第14回テーマ:「顔のある石」 テーマ詳細
随分長い時間が経ったような気がする。けれど俺達がこうして卓袱台を挟んで向かい合ってからずっと、差し込む夕日は部屋を茜色に染めていたし、モアイは長くなった影を俺の膝に落としていた。 「今までずっと黙っていたんだけど」 ためらいを孕んで不自然にかすれる声。見たこともないぴったりした真っ赤なワンピースの内側にぽってり余った五十年物の下腹の肉が小刻みに震えていた。俺が生まれて二十年、二人だけで暮らしてきたこの部屋に、これほど濃い香水の匂いは一度としてしなかったし、モアイもいなかった。 「ごめんね、鉄男」 ごりん、という音がした。モアイの眉間に皺が寄っていた。梅干を食べたらしい。自家製の梅干だ。スーパーの物とは塩加減が格段に違う。ごげごげと固いものを磨り潰す音がするのは種を噛んでいるのだろう。それは吐き出すものだと教えるべきか迷ったけれど、既に手遅れだし、無闇やたらに頑丈そうな顎を見て諦めることにした。それに今ここでこいつに日本の食文化を正確に伝える責任は、俺にはないと思う。 「お前も働くようになったことだし、これからは一人の女として生きていきたいの」 路地から耳慣れた音楽が聞こえる。生協の移動販売のトラックだ。伸びきったテープを入れたラジカセから、たるんだ低いメロディーが延々と鳴り続けている。 親である前に一人の人間であって当然だし、俺を信頼して正直に打ち明けてくれたのだ。そのことを俺は反省文を書かされる小学生のように何度も何度も頭の中で反芻した。そうするより他に仕方がなかった。俺に真実を告げた唇は幾つもの小言やたくさんの笑顔、人生そのものである数え切れぬほどの教えを伝えてくれた。その唇は今、グロスたっぷりピンクのリップでショッキングに彩られ、新たな人生の姿を俺に語っている。 押し黙ったままの俺にこの部屋は貴方が使って頂戴と言い残し、短いスカートの裾を押さえ、太い足で畳を踏んで見知らぬ女は出て行く。後ろ姿は低い地鳴りを連れて後に続くモアイの巨大な後頭部に隠れ、ドアの向こうに消えていった。 やがて窓の外に訪れた夜が宵の明星をぽつりと輝かせる。俺はとてつもなく遠いところに来てしまった気がした。地球の反対側まで旅をしたようだと思った。俺は去っていった背中を思い出そうとする。長い間見てきた、それでいて一度も見たことのない背中。俺はぼやけてゆく背中に小さく呼びかけた。 「おやじ…マジかよ」
下を向いて歩いていたら、目が合った。 くっ、と喉が驚いて鳴った。息が止まったのはほんの一瞬で、目が合ったと思ったそれはただの石ころだった。 足下に転がっているのは握り拳より一回り小さいくらいの石だ。初めに感じた気持ちの悪さが残っていて躊躇ったが結局手を伸ばした。冷たく、固い感触。まだ体に残る震えは人肌の感触さえをも指先に想起させていたので、確かな鉱石の固さと温度にほうと息をついた。 よくよく見てみれば石はさほど特殊にも思えなかった。確かに人の顔に似てはいる。通った鼻筋のような突起、その脇の窪みは眼窩のように見てとれた。けれどそれはそれ以上でなかった。 だからと言って投げ捨てる気にはなれず、わたしはそれを握ったままに歩き出した。いつもと変わらぬ、気の重い道のり。居場所のないあの場所へ向かう為の道程だと思えば、例えまだ駅に向かう途中だろうともそこから電車に乗り3回の乗り換えを経、実に3時間近くを費やすそのまだ始めであろうとも気乗りがしないのは当たり前の事だ。 駅はいまだに自動改札でなくて、流行りのsuicaなんか使えるはずもなくて、わたしはいつもの通りに磁気式の定期券を提示して駅員の脇を通過する。歩道橋を渡れば生温い風が髪を乱す。いらいらいらいらと、どうしようもない不快感が胸に沸き上がる。ホームに立ってもそのいらいらは収まらない。白く曇った空も、生温い風も、灰色のコンクリートも、わたしの脳髄をゆっくりと、気持ちの悪い速度で撫でていく。真綿で首を絞めるとはよく言ったものだと思う。日々緩慢な速度で、やわらかく絞られていくわたしの頸動脈。 電車は来ない。わたしは線路を見つめる。そしてふと見やった線路沿いに広がる光景に、深く絶望した。淡々と並び電車を待つ人々に、恐怖した。ああ、わたしはここを逃れる事が出来ないのだと。この無機質な人の並びの中へ一生囚われ、出られないのだと。 わたしは躊躇いなく線路に向け足を踏み出す。ああ、不快感がこだまする。白く曇った空も、生温い風も、灰色のコンクリートも、わたしに別れを告げる。わたしはまとわりつく温い空気を振り払って、自由になれるのだ。 その時。 線路の敷石のひとつに見覚えのある顔を見つけた。手の中にあったはずのそれはまた、わたしの目を射竦めた。喉が鳴る。体が強張る。そして石は電車の影に掻き消される。 電車のドアが開く。わたしを迎え入れる為に開く。
