい、と言う気持ちが、彼女の心を逸らせた。
 亮治の家へ着くと、彼女は玄関の戸を叩いた。すると、すぐに中から返事が聞こえた。
「はいよ」
 そうして家の中から出てきたのは亮治の祖父、利憲だった。
「ああ、綾奈ちゃんか……」そう言うと、彼は困ったような顔をした。
「亮治だったら中にいるが……」
「入ってかまいません?」
「いいけど、わしはこれから漁に行くから」利憲は難儀そうに玄関先に置いてあった網を手に持つと、そのまま家から去ってしまった。
 綾奈は家の中に入り、
「亮治」と彼の名を呼んだ。
「綾奈か?」奥の方で彼女を呼ぶ声が聞こえた。そして、すぐに亮治が姿を見せた。
「久しぶりだな。昨日は出迎えに行きたかったんだけど……」彼が真意を話そうとする前に、彼女は頭を横に振ってそれから先の言葉を制した。
「ううん、いいの。それよりさ、海に行かない?こんなにいい天気だしさ」彼女はそう言って、にっこりと微笑んだ。
「ああ、いいよ」亮治も安心したように、彼女に向かって微笑み返した。

 陽の光は道の両脇に並んだ木々によって遮られ、木漏れ日として地面に降り注いでいる。
 そこに風が吹くと、木々の枝も揺れ、木漏れ日が道に作る影絵の形も刻々と変化していった。
 二人は並んで道を歩いた。
「今日は漁に行かないの?」綾奈は問うた。亮治は幼い頃に両親を亡くしている。それから、ずっと彼は祖父の利憲と二人で暮らしていた。彼はそのために、高校に進学することを断念して、漁師として利憲と共に働いている。
「今日の漁は来なくていいとさ。どうも爺さん、昨日おまえが帰ってきたのを知ってたらしい」
「じゃあ、お爺さんの心遣いに感謝しなくちゃね」綾奈の言葉に、そうだなぁ、と亮治も呟く。
「今日はいい天気で、漁に絶好の日なんだけど、どっちかというとデートにうってつけの日だな、今日は」その言葉に、二人は道の真ん中で声を出して笑いあった。やはり、彼と一緒にいる時が一番幸せなんだと、綾奈は再認識する。そして、そのことを再認識できる幸せさもまた、彼女は感じていた。

 二人は瀬戸内海を一望できる崖の上にやってきた。小さな山の細い道を進んだところにある少しだけ開けた土地。地元の人も滅多に訪れない、二人だけの場所である。
 二人は地面に座ると、しばらく何も喋らずに海を眺めていた。波に煌く光の粒はやがて一所に収斂し、海面を一枚の絵に仕立て上げる。そんな光のアートを見ながら、綾奈は唐突に口を開いた。
「私、これからどうしようかな、って思うの」
「これからって?」
 それから再び少しの沈黙が流れた。
「大学に行かずにこの島に帰ってこようと思うの」しばらくして、彼女はそう言った。
「あんなに大学に行きたいって言ってたじゃないか」亮治は相当驚いたらしく、いつにも況して大きな声を出して言った。
「亮治と離れて生活してると、ずっと亮治に逢いたい、って思うの……。だから、離れたままで大学には行きたくないの。それだったら、この島に帰ってきたい……」
「じゃあ、どうするんだ?この島には女の子を雇ってくれるようなところはないぞ」亮治が困ったようにしてそう言うと、綾奈は、ふふ、と笑いながら答えた。
「それだったら、亮治の奥さんになればいいんじゃない?」そう言うと、彼女は亮治の肩に自分の身体を預けた。そうして、二人は日が暮れるまで自分たちの将来のことを語らいあった。

