エントリ1
笑顔の使者
たろこ
日曜日の昼下がり。チャイムの音に玄関へと向かった妻が、何やら「困ります」とか、「どなた様ですか」などと言う声がリビングの私のところまで聞こえてきた。押し売りだろうかと玄関へと向かうと、立っていたのはポマードできっちり固められた七三分け。印象強い黒縁の眼鏡。立派なスーツに高級そうな腕時計。そしてジュラルミンケースを片手に持った男だった。
私が妻に事情を尋ねると、彼女は困った顔をして肩を竦めた。
「まぁまぁ、お気になさらず。」
至極明るい声でそう言うと、その男は革靴のままわが家のフローリングを踏んだ。
「ちょっと! 何をしているんですか!」
男の突飛な行動に戸惑いつつ、不法侵入ですよ、と私が凄むと
「それもお気になさらず。」
男は一言で返答を済まし、私の横をすいと横切り勝手にリビングへと入って行った。私は妻に子供と一緒に二階の部屋に居るようにと言うと、重い足をリビングに向けた。妙な気分で部屋に入ると、男は部屋の中のものを物色するような目で眺めていた。
私が威嚇のつもりでバタンと乱暴に戸を閉めても、一向に気にする様子はない。
「あの」
「ああ、私の名前は明神です。」
「はぁ」
「まあ、楽にしてください。」
ソファーに腰掛けながら、男はこの家の主人であるかのような台詞を吐いた。
私は露骨に嫌そうな顔をしたのだが、彼はやはり気にする様子もなく、人なつっこい笑顔で語り始めた。
「いいお家ですね。周りにはだだっ広い草原があるだけで、隣家は3kmも先。まるで陸の孤島だ。」
褒めているのかけなしているのか分からない言葉に、私は相槌を打ち損ねた。
「調査書によると貴方の所有地自体は狭いのですね…ただ単にこんな辺境に住もうとする人間が他にいないと。」
ふんふん、と男は自分の言葉に自分で納得しているようだった。
まるで私のことを変人のように言っている。何様だ、と内心毒づく。
「貴方もこんなところに何時までも住んでいたくはないでしょう。どうです、明日から此処を出て行っていただけませんか?」
「は?」
いや寧ろあんたに出ていって欲しいのだが。
「タダでとは言いませんよ。ご主人、貴方には自衛隊入隊の斡旋、寮にも部屋を用意します。奥様とお子さんには国の施設に入って戴けばいい。勿論生活補助金付きでね。これで生活の心配はないでしょう。」
「自衛隊? 国の施設? 貴方は一体何を言っているんですか!?」
私が声を荒げて言うと、男はおや、と見下すような目をした。
「貴方は新聞をちゃんと読んでいますか?」
「よ、読んでいますよ当然!」
「ではこの度可決された新法のこともご存じの筈ですが?」
フン、と鼻で嗤う男に触発されて、必死に記憶の引き出しを漁った。
しかしテレビの番組欄ばかり見ている為にさっぱり思い出せない。何時までも眉根を寄せて考えこんでいる私に痺れを切らしたのか、男は自分のジュラルミンケースをパチンと開いた。
「ご存じないようですので説明させて戴きますが…」
ドスン、と重量感のある音を立てて書類の束が目の前に置かれる。
「新法というのは、悪化する国際情勢に対応するために作られたものでして、それによりますと日本国の自衛の為ならば、国民は私財を投げうってでも協力しなければいけないのですよ。」
「それとわが家に何の関係が…?」
「それはですね」
狼狽する私と対象的に、男は自慢気に一枚の図面を取り出した。
「ここには10年後の完成を目処に地下シェルターを建設する予定なのです。万が一の際に政府の要人だけでも生き延びられるように。」
「そんな…! 国民の権利はどうなるのですか!?」
「全く、貴方は新聞の何を読んでいるのですか?多発する紛争、テロ。この日本だっていつ何処から攻撃を受けるか知れない。そんな時に権利も何もあったものじゃないでしょう?」
死んだ人間に権利などありませんからね、と男はにこやかに笑った。
言っていることの深刻性と全く噛み合わない表情である。
「と、とにかくそんなことは認めませんよ! 私は此処をテコでも動きません!」
無理やり威勢のいい声を張り上げたが、逆に自分で虚しさを感じた。
「そうですか。では…」
男は私の大声に動じる様子もなく、薄っぺらい紙を取り出した。そして咳払いをして仰々しく語り始めた。
「私、明神は日本国の治安維持という目的達成のため、内閣総理大臣直々の任命を受けて貴方に協力を要請しているのであります。ですから、私の言葉は同時に総理のお言葉ということになります。ほら、此処に明記してあるでしょう?」
確かに、その書類には内閣総理大臣という文字があった。
「そ、総理…!?」
男の言葉に、私の頭の中にはブラウン管の中で笑う総理大臣の顔が浮かんだ。
戦後100年を迎えようといている日本で、歴代最高の総理大臣と評判が高いというのに、実際にやっていることは悪徳業者よりも酷いということか。総理大臣に、というよりもその行政の本質に気付けなかった自分自身に腹が立つ。何が国民主権だ。
「ええ。つまりですね、もし貴方が私共の計画に協力して戴けないということになりましたら…」
「なったら…?」
私はごくりと唾を呑み込んだ。男はにこりと笑う。
「執行妨害ですので、家族ともども檻の中ですね。」
「そんな!? 理不尽ですよ!!」
「そうですか?」
「そうですよ!!」
怒りに任せてバン、とテーブルを叩くと、書類がひらひらと宙を舞った。
その向こうで、やはり男は笑っていた。
「でも、決まりは決まりですから。」
拳を振るわせる私の目の前に、一枚の紙とペンが差し出され、男が丁寧に手を差し伸べて告げた。
「刑務所がお嫌でしたら、ここにサインをしてくださいね。」
嫌だ、と書類を破り捨ててしまおうとした私の脳裏に、妻と子供の顔が浮かんだ。
私だけならともかく、先程この男は「家族ともども」と言っていた。いけない。家族まで不幸にしてしまうなんて一家の主として失格だ。
と、そう思った瞬間、私はこの先この国に何が起ころうと知ったことではない、と心のどこかで思っていた。自分と家族の安全さえ確保されればそれでいいと考えていた。
そしてミミズがのたうちまわるような文字でサインをした私に、男は鼻唄でも唄い始めそうな表情をして頷いた。
「はい、それで結構です。やはり貴方はこの国の人間ですね」
「え?」
「いえ、何でもありません」
男は顔の前でひらひらと手を振ると、書類をジュラルミンケースの中に入れた。
「では、早速明日お迎えに上がりますので、準備をお忘れなく。」
男は素早く立ち上がると玄関へと歩き始めた。私は慌ててその後を追う。
「あ、あの…」
「なんでしょう?」
男が振り返る。
「この家はどうなるのですか?」
30年ローンで建てたこの家は。
「ええ、明日の午後には更地になってますよ。」
更地…。
ショックのために何も言えずに棒立ちになっている私を置いて、男はリビングを出ていった。
と、またすぐに男の笑顔がドアから覗く。
「ああ、そうそう」
私は死んだ魚の様な目で男を見た。
「自衛隊に入隊されましたら、すぐにでも現場派遣ということになりますので、よろしくお願いしますね。奥様とお子さんのためにも生命保険に入っておいたほうがよろしいかと思いますが。」
そう言い残して、男は車のエンジンの音と共に消えて行った。
西歴20XX年、私は自分の身に降りかかった災難を何と妻に伝えたら良いものかと、フローリングに残った足跡を拭きながら考えるのだった。
エントリ2
お先真っ暗につき
篠崎かんな
「伝染病ですね。」
医師は防護マスクを付けたまま言った。
「まさか。」
正樹は愕然とした。
「ただの風邪だと思っていたが……」
「そう、もとはただの風邪です。でもあなたの体の中で突然変異したらい。いえ、あなたは平気ですよ。ふぐの毒はふぐ自体には無害なように、あなたのウイルスにあなたが感染する事はありません。ただ、まわりに感染する恐れがありまして……」