巨大家電売場ができたので行ってみた。 あの、ドドバシカメラとか、ラヨックスとか、そういうのだ。 前は高級大型家具店だったけれども、半年も経たないうちに潰れてしまった。 百万もする箪笥を傷つけられたくないばっかりに、一人のお客さんに一人の店員がついてまわっていた。 人件費は馬鹿にならない。 マウス売場からキーボード売場にかけて、ロボットがのろのろと進んでいる。 ずんぐりむっくりしたやつで、後姿がピンクの鏡餅を思わせる。 ただでさえ狭い通路にぎりぎりいっぱいだ。 パソコンを新しく買って、キーボードをつなごうと思ったらPS2ポートがついていない。USBポートばっかり8つもついている。 付属のキーボードはPS2だというのに。 USBのキーボードが七百三十五、接続用のアダプタが千百五十五もする。 つまり、あるキーボードを使うよりも新しく買っちゃえよ、ということだ。 釈然としない。 ロボットは狭い通路を延々と進んで、端っこでぐるぐる回っている。 右はトイレで、左はカフェテリアだ。 ロボットがこっちに戻ってくる。 赤いモノアイの上に丸い銀板がある。縦長の穴が開いている。 いわゆるコイン投入口だ。 五〇〇円、とある。 高いな。 ロボットにアダプタを見せる。 「そういうご時世ですからねえ」と妙に人間臭い。 どこかで聞いたことのある声だ。 そうそう、市原悦子。 「あたしもね、ここがどこだか、わからなくなっちゃって」 浜松店からの転属だという。 「本当はね、こんなところにいちゃ、いけないと思うんだけど」 仕方ないので店員を呼ぼうと思うのだが。 いないな、店員。 レジは長蛇の列だし、ほかはさっぱり。 しかたないからエレベーターまで一緒に歩く。 「ああ、屋上だわ。思い出した。わたし、屋上に行かなきゃ」 市原悦子が言うんだから、仕方がない。 エレベーターに乗って、屋上まで。 いい天気だ。 雲ひとつ無い青い空、まっすぐな潮風。 立ち並ぶモアイ像。 「あ」 ロボットの声が心なしか明るくなった気がする。 「思い出したの。ちょっと、お金出して」 五〇〇円玉は胸ポケットの底にある。 お守り代わりだが、ここの生活にも慣れたところだ。 チャリン。 「それでは積載物無振動上昇、開始いたします」 俺を抱きかかえたまま、ロボットは天空高く伸びていく。 風の吹く側から黒い雲がやってくるのが見えた。 早く帰ったほうがよさそうだ。
見れば見るほど、うーん。実家で母がモヘンジョ・ダロ遺跡に行った土産だとくれた指輪。リング自体は普通のシルバーなんだけど、はめ込まれた黒い石がちょっと。顔あるし、ちょっと怒ってるし。でも母が私の反応期待してるし、一応その時は指にはめて、わーい、って感じで。あとで、リングにヒモ通して携帯ストラップにしてるとこ見られたけど。ちょっと寂しそうな顔されたけど。でもねえ。うーん。 昼から友達の結婚式があって、呑み過ぎた、泣き過ぎた。もう三十路も過ぎて、あきらめムードが漂い始めた地元「血の絆の会」(約三人)から、ようやく脱退者が出た。歌った、歌った。中学以来のピアノ猛特訓して弾き語りしたら、体調壊した。酒は強い方だと自薦他薦された私が、珍しがられた。帰りの送迎バスの中で吐いたら、新郎が背中さすってくれた。いい旦那捕まえたもんだぜ。二次会も出られず、一日実家で静養したが回復せず、職場に電話して休みを一日延ばした。 一人暮らしのマンションに帰り着く頃には体が軽くなっていた。ふと携帯電話を忘れたことに青ざめる。固定電話から実家に連絡すると、母がやはり残念そうに携帯とストラップの所在を確認してくれた。宅急便で即送ってくれるように頼んだ。次の日、職場の同僚と呑みに行った。すこぶる快調に呑んだ。 さあて、たまった本でも片づけるかと中島梓に手を伸ばしかけた八時頃、宅急便が届いた。携帯とストラップ。指輪は怒ってた。 感染源のよく分からない風邪ひいた。会社には自転車だし、職場に風邪の人はいなかった。近年希に見る高熱で、インフルエンザ。二日休んだ。体は丈夫な方だと自薦他薦される私だったのに。 馬鹿にされるかもしれないけど、私は気づいた。この指輪のせいだ、と。頭ふらふらしながら母と電話してそれとなく指輪の由来を聞いた。指輪の特に顔のある石の部分は、モヘンジョ・ダロ遺跡の中でもタブー視されている「ガラスになった町」と呼ばれる地域から盗掘されたものだそう。母は興奮して、その町では古代核戦争があったのよ、と語った。私は百均で買った小瓶にその人面指輪を即密封。 体調がよくなり、風呂に入っている時にまた思いついた。 最近、上司が私と二人きりで呑もうとして困る。小瓶を開ける。私、体調悪くなる。上司遠慮する。部屋に帰って小瓶を密封する。体調とたんに改善。指輪の顔も少し喜んでいるように見えるのは気のせいか。うーん。