 その翌日、二人は海で泳ぐことにした。島にある唯一の海水浴場を訪れると、照り付ける太陽と晴れ渡る空が彼らを歓迎した。他には誰もいない。
「熱いね」砂浜に降り立つと、綾奈は率直な感想を述べた。焼けるような熱さの砂に亮治も耐えられなかったらしく、
「早く泳ごう」と彼は言った。
 二人は水着になると、そのまま海へ飛び込んだ。冷たい海の水が、身体に心地よい。二人とも、しばらくは辺りを散策するように泳いでいたのだが、やがて綾奈の方が退屈になり、
「ねぇ、沖のほうへ行ってみない?」と亮治を遠泳に誘った。
「沖のほうは渦が巻いてるところもあるから気を付けろよ」と彼は言ったが、綾奈は遠泳には自信があった。
 二人は連れ立って沖を目指し泳ぎだした。砂浜が大分遠くに見えるようになった頃、二人は止まった。綾奈は海面から首だけ出したような状態で、
「気持ちいいね」と亮治に向かって言った。
「ああ」彼はそう頷くと、綾奈に向かって微笑みかけた。彼女もすぐに微笑み返した。
 だが次の瞬間、足を引っ張られるような感覚が、綾奈を襲った。視界がいきなり曖昧になり、自分が顔まで海の中に浸かったことを知った。
 そして、自分が溺れたと認識するよりも早く、彼女は気を失ってしまった。

 利憲は、綾奈が島に帰ってきてからずっと、彼女のことを見守っていた。綾奈が帰島して二日目、彼女は利憲の家を訪れ、そのまま崖の方へと向かった。利憲は漁を休んで、彼女に自分の存在を気付かれないよう、彼女を遠巻きに見ていた。綾奈は一人でずっと海を見つめていた。
 その翌日、綾奈は一人で海水浴場へと出かけた。利憲はその日も漁を休んだ。彼女は水着になると、そのまま海へ飛び込んだ。しばらくは砂浜に近い浅瀬で泳いでいたのだが、そのうち沖の方へ泳ぎ出してしまった。利憲は嫌な予感を憶え、彼女の後方をこっそりつけて泳いだ。
 そして、綾奈は溺れた。

 綾奈が目を覚ますと、そこは亮治の家だった。側には利憲がいる。
 何か言いたいことがあるのだが、彼女はその内容を思い出すに至らなかった。その代わりに、
「亮治はどこ?」という言葉が口をついて出た。
 利憲がその言葉に答えた。やけにゆっくりとした口調だった。
「綾奈ちゃん。亮治はもうこの世にゃいないんだ」彼は綾奈の目を見ようとしなかった。
「一年前、沖に泳ぎに出て溺れた綾奈ちゃんを助けようとして、亮治は死んだんだよ」


