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第36回1000字小説バトル Entry41

 コケを愛好する男がいた。ありとあらゆる種類のコケを、あるいは育て、あるいは標本にして、自分の手元に置いていた。何故コケなど相手にするのか、説明なぞできはしない。何よりコケが好きだから、としか答えようがないのである。

 あるとき男は、珍しいコケの話を耳にした。何でも、亀の甲羅の上にしか生えてこないのだとか。愛好家仲間でも、そのようなコケを持っている者はいなかった。男は、このコケの標本をぜひ手に入れたいものだと思った。
 そこで、あちこちの亀の愛好家に「甲羅にコケの生えた亀を知らないか」と、男は聞いて回った。こういうことはやはり愛好家に聞くのが一番と考たのだ。ほどなく、人づての噂から、遠くに住む愛好家の亀にコケが生えているという話が伝わってきた。男はその愛好家に連絡することにした。
「確かに、ウチの亀の甲羅にはコケが生えていますよ」
「ぜひそれを譲ってください」
「しかしねぇ」
「お願いします、お願いします」
 男の熱意が通じたのか、愛好家は「では近々に送ります」と渋々ながらも承諾した。

 数日後、男が仕事から戻ると、男の妻が「標本らしい荷物が届いている」と告げた。亀のコケに違いないと、男は期待に胸を躍らせた。なるほど、書斎の机の上には、現代用語辞典ほどの箱が載っている。小さなコケの標本をこれはまた厳重に包んでくれたものだ、と感心しながら、男は荷をほどいた。

 出てきたのは、新聞紙にくるまれた亀であった。

 譲って欲しいのは亀だと思い込んだ愛好家は、そのまま男の希望に応えたのであった。あれほど熱心に「譲ってくれ」と言われたものが、亀ではなく、甲羅の上のコケなのだとは、愛好家にはおよびもつかなかったのだ。頼んだ男も、コケ以外の事は頭に無かった。偏愛する対象以外は目に入らないという点で、彼らは同じ類の輩であった。

 その後、
「生きている亀を送りつけるなど信じがたい。亀など愛好していると、頭も亀のように愚鈍になってしまうのか」
と、男はコケ愛好家の仲間内で悪し様に言い募った。しかし同じ頃、亀愛好家の間でもこのような話が取りざたされていたのだった。
「コケの愛好家というのは、生き物は全てコケと同列で考えているようだ。人の亀を譲ってくれとは、ずうずうしいにも程がある」

 件の亀は、男の妻が仮死状態から蘇生させ、一命を取り留めた。
「人間とはなんと勝手な生き物か」
と思ったかどうかは、亀だけが知るところである。

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