タイマン野郎その1
蛮人S

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ホテルから、明日へ

 王宮から火の手が上がっている。
 一人の少年が、ホテルの上階の窓からそれを見つめ続けている。
 眼下に広がる街並みの彼方、石造りの建物や尖塔の彼方に、幾条もの煙が不吉な一つの黒雲となり、高い空を濁らせていくのが見てとれる。そして今まさに燃えるその王宮こそ、この朝まで暮らしてきた彼の生家なのである。
 初秋の静かな午後だった。王宮の煙を除けば、普段通りの眺めとも思えた。もし彼が視線を下ろせば、通りでは瀟洒な自動車が緩やかに行き来し、色づきかけた街路樹の下では人々が笑いさざめいている、そんな風にも思われた。しかし今現実に歩道に立つのは銃を構えた革命軍兵士であり、通りの角に停まるのは戦闘車両だった。
 彼を今朝、ここへ連れ込んだ車だ。
 王宮に乱入した兵士により彼は連れ出され、そのままこのホテルの一室に監禁されていた。
 少年に表情は無い。瞬きも無く、身動きも無く、遥か王宮の窓という窓から噴き出しては昇る黒煙を、無言で見届けていた。
 ドアのチャイムが控えめな音を鳴らし、彼は遠い視線をふと室内に戻す。書机に誂えた操作卓のボタンを押すと、スピーカが声をたてた。
「失礼いたします。お茶と、お菓子をお持ちしました」
「入って」
 ドアを開くボタンに指を進める時、少年の表情は国王の長子、リウル王子の柔かな微笑みへと変わっていた。
 厚いドアを開いて、銀のワゴンが入って来る。ドアの陰に兵士の姿がのぞく。ワゴンを押すのは初老の男性だったが、リウルはその顔に覚えがあった。
「アルキル支配人」
「はい、テルル・ホテル総支配を勤めますヌル・アルキルで御座います。ご記憶を賜りまして光栄に存じます」
 アルキルはドアを静かに閉じ、深々と頭を垂れた。
「かような形で殿下に御利用いただく事になるとは、よもや想像致しませんでした」
「だろうね」
 都の中心に位置し、最も古い歴史を持つテルル・ホテルは、しかし都に位置するゆえ王子が宿泊する事は無い。王室の招待する国賓も王宮内に迎えるのが定例で、ここが使われる事は無い。ただ晩餐会には必ずこのホテルの料理人が呼ばれていた。
 リウルがアルキルに会うのは、およそ一年前、高原の保養地に建つ別館での宿泊以来となる。その際に饗された菓子が、今また目の前にあった。
「バウムクーヘン・シュピッツで御座います」
 ワゴンの上にはバウムクーヘンを三角形に切り分けた上から、チョコレートをかけて包んだケーキが載せられていた。これは決して豪華さを主張する菓子ではないが、丁寧な仕事を求められる。アルキルはその一切れを白磁の小皿に取ると、静かにテーブルへと置いた。
「畏れながら、殿下は朝より何もお召し上がりになっていらっしゃらないのでは御座いませんか。ケーキの他にも、何でも御用意差し上げますが」
「ありがとう。でも僕はね」リウルは一瞬だけ、幼なげな顔を見せながら笑った。「テルル・ホテルのケーキが毎日でも食べられれば良いなあと、いつもそう思ってるんだよ」
「恐縮に存じます」
「革命軍も気を利かせたかな」
「ならば良いですが、彼らは残忍なならず者同然に御座いますから」
 リウルはちらとドアに目を遣った。その向こうには兵士が幾人、控えているだろう。アルキルは察して言った。
「ご心配は御座いません。当ホテルのどの部屋も、声が表に漏れる事は御座いません」
 アルキルはティーポットを傾けた。
「遺憾な事ですが、王宮を荒らし火まで放った者には、一般市民も含まれると聞きました。何と浅ましい行為でしょう。国王陛下や殿下に対しまして、何の恨みがあると申すのでしょう」
「いや、そういう風には考えない事にしたんだ、僕は」