 ずっと遠くの方で声が聞こえる。亮治の声だ。


 『綾奈。君に伝えたいことがある……』


Entry6
アタリハズレ
神風夜月

 私は事務からの報告を聞いて先生に駆け寄った。
「先生、お客様がいらしておりますが、どう致しましょう」
「待たせるのもなんだし、お通してちょうだい」
「分かりました」
 旅先から帰国したばかりの先生から黒いコートを受け取り、すぐさま客を応接室へ案内する。お茶を二人分いれて、茶色いソファーの間にある大理石のテーブルに置いた。
「ありがとう。貴方は下がっていいわよ」
「失礼します」
 一礼をして、すぐさま秘書である私は退室する。先生は客と面会するとき、私を側を置かないのは常のことだ。まぁ、頬に大きな傷のある男が側にいると客が恐縮するとのことだろう。
 帰国したばかりで疲労もたまっているはずなのに、先生は仕事熱心だと思う。今回の依頼はなかなかハードだった。
 今入った客がいなくなる頃に洋菓子と紅茶を持っていこうか。疲れているときには甘い物が一番だ。
「先生、大丈夫でしょうか」
 デスクがある秘書室に戻ると、そこにいた私と同期の若い女子社員が話し掛けてきた。
「少々、疲労が募ってますね」
「そうですか。今回の依頼って、確かアメリカ大統領の世継ぎ選びでしたよね」
「はい。依頼内容は普通だったのですが、移動時間が半端じゃくて。大統領の滞在先のホテルまで足を運ぶことになってしまって。先生、不機嫌なのでいつも以上に気を配ってあげて下さい」
 え、またですか。とでも言いたげ顔をして、彼女は深々と頷く。
「先生、暴れると後が大変ですよね……分かりました。事務の皆にもよく伝えておきます。では、これで」
 彼女は重々しい雰囲気を背負って私の部屋を出て行った。先月、先生が暴れた際に窓ガラスや高価な壺が全部叩き割られたのを目の前で見ていた彼女は、先生が時折、おかしくなってしまうことをよく知っている。その後姿に苦悩の色が見えるのは言うまでもないことだった。
 彼女がいなくなったのを確認し、最新式の防犯カメラのモニターを見た。音声が聞こえるようにヘッドホンを耳につける。応接室では向かい合うようにして先生と客は話をしていた。
 最初は軽い挨拶程度を交わしていた先生たちは、どうやら本題に移ったらしい。客が相談内容を言うと先生は眉間に微かなしわを作った。
 私も同時に眉をひそめる。なんせ、今まで一度もない奇妙な相談内容だったからだ。画面上の先生をうかがうところ、先生自身もどうやら初めてだったらしい。普通、そんな相談を持ちかけたりしない。それに、そんなことにこだわる必要もないのだ、一般的な人間は。
 とりあえずカウンセリングをするため、先生は初老の男性の客の背中に手を当てる。そして、いつものように客の情報を読み取っていく。すると、先生の表情が段々険しくなっていった。
 そして、先生は結果を客に伝える。客は残念そうに頷き、応接室を後にした。
 様々な疑問は残るが、私は甘い物の用意をしなければならない。先生のストレスを少しでも緩和するためだ。そのために私はデスクを立ち上がる。
 秘書室に備え付けの小さな台所で葉から紅茶を作り、有名洋菓子店のショートケーキを銀の盆に載せて、慎重に社長室まで運んで行った。ノックをし、少し間をあけて、どうぞと先生の声が掛かる。
「多いわよね」
 私が紅茶とケーキが乗った盆を片手に入室してすぐ、先生は意味深な発言をした。
「と、申しますと?」
 話がなんだか少々長くなるような気がして、テーブルに銀色の盆を置いた。
 三年程ここで働いている私でさえ、先生の思考が一切読めない。先生は常に無表情で感情を全くと言っていいほど露にしないのだ(突然キレる時以外)。そう、今日が初めてだった。こんなに感情を表す先生を見るのは。
「だから、ハズレよ」
「はぁ、ハズレですか」
 私は困惑し、空ろな返事を返す。
「どういう意味です?」
「だから、人間のハズレ。アタリの人間なんてそういないのよ」
 先生は自分の言葉に偽りがないか確かめるように強く言った。
 人間のアタリハズレ。
 先生はそれを見極めるプロフェッショナルだ。EQやIQなんかじゃ計れないそれ。二十一世紀の最先端技術をどんなに駆使しても、きっとこの分野に関しては、先生には決して敵わない。
 その先生の特殊な才能を必要とする人間が、このオフィスに次々と、毎日途絶えることなくやって来る。アタリハズレを見極める能力を持つのはきっと世界に先生一人だけだからだ。今や、外国からの電子メールを介しての依頼も多い。そのため、日本にいないことも少なくはなかった。
「そういえば先生。以前から気になってたのですが、先生はどうやってアタリハズレを見極めていらっしゃるのですか?」
「どうやって……ね」
 先生は腕組して首を傾ける。
「実を言うと私にもよく分かっていないの。なんていうか、見えるの。例えばその人の過去や資質。あと、心の中に住まう憎しみや悲しみといった感情ね。とにかく、色々なモノが見えるのよ」
「そうなのですか。でも、それとこの仕事とどういう関係が?」
 どうも話の先が見えるようで見えてこなかった。
 先生は少し考えてから、こう話を切り出した。
「アメリカ大統領からの依頼内容、覚えてる?」
と。
 当たり前だ。約一日前にはアメリカにいて、先程も女子社員と話したばかりの話題だった。
「はい。アメリカ大統領直々に、次の総選挙で自分の世継ぎを出すから、その世継ぎを決めて欲しい。とのことでしたよね。自分では決めかねる、と」
「そう。だから、私は四人の子供さんたちの中から、政治家に最もふさわしい人を探したわ。今回はアタリがいて、しかも一人だったから良かったようなものだけど……」
 先生はため息をつく。
「あ、これじゃ説明になってないわね。つまり、その条件に合った人がアタリなのよ。人間としてなら、心の奥底にある人間を構築している精神的な基礎がしっかりしているかどうか。あと、日頃の生活の様子なんかもね。それに、政治家ともなれば、色んな条件が必要になるわ。リーダーシップや、頭の回転の速さとかね。あと、人望も大きいわ。つまり、そういう+αも重要なアタリの条件となるのよ」
「なるほど」
 よく分かるような、よく分からないような、そんな説明だった。先生は、そうなのよ、そうそう、とか勝手に一人で納得している。
 先程はああ言ったものの、いまいちよく分からなかった。
「どうしたの? 突然」
 先生は私が運んできた紅茶とケーキを上品に食している。
「いえ。先程のお客様の相談内容を聞いて、知りたくなったんです」
「そうね。あのお客様は一種……特別だからねぇ。アタリでもハズレでもない」
 先生は慎重に言葉を選んでいくように言った。それは、今度は私が首を傾げる番を意味する。
「え? 人はどっちかに振り分けられるはずでは?」
 私は確かにそう、先生の口から何度も聞いていた。
「そうだけど……」
 先生は言葉を濁す。
「そうなんだけど……その前にあの方……」
 先生は言いにくそうに言葉を続ける。
 私はその後に続いた先生の言葉に驚きを隠せなかった。
 脳裏に先程の客の言葉が蘇る。

