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第36回1000字小説バトル Entry28

雨の声

 闇が霞む。耳塞ぐ雨音。足下に広がる暗がりに、歩いている感覚すら麻痺する。肩をすくめる私は黙々と次の街灯を目指した。時折、街路樹からまとめて落ちる雨粒が傘を叩く。私のマンションは、この都営団地の小道を抜けた向こう。終電を降りたとたんに降り出した雨。こんなことなら飲み会も途中で抜け出せばよかった。ストッキングはすっかり水を含んでいる。
 ふと、自分の足音に他の誰かの足音が重なっている事に気付く。激しい雨音に気付かなかったが、誰かが後ろを歩いているみたいだ。
 こんな夜中に背後を歩かれるのは嫌なものだ。しかしここで変に速歩きになるのも失礼だろうし、だからと言って歩みを遅らせても、果たして自分を追い抜いてくれるだろうか。そんなとりとめのない事を考えながら、気が付けば常夜灯の下。そこだけが降りしきる雨粒の速さを暴き、雨の強さを知らしめる。
 背後の足音が速くなったかなと思った、その時である。
 ゾクリ。
 背筋に冷たいものを感じ、うなじの辺りが粟立つ。
「ねぇ」
 くぐもった女の声。
「は…い?」
 立ち止まる。そしてゆっくりと振り向く。
「ねぇ」
 しかし、そこに存在していたのは、闇。
 雨に煙る街灯が連なり、歩いて来た距離を主張するばかり。
「ねぇ」
 繰り返される声。歩道の脇の植込みにも、街路樹の陰にも、その声の主は見当たらない。ただ、気配だけが大気に満ちる。
 私は傘を投げ捨てて走り出した。叫びながら。雨が容赦無く顔面を叩き、痛くてよく前が見えない。心臓が激しく脈打っているのは、走っているせいだけじゃない。何が何だか分からないまま、とにかく今はもう逃げることしかできない。細胞が警鐘を鳴らす。私のマンションはもうすぐ。

 マンションに辿りついた私は靴を脱ぎ捨て、勢いのまま部屋に転がり込んだ。
 部屋に入ってすぐ左には姿見があり、そこに、ずぶ濡れになった私が映った。額にべっとりとくっついた前髪。しかし、薄闇に映っていた私の顔は笑っていた。どう見ても笑っていた。顔に手をやる。そんな馬鹿な。今私、笑ってなんかいないのに。鏡の中の私も顔に手を這わせている。これは確かに私だ。でも、私じゃない。
「ねぇ」
 鏡の中の私が言った。私は寝室に走り蛍光灯のスイッチを乱暴に引っ張る。白い点滅に目が眩む。濡れた服のままベッドに逃げ込み、頭から布団を被った。震えが止まらない。
 夜はまだ明けず、雨は降り止まない。私はただじっと、恐怖に耐えるしかなかった。

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