第36回1000字小説バトル全作品一覧

#題名作者文字数
1招待状多田野英俊891
2青野 岬999
3フットボールイズ「ライフ」佐藤 ゆーき938
4幸せの猫村玉1000
5記憶の手紙弥夏和沙998
6イタイニッキ咲良(さくら)911
7時計男オキャーマ君999
8学校という檻蜜生916
9秘密ロボットひょうたん787
10迎え火立田 未1000
11彼女842
123本目のアイスキャンディー坂口与四郎1000
13「子供」のち「大人」明斐観也子780
14アフガンの少女黒男1050
15アメノオト大野 こなつ995
16夢見草月船 優希1000
17ハワイは本当に近くなった待詩音997
18異邦人ヤマタカユウキ994
19年上、年下バージャイ941
20外惑星間バイパス18号線の怪眞柄太郎1000
21『顔のない世界』橘内 潤957
22名なしユキコモモ1000
23Good bye, to you.りょう986
24比良木直太852
25夢中で見た夢話(むわ)YamaRyoh1000
26決行Makoz994
27絶光yucca999
28雨の声うなぎ1012
29おじいさんの悩みアレックス878
30桜坂3月兎855
31knottymoku1000
32黒い雄牛の夢さかな☆1000
33驚異的な舌羽那沖権八1000
34一休み、迷惑候マーマレード=ジャム805
35女将のことでアナトー・シキソ1000
36兄ちゃんまーくん943
37鬼教師なぎやまたけし891
38バスドライバー・3有馬次郎1000
39Promise Landさとう啓介1000
40削除
41カピバラ1000
42赤い自転車伊勢 湊1000
43孔雀るるるぶ☆どっぐちゃん1000
44猫の居ない風景てこ1000
45てるてる坊主、ふたたび川島ケイ1000
46神さまの二つの歌Ame1000
47日陰の中のオアシス坂本 一平1000

↑TOP

Entry1

招待状

 昔好きだった女が初めて僕に電話をかけてきた。彼女は中学時代の仲で、ただ僕の片思いだったのだが、卒業する時に彼女の携帯番号を聞いたのだった。彼女に彼氏がいた事は知っていた。だが関係をそれまでにする事は出来なかった。彼女は彼氏に男に電話番号を教えるなと言われていて、そのかわりに僕が彼女に僕の電話番号をしつこく教えていたのだ。単純な番号だったため彼女は覚えていてくれたのだろう。東京に上京してきて三年が過ぎていた。彼女からの言葉はこうだった。
「あたし結婚したから。それで招待状送りたいんだけど住所昔のままでいい?」
「うるせえ」
僕はすぐに電話を切った。あの時の彼氏と結婚したのだろう。僕はそいつに負けたのだ。
 それから僕は友達と待ち合わせしていた池袋に向かった。東京に来てからその友達としか遊んでいない。言ってしまえば僕の性格が内向的なのかもしれない。
 僕はこの世の終わりのような顔をして道を歩いていた。そんな僕を見つけた客引きのお兄さんが肩を叩いて声をかけてきた。
「どうですか、ソープなんですけど一時間抜き放題なんで」
僕はかまわず無視したがそいつはしつこかった。前を歩く僕の肩を何回も叩いてきた。
「お兄さん、抜き放題ですよ。抜きたいんでしょ?」
僕は腹が立って振り返った。するとすぐにそいつは叩くのをやめた。前を向き直して歩く僕の背中にそいつの声が聞こえた。
「オナニーすんなよー」
僕は悔しくて泣きそうになってきた。だが戻って殴ってやる勇気もない。
 待ち合わせしていたゲームセンターに着くと友達に笑い話のようにさっきの事を話してやった。だが友達は笑わなかった。
「そいつボコりにいくぞ」
僕の顔にまだ泣きそうな顔が残っていたのかもしれない。僕は友達に引っ張られてさっきいた客引きの所まで連れて行かれた。
「あいつか?」
僕は頷いた。とたんに友達はそいつに向かって走り出した。そいつは友達に気付いて客引きをやめてボーッと見ていた。友達が振りかぶるとそいつはてのひらを顔の前に持ってきた。そいつはあっけなく地面に転がった。僕はあとを追ってそいつの前まで行った。唾を吐いてやった。
「オナニーしてやるよ」


