蛮人S(~Q~)

宇宙船モシリバ号の冒険    


 ソプラノとピアノと、コントラバス、ファゴット。
 目的の星が近づくにつれ、一つの音楽が、初めは密やかに、やがて支配的に、私の内に流れ続けるようになった。
 それは私のまだ知らないはずの曲である。


 限界宇宙船モシリバは、人知の果てを粛々と航する。
 銀河の腕も辺縁近く。背後の星々、前方には深い静寂の闇に浮ぶ一つの惑星。現実と超現実の狭間。
 この空間の意味するところを知る人類は他に無い。ただ私のみ此処に在り、故にこの空間は存在する。それが人知系航行機関、パラレルドライブの原理だ。
 モシリバは探査用の重パラレルドライブ十六基を載む。その目的は未知の星の発見と新航路の確定。即ち、私以外の誰にも知れぬ限界領域を航し、世界知へと還元するのだ。これが私、探査官Sの使命であり、天命であり、えー……」
『探査官を名乗ル時ハ、第3級と頭に付けル』
 不実の量子コンピュータ、猟子(りょうこ)が機械音声で警告した。
『なあSよ。お前ハ何度言えば分かル。もうアホか馬鹿かと。いや馬鹿だ。なぜならお前はSだからダ。3級の』
「……第3級調査官Sの使命であり、天命なのだ。以上。航星日誌終わり」
 私は憮然として端末の蓋を閉めた。
(一体、猟子の語彙は)何の会話データから抽出したのか。叩き壊したい気分だが、一般コンピュータでは重パラレルドライブの制御は不可能だ。確率的回路、再現困難な偶発技術の応用で発生する希少な「不実の量子コンピュータ」が必須とされる。
(不実……)
 私の記憶の中で何かが引っ掛かる。
(そうか、不実か)
 それは一つのキーワードだった。
 いつしか音楽が、いつしか頭の中を流れている。



【パラレルドライブ】宇宙船の航行原理。本来は往来不可能な遠い目的地が、出発点に近い位置に在るものと想定された可能性世界を平行宇宙の流れから検索し、そこにある目的地に対して往復する事で航行を実現する。

「不実よ」
 貞ちゃんは云った。
 晴れた秋の陽射しが、ベンチに座る彼女の横顔を照らしていた。美しいと思う。でもその表情は不満げだった。
「不実の原理よ」
 そのとき私は十九歳。大学の工学教室で学んだパラレルドライブの原理に妙な感銘を受けた日。その思いを嬉々として彼女に一席ぶったところだった。
「何が不実だい」
「だって、本当の場所には到着できないんでしょ。嘘の場所に行って、それで納得するんでしょ」
 それは正しい。宇宙船が既存物理の枠で進めるのは、今なお数光年の範囲だ。そしてパラレルドライブの運用結果は、多分に船長の精神や主観に左右される。着いたと思う所に到着する。まして誰も知らない星を探す船となれば。
「でも世界は現に恒星間飛行の恩恵を受けている。君もだよ」
「全て幻想でしょ」
「そうじゃない」
 私はどう説明すればよいか分からなかった。現実問題、行ける場所に行き、必要な物を持ち帰る事が肝心だ。そこが地上から見る星と別物でも問題ない。どうせ手の届かない場所だ。
 暫く沈黙が続いた後、彼女が訴えたいのは、ただ単にこんな話題は好みじゃないという事なのだとようやく思い当たった。
「ねえ貞ちゃん、卒業制作はどんな感じなの」
 言ってから、これも禁止ワードだったかなと後悔する。でも彼女は存外明るい表情で答えた。
「曲想はだいぶ固まったから。書き始めようと思う」
 曲の一節であろう、彼女は風変わりなフレーズを口ずさんだ。そうやって曲を考えるのだろうか。作曲科の課題制作というのがどんな工程なのか、私は今も知らない。
「菜の花が咲く頃、聴かせてあげるよ、Sクン」
 私は彼女について、よく知らない。少しずつ知るつもりでいた。そう思っていた。
 彼女が事故で他界したのは数日後だった。