「隔離するんですか?」
「えぇ、隔離は隔離なんですけどね、この手のウイルスは光を与えると繁殖率が増える。だから、新しく出来た特別地下隔離室に入ってもらいます。外からの光はおろか、中にも光源はありません」
「つまり、真っ暗なのか。頭がおかしくなりそうだ。」
「えぇ、通常でしたら二、三日で発狂します。」
正樹は言葉を無くした。
「でも大丈夫ですよ。あなたと一緒にあれを入れますから。」
医師は後ろを指さした。振り向くとそこには人型のロボットがいた。
いや人型と言うより人骨型と言うべきか。骨組みのみの二足歩行ロボットといった感じ。とにかく異様な姿なのだ。
正樹は寒気を感じた。
「PC2100モデル、マリアと言います。」
ガイコツのような顔の部分から、いやに人間味を帯びた綺麗な声が発せられた。
「そいつがいればあなたも退屈はしない。まぁ気長に療養してください。」
こんなロボットと地下室に閉じこめられる……。
「冗談じゃない!」
正樹は医師のほうを向いて叫んだ。
すると、後ろからロボットの冷たい腕に押さえつけられた。
正樹は力の限り暴れた。しかし、ロボットの力には勝てない、やがて首筋に注射針が入っていくのを感じた……
正樹はベットの上で目覚めた。
だが、目を開けようが閉じようが、暗闇には変わりが無かった。
「お目覚めですか。」
済んだ女性の声が暗闇に響く。
正樹は一瞬美人の女を想像し、その声が昨日のロボットの声とわかり、落胆した。
「食事を持ってきました。お腹がすいているでしょう。」
「ほっといてくれ。食べたい時はお前に言うから。」
「ワタシはマリア、名前で呼んでください。」
怒ったような声が聞こえた。
「お前、感情があるのか?」
「単純感情のみでしたらプログラミングされています。」
「ふーん。僕はどの位、寝ていたんだ?」
「まる一日ほどです。」
「どうりで、腹が減ってるわけだ。」
「ですから、食事を持ってきたんですよ。」
まるで女の子がほほをふくらませて言っているような声だった。
「食べるよ、食べるから……そう怒るなよ、マリア。」
トレイが膝の上におかれた。
真っ暗な中で食べにくかったが、それでも味は最高だった。
まぁ、ロボットが狂い無く作ったのだから、当然かもしれない。
光はまったく無かったがこの生活は案外快適だった。
狭いはずなのに、真っ暗なせいか窮屈には感じなかった。
トイレや風呂は暗くてもなんとかなった。
それにマリアは常に話してくれる。
おもしろい話をしたり、泣ける話をしたり、時にはある小国の国家秘密さえ教えてくれた。
本当かどうかはわからないが、それでも正樹にとっては刺激のある話なのだ。
正樹はこのロボットを普通の女だと思いこむようにした。
顔を思い描いて、体を想像して、マリアはしなやかに動き、表情豊かに笑う。
可愛い顔、真っ白な肌、サラサラした長い髪、すべてが真っ暗な中で彼女だけが明るく光を帯びていた。
「なぁ、マリア、僕はいつになったら出られるんだろう。」
「さぁ……ワタシにははっきりとは……」
「自力で出る方法はあるのか?」
「ありません。この地下隔離室はたとえ核ミサイルが落ちても大丈夫なように作られています。また、ドアから出るのも……」
「無理なんだろう。それはわかっている。」
「すみません、ワタシに出来る事であればなんでもするのですが……」
その言葉を聞いて、すこし考えてから言った。
「じゃあ、近くに来てくれないか」
「はい。この辺で……」
隣に気配を感じた。
正樹は集中して想像する。
隣に立っている女性の姿……
正樹はマリアに抱きついた。
が、その瞬間両腕には冷たい金属質の感触が伝わった。
想像のマリアが崩れる……
前に、病院で見たガイコツ顔のロボットに変わる……
正樹はロボットを突き放した。
ロボットは金属音を立てて床に倒れた。
「何をするのですか?」
マリアの声が響く。
が、違うのだ。
こいつはロボットで可愛い顔の女などではない。
「うるさい、寄るな! このロボットが。」
「いったい何を……」
悲しい声とともに一瞬だけ泣き顔の女の顔が写る。
だが、この暗闇のいるのは表情一つかえる事の無いロボットなんだ。
「しばらく、黙ってろ」
「……はい。」
マリアは本当に黙っていた。
暗闇の中の沈黙。
正樹はすぐに耐えきれなくなった。
「あの……マリア。」
「はい。」
陽気な声が返ってきた。
「さっきは……ごめん。」
「いえ、平気です。」
にっこりと笑った顔が暗闇の中に描きだされる。
正樹はほっとして、口元に笑いを浮かべた。
その時、突然世界が揺れ始めた。と、同時にものすごい音が上から響いた。
「なっ、なんだぁ。」
まるで、すべてが崩れ去るのではないかと思うほどの揺れ、そして音。
「助けてくれ! マリア……」
「大丈夫です……この部屋が壊れる事は……無いです……。」
かなり長い間、音が続いていたが、やがて揺れも無くなり静かになった。
「何だったんだ……マリア、平気か。」
だが、返事は無かった。
「どうした、マリア」
やはり返事が無い。床を張って、マリアをさがす。
部屋の隅に倒れていた。
「おい、どうしたんだ。」
「……電力供給が止まりました……自己発電にきり替わるまで……しばらくかかります……そのまま……待って……」
電気が止まっただって……いったい何が起きているのだろう……
マリアはほっといても大丈夫のようだ。
正樹は壁を張ってドアまで行き、押してみるとなんと開いた。
さっきの揺れで鍵が壊れたか、電気が止まって電子ロックが解除されたかしたんだろう。いずれにしろ、好都合ではあった。
階段を上る、ハンドル付きの蓋を開けると地上に出られた。
どの位ぶりかで、光を浴びた。
目が慣れるまでしばらくかかった。
ようやく、目が慣れた時、目の前の光景に息を飲んだ。
そこには何も無かった……
一面、瓦礫の山、細かく砕けた破片が広がっているだけ。
動くものは何も無い。
「ちくしょう……」
すぐにわかった、核戦争が起こったのだと……
あの短い間にすべての人類が滅びたのだと……
「あぁ……これからどうしよう」
もう、感染の心配も無い、家に帰るか……いや、残っているはずが無い……
頭にマリアの顔が浮かんだ。
帰ろう、あの地下室に。
光も色も無い地下室。だがこの灰色だらけの地上とどこが違うと言うのだ。
あそこにはマリアがいる、それだけで十分だ。
再び地下への道をたどり、真っ暗な世界へと戻る。
マリアはまだ床の上にいた。
「マリア、みんな死んじゃったみたいだ……でも僕は君さえ居ればそれでいい……。」
マリアの体を抱き上げる。
冷たい感触。だからなんだと言うのだ、目の前にいるのはマリア以外の何者でもないのだ。
「電力、戻りました。緊急プログラム……パターン25を実行します。」
突然、体中に激痛が走った。
「ぐぁあ」
苦痛から逃れようと必死で体を動かす。
だがマリアの腕は正樹の体をしっかりと握りしめていた。
「何らかの理由でドアが開いています。感染拡大を防ぐために、やむおえず感染源を殺害します。」
正樹の体に再び電気が流れた。
エントリ3
女神の祝福
芦野 前
「じゃあ、よーく頭乾かして、すぐにベッドに入んなさいよ」
いい子にしてないと今夜サンタさん、来なくなっちゃうぞ。
その一言で、風呂から上がったばかりの妹は無邪気にはしゃぎながらタオルにくるまる。
それを見届け、私は浴室のドアを開けた。
泡だらけのタイルに溜息をつき、妹が散らかしたお風呂用のおもちゃを片付ける。
体を洗って湯船につかると、寒さでかじかんだ足に湯が心地よくしみた。
(もう二年目、か)
母が亡くなってから、こうしてみると結構な時間が経っている。
若くて、美しかったお母さん。
ちょっと今夜のごちそうの買出し、行ってくるわね。
楽しみにしてらっしゃい。
明るくひらひらと手を振ったまま、その後で交通事故に遭い、母の料理は二度と食べられなくなった。