↑TOP

Entry2

 私にはおへそから下腹部にかけて、約十センチ程の大きな傷がある。
 これは二回、出産の為帝王切開の手術をした時の勲章だ。普段はもうその傷の存在もすっかり忘れているのだけれど、たまにお腹の中の筋肉がキュッキュッとつれるように痛む事がある。そしてそんな時は必ず、それから何時間かして雨が降り出すのだ。
 ある日、夫や子供達が出払った後、静かな部屋にどこからか携帯電話の着信メロディが聞こえて来た。それは開けっ放しになっていた寝室のベッドの下から聞こえていた。夫が忘れて行ったらしい。
「……はい、もしもし」
 電話はすぐに切れた。気になって着信を確認すると『M』とだけ表示されている。何故か胸騒ぎがしてメールの送受信を見てみると、そこには夫と『M』の甘いやりとりがそのまま残されていた。
 夫は自分の家柄や学歴をいつも鼻に掛けていて、何のとりえも無い私の事をあからさまに見下していた。結婚したのだって、たまたま私が長女を妊娠してしまったからに過ぎない。
 浮気している事は、うすうす勘付いてはいた。今、その事実を目の当たりにしてショックよりも、その事実を必死に隠そうともしない夫のルーズさが、たまらなく腹立たしかった。
『ピクニック、久しぶりぃ〜!十七日は絶対に晴れるといいなぁ』
『お弁当、楽しみにしてるよ。久しぶりに自然の中でのんびりしようね』
 十七日と言えば、明日だ。たしか明日は夫は接待ゴルフのはずだ。でもそれは全部嘘だった。夫は大きなゴルフバックをいそいそと車に積んで、一体どこに出かけるつもりだったんだろう?
 私は携帯電話の電源を切ると、寝室のサイドテーブルの上に乱暴に置いた。なんだか、ひどく禍々しいものを見たような気分だった。
 少しして、夫から自宅の方に電話がかかって来た。
「俺の携帯、ベッドのあたりになかった?」
「あったわよ。私、わかんないから電源を切って置いてあるわ」
 夫は明らかにホッとした様子で電話を切った。それがハッキリと伝わって来た事が、なんだか滑稽で情けなかった。
 その夜、夫はなかなか帰って来なかった。食卓の上に並べられた色とりどりのメニューは、その熱を失っている。
「いたたたた……」
 下腹部の傷跡に、あの痛みが走った。いつもよりも痛みは強い。きっともう少ししたら雨が降り出し、明日は大雨になるだろう。
「……ざまあみろ」
 私は深呼吸をひとつすると、パジャマの上から傷跡を優しくさすった。


