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第9回中高生3000字小説バトル Entry4

恐怖

 僕はその時、なにやら不思議な感覚に襲われていた。
足元から闇に呑まれて行くような、背中から冷水を浴びせられたような、おかしな感覚。
(夏風邪かもしれないな……)
 僕はわざとらしくくしゃみを一つし、また東京の雑踏を歩き始めた。
うだるような夏の日差しは、歩くサラリーマン達に汗を滲ませている。
温暖化の影響なのだろうか。今年は去年とは比べ物にならない程の猛暑だ。更に、それを
光化学スモッグやら、台風やらが手助けして、凄まじい程の異常気象をもたらしている。
 まぁ、そんな事はどうでもいい。この作品は間違っても気象観察日記ではないのだ。
いくらか歩くと、広い横断歩道に出た。信号は丁度赤から緑に変わる所で、僕は少し得をしたような優越感を感じていた。
 しかし次の瞬間、僕はまたヒヤっとした感触を覚えた。一体何がどうしたって言うんだ?
辺りを見回すと、何故だろうか。後ろを歩く中年の男がいやに目についた。中肉中背、汗だくのワイシャツ。
何でもないサラリーマンの格好だ。なのに、僕には彼が目に付いてしょうがなかった。
 考えている間にも歩道を渡る人々の流れは進む。僕は、流されるうちに歩道を渡り終えかけていた。
-------信号が点滅し、人々の流れが速くなった瞬間だった。車のタイヤを軋ませる音が急に僕の耳へと響いた。咄嗟に音の方角を振り向く。すると、巨大な黄色の鉄魂が僕の目に飛び込んできた。
「!?」
 僕はあまりにも突然起きた出来事に、身動き一つ取ることが出来なかった。
目の前がスローモーションのような断続画像となり、ズンッという音と共に鉄魂が歩道へと倒れた。
「キャーーーーーーーーーッ!」
 群集の中から悲鳴が上がる。歩道へと倒れこんだのは、黄色の大型トラックだった。
そして、地面から染み出す赤い液体。僕の背後で、そんな光景が展開していた。
ゆるゆると広がる赤い液体が、僕の足元へと侵入してきた。ぐっちょりとした粘り気のある液体が、革靴をみるみる真紅に染めていく。
(救急車を呼べ!)
(一体どうしたっていうんだ?)
 人々が慌しく行動を開始する。しかし、僕はそこで立ち尽くしていた。さっき感じたあの感覚。
足元から闇に呑まれて行くような、背中から冷水を浴びせられたような、あの感覚。
あの感覚を、僕は今三度感じていた。僕はゆっくりと視線を下に移した。
……トラックの下から飛び出している腕は、あの中年サラリーマンの物だろうか?
何ともなしにそう考えた途端、今までの感覚が氷柱となって僕の身体を貫いた。そして、時が経つと共に、徐々に去って行った。
 僕の肌に体温が戻る。道路から吐き出される蒸し暑さが、顔に汗を滲ませる。
そして、僕は足元の血に悲鳴を上げた。

 『……白昼の惨劇、横断中の16人を襲う』
その日の夕刊一面は、全てこんな見出しの記事で彩られた。いつもと同じ記者の語り口調に、専門家のおざなりな解説。
しかし、今の僕にはその記事が恐ろしくて仕方がなかった。今は、自分の背後で起こったこの惨劇から、
目を背けて居たかった。目を瞑ると、ひたひたと僕の靴を染める血が目に浮かぶ。
『何故、お前だけ、お前だけ、助かったんだ』恨みがましい声で、僕を引きずり込もうと足元へ迫る赤い悪魔。
それから、出切る限りの間、目を背けていたい。出切るだけ美しいものだけを見て居たいけれど、この世界はそれだけで
構成されてはいない。それなら、僕に残された手段は逃げる事しかない。
 夕方になると、僕は酒屋で焼酎を大量に買い込んだ。そしてアパートに帰ると、コップに注ぎ、一気に煽った。
アルコールが僕の血液に溶け込み、体中へ運ばれていく。益々赤みを増し、流れの速さを増す赤い濁流。
 コップの液体を一気に飲み干すと、僕は自分の身体に焼酎をぶちまけた。
酒は身体を清める効果がある、そんな迷信を咄嗟に思い出した気もしたし、そうでない気もした。
ビショビショになったTシャツをペロペロと舐めて、僕はストンと眠りに落ちた。その夜見た夢の中では、あの男が
僕を見つめていた。何かを知っているような、僕を馬鹿にしたような視線。
「貴方は一体誰ですか?」
 僕は闇の中で言った。彼はニタリと笑うと、その潰れたような口を開いた。
「さあね。天使かもしれないし、悪魔かもしれない。もしかしたら、何者でもないのかもしれない」
 答えになっていない。僕はそう言おうとした。でも、彼はそれを見透かしたかのようにもう一度ニタリと笑うと、
振り返り、去って行った。足音が僕の耳の奥の、何だか解らない部分をカラン、と揺らした。