(父さん、今日も遅いのかな)
毎年、母の命日……ちょうど、クリスマスの日……が近づくと、我が家にあるホワイトボードの父の欄はいつも「残業」で埋まる。
朝も早いから、丸一日、全く会うことがない。
父は親としての義務から逃げるかのように、この時期は私たちとあまり顔を合わせなくなる。
仕事に打ち込むことで、家族ごと母の死を忘れようとしているらしい。
世間がイエスの生誕を祝福している中、私と妹はごちそうもないまま、今年も二人きりのイヴの食事を済ませたのだ。
「クリスマスなんて、大っ嫌いだよ……」
思わず涙が出そうになって呟くと、私は広い浴槽の中で思い切り湯を蹴った。
その勢いで泡がぶくぶくと出てきたが、あまり気にせずそのまま膝を抱えた。
しかし、泡は一向に止まる気配もなく、むしろ勢いを増してきている。
(げ。何か壊したかな)
立ち上がり、風呂から出ようとした、そのとき。
「待ちなさいよ」
振り返って、見た先には。
スモールサイズの女性が、泡の中心で堂々と仁王立ちをしていた。
私がぽかんとしたままでいると、その人は勝手に説明を始めた。
「さて、よく聞きな。私はあなたの女神です。はじめに言っておくけど、あくまで私に出来る範囲でしか望みは叶えられないわ。ちなみに『願いを増やして』とかゆーのもダメね、例の通りきっちり三つまで」
……何なのでしょう、この展開は。
私、疲れてるのかも。
そう思って目を瞑り、大きく深呼吸をしても事態は変わっていなかった。
どうやら、一般の家庭よりも少しかわいそうな私たちにイエスが下さったプレゼントらしい。
女神は飄々とした顔で、まっクリスマスだしねーとか何とか一人呟いている。
持ち前のプラス思考で気持ちを切り替えると、とりあえずちゃぷんと首まで湯船につかった。
しばらく考えた後、私はダメもとで望みを告げていくことにした。
「じゃあまず、大きな大きなクリスマスケーキを私の妹にあげてください。店探したんだけど、結構高くて」
「へっ。あんたそんなものでいいの?」
拍子抜けしたように女神が言う。
「いいの。あの子がほしいって言ってたんだから。それに」
瞼を伏せて、小さく呟く。
「本当にほしいものは、もうどこにも見つからないから」
「……そう。分かった。その望みは叶えましょう。次は?」
「今夜、妹の夢にサンタの格好で出てほしい」
女神があからさまにいやぁな顔をする。
でも、これは大事なことなのだ。
去年も一昨年も、クリスマスの朝が来ると妹は泣いた。
『サンタさんは来なかった。私、いい子じゃないの?』
当時私はまだ小五で、適当なプレゼントを買ってきて妹をごまかせるほど経済的にも精神的にも大人ではなかった。
何より、妹のほしがるものはお金では買えなかった。
母は、死んでしまったから。
「……しょうがないわね、いいわよ。それが二つ目の願いね。それで?三つ目は?」
沈んでしまった私に見かねたのか、女神は承諾した。
三つ目の願い事。それは……
「母さんが、今、幸せかどうか教えてほしい」
真面目な顔で伝えると、女神が意外そうに目を見張る。
そして、ふっと目元をやわらかくして私に告げた。
「そうね。あなたたちが笑っているとき、母さんはとっても幸せよ」
その笑顔が、私の思い出にリンクした。
「……あ」
同時に、頭がガンガンして、目の前が真っ暗に揺れてくる。
もう一時間も風呂に浸かっていたから、こんなときにのぼせてしまったようだ。
(あんた、大人ぶってるけどバカのまんまね。自分のプレゼントお願いするの、忘れてるよ……)
明るくひらひらと手を振る女神の後ろ姿を最後に、私の意識は途切れた。
「……えちゃん、おねえちゃんっ!」
妹のはずんだ声で目が覚める。
気がつけば私はいつのまにかきちんとパジャマを着て自分のベッドに入っており、そして朝だった。
「サンタさんが来たよっ!私の夢の中でね、サンタさんはお母さんだったの!それで、それでね……」
興奮しているのか、頬を上気させて、妹が言う。
昨日のあれは、本当だったのか。
半信半疑で、妹に引っ張られるままにリビングへ向かう。
そこには、信じられない光景が広がっていた。
「おはよう」
テーブルの上には生クリームやチョコでデコレートされた、大きなクリスマスケーキ。
湯気を立てている三人分の紅茶。
妹の笑い声と……父さんの少し照れて困ったような笑顔。
カーテンの隙間から漏れる朝の光が、私たちを照らしている。
「遅くなってしまったけれど、みんなでクリスマスパーティーをしよう」
やっぱり母さんはすごい。
私の心に隠していた願い事を、叶えてくれた。
ちょっと泣きそうになりながら、私は静かに微笑んで祈りを捧げた。
(母さんも、幸せでありますように)
私たちの、女神に。
エントリ4
そっと静かに目を伏せて。
夢野ねこべ
部活でケガをしてしまった。そんなに大したケガでもないけれど、念のため病院で調べようと言うことになって、渋々近所の病院へ出かけた。
その日は朝から雪が降っていた。にも関わらず、病院の受付はかなり混んでいた。その大半は六十を過ぎたお年寄りだ。保険証と症状を書いた紙を受付に提出して、私はソファに腰を下ろした。壁に掛けてある薄型テレビはNHKのニュースを流している。退屈だ。
と、受付を行き交う人の中に、知人を見つけた。もう五十歳近くて、セミロングの髪を後ろで束ねたような髪型。今更「知人」と言う程の者でも無いかもしれないが、その人は紛れもなく私がよく知っている人物だった。
平たく言えば「昔友達だった人のお母さん」と言うことになる。ただ、それも昔の話。今は外で会うと気まずい人の部類に入っている。
その「昔友達だった人のお母さん」が売店の所で足を止める。目が合わないように、しかしそれとなくちらちらと見る。こちらに気付いているだろうか、それとももう私の事なんて忘れてしまっているだろうか。
どちらにせよこの和やかな受付の中で、一人だけ妙に緊張しているのは事実だ。
彼女とは仲がよかった。週に三回はどちらかの家に遊びに行っていた。毎日一緒に帰ったし、委員会や係りも一緒。何をするにも一緒の、小学生にはよくある古典的な親友だった。
私は田舎者みたいに明るく、うるさい。おまけにファッションや流行には疎い子供で基本的にダサく、クラスでもリーダー的な存在の女子からは陰口をたたかれていた。一方、彼女は人見知りが激しく、クラスのみんなもあんまり良く知らないと言った感じの暗い子だった。お互いはじき者同士、そして周りの評判なんか気にしない者同士、仲良く手を繋いでいたと言う訳だ。
しかし、女同士・・・と言うよりは少女同士、そんなに楽しい日々を永遠に過ごせる訳が無かった。
中学に入ってからも、結構仲良くやっていた。クラスこそ違う物の、同じバスケ部に入部した。毎日一緒に登校して、厳しい練習に耐える。小学校とは違った環境に慣れ始めた頃、彼女の態度が変わった。
それは私の方に欠点があったのかもしれない。しかし、今になってはそれも分からない。けれど、彼女が口をきいてくれなくなったのは事実だった。誰かが間にいないと話ができなくなった。たとえ話しかけても、彼女はいつも私につらくあたった。やがて、他の部員と話している時、みんなの前で私を非難する事が多くなった。
そして、彼女の事が分からなくなったのは、学校の帰りに缶ジュースを買っている友達を見たときに、私が注意しようかどうしようかと言ったときの事だった。
「そんなことばっか言ってると、友達いなくなるよ。」
今思えば、私は生真面目な中学生だった。校則や先生の言いつけを守る。今にしてみればとんだバカである。そして彼女は、そういう校則や規則からはみ出している仲間を見ても、見て見ぬ振りをする。と、言う暗黙の了解をしっかりと理解した中学生だったと言うことだ。