『僕は人間のアタリにどうやったらなれますか?』

 それはとても奇妙な質問だった。
 私は理解した。
 あなたはなれません、と客の内面を見て、かなり複雑そうに顔を歪めて言った先生を。
 なぜなら、“彼”は…………。
 心の中で先生の言葉を反復する。

 
 人間という種族でさえないのだから……。


Entry7
愛は憎しみを貫く
相川拓也

 桜の蕾(つぼみ)がゆるみ始めた。梅はすっかり花が開いた。のどかな農村である。春が近いことを、陽光が最もよく教えた。
「弥太郎(やたろう)、これを持ってけ」
 食事を済ませて出かける後姿に、父親が声をかけた。弥太郎は振り返ると、匕首(あいくち)を渡された。
「えっ、で、ですが」
「ですが何だ。いつ殺されるかもわからぬ」
「ちょっと出かけてくるだけで」
「浪人に斬られでもしたらどうする。持ってけ」
 と、十兵衛(じゅうべえ)は半ば無理矢理に、匕首を弥太郎の腰にさした。
「今どき丸腰で外を出歩くやつがあるか」
 戦国の世であった。度々戦が起こり、時に集落を滅ぼすことさえあった。

 弥太郎は村のはずれに来た。蛙が、無表情のまま近くを飛ぶ蝿を捕えた。愛おしい。春の光はやわらかい。道を白く照らす。静かであった。
 静けさの隙間をぬって、小さな音が近付いた。音は影になり、人になった。弥太郎はそれが遠目にも、篠(しの)だとわかっていた。今日は暑いくらいだ。あの木陰で、ひと休みせぬか、と弥太郎が言うと、篠ははい、とだけ答えた。篠は寡黙であった。だが弥太郎と会うと上気するのは誰でもわかった。
「静かなものだ…」
 風の音を、時折啼鳥が彩った。
「匕首?」
「あ、これか。持てと言われてな。持ちたくなかったのだが」
「心強うござります」
「嘘を申すな。武器など大嫌いなくせに」
 この日も、普段通り過ぎていくはずだった。いささか神妙になって弥太郎は口を開いた。
「村を出ぬか」
 篠は戸惑いを見せた。
「縁組みなど出来ぬ…。だが、篠以外の伴侶は考えられぬのだ」
「ですが…」
篠はうつむいた。