↑TOP

Entry3

フットボールイズ「ライフ」

 私の彼氏はサッカーが大好きだった。
 日本でワールドカップが行われるからといって、仕事まで辞めた。と本人は言っているが、たぶん単に仕事が嫌になったのだろう。
 でも、彼のサッカー好きは嘘ではない。サッカーに興味がなかった私は、何かにつけてサッカーの講釈をたれる彼に辟易していたのだが、ワールドカップが近づくにつれて、子どものようにはしゃぐ彼を見ていると、何だか私まで楽しくなってきた。
 その彼がワールドカップ開幕の6日前に死んだ。日本代表がテストマッチでスウェーデンに引き分けた後、彼は街に繰り出し、しこたま酒を飲んで、 車に轢かれて死んだ。
 私は泣いた。私が彼を失ったことよりも、彼がワールドカップを失ったことの方が、私にとって悲しかった。
 彼の葬儀が終わった後、私は書店に溢れるワールドカップ関連の書籍を買い漁り、日本代表やその対戦相手、そして彼が大好きだったフィーゴという選手について調べた。
 そして開幕の日までに、日本代表の23人の名前とポジションはもちろん、フラットスリーという戦術は中盤のプレスがないと機能しないということ、ベルギーのエースのエミール・ムペンザはケガで出られないこと、そしてフィーゴはすしが大好きだけれども、決勝まで進まないと日本に来られないことなどを頭に入れた。
 開幕戦は家で一人で見ていたが、彼が試合中ずっとそばにいるような気がして、涙がこぼれた。前回優勝のフランスが敗れた時は、彼が唸っているような気さえした。
 そして、いよいよ日本対ベルギーの日。私は夕方6時のキックオフに間に合うように、急いで仕事を片付けて家に帰った。部屋のドアを開けると、なんと彼がいた。
 「ごめん、ごめん、やっぱどうしてもワールドカップ見たくて。別に恨みつらみとかじゃないし、ちょっと我慢してくれよ。」
 よく見ると、彼の身体は透けている。でも、しっかり日本代表のレプリカユニフォーム姿だ。私は微笑んだ。
 私は彼の隣に座って、テレビをつけた。国歌の演奏が終わり、試合が始まった。日本はしっかり守っているが、ベルギーの選手は背が高く、ゴール前に放り込まれるだけで危険な感じがした。彼は緊張のあまり真っ青になって、今にも消えてしまいそうだった。
 日本代表がずっと勝ち進めばいいのに。私は心からそう思った。


↑TOP

Entry4

幸せの猫

 みたび、雨だ。
天気が悪くてすまんな! 俺の名前はキリン。今は捨て猫をやっている。俺がこのダンボールハウスに投げ込まれてから、いままで96人がここを覗き込んでいった。この俺様がどれだけ魅力的かわかるだろ?
 一度目の雨がやんだ時だった。34人目の来訪者、八百万が一人、道草の神が、俺の頭をなでながら言ったんだ。

=百番目にお前を見つけたものが、おまえの運命を決めるよ=

 奴が言った百人目は目の前だ。俺の心臓は待ちきれず、最高に高鳴っている。

「仔猫だ仔猫」
「お〜、たまんねぇ!」

 人間が三人、俺の前で立ち止まった。一人の人間が俺の頭上に赤い傘を傾ける。黄色い傘をさした二人目はその後ろからキャピキャピと覗き込んでいた。三人目は一番遠くで、青い傘の下から、うかがうように俺を見下ろしている。一気に三人! 99人目! あと一人!

「やめなよ、ヒロ。そんな汚い猫」

 遠巻きに眺めていた三人目が何かをいうと、俺に傘を差し伸べてくれた人間の顔色が変わった。俺は人間の言葉が解らないが、ほめ言葉か悪態か、くらいは雰囲気で感じ取れる。この青い傘の人間、百人目じゃないとはいえ俺に傘をさしてくれるこの人間に、何を言ったんだこのやろう!

「汚いけどさぁ、ゆり。かわいいじゃん。こんなに一生懸命わめきちらしてさあ」

 黄色い傘の人間が、おもちゃを見つけた犬のような顔をして、いとおしそうに俺を見つめてきた。
怖い。
俺の抗議の声は思わぬところで、思わぬ方向に作用してしまったようだ。

「くだらない。ヒロ、いつまでそうしてんの? 濡れるよ」

 悪口の人間が少し口調を強くして何か言った。赤い傘の優しい人間は、なごりおしそうに俺を見た。だがやがて、先に行ってしまった二人を追いかけて雨の向こうに消えていった。あの人間の、少し寂しそうな目が、俺の脳裏に焼きついてしばらく離れなかった。あの人間が気になって仕方なかった。これまでの96人も、98人目、99人目にも無論、こんな気持ちになったことはないのに。

「あ〜いたいた。くそ〜雨の日にかぎって電話入んだから」

 俺を現実に引き戻したのは、百人目の声だった。
百人目。
ついにこの時が!

