「女神だ」 それが、私が聞いた最初で最後の、彼の声だった。 彼はいつも、大勢の友達と一緒に、私の勤務する美術館にやってきた。そしていつも、友達の輪の一番後ろにくっついて、一人でじっくり、一つ一つ展示品を眺めていった。 「おはよう、おねえさん」 「いっつもお仕事、ご苦労様でぇす」 正面玄関を開けてカウンターに座っていると、今朝も元気な男の子達の声が聞こえてきた。 「みんな、おはよう。今日からバヌア・マティスト画伯の“ビーナス”が公開になってるわよ」 パンフレットを渡しながら、私は子供たちに笑顔で言った。子供たちは早速、館内へと駆け出していく。 「静かに見てね!」 まだ開館したばかりなので、入場客は子供たちだけだ。子供たちは、マゴーア画伯の“朝焼け”に見入っている。 私が美術館を職場に選んだのは、芸術に触れた人たちの顔が好きだったからだ。人それぞれに好みは異なるが、初めてそれに触れたときの顔は、沈んでいった小石が水底の砂をくすぐるように、一瞬の輝きに尽くされる。刻々と変化する大自然の一端、誰でも一度は感じたような心の奥の奥、そういったいろいろなものを表現した絵画に、人は心を動かされ、顔を輝かせる。私は、人々のそんな瞬間を見るのが好きだった。美術館の中には、そんな人々の感動の欠片が、もういくつも残されていった。 子供たちが中へ入ってから、三十分ほどが経った。そろそろ人も大勢入ってきて、カウンターの前には少し行列ができた。 館内は一時間ほどでまわれるが、子供たちはいつもじっくり見ながら来るので、あと一時間は出てきそうになかった。 「今日は多いよねぇ、人」 少し人が退いてから、外口で料金係をやっているマキが言った。外口と中口のカウンターは、内側でつながっているのだ。 「しょうがないよ、公開初日はいっつもこうでしょ。特に、バヌア画伯は人気あるし」 「でもさ、ずっと座ってると腰が痛くなってくるのよね」 マキは情けない声を出したが、初老の夫婦が近づいてくるのに気付いて、慌てて笑顔をつくった。 その夫婦がカウンターから見えなくなったころ、子供たちの声が近づいてきた。 “ビーナス”は展示品の一番最後なので、カウンターから子供たちの顔が見える。 ──あ。 私は子供たちの中に、あの顔をしている子を見つけた。素晴らしい作品に触れた、感動の輝きが見えた。 一番後ろにいる、あの子だ。 私は、息を呑んだ。その子の顔は、今まで見てきたどんな輝きとも違う気がしたのだ。彼の静かな瞳は、全てを吸い込んでしまいそうなほど、深く輝いていた。 子供たちがカウンターに近づいてくる。あの子の眼が、私の眼と合った。 彼の唇が、かすかに動いた。 「女神だ」 「おねえさん、またね!」 子供たちが、元気に外へ駆け出していく。私は、声をかけるどころか動くことさえできなかった。 「……どうしたの?」 マキが、首をかしげて私の背中にそう言った。 それから、一週間が過ぎた。 あの日から子供たちは、一度も美術館に姿を見せなかった。 「来ないねぇ、あんなに通ってたのに」 マキが、つまらなそうに溜め息をつく。子供たちをからかうのが好きだったのだ。 それからさらに三日たったある日の朝、子供たちは突然やってきた。 「どうしたの、今日は休館日よ?」 私は驚いて声をかけたが、子供たちはなぜかしんとして、うつむいていた。 あら、と私は思った。いつも一番後ろにいた、あの子がいないのだ。 「一人足りないわね、どうしたの?」 「あの、おねえさん、あいつ……」 子供たちは、うつむいたまま泣きはじめた。 「死んじゃったんだ、最後に来た日の夕方に、倒れて……病気だったんだよ、あいつ」 私はしばらく、子供たちの言っていることが理解できなかった。 死んだ……あの子が? 「生まれたときから何とかっていう病気で、眼が見えなかったんだ。最初に美術館に行こうって言い出したの、あいつなんだけど……オレたち、みんな何にも言えなくて……」 「でも、あいつ、ホントに楽しそうに、一枚一枚絵と向き合って、……オレ、すごいと思ったんだ」 「うん……」 他の子達も小さくこくりとうなずいて、首を垂れた。 「そう、だったの……」 私は、あの最後の日の、彼の眼を思い出した。深く、深く……その計り知れない深さに、私は涙が出そうになった。 「これ……あいつ、絵を描きためてたんだ。あいつのお父さんとお母さんに言って、もらってきたんだ。どうしても……おねえさんにもらってほしかったから」 私は差し出されたスケッチブックを、両手で受け取った。淡い緑色の表紙を、そっと持ちあげてみた。 「──まぁ……」 そこに描かれていたのは、微妙な色の変化の重なりだった。だんだん淡くなっていく青は緑と重なり、その緑は赤へとつながっていき、その表現の美しさに、私は思わず見とれた。その絵を見たときに受ける印象は、どこかあの“ビーナス”の絵と似ていた。 「あいつ、絵の雰囲気を匂いで感じるんだって。バヌア画伯の匂いが一番、好きだって言ってた」 「おねえさんのこと、好きだったんだよ、あいつ。あの日、帰りに言ってたんだ。おねえさんは、ビーナスの絵と同じ匂いがしたって」 私を見て、女神だ、と言ったあの子の顔が浮かぶ。それはあまりにも儚くて、今にも消え入りそうだった。 私はスケッチブックを抱きしめて、大粒の涙をぽろぽろ零した。子供たちが帰ってしまっても、まだしばらく、私は涙を拭わずにいた。 それから、十年がたった。私は『人が芸術に触れたときの、感動の瞬間』をテーマに論文を書き、美術評論家になった。 今でもときどき、あのスケッチブックを開いてみる。 あの子達は今、どうしているのだろう……? そんなある日、私は小さな田舎の美術館の館長を任された。バヌア画伯の絵が多数を占めるという話で、私はよろこんでそれを受けた。 「よろしくね」 着任の日、私はその美術館のスタッフたち一人一人に、挨拶をしていった。 「……あら、」 いくつか、知っている顔がある。 「久しぶり、おねえさん」 「あなたたち……!」 あのときの子供たちだった。 「あいつの影響で、オレたちも絵が好きになって……」 「オレたち、絵もそうだけど、あいつの絵を見てる顔が好きだったんだ。人が感動するときの顔って、いいなぁと思ったんです」 「よろしくおねがいしますね、館長!」 そのとき、私の思い出の中でずっと哀しい眼をしていたあの子が、くすっと笑った。 私も、くすっと笑った。 「──ええ、よろしく……!」 その夜、部屋で一人、あのスケッチブックを開いた。ゆっくりと一枚一枚、ページをめくっていく。 「……あら、」 今まで何も描かれていなかった最後のページに、私が描かれていた。それは間違いなく、彼のタッチ、彼の絵だった。 優しい線で描かれた私の横顔は、自分で言うのも何なのだが、驚くほどに美しく見えた。 「もう、恥ずかしいわ、こんなの……」 今になって、あらためて、彼がこんなに想っていてくれたことに、私の眼にはまた、涙が溢れ出した。 その絵の下には、彼のサインと一緒に、こんな言葉が書かれていた。 ─女神 君だけに、愛を込めて……─ |