●Entry3 女神〜Venus〜 文字数=2871
 西名玲
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「女神だ」

それが、私が聞いた最初で最後の、彼の声だった。

彼はいつも、大勢の友達と一緒に、私の勤務する美術館にやってきた。そしていつも、友達の輪の一番後ろにくっついて、一人でじっくり、一つ一つ展示品を眺めていった。
「おはよう、おねえさん」
「いっつもお仕事、ご苦労様でぇす」
正面玄関を開けてカウンターに座っていると、今朝も元気な男の子達の声が聞こえてきた。
「みんな、おはよう。今日からバヌア・マティスト画伯の“ビーナス”が公開になってるわよ」
パンフレットを渡しながら、私は子供たちに笑顔で言った。子供たちは早速、館内へと駆け出していく。
「静かに見てね!」
まだ開館したばかりなので、入場客は子供たちだけだ。子供たちは、マゴーア画伯の“朝焼け”に見入っている。
私が美術館を職場に選んだのは、芸術に触れた人たちの顔が好きだったからだ。人それぞれに好みは異なるが、初めてそれに触れたときの顔は、沈んでいった小石が水底の砂をくすぐるように、一瞬の輝きに尽くされる。刻々と変化する大自然の一端、誰でも一度は感じたような心の奥の奥、そういったいろいろなものを表現した絵画に、人は心を動かされ、顔を輝かせる。私は、人々のそんな瞬間を見るのが好きだった。美術館の中には、そんな人々の感動の欠片が、もういくつも残されていった。
子供たちが中へ入ってから、三十分ほどが経った。そろそろ人も大勢入ってきて、カウンターの前には少し行列ができた。
館内は一時間ほどでまわれるが、子供たちはいつもじっくり見ながら来るので、あと一時間は出てきそうになかった。
「今日は多いよねぇ、人」
少し人が退いてから、外口で料金係をやっているマキが言った。外口と中口のカウンターは、内側でつながっているのだ。
「しょうがないよ、公開初日はいっつもこうでしょ。特に、バヌア画伯は人気あるし」
「でもさ、ずっと座ってると腰が痛くなってくるのよね」
マキは情けない声を出したが、初老の夫婦が近づいてくるのに気付いて、慌てて笑顔をつくった。
その夫婦がカウンターから見えなくなったころ、子供たちの声が近づいてきた。
“ビーナス”は展示品の一番最後なので、カウンターから子供たちの顔が見える。
──あ。
私は子供たちの中に、あの顔をしている子を見つけた。素晴らしい作品に触れた、感動の輝きが見えた。
一番後ろにいる、あの子だ。
私は、息を呑んだ。その子の顔は、今まで見てきたどんな輝きとも違う気がしたのだ。彼の静かな瞳は、全てを吸い込んでしまいそうなほど、深く輝いていた。
子供たちがカウンターに近づいてくる。あの子の眼が、私の眼と合った。
彼の唇が、かすかに動いた。

「女神だ」

「おねえさん、またね!」
子供たちが、元気に外へ駆け出していく。私は、声をかけるどころか動くことさえできなかった。
「……どうしたの?」
マキが、首をかしげて私の背中にそう言った。

それから、一週間が過ぎた。
あの日から子供たちは、一度も美術館に姿を見せなかった。
「来ないねぇ、あんなに通ってたのに」
マキが、つまらなそうに溜め息をつく。子供たちをからかうのが好きだったのだ。
それからさらに三日たったある日の朝、子供たちは突然やってきた。
「どうしたの、今日は休館日よ?」
私は驚いて声をかけたが、子供たちはなぜかしんとして、うつむいていた。
あら、と私は思った。いつも一番後ろにいた、あの子がいないのだ。
「一人足りないわね、どうしたの?」
「あの、おねえさん、あいつ……」
子供たちは、うつむいたまま泣きはじめた。
「死んじゃったんだ、最後に来た日の夕方に、倒れて……病気だったんだよ、あいつ」
私はしばらく、子供たちの言っていることが理解できなかった。
死んだ……あの子が?
「生まれたときから何とかっていう病気で、眼が見えなかったんだ。最初に美術館に行こうって言い出したの、あいつなんだけど……オレたち、みんな何にも言えなくて……」
「でも、あいつ、ホントに楽しそうに、一枚一枚絵と向き合って、……オレ、すごいと思ったんだ」
「うん……」
他の子達も小さくこくりとうなずいて、首を垂れた。
「そう、だったの……」
私は、あの最後の日の、彼の眼を思い出した。深く、深く……その計り知れない深さに、私は涙が出そうになった。
「これ……あいつ、絵を描きためてたんだ。あいつのお父さんとお母さんに言って、もらってきたんだ。どうしても……おねえさんにもらってほしかったから」
私は差し出されたスケッチブックを、両手で受け取った。淡い緑色の表紙を、そっと持ちあげてみた。
「──まぁ……」
そこに描かれていたのは、微妙な色の変化の重なりだった。だんだん淡くなっていく青は緑と重なり、その緑は赤へとつながっていき、その表現の美しさに、私は思わず見とれた。その絵を見たときに受ける印象は、どこかあの“ビーナス”の絵と似ていた。
「あいつ、絵の雰囲気を匂いで感じるんだって。バヌア画伯の匂いが一番、好きだって言ってた」
「おねえさんのこと、好きだったんだよ、あいつ。あの日、帰りに言ってたんだ。おねえさんは、ビーナスの絵と同じ匂いがしたって」
私を見て、女神だ、と言ったあの子の顔が浮かぶ。それはあまりにも儚くて、今にも消え入りそうだった。
私はスケッチブックを抱きしめて、大粒の涙をぽろぽろ零した。子供たちが帰ってしまっても、まだしばらく、私は涙を拭わずにいた。

それから、十年がたった。私は『人が芸術に触れたときの、感動の瞬間』をテーマに論文を書き、美術評論家になった。
今でもときどき、あのスケッチブックを開いてみる。
あの子達は今、どうしているのだろう……?
そんなある日、私は小さな田舎の美術館の館長を任された。バヌア画伯の絵が多数を占めるという話で、私はよろこんでそれを受けた。
「よろしくね」
着任の日、私はその美術館のスタッフたち一人一人に、挨拶をしていった。
「……あら、」
いくつか、知っている顔がある。
「久しぶり、おねえさん」
「あなたたち……!」
あのときの子供たちだった。
「あいつの影響で、オレたちも絵が好きになって……」
「オレたち、絵もそうだけど、あいつの絵を見てる顔が好きだったんだ。人が感動するときの顔って、いいなぁと思ったんです」
「よろしくおねがいしますね、館長!」
そのとき、私の思い出の中でずっと哀しい眼をしていたあの子が、くすっと笑った。
私も、くすっと笑った。
「──ええ、よろしく……!」

その夜、部屋で一人、あのスケッチブックを開いた。ゆっくりと一枚一枚、ページをめくっていく。
「……あら、」
今まで何も描かれていなかった最後のページに、私が描かれていた。それは間違いなく、彼のタッチ、彼の絵だった。
優しい線で描かれた私の横顔は、自分で言うのも何なのだが、驚くほどに美しく見えた。
「もう、恥ずかしいわ、こんなの……」
今になって、あらためて、彼がこんなに想っていてくれたことに、私の眼にはまた、涙が溢れ出した。
その絵の下には、彼のサインと一緒に、こんな言葉が書かれていた。

─女神 君だけに、愛を込めて……─


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