「こいつも最終的には処分になんのかなぁ。動物を助けたくてこの仕事選んだのに。仕事は処分だけだかんなぁ。求人もっとよく読めばよかった」

 この人間が俺の運命を決める!

「首輪してんのか。名前は、ロングネック? なんじゃそりゃ」


↑TOP

Entry5

記憶の手紙

出会いの数だけ別れがあると人は言う。
だったら、出会ったらいつか必ず別れが来るの?
そんな悲しいことはない。別れのない出会いだってあるはずだ。
たとえ二度と会えなくても、いつまでも覚えていれば、それは別れではない。
 私には出会ってから二十年、いまだに別れが訪れそうにない人がいる。何人かの友人たちもそうだけど、あの人とは十五年前以来会っていない。そのくせ、忘れることなんてできないのだ。
 十五年前、私がまだ九歳だったあの日。彼は、高校を卒業すると同時に、外国に旅立ってしまった。
ヨーロッパ中を貧乏旅するといったものだ。もちろん両親には反対された。
それでも彼は旅立つことをあきらめなかった。
私の両親が唯一、彼の行動に賛成した人間だった。
彼の旅立ちに立ち会ったのは私たち家族だけだった。
彼は、すごく軽そうなかばん一つだけを持ってにっこりと笑っていた。
彼が行ってしまう…。
外国に旅に出たいと初めて教えてもらったのは私にだった。
私はそれがうれしくて、彼にやりたいことをやってもらいたくて、それがどういうことになるのかわかっていなかった。別れるときになってやっと気がついた。
もう、会えない。
気がついたら、涙がこぼれて、すごく悲しくなった。
私が声をあげて泣くほど、彼はすごく困って、それでも涙が止まりそうになかった。
彼が私の頭をなでる。
「泣かないで。ね?これでお別れなわけじゃないんだから」
「だって…もう、あえな…いんで…しょ?」
「ん。たしかにもう会えないかもしれない。でも、忘れなければ別れじゃないんだ。出会いの数だけ別れがあるなんていう人もいる。でもね、別れたくなければいつまでも覚えていればいいんだ」
「でも…忘れちゃう…もん」
「…そうだね。人間は忘れることで生きていける動物だから、時間がたつといつの間にか忘れてしまう。それは仕方のないことだよ」
「じゃあ…やっぱりお別れ…」
また涙が流れ出す。彼の顔が見えない。
「大丈夫。忘れないように、忘れたくても忘れられないくらい手紙を出すよ。絵葉書とか、写真とかのいいね」
「本当?絶対に手紙をくれる?」
「うん。絶対に」
「忘れないくらい?」
「忘れたくてもね」
彼が微笑む。私の大好きな笑顔。
私も笑顔になる。私のために来る手紙がうれしくて、だから笑顔がこぼれた。
 彼からの手紙、二十年後の今も相変わらずちゃんと届く。
年に一度だけの手紙。
それは別れを告げないいつまでも続く記憶。


↑TOP

Entry6

イタイニッキ

いつかこの日のことを笑えたら―


「お掛けになった電話番号は現在つかわれておりません」のメッセージを聴いた。
4月1日・・・エイプリルフールの夜。
次の日、また同じメッセージを聴いた。

考えたくない。口に出せない。そんな言葉いらない。
夢から覚めよう。はやく。はやく。
悪い夢から覚めよう。

考えたくない。口に出せない。
痛い。
昨日包丁で切った指先が。
痛い。
痛い。
昨日包丁で切った指先が?

あなたに触れた人差し指が。


考えたくない。口に出せない。
・・・終わったの?