 数年前の戦で、弥太郎の父十兵衛は、篠の父田七(でんしち)の妹、陽(よう)を殺(あや)めていた。寺社同士の争いだった。争いは甚大な被害を出して治まったが、村内には今もわだかまりが残っていた。弥太郎の中村家と篠の生原(はいばら)家は戦で対立し、それが二人を隔てた。だが、二人にとってそんな壁は何でもなかった。
「おとっつぁんは……。中村の家の人間と関わりをもつなと…」
「まさかもう縁組みの話など?」
「はい、おとっつぁんはもう準備を始めているみたい」
 弥太郎は軽く唇をかんでから言った。
「篠は、某(それがし)を恨んでいるか?」
「いえ。弥太郎殿や、中村家の方々には何の恨みもございません。戦は、人を鬼に変えるものです。本当は皆、私や、弥太郎殿と同じ、心優しい人間なのです」
「そうか。では、どうする。某に着いて来るか?」
「……。他の方と、縁組みするくらいなら…」
 篠は小声で呟いて、うつむいた。このまま村にいては、弥太郎は遠くへ離れてしまうような気がした。
「では、今晩迎えに行くぞ」
 二人は別れた。

 日は長くなっていた。傾いた陽は、鮮血を撒いたように赤く、村を染めていた。
「すっかり日が長くなって…」
 母の独り言に弥太郎は生返事をした。落ち着かなかった。
「長徳寺(ちょうとくじ)さんと、向こうの妙遠寺(みょうおんじ)さんの間がまた上手くいってないようだね。戦は嫌だよ。恐ろしくて」
「恐ろしくても、家族全員で寺を守るのだ」
 傍(そば)で聞いていた十兵衛が口を開いた。

「私たち女が望むのは、戦のない世の中だけにござります」
 篠の母は、同じころ田七にそう言っていた。田七はすこしうるさそうにして座っていた。
「戦は陽の敵を討つ好機だと思え。戦が起これば、中村の者どもに復讐できるのだ」
「その戦で陽様は亡くなられたのです」
 田七は黙った。だが、田七の胸の中では、陽を奪った中村家に対する憎しみが煮立っていた。表情は険しくなった。

 日は傾き始めるのあっけなく沈んだ。新月の夜である。辺りは一面の闇になるはずであった。
 奇襲であった。長徳寺側の軍勢が夜を照らし、妙遠寺に攻め入った。駆り出された民は各々武器を持ち、殺し合った。男も女も、そんな区別は忘れられた。刃物が人間に突き刺さり、血が舞い上がった。松明(たいまつ)だけが、人間同士の殺し合いを照らしていた。

 弥太郎は慣れぬ手つきで槍を振っていた。父の言葉を思い出した。
「家族全員で寺を守るのだ。向かって来る刃には刃で応えるのが道理であろう。自分の身は自分で守るのだ」
 だが、向かって来るのは、もともと「心優しい人間」なのではないか。弥太郎は懐疑した。懐疑しながら、向かって来る人間を、肉体の感触を確かめるように刺し殺した。暗い。殺した人間の顔は分からなかった。誰でも良かった。生き残って、篠と共に村を出る…。望みといえば、それしか無かった。
 人は次第に減っていった。逃げ出す者もいた。しかし多くは死んだ。時折家を焼き払う炎が夜を照らし、やがて朝焼けが荒廃した村を照らし出した。何代続いたか知れぬ村は、一夜にして姿を消した。

 夜が明けても、人々の憎しみは消えなかった。煙りの立ち昇る廃墟で家族の死骸を目の当たりにした人々が、誰でも良い人間を殺していた。疲弊していた。憎しみだけで、彼らは動いている。
 弥太郎は生き残った。家族は皆死んだ。かつて家だった場所には何も無かった。空虚を埋めてくれるのは篠しかいない。弥太郎は村はずれ、言い交わしたあの場所で待った。太陽は真上に上り、傾き始めた。篠は来ない。
「篠は……」
 フッと頭をかすめたものを、弥太郎は振り払った。