『Sよ。忘れ物ナイか。ハンカチ持ったか』
 猟子に怒鳴られつつ惑星表面への転送装置へ入る間にも、音楽は頭の中に流れていた。私は暗闇の中でフレーズをなぞって口ずさむ。
 ソプラノとピアノと、コントラバス、ファゴット。この多少珍しい編成の曲が、すっかり耳に馴染んでいた。
 女声の唱する歌詞は何語なのか、聴き取ろうとするほど曖昧になる。ただ自ら振り飛ばされるような感情を、何とか抑えた線上にあった。
 ピアノは冷徹な現実だ。淡々と時を刻みつつ、女声につかず離れず、常にその感情をより強く振ろうと企む。
 コントラバスは誰の味方でもない。ただ背景の広がりに徹している。結果としてはピアノの味方だ。
『Sよ。地表に転送すルぞ』
 そこへファゴットが入る。
 これも決して大勢に逆らうものではない。ただその音色には仄かな温かみを含む。例えれば、陽の落ちた冬の海岸の、彼方に人家の窓の灯火のふっと点るような……。
 振動が私を現実に戻す。地表に到達したのだ。
 目の前が次第に明るんで行く。
(黄色い)
 一面の黄色。
 私は目を疑う。それは地平線まで続く広大な菜の花の黄色だった。やや傾いた陽射しが黄色の花弁を柔らかく包む。
 花の中を真っ直ぐ伸びる小道に、私は呆然と立ちつくしていた。微かな風に揺れる花の間を、白い蝶が一匹二匹と舞い飛ぶ。確かにここは菜の花畑だった。
「待ったよ、Sクン」
 背後から声がした。
「貞ちゃん」
 彼女はいつの間にか、そこに立っていた。
 音楽は今や二人の背景となって流れ続ける。私は一番に尋ねたかった事を口にした。
「君の曲、出来たんだね」
「もう春だから」
 貞ちゃんは歩み寄り、私の首に腕を回して唇を重ねた。そのまま体を預けてきて、二人は菜の花の中に倒れこむ。どこからか小鳥の声がする。
「君は死んだ。春を待たずに」
「だから、ここに居るんだよ」
 彼女は唇を私の頬から首筋へと滑らせながら囁いた。吐息が甘く香っている。
「ごめん貞ちゃん。仕事なんだ」
「今だけ、忘れて」
 ――Sクンのために用意したんだよ。菜の花、音楽。
「題名は決まったの?」
 実はそれが一番難しい、と彼女が云っていたのを思い出す。彼女は今考えるかのように言葉を切り、答えた。
「不実、よ」
 鳥の群れが羽ばたき、空を横切っていく。幾羽も、幾羽も。
 その一羽が降りてくる。ぐんぐん大きくなる。思ったより大きい。いや大きすぎる。
「……モシリバ」
 わざわざ大気圏内まで降りてきたのだ。
『いい加減にしロっ。こんな星が在るかッ』
 馬鹿でかい機械音声が空から落ちてきた。
『3級探査官Sに警告。妄虚計が黄領域を超えてル。ロストするぞ』
「ロストだって」私は身を震わせた。
「聞いちゃ駄目」貞ちゃんが囁いた。
 妄虚計は現世からの逸脱度を示す。あまりに現実離れした領域へ「踏み込み過ぎた」者への警告であり、戻り検索ルートを失う危険を示す。ルートを失った探査官は元の世界に帰れず、地球側からはロストと呼ばれる。
 どんな逸脱船長でも一般宇宙船なら危険はない。だが特殊仕様の限界宇宙船は違う。てゆーかロスト付近まで探索するのが目的だ。そこで踏み越えてしまう探査官とは、職務に熱心すぎたか、或いは逃避的だったか、いずれにせよプロとしての評価は、
『3級ダっ』
 猟子の悪態。
『Sよ。お前の保険金よりよほど高価な私とモシリバの保護ノため、私ハお前を放棄して勝手に帰投すル管理権限を持つ。どうすルS。十五秒以内に結論を示せ』
「わ、分かった。とりあえず船に戻る」
『とりあえズ?』
「駄目よ、Sクン」
 貞ちゃんが再び唇を塞ぎ、私はまた沈黙せざるを得なかった。彼女は私の目を見ながら云った。
「ねえ。あの機械仕掛けと私とどっちの言葉が聞けるの。真面目に考えて」
「え、それは、その」
 モシリバから何かブツッという異音が響いた。
『幻想め。主砲、一斉発射』
「ええっ」と叫ぶ間も無い。船首から地上に向けて粒子砲が斉射された。
 弾ける大地、燃え上がる菜の花。
 貞ちゃんがしがみつく。
 泣いていた。
『転送ビーム照射、探査官のみ回収。七秒後に周回軌道ヲ離脱。重力爆弾発射秒読み開始。……十五秒前』
 黒煙、黒煙。



「成果物の廃棄は……」
 私は崩壊していく星を見ながら呻いた。
「船長の判断が必要で……」
『航規八十五条第九項、復習すルか。お前の脳内幽霊が生成シタ、あんなクズリンクと心中すルか。寝てろ馬鹿。この航海も大赤字ダ』
「まだ貞ちゃんが居たんだよう」
『ゴーストイメージだ』
 それきり黙ってしまった。静かになると自分の情けなさが身に染みる。
 無能なのは分かっている。猟子も本部も私以上に分かっている筈だ。なら、なぜ私をモシリバに乗せる。何かの罰か。
 その時、室内にそっと音楽が流れ始めた。
(これは……)
 幻聴ではない。あの音楽が、実際に船内スピーカから流れている。
「猟子、なぜこの曲を」
『……お前の鼻歌と独り言から再現シタ。よく出来てルだろう』
 量子コンピュータとはいえ、そんな事まで可能なのか。
「有難う、猟子。驚いたよ」
『礼には及ばヌ。お前のお陰で良い作品が完成できタ。だが何と言っても私の才能ダ。ネットで配って、売り上げハ経費の穴埋メにしよう』
「何ぃ」
 私は慌て、この曲は私と貞ちゃんの記憶だと主張したが、猟子はこう言い放った。つまり全ては妄想の断片に過ぎず、それを整理した音楽は自分の作品だと。
「酷い。不道徳極まりない」
『不道徳? せめてこう呼んで欲しイ』
 猟子は心なしか楽しげに云った。

『……不実よ』