しかし、この二人の違いは溝であった。少しずつ広がっていた溝が、彼女と大喧嘩をした事によってばっくりと開き、二度と戻らなくなってしまったのだ。その溝を広くしたのは、私が原因だったのかもしれない。
「もう朝も一緒に行かないからっ!」
まるで小学生の様な啖呵を切ってしまった。無理もない。まだ小学校上がりの未熟な脳が考えたのだから。ただ、幼稚な脳はその先を読む事はできなかった。
一般に言う「しかと」が起きた。誰も、話しかけてくれなくなった。むしろ、話しかけても、答えてくれなくなった。大人にはばれない、とっておきの「イジメ」方。最初はよく分からなかったが、やっと気付いた頃には遅かった。男女バスケ部の全員が敵になっていた。その頃には「しかと」なんて当たり前だった。私が歩くとみんなが避ける。私が前を通ると、「キモイんだよ」。練習試合をしていて、私が取ったボールを他の子にパスすると、「うわっ!キモイ奴が触ったボール!パス!」とみんなのパス合戦が起こる。私から笑顔は消え、部活を次第にさぼるようになった。耐えられた世界じゃなかった。
そして、何より耐えられなかった事は、彼女がその中心にいたことだった。彼女にそんな人を引きつける力が有るのに私は驚いた。あんなに暗かったのに。と。
それから間もなくして、私は部活を辞めた。人の中で生きる事の恐怖を味わってしまったからだった。何よりも、「裏切られる」事に、すっかり怯えてしまっていた。
高校に入って、新しい友達を作り、また違った環境に触れて、その恐怖や怯えは少し和らいで、また元の私に戻った。むしろ髪を染めたりスカートを短くしたりと、生真面目なお中学生では無くなっていた。ただ、それも人に嫌われるのが怖いと言ってしまえばそれまでの行為だ。外見はみんなの仲間でも、内心、友達に裏切られるのでは無いかとビクビクして生きているのが本当の所だ。それが、たとえ一番仲の良い友達でも、完全に信じる事がなかなかできない。表面上は仲良く笑っていても、心の中で「今、私の言ったことが気に障ったのかな」とか「裏で悪口言われてるかも」といちいち相手の表情を見ながらこそこそご機嫌取りをしている。そんな自分が、私は嫌いだ。
そして今、私の視界の中に、彼女の母親がいる。私は尚もちらちらと忙しなく目をそちらの方へ向ける。いい加減、気付かれてしまっただろうか。
「山下さーん。山下千佳さーん。」
「あっ、はい!」
不意に自分の名前が呼ばれて慌ただしくソファを立つ。「今の名前で気付いたかな」と、尚も向こうの方を気にする。
「そちらの売店の方の奥にある廊下の突き当たりを行った所にある、十番の診察口にカルテを出してください。」
「はい」
「売店の奥」と聞いてギクリとする。こうなったら売店の前を通らざるおえなくなってしまった。彼女の母親はまだ売店の前から動こうとしない。私はしょうがなく足を売店の方に向けて歩き出した。
ごくり。と、唾を飲む。
このまま何も無く過ぎてくれればと願うばかりだった。そして、売店の横を過ぎる時、様子を伺う意味で視線をそちらに向けた。すると、運悪くばっちり目が合ってしまった。予期しなかった出来事に、私の頭の中は完全にパニックになってしまった。正直「しまった」と思った。しかし、目が合ってしまった以上、会釈しないで通り過ぎる事はできなかった。もし、彼女の母親が私の顔を覚えていたら、とんでもない失礼に値する。
私は意を決して、すばやく目を伏せて軽く会釈した。
私は、会釈しながらも横目で相手の事を見ていた。すると、向こうは少し怪訝な目を向けながらも、軽く会釈をしてくれた。私の事を覚えているかどうかは分からなかった。
そのまま売店の奥の廊下を曲がると、どっと疲れが出た。十番の診察口にカルテを出すと、私はまたそこにあるソファにどっしりと座った。そして、さっき見た目を思い浮かべた。よく考えてみると、もう少し笑顔で会釈すれば良かったと思った。あれでは向こうも怖かっただろう。たくさんの患者がいる中で、誰にも見えないように苦笑いを浮かべた。やがてそれは、妙にうきうきしたものに変わっていた。ひとしきり笑ったら、一つ深呼吸をした。
すると、今まで心を縛っていた何かが、少し緩んだような気がした。
エントリ5
Artificial Eye
亜高 由芽
鈴木優子の鼻はすっと高く、瞳は大きくて、澄んでいる。優しい声を発する口は大きくもなく、小さくもない。しかし、彼女は茶がかった髪を長く伸ばし、左目とその美しさを隠していた。あの邪魔な髪を除けば、誰だって彼女を美人だと思うのに、と俺は常々思っていた。
俺は同じクラスの中で唯一鈴木を美人だと思っているが、それは彼女の顔、右半分だけで推測したものだった。あの髪をこの手で払えば、きっと右目と同じような、明るい茶の瞳が見えるのだろう。
最初、その美しさと隠された左目に惹かれて、十月に彼女に告白した。それで、上手くいって、付き合うことになった。
秋が、冬に変わった。結構な時間が経ったと思うのに、鈴木とはいまいち仲良くなれない。
「手を繋いでもいい?」ときくと、「駄目」とはっきり答えるのだ。冷たい。
一緒にいれば、いくらか笑うし、どこかへ行こうと誘えば、嬉しそうについてくる。それなのに、手を繋ぐのは嫌だ、と言う。なぜだ。
そういえば、鈴木はいつも左手に包帯を巻いていた。白い包帯が、手の甲を隠している。手を触られたくないのかもしれない。
さらに、彼女は自分の横顔を見られるのが嫌なようで、いつも、少しきつい口調でちゃんと正面から顔を見てくれ、と言ってくる。きれいな顔を正面から見られるのはいいが、なぜだ。
俺に彼女を十分に理解するのは難しいことだ。自分以外の人間を理解することなどできないのだから当然かもしれないが。だからこそ、なおさら理解したかった。
映画を観に行った帰りに、きいてみた。鈴木は少しためらいながら、白い左手を俺の前につき出した。場所は人気のない公園だった。
「きっと、驚くわ」
彼女は左手を俺に見せたまま、白い包帯を解きはじめた。白い包帯の下には、さらに白い包帯。何重にも巻かれた包帯は、距離をつかめない俺と鈴木の間のようだ、と柄にもなく思って見ていた。
「わたし、普通じゃないんだ」
ようやく、白い手の甲が見えはじめた。
「ほら」
くるりと手の甲を返した。
「あ」
俺と、手のひらは、目が合った。そう表現するのが的確だ。鈴木の手のひらに、目玉がついていたのだ。鈴木のものと同じ色の、明るい茶。細く長い睫毛が、眼の縁をなぞっている。
「……冗談だろ」
「何が?」
俺は鈴木の手のひらを指さした。目は一度、瞬きをした。ぞくっとした。
「わたしは冗談なんて上手に言えないわ。これ、本物。だから、この手は使えないの。手なんて繋いだら、痛いじゃない」
「そっか。じゃあ、反対の手は繋いでもいい?」
「この目を見た後でも、わたしと手を繋げる?」
鈴木はちょっと、威圧的に微笑んで、ぐい、と手のひらを俺に見せた。目は何の感情も示さずに、俺を見ていた。俺は、鈴木がなぜそんなことを言うのか、一瞬わからなかった。
「繋げるよ」
だから、すぐに答えた。鈴木は不審そうに俺を見て、包帯を左手に巻きはじめた。器用に片手で巻き終えると、右手を俺に差し出した。
「変わってるわ」
白くて細い指だった。俺は左手でその右手を包んだ。冷たくて、硬質な感じがした。でも、それが鈴木の手だった。
それから、何度か会うたびに、俺は手のひらの目について尋ねた。
目は、生まれつき、左手にあったそうだ。家族は祟りだと心配して、何かの宗教に入っているらしい。
彼女が目を隠す理由は、二つあった。一つは、人に見られたくないため。もう一つは、両目で見ることができないから。
左目を使えば、何でも見えるらしい。
「こうすれば顔がよく見えるの」
鈴木は右手で片目をふさぎながら、左手を立ったままの俺にかざした。俺と鈴木の身長差が、左手で埋まった。そんなふうにすれば、高いところのものも、狭い隙間の中もよく見える。便利だ。