震えながら書いた日記に涙が落ちた。
誰か、あたしのこと笑って?
たいしたことじゃないよって、笑って!!
それか、何にも考えるスキマがないくらいに、楽しくさせてよ。
24時間中ずっと!!


この恋で、少しは強くなったかな。
あなたのような優しい人、もう出会えないかもしれないね。


あきらめがつかなかったら、めぐりめぐってまた会える、って想っててもいい?

お願いお月様。
もう一人は嫌だよ。
お願いお星様。
涙の理由を消して。

あの人に会わせて。会わせて。会わせて。
声を聞かせて。聞かせて。聞かせて。
手をつないで。つないで。つないで。

どこへ行こうか。どこでもいいの、あなたとなら。
あたしをそっと包んで。
愛で包んで。


やっぱりだめだよ、あなたじゃなきゃ。
あたしのこと見つけてもう一度。


待つ。


待つと決めた。
明日の朝まで。

待つと決めた。
あなたが消えるまで。

待つと決めた。
あたしの体から、あなたが消えるまで。


覚えているのは、海の波。
覚えていない、あなたの笑顔。

つらいのはあたしだけじゃない。
と、思いたいのに自信が無い。


あなたを信じていたいのに。

あなたを信じていたいのに。


キラキラの想いはそのまま今でも光ってる。
忘れないように何度も確かめる。

パスタをゆでてる間、あなたのことを考える。
お風呂をわかしてる間、あなたのことを考える。
寝る前、夢が始まるまでの間、あなたのことを考える。

あたしの生活のあちこちに、あなたが染み付いている。

愛しい、愛しい、時間達。

忘れないうちに、クッキーにして焼いちゃおう。
あなたのこと好きなうちに、全部食べちゃおう。

明日もまた、クッキーを作ろう。

あなたのこと好きなうちは、作り続けよう。
いつまでも。


↑TOP

Entry7

時計男

 本日ニ時五十五分に、小生、時計収集家の時田氏に誘われて屋敷を訪ねた。大小様々な時計を埋め込まれた絢爛豪華な飾門をくぐると、其処は異世界、ワンダァランドである。
 ROLEXやIWCなどのスゥイス高級時計から、ドイツのジーン、アメリカのハミルトン、果てはファッションブランドのカルティエ・ブルガリ・グッチなど、ありとあらゆる時計を集めも集めたり、その数、数千点。
 一体に、何処のどの部屋が、如何なる機能を持って使用されているのか。どれが寝室で、どれが客間なのか、只々、時計の装飾に溢れ、その奇観たるや魔界の園に遊ぶが如し。
 小生は約束通りの時間に、目の前に推参したはずだったが、奇人時田氏の機嫌は頗る悪い。
「ヤァ、時田君。どうだ」
「嫌、残念だが、十五秒遅いよ。十五秒と云えば、是は当に致命的な遅刻だ。さて、君の同僚であるマスコミの面々は此方か?」
「紹介しよう」
 小生が振り返って、後ろのカメラマン、記者を指差したところ、
「嫌」と時田氏が手を振る。「失礼ながら、君の今の遅刻で、方々を誰何する暇はなくなった。もはや時間は迫って居る。早速、本題に入るとしよう」
 と堪え性もなく続けた。「私は世界中の時計を集めて数十年にも及ぶ時計コレクタァの第一人者である。それは自他共に認める処。が、集めるだけではどうにも我慢できなくなってしまった」
「其れは存じている。最近では工房を作り、職人を雇い、数々のオリジナール時計を作り出して居るとか」
「然り。そして、此処に方々をお招きしたのは他でもない。我が最高傑作が誕生したからだ。この場を其の披露式と致したい」
 と云いながら、氏は腕時計を確認した。
「さァて、時間です。得とご覧あれ!是の歴史的瞬間を!」
 すると、ボオン、ボオン、ボオン、と屋敷中の時計が一斉に鳴り出し、其れが寸分も違わぬテンポで音を合わせた。と、同時に一同は見たのである。
 時田氏の目玉が飛び出すと共に、其の顎が外れたように開くと、中から鳩が出てきて三度お辞儀した。タキシードが捲れ、胸の扉が開いて、鳩に合わせるかのようにラッパを口にした兵隊人形が続いた。
 驚くべし。時田氏は自らが鳩時計となって仕舞ったのだ。
 当に究極の時計コレクタァ!
 一同、あまりの驚きに其の帰路、蹌踉として歩が進まぬ。
 時田氏の満足そうな笑顔の凄みよ!
 思い出すだに、悪夢の中に投げ込まれたような錯覚に囚われざるを得ないのである。