 俺は迎えに行くと言った…待っているのかもしれない、と、弥太郎は何も無くなった村を歩いていた。死体がごろごろ転がっていた。黒焦げになったもの。首の無いもの。至る所から血の噴き出しているもの。弥太郎には見えていなかった。歩いているのかさえ分からぬ程、弥太郎の精神は遊離していた。
「篠……」
 まだ槍を持っているのに気付いた。捨てた。

 篠の家も、他と同様焼け落ちていた。篠の姿は無く、黒焦げの、大きな死骸が一つ、小さな死骸がいくつも転がっていた。家の裏は妙遠寺だった。焼け落ちている。境内へ続く石段は短かった。宗派など関係なく、焼け落ちた本尊にすがった。生きていてほしい----何度もくり返し祈っていた。

 弥太郎は目を開けた。髪を乱した女性が横たわっていた。胸を突き刺され、血が噴き出している。弥太郎は倒れかかるように、その女の躰(からだ)を抱いた。
 人間は悲しみに暮れると、涙を流すことしか出来ない。弥太郎は誇りも意地も捨てて、ひたすらに泣いた。涙は涸れなかった。憎らしいほど、夕焼けの美しい日であった。太陽が山際に隠れ、桜の花弁が、静かに落ちる。

 辺りは薄暗くなった。
「一緒に村を出ようと…言ったではないか…。先に行ってしまうな…篠。某も、今行くぞ」
 弥太郎は、近くにあった短剣で腹を切った。二人は抱き合うようにして、寺の境内で息絶えた。敵同士であった二人は、最期まで愛し合った。