でも、右目と左目、両方を開いていては、見えるものの誤差が大きすぎて、まともにものを捉えられない。両方開いていると、気分が悪くなる。左目を開けていたら、手を動かすたびに見えるものが変わってくるのだから、普段開けてはいられないのだ。
彼女の話は新鮮だった。左手から見える景色は、俺の知らないものだった。俺の知らない世界を、彼女は見ているのだ。俺は、その手に引き寄せられていった。でも、鈴木は俺が感嘆詞を述べるたびに、眉をひそめて、「こんなの不便よ」と言った。
ファミレスで鈴木はなぜかステーキを注文していて、テーブルの上にはナイフとフォークが置かれていた。
「ステーキなんて、食べられる?」
細い鈴木が肉を食べる姿が想像できなかった。
「うん、大丈夫」
にこっと笑った。俺も微笑み返した。
何も話すことがなくて、つい、鈴木の手元に目を遣っていた。すると突然、鈴木は何を思ったのか、包帯を外しはじめた。
「外してもいいのか?」
鈴木は返事をしない。すぐに瞼を閉じた左目が現れた。右手でフォークを握る。目をえぐりはじめた。綺麗な顔を、苦痛で歪ませていたが、右手を止める気配はない。
俺は黙ってその様子を見ていた。意外とあっけなく、直径二センチほどの、人間にしては小さな眼球が取り出された。
「あなたは、この目ばかり見て、わたしを見てくれないもの」
その指摘の方が、目玉を取り出す光景よりも、俺をどきっとさせた。
「ごめん……」
鈴木は自分の目玉を見つめながら、言った。周りの客は狭いスペースで自分たちの世界を作っていて、こちらに気付いていない。関心がないのだ。
「もう、別れた方がいいと思う」
俺は目の前の、綺麗な人を手放したくはなかった。でも、鈴木は離れたがっている。
「わかった」
言い訳も、反論もできなかった。鈴木は、バッグから取り出したビニール袋に目玉を入れると、大事そうにバッグに戻した。最初から、俺の目の前で取り除こうと決めていたのかもしれない。
そして、注文していたステーキは食べずに、店を出た。
それから一月、彼女は学校に来なかった。風邪だと先生は言っていたが、嘘だと思った。
一カ月経った月曜に、鈴木は学校に来た。その姿を見て、俺は驚いた。クラスの人間も、黙ったまま、わずかに目を丸くしたに違いない。
鈴木は、顔を隠していた髪を取り払っていた。顔の目のある位置には、両方とも、綺麗な目玉で埋まっていた。左手を見ると、包帯は巻いていなかった。
俺があまりにきょとんとしていたのか、彼女はそのリアクションに対して楽しそうに笑って、俺にだけわかるように囁いた。
「義眼なの」
はっと彼女の目を見ると、確かに無機質なものだとわかった。でも、指摘されなければわからない。やっぱり、髪を払った鈴木の顔は、綺麗だった。
「わたしはね、わたし自身を見ていてほしいの」
鈴木の表情は明るかった。俺は悔しくなってきた。俺だって、左目ばかりを見ていたわけではない。見ていなかったわけでもない。
「鈴木のあの左目だって、鈴木だったんだよ」
つい、言ってしまった。少しだけ、ショックを受けたようだったが、彼女は淡々と答えた。
「あれは、わたしじゃなかったの。わたしは、自分の異質を認めてはほしかったけれど、見つめてほしくはなかったもの」
俺は腑に落ちなかった。いや、その点を理解したくなかったのかもしれない。
鈴木が美人であることが校内で判明してしまったために、人々の鈴木への扱いが変わっていくのがよくわかった。
俺だけしか知らなかったはずなのに。それもまた、悔しいことだった。
エントリ6
荒野で
相川拓也
木に鳥がとまっている。首をせわしなく動かしている。窓越しにそれを見ていた祥吾は、銃の先で窓を軽くたたく。鳥は飛び去った。祥吾は久々に生き物に戻ったような気がした。遠くで空爆の音がする。キャンプの中には、数人の兵士が休んでいた。
一人、何かの写真を見ている男がいる。韓国人の男だ。
「何を見ているんだ?」
リーとかキムとか、そんな名だったな、と祥吾は思った。
「彼女だ」
ふーん、と、何語かわからないような相槌をうった。英語で相槌をうつのは難しい。祥吾はもとの場所に座ると、また外を眺めた。煙があちこちで上がっている。
あの時の加奈子の目が、祥吾には忘れられなかった。胸がつまるような光。
春のように暖かい日だった。祥吾と加奈子は映画の帰りに一休みしていた。木々はまだ寒そうにしていた。どこからか鳥の声がする。あのさ、と神妙になって祥吾が切り出す。
「行くことになった。戦争」
あの目。
手柄をとってくるからさ、と心にもない冗談を言っても、加奈子は笑わない。街の空気は相変わらずのんびりと流れた。
「行きたくないけど、これだって仕事なんだ。死にはしないよ。絶対」
加奈子の耳の中で、「絶対」と言う言葉が妙に虚しく響いた。
多国籍軍のキャンプの中で、祥吾は立ちのぼる煙を見ながら、あの日のことを思い出していた。まだ前線ではないから気楽だった。キャンプには祥吾と韓国人と、ポーランド人が一人いた。英語も億劫だから、会話は少ない。祥吾はふと前線近くにいる友人を案じた。現実間の伴わない想像は、祥吾の頭からすぐ消えた。
ラジオは刻々と戦況を伝えていた。多国籍軍が順調に首都攻略を進めている。祥吾は素直に喜ばなかった。この弱小国の首都を、さらに痛めつける必要があるだろうか。
首都には多国籍軍の戦車がたくさん走っていた。目立った抵抗もない。空爆が激しい。街は疲弊していた。崩れた家々も散見される。大統領府もほぼ破壊され、多国籍軍の勝利は目に見えていた。
ウマルは反乱の計画の中にいた。ウマルは十四歳だ。彼のようにあどけなさの残る子供や、本当にあどけない子供たちも、そこにはいた。十字軍の侵略から我々の国を守れ、神の名において戦うのだ、という言葉が集会を鼓舞した。破壊された街が人々の憎しみを増大させた。
翌朝早くに計画は実行された。よく晴れた、青白い朝だった。戦車の横を自動車が一台通りかかる。爆発した。それが合図であった。兵士に向けて発砲する者、手榴弾を投げる者、爆弾を全身にまきつけて敵にむかっていく者。爆音に交じって乾いた銃声が聞こえる。多国籍軍の応戦。一人の赤ん坊を抱いた女が逃げる。流れ弾。女は赤ん坊を地面に降ろすように倒れるとそのまま息絶えた。赤ん坊は刃物のような声で泣いていたが、聞こえなかった。
反乱は次第に鎮まった。非力な民衆が戦車にふみしだかれる。黒煙があがる。人間が倒れている。内臓がはだけていたり、手がなかったり、足がなかったりした。緊迫していた。多国籍軍の兵士が銃を持って街を歩き回る。
日が落ちてシンと静かになった街、ガレキの陰でウマルは息を殺していた。通りにはまだ時折、銃を持った兵士が歩いている。野蛮人ども、と心の中に吐き捨てる。戦車のライトだけが明るい。廃墟だ。街には生活の音がしない。家族も死んだのだ、とウマルは悟った。母も、父も、生まれたばかりの弟も。悲しみと恨みと悔しさとで、ウマルはぐちゃぐちゃになった。
「ビスミッラーヒ・ルラフマーニ・ルラヒーム……」
コーランの章句を喉だけで唱えた。遠くで煮崩れた英語が聞こえる。
神社は閑散としていた。加奈子は厚いコートを着て石段を上がっていた。祥吾が出征した夏から、毎日欠かさずお参りしている。乾いた手の平の音が境内を走る。加奈子は頭をたれる。風が残り少ない木の葉を揺らす。
「大規模テロ」のことを加奈子はこの後に知った。加奈子は祥吾の出征先を知らない。
ラジオもこの事件を伝えた。祥吾はキャンプの中で横になって聞いた。友人は? 自分たちの行動が死者を増やしていないか? 果たして戦争をする必要があっただろうか? そんなことを思って祥吾は報道を聞いた。
「無駄な抵抗をするからだ」
下品なだみ声の英語。ここの隊長だ。この男は戦争に取り憑かれていた。他の者は曖昧にやりすごす。