 目覚めたら汗びっしょりだった。いや、多分焼酎のせいだっただろう。
Tシャツからプンプンと酒の刺激臭が漂っている。
酒が身体を清めるというのは、あながち嘘じゃなかったのかもしれない。
昨日よりは、大分体の調子、もっと言えば心の調子が良くなっている。
 僕は学校へ行く事にした。親に援助を貰って通っているのだし、
何より自分のプライドが許さない。シャワーを軽く浴びると、外に出た。
朝日が僕を優しく迎えてくれる。昨日の事故を忘れさせてくれるような、明るい日差し。
「よしっ」
 自分自身を鼓舞するようにかけ声をかけると、僕はアパートの階段を元気に下って行った。
「あら、元気なのね。何か良いことでもあった?」
 近所のおばさんがごみ捨てがてら僕に声をかけてくれた。
「えぇ、まあね」
 僕も笑顔で返す。すがすがしい朝だ。夏という季節は、こんなにも雲ひとつない、青い空を作り出してくれるのか。
しかし、僕はハッと自分を差す視線に気付いた。通りの隅から向けられる、強い、黒い視線。
僕は嫌な予感を胸に、ゆっくりと振り向いた。……通りの向こうから、隠れて覗き込むように、男の顔が半分見えた。
「あァァァァァァァッ!」
 背後から悲鳴が上がった。やっぱりか、という風に振り向くと、女性の眼球を貫く烏の姿が有った。

 「また貴方ですか」
 まどろみの中で、僕はまた彼に会っていた。
「一体何をしようと?」
「さぁね」
 彼は相変わらずニヤニヤと笑いながら口を開いた。
「何をしたいんだか」
「あやふやなんですね」
 僕は少しイライラして言った。
「そうかもしれない」
 彼はまた言った。
「僕という存在自体が、ね」
「一体何時まで続けるつもりなんですか?」
 無意識の内に言うと、彼は「何時までだって?」とでも言うように少し首をかしげた。
彼が始めて見せる、人間らしい表情だった。彼はしばらく考え込んでいたが、やがて
またニタリと笑って言った。
「飽きるまで」
 ピアノのペダルを押したように、声が頭の中でワンワンと鳴った。
そして、僕は朝闇の中で静かに目を醒ました。閉め切られた部屋の中には、ムンムンと熱気が篭っている。 
 軽く目を擦った僕は、何かを感じたように外へと出た。午前五時の空は、朝のような、夜のような、不思議な色をしている。
階段を下りると、何時もは気が付かない金属質の音が辺りに響いた。
外では、ジョギング中の若い男性が、息を弾ませながら走っていた。僕はポケットに手を突っ込むと、
彼の許へと足早に歩み寄った。そして、手を静かに出すと、軽くサッと振った。
頭が心地よい、スポン、という音を立てて飛んだ。飛び散る血を前に、僕は静かに微笑んでいた。
 通りの向こうに、彼の姿があった。僕は、『どうだい』と言うかのように腰へと手をやった。
彼は、初めて微笑を見せた。
「飽きたよ」
 テープを巻き戻すような、エレベーターに乗ったような感覚が僕を取り囲んだ。
僕は、横断歩道を渡っていた。目の前に、黄色いトラックが迫っていた。そして、今度は確実に、僕を押し潰した。
 都会ではあまり聞かない、蝉の鳴き声が一度聞こえた。うだるような暑さの中、悲鳴が上がった。
そして、革靴を血に染めながら、一人佇む男の姿があった。

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