Entry8
あのころの季節
隠葉くぬぎ

「坂上さん」
 ふと振り向くとかつてのクラスメイトが立っていて、坂上由子はいささか面食らった。
「あ……お久しぶり」
 ぱらぱらと見ていた、今年の芥川賞作家の新刊を棚に戻す。相手の名前が思い出せないまま、顔は記憶にあるのでうろんな返事を返す。
 高校で一緒だったのは確実だ。この前まで同じクラスだった感があるが、卒業してからもう半年も会っていない人だと思い当たってびっくりした。由子は時間が流れていないような気がしていたが、そういえば確かに季節は流れて、猛暑の時もいつの間にか過ぎていた。
 はつらつとした雰囲気で、クラス内でもいつも笑顔の印象があった。クラス委員を務めていたはずだ。でも名前は出てこない。
 記憶の足しになるものを探すように視線をはわせる。今はショートカットだが、髪はもう少し長かったはずだ。今はずいぶん明るい髪色も、みどりの黒神を思わせるような。眼鏡はかけていたっけ? 由子には、セーラー服の印象が強すぎて、今着ているサテンのワンピースには違和感を覚えた。(そういえば由子と彼女は、私服で会うのは初めてかもしれない。休みの日にわざわざ遊びに行くような、そんなに親しい仲でもなかった)
 ふと、目がとまる。右の手に、由子もずいぶんお世話になった見慣れた赤色の表紙。黒字で大きく東京大学文科前期日程、の文字。相手も視線の先に気付いたようで、すこし恥ずかしそうに言う。
「あ、これ。私、再受験組だからさー、ね。そろそろだし」
 去年に引き続きあがいてるわー、と相手は続けた。季節は夏から秋に変わろうとしている。受験生にとってはいちばんつらい時期だ。
「ね、坂上さんはどこだっけ」
「……明治大学」
 へぇ、と言いながらすこし、ほんの少しだけ山吹の顔に安堵と侮蔑の色がうかぶ。(そう、唐突に思い出した。クラス委員長山吹綾花さんだ。)山吹はたしか、東大をために早稲田だったか慶応だったかをけったと聞いていた。仮面浪人すら勉強の妨げになると。
 その判断は正しいと、由子は思う。仮面浪人をしていたら、この時期、絶対に意志と、それに伴う学力が崩れていくだろう。
「センター試験の出願とか、自分でしなきゃなんないの。もう少ししたら調査書とか、学校に取りに行かなきゃなんないし。受験て基本的に現役生のためなんだなぁーって実感するよ」
 笑いながら山吹が言う。調査書、そんなものもあったな、と由子が静かに思いを巡らせた。あとは、入試要項。国立の方がすこし遅い。私立の方が少し早めに書店に並ぶ。
「……本屋ってさ、受験生が堂々ときていい、数少ない場所だよね」
 あとは、予備校と家の往復だよ。学校行かないぶんつらいよ、と山吹は続けた。
 由子はあいまいに笑ってあやふやに頷いた。そんな生活を送っていないぶん真摯に肯定できないし、そんなこと山吹綾香は望んでいないだろう。
「じゃ、私、つぎ授業だから」
 じゃあ、また。最後まで笑顔でレジに向かう山吹を見て、変わっていないのだなあ、という印象を受けた。由子は、自分もきっと変わっていないだろう、と結論づける。
 きっと臆病なまま、今年もまた逃げてしまうだろうか。
 受験の日は空がばかみたいに青く晴れていて、それが由子をおびえさせた。いくらやってもあがらない成績も、全く読めない英文も、ちっとも記憶に残らない人名、難解の言葉の論説文、見たことのないイディオム、語呂合わせのきかない年号、漢字の羅列、日本語にあらざる日本語、拒否する異国の言葉。
 一方通行の電車にずっと乗るより、山手線でぐるぐる回っていた方がいいとか、そんなことばかり上手くなっている。
 山吹が出口のところで由子に気付き、ひらひらと手を振る。由子は静かにお辞儀をかえす。
「赤本買わなきゃ」
 お帰りなさい、由子、試験はどうだった。落ちたよ。え、そういうこと言ってても、ううん、そういうこと言ってる子の方が受かってるものよ、案外ね……。落ちたの、落ちたの落ちたんだよっ。
「あと、調査書だっけ」
 母は何も言わなくなった。予備校にお金を納めているものの、行ってなどいないことにはうすうす気付いている。
 でも娘を傷つけると思って何も言わないのだ。良い母親。
「センター試験も出願しなくちゃ」
 受かるわけ、ないのよ、受けてないんだから。
 誰にも言わない言い訳ばかり上手くなるのはもう。
 参考書は七階でたしか赤本もそこで売っている。今の時期だとまだ新しいのは出ていないかもしれない。去年のやつだったら家にある。どこかにあるな、と由子は思い返す。
 でも、センター試験の出願書が売っているのだから、結局七階には行かないと。エレベーターのボタンを押す。もうずいぶんこのエレベーターなんて乗っていない。由子の好きな文芸書は一二階で、エスカレーターで事足りる、というより階段の方が早いくらいだから。
 調査書は、学校に取りに行かなければ。担任と顔を合わせるのは、あまり愉快なことではないのだけれど仕方ない。
 今年は受験しなければ。
 ……本屋ってさ、受験生が堂々ときていい、数少ない場所だよね
 不意に山吹の言葉がよみがえる。そういえば、由子も本屋にしかよっていないような気がしていた。ゲームをやるのも、ウィンドウショッピングも決して嫌いではないのに。
 うすくつきまとう罪悪感が、すこしでも勉強に役立つ所へと導いているのかもしれなかった。由子は自嘲気味に笑った。こんなのでも、受験生として自覚があるのかな。
 七階のボタンを押して、センター試験の出願書を買う。調査書をもらいに行く。何度も同じことを確認して、一つ一つやり遂げていくことをつぶしていく。気持ち悪いくらいくらくらする。逃げないのには体力がいる。
 でも、今年こそ受験しよう。
 深層心理の受験生なんてごめんだ。
 大丈夫。今度は勉強してないって、免罪符がある。