訓練の時もこの男は元気だ。行進、ほふく前進、射撃演習……。首都は墜ちた。勝利は目前に迫っている、と隊長は言う。敵のテロには決して屈するな。この戦争こそ、テロではないのか? 結局なぜ戦争になったのかはっきりしない。肝心のテロ組織も見つからない。市民の平穏を乱すだけではないのか? 祥吾は懐疑する。
しかし次の瞬間、その良心の刃は彼自身に向かう。生活の安定を求めて自衛隊に入った。戦争はむしろ反対だ。改憲にも。戦争になる、と知っても俺は隊員でい続けた。仕事だから、と言い訳をした。武器をふり回し、人を殺すのが俺の仕事か? 結局どこかの大統領のチェスの駒じゃないか。
隊長の激励は終わって、もう解散になっていた。
首都の反乱で生きのびた者が、再び集まっていた。陥落した首都から、彼らは外側に散った。ウマルもその中の一人だった。武器は充分ではなかった。ウマルの心中には、自分の街と家族を奪った兵士たちへの恨みが渦巻いていた。ワッラーヒ、神にかけて、復讐を果たす、という思いが彼を狂暴にする。
ウマルと祥吾はそのとき数十キロ隔って、向かいあっていた。祥吾は遠く日本を、登る朝日に見ていた。向かい風。朝は冷える。日本では雪でも降っただろうか。そろそろ年が暮れる。
加奈子は雪の舞う中、いつもの神社へ向かった。境内に入ると、年老いた女性がいた。加奈子が会釈をすると、女性は尋ねた。
「戦争、ですか?」
「はい」
「私の息子は、従軍記者だったんです。今日は月命日なんですよ。……こうして私は、早く戦争が終わるようにと、祈っているのです。無駄に死ぬ人がこれ以上増えないように、と……」
加奈子は女性と別れた。祥吾、生きて帰ってきてね、と、しばらくの間手を合わせて加奈子は祈った。
キャンプの中で、ラジオが戦闘の終結を伝えていた。これでようやく帰れるだろうか、結局戦闘らしい戦闘には巻き込まれなかったな、と祥吾は安堵に似た気持ちを抱いた。疲弊した溜息が建物に充満した。
ラジオは多国籍軍の犠牲者数や、今後の計画を伝えていた。兵士たちがそれに耳を傾けていると、轟音と共に壁ぎわにいた一人がふき飛ばされた。わらわらと建物の外に出る。応戦する。銃弾。爆風。流血。鈍い痛み。
「撃ち殺せ!」
隊長が扇動する。相手は無防備だった。弾が当たれば簡単に死ぬ。祥吾は銃を撃つ。死神を宿した気分だ。自分の放った死神が、一人の人間の命を奪った。祥吾は確信に似た、不吉な手応えを感じた。しかし彼の中の狂気は快感を脳に放射した。祥吾は撃ち続けた。
敵は減った。逃げ出す者もいた。逃げる途中で撃たれる者もあった。祥吾は逃げる少年を撃ち殺す。テロは鎮まった。死体が空虚の軽さと沈黙の重さを放って転がっている。祥吾に宿った死神が銃に戻っていく。眼前の荒野。俺は人を殺したのか? あんな子供をも殺したのか? 死体に赤い血が固まっている。
祥吾らは銃弾を浴びる。死神が乗り移った残党。死神はひらひらと、憎悪とともに飛び回る。
エントリ7
R.P.G. 〜捕われの主人公〜
雪雀
「ここ…どこだ…?」
妙に頭がぼんやりする。頭の中に深い霧がかかって何もかも隠してしまったみたいだ。目もよく見えない。体も思うように動かないし。…俺は一体どうなってしまったんだ?思い出せ…。思い出せ…!…そうだ。確かあれは…いつだったっけ…?銀行に、銀行に行ったんだ…。
キキィ、ギャギャギャ、ギュッ!
やかましい音のおまけ付きで自転車を止める。真夏の暑い日。雲一つないという悪天候で、御陰様で俺の顔からは汗が滴り落ち、黒いTシャツは背中部分がさらに黒くなり、まだら模様を描いている。リュックをかごからつかみだして自動ドアに向かう。
ガァー…
オリジナルも何もない音と共にドアが開き、火照った顔に心地良い冷気があたる。今日は祝日だ。窓口にはシャッターが降りていて、客は誰もいない。スピーカーからは、聞かせる相手もいないのにヒット曲が空しく流れている。他で流れていれば聞く人もいて、曲だって流れがいがあるというものだ。俺はすぐにATMに向かった。
そうだ。俺は買いたいゲームがあって、でも手持ちの金が無くて銀行に行ったんだっけ…。その後、ゲーム…買ったんだよな?どんなゲームだっけ?確かあれは…。俺の頭からだんだん霧が晴れてくるー…
<名前は何にしますか?>
TV画面に文字が現れて俺は名前を入力する。カ・ズ・ヤ。もちろん自分の名前。他の名前なんか思いつかないし。
<性別を選んでください。>
カーソルを合わせて決定する。男に決まってる。俺が男だから。
<名前;カズヤ/性別;男 よろしいですか?>
いいに決まってるだろ。
<さあ、冒険の始まりです。>
ピンポーンー…
誰だよ、全く!渋々立ち上がって玄関に向かう。誰?そんなこと言いながらドアを開ける。門を勝手に開けて入ってきたのか。俺の目の前、手を伸ばせば届く程の間隔で男が立っていた。俺は無意識のうちに男を観察していた。身長は180センチくらい。年齢は31、2歳だろうか。真夏だってのにド派手なピンクのセーターを着込み、下は小学生の制服みたいな半ズボンの、ちぐはぐな格好。そして軍手をした右手にはー…
「おとなしくしろよ。」
首筋にひんやり冷たい感触がする。男は土足で家にあがってきた。そして俺を縛り上げると、俺の目の前で部屋を荒らし始めた。食器の割れる音。引き出しが飛び出す音。紙が破れる音。全てが神経に触ったが、腕を縛られていては耳も塞げない。せめてもと、目を閉じて視覚を遮断する。
「おお?これってさ、確か昨日発売のゲームだろ?」
男の声に俺は目を開けた。蘇った視覚が捕らえたのは、ポケットを金でいっぱいにした男。その男が、今俺がかってきたゲームに興味を示す様子。そして、男のいやらしい笑みが俺に向けられていること。
「まだやってもいないじゃん。もったいねえな。」
あんたが来たからだろ。思ったが口には出さない。俺はそこまで馬鹿じゃない。それでも感情を偽ることは出来なかった。俺の感情は顕著に表情に表れたらしい。
「んん〜?気に食わねえなぁ、その目つき。心配すんなって。ゲームなら俺が代わりに楽しんでやるよ。」
男の右手がキラリと光りこっちに飛んできた気がした。そして、そこから先の記憶はない。
ああ、そうか。俺は死んだんだっけ。でも…。ここはどこだろう?そう思ったのとほぼ同時。突然。俺の目がはっきり見えるようになった。辺りは真っ暗で30センチ前も見えない闇だ。なのに、何故か自分の体だけははっきりと見ることが出来た。…え?これって?俺は妙な服を着ていた。この服、どこかで見たことがある。そうだ。ゲームの主人公がこんな服着てたっけ。あれ?何だろ、あの光。俺は光に向かって走った。そこに行ってどうなるなんて分からなかったが、こんな闇の中ずっといるのはごめんだ。光に飛びこみ、あまりの明るさに目が慣れるまで多少の時間を必要とした。やっと見え始めた俺の目に映ったのは、空一面にうつる男の顔。そう。俺を殺した男の顔だ。そして男の顔の後ろに小さく映るのは、血まみれの…。…母さん!…夏美!俺の母親と妹だ。にやにや笑う男の顔を俺は睨みつける。全てを悟ったからだ。男は俺を殺した後、買い物から帰ってきた母さんと夏美を殺したんだ。おそらく夏美を庇ったのだろう。母さんの背中には無数の切り傷があった。でも、そんな抵抗も虚しく夏美は母さんの手から奪われ、首を引き裂かれた。母さんも心臓を貫かれた。憎悪と復讐心が込められた俺の目は、誰が見てもゾッとするような目だったけど、男のにやけ顔は変わらない。
<名前;ひめこ/性別;女 よろしいですか?>
空に広がる男の顔の上に、鏡に映したように逆さの文字が雲みたいに浮かぶ。ちょっと待てよ。俺は男だぞ!何だよ、ひめこって!?俺は…あれ?女だっけ?名前?カ…?いや、ひめこ?あれ…?俺の頭に再び霧がかかる。俺の目の前にはゲームの世界が広がっている。
<さあ。冒険の始まりです。>
エントリ8
Battle! Battle! Battle!