 リウルはカップを口に運びながら言った。
「草はね、西風が吹けば西に、東風が吹けば東になびき、でないと折れてしまうから。そうして風になびいてこそ民衆は強いのであって、非難するもんじゃない。そして民衆の生き続ける限り、この国も生き続ける。まあ僕自身は、そうは行かないのだけど」
「殿下……殿下はお優しい。しかし」
「国の名前とか、誰が王とか、実はさほど意味は無いんだ。国は即ち民衆だと思う。王族は看板に過ぎないんだ。風は吹けばよい。ただ……もしも風が強まって、人々の暮らしや伝統までも脅かそうとするなら、その時は」
 王子は暫く沈黙してから、ゆっくりと言葉を続けた。
「いや、僕からは何も言うまい。父上ならどう仰るか知れないけど、でも僕なら民衆の気持ちに任せたいと思う」
 それきり窓に目をやった。アルキルもその先を追う。彼方の煙は未だ衰えることなく空を曇らせ続けていた。
「殿下、実を申せば」
 アルキルが口を開いた。
「私はもう、テルル・ホテルを閉じようかと思っておりました」
 次第に早口になっていく。
「この国が明日から、どのような道を歩むかは分かりませぬ。しかし私にとりましては、このホテルの伝統を見守り続け下さった王宮すらも焼かれる今、この先ただ冷たく長い冬の時代の予感しか無いのです。率直、私は、此処が誇りあるテルル・ホテルであり続けるための自信が無く、恐ろしいので御座います」
 言い切ると、アルキルは顔を伏せた。
「申し訳御座いません、殿下。この期に及んで、かような話を」
 リウルは静かに考えていたが、やがて口を開いた。
「ねえ、一つお願いしたいのだけど」
「何で御座いましょうか」
 リウルは首にかけていた小さな銀のペンダントを外すと、アルキルに差し出した。
「預かって欲しいんだ」
「これを、ですか」
「大切な品だ。僕の家族の思い出なんだ。ほら去年の、あの静養地で、父母に贈られた品なんだ。僕はたぶん、明日か……いつか知らないが、ちょっと出かける用事があると思うんだ。で、客として貴重な品は預けて行く事にする。保管しておいてくれ。これはホテルの、仕事なんだろう」
「……かしこまりました」
 総支配人はペンダントを押し戴き、胸ポケットからハンカチーフを抜き出すとペンダントを丁寧に包んで折りたたみ、胸に戻して形を整えた。外からは何か忍ばせているとは分からない。
「ホテルの名に懸けて、大切にお預かり致しております。お戻りになられた際、お申し付け下さい」
「頼んだよ」
 リウルはくすっと笑った。
「やっと宿泊客らしい気分になってきたぞ」
「申し訳御座いません」
 支配人も苦笑した。
「ところで御夕食なのですが、お差し支えなければ六時頃よりお持ち致したく存じますが」
「ああ、それで良いよ」
「かしこまりました。私どもの料理人が、腕によりかけて用意差し上げます。御賞味いただければ光栄に御座います」
「ありがとう」
 リウルは再び微笑んで見せた。


 結局、夕食の席は無かった。革命軍政権は日暮れを待たずして、形ばかりは慇懃な一団をもって、王子を迎えに上がったのである。
 リウルは抗う事もなく、一階のロビーに幾重にも並んでそそり立つ、銃剣の谷間に伸びた道を静かに進み、ホテルの正面へ停められた、中の見えない頑丈な車へと自ら歩んでいく。
 車の後席に座ったリウルは、一度だけホテルを、エントランスに立つ支配人を振り返りながら、右手を軽く上げた。その姿も直ぐに車の厚いドアに遮られた。
 車は発進し、通りの彼方へ、見る間に消えていった。
 その後の王子の消息は、今は分からない。国内随一の歴史を誇るテルル・ホテルは、客筋は多少変わったが、総支配人の意思で頑なに伝統を守り続ける。


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