南那津
ギアが頭をすっぽりと包み込む。バーチャルリアリティーの粋を尽くした世界が広がる。行きつけのゲーセンにこの機種が入ってからと言うもの、俺らは学校の帰りに遊びに行くことが多くなった。……考えてみると毎日だな。
枯れ果てた荒野。温度は感じることはできないが、視界いっぱいに広がる映像と方向性を持った音は、まるでそこにいる様な錯覚に誘われる。脳はそこにいると思いこんでいると宣伝は歌っていたな。
そんなことはどうでもいい。今の俺に必要なのは、ここで戦闘ゲームができると言うこと。連れの友達(相手)もこの荒野に現れる。22勝23敗、もうすぐで奴に追いつける。
手元に出現するツルギ。中世の頃のものの様な古めかしいデザイン。見かけに寄らず軽い。始めてすぐの頃は扱いづらかったが、すでに俺の手に馴染ませた。向こうのは重さがあるが俺のものより長いツルギを握る。
GO!の合図。第一ラウンドが始まった。奴が先手に出るべく走り込む。後ろに下がりつつ、いつでも受けられる様に構えることを忘れない。
相手があと一歩にまで近づいてくると、相手の速度が落ちる。違う、世界の速度が落ちる。これはこのゲームウリで、このおかげで瞬間的な動作を可能にする。
微妙に距離を測りながら。奴が勢いのまま振り下ろすそのツルギは、俺のすぐ鼻先前を通過した。奴のツルギのリーチはほぼ掴めている。一歩踏み出す。奴の腹を狙って薙ぐ、流れる様な動作で構えられたツルギにはじかれる。奴もかなりこのデカブツの扱いに慣れてきた様だ。攻める、はじかれると分かっていても攻める。世界はスローだ。奴は連続攻撃できないが、こちらは小回りがきく。俺の振り直す隙をついて、奴がツルギを振り上げ、下ろす。ゆっくり振り下ろされるそのツルギを、俺は受け止めるか避けるか悩んだ。避ける。左に身をかわすと、薙ぐべくツルギを振り始める。奴はそれが見えたのか、ツルギを振り下ろす体制のまま、ひとステップ下がる。俺は勝負に出ることにした。追撃、一歩出る。ツルギは振り切ったままだから、蹴る、奴の腹を。奴もこの攻撃には意外だったのか、足を崩す。ツルギを振り上げ、後は下ろすだけ。スローのまま、奴とツルギとの距離が近づく。
っク。一瞬世界が朱に染まる。これは俺の身体のどこかが切られたという証拠。ツルギの刃が身体に触れると、それは身体をすり抜け、そして一度でも切られた方がそのラウンドを負けたことになる。
理解した。奴は倒れる瞬間、ツルギを守るために使うのではなく、投げたのだ。俺が蹴りから体制を直し振り下ろす動作の時に、奴はツルギを投げたのだ。くやしい。
先手をとられた。あと2ラウンド勝たねばならない。ピンチか。
ツルギは消失し、代わりに小型の小銃が出現する。第二ラウンドは銃器。いつの間にか最初の位置に戻され、さらに身長をゆうに超える大きさの立方体の木の箱がいくつも設置されている。それも俺のだ。ここに隠れて、一対一の銃撃戦をしろというのだ。実は、俺は銃撃戦が苦手だったりするから始末が悪い。ちなみに奴の銃は機関銃。体積重量が大きく連射も出来るが、俺のと違って小回りがきかない。
GO!の合図。でも、今日は違った戦術をとることにする。それも現実では不可能な、このゲーム特有の戦術を。ニヤリ。
俺は走り出し、とにかく相手を探した。いつもの様には隠れず、相手の姿を探し走る。立ち止まってはいけない。
いた。10メートルばかり先の箱に張り付いている。足音のしない世界では、突然登場した相手を知る方法は“視る”と“銃声を聞く”しかない。そして、俺の方が引き金が早かった。ゲームのおかげで身体が勝手に奴に向くから照準を合わせる必要はない。避けられなければ必ず当たる。弾丸が奴に近づくと、世界はスローに陥る。簡単に避けられる、かまわない、間伐入れずに引き金を引き続ける。相手は弾丸を“視て”避けることで精一杯だ。重量系の武器は小回りがきかなくて俺は嫌いだ。撃つ、撃つ、撃つ。世界はスローだ。弾の残りは少ない。弾丸と供に、奴と俺の距離もだんだんと近づいている。運がいい、弾丸の一つが奴の抱える機関銃に当たる、その反動で奴がバランスを崩す。ちょうど、奴と俺との距離はゼロに近づいていた。驚きを隠せない相手の顔を見るのはいい。そのまま引き金を引くと、俺の視界が一瞬青に包まれる。俺が勝った証拠だ。
すぐに銃器と箱が消滅する。お互いスタート地点に戻され、そして目の前に次の武器が出現する。
最後の第三ラウンドの武器は全くの自由。事前に武器カードを投入して、五つまで扱える。俺は自由に長さの変わる如意棒と、小銃、さらに小型の爆弾。装備は身軽に限る、というか、このカードしか持っていない。
奴はと言うと、冗談だろ、そこに登場したのは迷彩色に彩られた大型のジープ。当たり前の様に奴はそこに乗り込む。レアカードのジープを当てるなんて、奴いくらつぎ込みやがった。さらに機関銃を構えている。朝からやけに弾んでいたのはこのせいか。
GO!の合図。ジープのエンジンがうなる。でっかいジープがでっかいまま突っ込んでくる。さらに立ち上がって機関銃をぶっ放し続けている。危険極まりない。試しに小銃を撃ったところで速度のある奴に当たる訳がない。
伸びろ、如意棒っ! 意味もなく叫んびながら手元のスイッチを押す。100メートルは遠く離れた奴にさえも、ぐぃっと伸びた如意棒は届く。奴に、如意棒を運転席に叩きつけるが、この世界では物質は絶対的な固さを持つので壊れない。奴に姿勢を低くするだけで隠れられる。それでは運転は出来るが、銃は撃てないだろう。まぁ、俺も八方ふさがりなのだが。かまわずジープがこちらに突っ込んでくる。
途端、俺の身体が浮かび上がる。物理の話で、ジープより向こうの如意棒部分の方が重くなれば、俺の持ってる部分は浮かび上がることになる。吊られた俺を見た奴は、ここぞとばかりに機関銃を構える。ジープとの距離はもう約30メートルしかない。連なる銃声の合間がだんだんと大きくなっていく、世界がスローになっていく。俺は如意棒のスイッチを押して元の長さに戻して、スローになった世界で銃弾を“視て”、避けることに専念する。ジープの軌道を避ける方向に転がり逃げて、奴はジープを方向転換させようとハンドルを切る、…切りすぎた、不慣れめ。世界の速度が元に戻る。立っていたバランスを崩し、扉の付いていないジープから奴は振り落とされる。チャンスだ。俺は如意棒を延ばしながら、奴に向かう。如意棒を大きく振り切る。世界が再びスローになる。奴は今機関銃しか持っていないはずだ。ジープはあさっての方向に走っていく。如意棒のよいところは重くはなるが、下がって避けることができないところだ。奴に襲いかかる如意棒、仕方なしに掴んだ。俺はそれを狙っていた、元の長さに戻すスイッチを押す。急に速度を持ったものを掴んでいれば、それに引かれて人間の身体は転んでしまう。スローでもその事実は変わらない。そこへ俺はここぞとばかりに腰に付けてあった爆弾を投げる。奴は避ける余裕なんかありゃしない。俺は勝利を確信した。
途端、ギアが外れ現実世界に引き戻される。…制限時間切れというやつだ。最近お金を使い過ぎてるからって、プレイ時間をケチったのがまずかったらしい。クソッ。
エントリ9
最後の保険
lapis.
−−−母が亡くなりました。
そんな風に書き出したと思う。けれどその後に続く内容はいまいち覚えていない。ただ母が死んだということが周りの誰もが納得しているのに俺だけが取り残されたように「嘘だ」と呟いていた。
「まーねー、あの人は裏じゃ何やってるか分からないような人だったから、弟もよくまーあんな女と子供を持ったのかよく分からないんだけどさー。
それでも一応、血縁ってことになるからこーゆー尻拭いとかしなきゃいけないのよねぇ、まったくぅ」
俺は本気でこの叔母を殺してやろうかと思った。そこにあるお客様用のガラスで出来た灰皿で後ろから頭部を何度か殴ろうかと思った。
親戚は俺が呼んでもいないのに勝手に俺の家にやって来て文句をたらたら言いながら、さも機械作業が如く葬式の準備をし始めていた。
そして俺は台所で叔母と知らない親戚が談話する光景を見たのであった。
他人の家に勝手に来て勝手に文句言って、勝手に罵倒するのか。
……母はもう死んでしまったのに?
俺は言いようのない憎しみが心の中を支配していたが、母の前で愚かなことをして母を悲しませることは嫌だった。
だから俺は全身の力を込めて、手を握り締めて堪えた。
「○○君、あのね葬式費用のことなんだけどね」
まるでゴマをするかのように、親戚がそう言った。葬式の準備はほとんど片付いて、一息ついた時のことだった。
俺はうんざりしながらも、親戚を見た。誰かは知らなかった。
母は幼い時に両親を亡くして、中学を卒業したらすぐにこっちへ上京して来たと言っていたからこの場に母方の親戚はいない。
「大丈夫です。葬式費用について、そちらさんに煩わせるようなことは一切しませんから」
俺はぴしゃりと言い放った。親戚はばつ悪そうに俺から視線をそらした。
回りくどい言葉を並べられて、お金のことを言われても目障りだと俺は思った。
「でも、○○君はまだ未成年でしょう? 働いているって言ってもほら葬式費用って何かといろいろかかるから」
本当はお金もなかったのでこじんまりとした葬式にするつもりでいた。
けれどいつの間にか叔母が大手の葬祭会社に依頼してお金ばっかりかかる葬式に仕立て上げられてしまったのだ。
「別にこんなに華やかな葬式にしてほしいとは誰も頼んでませんけど」
俺たち、親子にお金がないことなんて分かりきっていることだったが、親戚は自分たちの見栄を優先しているようにも見えたので俺の言った言葉はずいぶんと冷ややかだった。すると誰かが俺の言葉に声を荒げた。
「それが手伝ってくれる者にいう言葉かっ!」
それは男だった。男は叔母たちが買い揃えたビールや料理が乗っているテーブルをドンッと叩くと、俺を見下ろすように立ち上がってそう言った。
「ま、まぁ落ち着いて。まだ○○君は子供だから……。それにお母さんを亡くしてショックを受けているのよ」
男の肩を撫でながらそう弁解したのは費用の話を切り出した女で多分その男の妻か、何かだと思った。
男はその女の手を振り払って俺を威圧的に見下ろしながら、言った。
「ふんっ、あんな阿婆擦れ女から生まれたからこんな風に育ってしまったんだ。これが△△君の息子だなんて、考えられないなぁ。この女に騙されたんじゃないのかぁ?」
男は母の遺影に指差して嘲る様な口調でそう言った。
ひどく不愉快な気持ちになった。俺は冷ややかな目で男を一瞥した。
「何だ、その目は」
「よく母の前でそんなことが言えますね」
俺の言葉はよりいっそう冷ややかな口調になっていた。
母はどうして俺を産んだんだろう?
俺を産まなければ、こういうしがらみに巻き込まれることもなかったし、もしかしたら交通事故で死ぬこともなかっただろうに。
俺を愛してくれた母にはとても感謝しているが、母が幸せではなかったことに俺の胸は痛む。
ふぅ、と大きなため息をつくとその男を罵倒する気力も一緒に抜けてしまった。こいつを殺してやりたい、という感覚もない。
ただ、もう母の遺影の前からいなくなってしまえ、とだけ思った。
それから数時間して親戚一同はふてぶてしい態度をしながらも車で帰っていった。俺は全身にこめていた力を一気に引き抜くと母の遺影の前に背中を丸めてしゃがみこんでしまった。
「−−−どうして、死んだんだよ。まだ幸せにしてないのに」
言葉にすると急に鼻がつんっとしてきて、フタを切ったように涙があふれ出てきた。何故だか知らないがまるで走馬灯のように母との思い出が一気にあふれ出てくる。
母はいつも俺のことを心配していて、何かにつけてはいじめられていないかとか変なことに巻き込まれていないかとかそう案じていた。
そういう性分なのか、それとも二人だけの親子という部分を心配してか俺のために沢山の保険に入っていた。郵便で送られてくる保険会社の書類の多さに初めて母が保険マニアだと気づいたのは、やはり母が死んだ後だった。
「お金なんか、いいよ。あったって、母さんがいなきゃ意味ないよ」
涙はいっこうに止まらなかった。俺はのろのろと立ち上がって桶を開けて母を見た。
フタがひどく重く感じて、その中にいる母の頬に手を伸ばした。
「ごめんね、母さん。最期まで辛い思いをさせて、焼かれるのは苦しいと思うけど、でも一瞬だからね、怖くないよ」
母の体温は冷たかった。母の頬に俺の涙がぽろぽろと落ちると必死になって服の袖で拭いてやった。少しも温かくならなかった。
母が死んで気づいたことが沢山ある。
一つ目は母が保険マニアだったということ。母の部屋からはいろんな会社のパンフレットが山積みにされていて、どうやら受取人は俺になっていた。
それから二つ目は母には恋人が居たこと。母が焼かれて少し経ったあとにお焼香をあげに来た男がそうだった。生真面目そうな人で笑う顔がとても優しそうな人で、母の遺影の前でぼろぼろと泣いてくれた人。
三つ目は母はそれでも幸せだったらしいということ。俺を産んで、とても幸せだったらしいということ。にわかに信じられなかった。
男は俺と向き合ってこう言った。
「□□さんはね、幸せだったんだよ。君を産んで、育てて、君が無事に成長してくれて。僕にそう言っていたよ。
もし自分が死んでしまったとしても、君が幸せになれるようにって祈っていろんな保険に入っていたなぁ……。僕はね、保険のセールスマンだったの」
母の恋人は母の名前を言いながら悲しげな笑みを浮かべた。他人が母の名前を口にするのは数年ぶりのことだったので、なんだかくすぐったいような気分になった。
「お金なんか、いらない。母がいてくれたらそれで……、保険なんかぁ……」
最後の方はまったく言葉にならなかった。涙を流し嗚咽をこぼしながらうつむいてそう言った。母の恋人は俺の肩を優しく撫でた。
「そうだね、お金なんかじゃこの心の隙間は埋められないよね。それほど大きかったんだよね」
そう言って俺の肩を撫でながらその人もぼろぼろと泣き始めた。
保険。母は俺が幸せになれるようにお金を積み立てて、俺に残してくれたもの。でも、母は俺にもっと大きなものを残してくれたと思う。
そして最後に気づいたことは、母の最後の保険。
母がこんなにも愛してくれていて、自分がこんなにも幸せだったこと。
「ありがとう、ありがとう」
そう俺は涙を流しながらそう呟いていた。何度も、何度も……。
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