↑TOP

Entry8

学校という檻

 学校。そこは様々な動物が混在している。そこは大ボスと中ボスと雑魚にわけられていて、俺は雑魚に位置されていた。
 中ボスは別名「先生」という。竹刀を武器とし、古風なジャージが戦闘服だ。
ある日「先生」は言った。今日のテストで50点以上の者は檻からだしてやる、と。そう、普段俺たちは灰色の檻の中で青い空を恋しく眺めるだけだった。俺はチャンスだと思った。外に出られるのだ。
 それから俺の猛勉強の日々は続いた。寝ても覚めても勉強勉強。檻の中には普段とうってかわって、異様な雰囲気が漂っていた。みんな俺と思いは一緒なのだ。
 そしてテストの日がやってきた。俺は渾身の力を込めて、シャーペンを握りしめ、そして愕然とした。わ、わからない。全くわからないのだ。何故?!理由は簡単だった。そのテストは俺たちが分からないような高等なものだった。「先生」は暇潰しのために俺たちを踊らせていたのだ。俺は切れた。ぶち切れた。
 「先生。」
 「ん、なんだ貴様、文句でもあるのか」
 「いえ、」
 その瞬間、俺は「先生」のお気に入りのズラを、そのつるっぱげの頭から剥ぎ取り、高らかに掲げたのだった。そしてライターで焼却。「先生」は真っ青のなって、俺に竹刀を振り上げたが、俺はぶちぎれモード発動中だ。そんな竹刀はへでもなかった。ひょいとよけると、俺は言った。
 「檻は解散だ。」
雑魚たちは一気に檻の外に溢れ出て、檻の外の格子鉄線を乗り越え、外の世界に散らばっていった。大ボスや中ボスが決死の表情で追ってきたが、そのうちに行き倒れていった。
 俺は空を見上げた。外で見る空はだだっ広かった。俺は空に両手を掲げた。
 「待たせたな」
 ここから俺の人生が始まる。クソみたいな檻から俺は解放された。自由が俺を取り巻く。散らばっていった雑魚たちはどこへ行ったかは知らない。みんな、それぞれの人生を走り抜くのだ。自分で選んだ道を。
 
 そして時は流れた。俺は檻から出た後、のうのうと生きている。人は胸はって言える仕事じゃないと言うが、俺は俺自身に誇りを持っている。
 俺はふと空を見上げた。相変わらずのでっかい青い海が天を支配している。そして、俺はあの檻で過ごした日々を思いだし、少し懐かしくなった。


↑TOP

Entry9

秘密ロボット

とある研究所での出来事。
助手が完成したロボットを前に。



博士、ついに完成しましたね。
ふむ、ついに完成だな。

50年間これを作るために生活を犠牲にしてきた甲斐がありましたね。
ふむ、犠牲にしてきた甲斐があったな。

これを発表すればノーベル賞、、いやそれどころではないかもしれないですよ。
ふむ、それどころではないかもな。

これで私の妻も戻ってくるでしょうか。
ふむ、ノーベル賞ならな。

しかし、この50年間ほんとに辛かったですね。
ふむ、辛かったな。

ほかの研究者には馬鹿にされっぱなしでしたね。
ふむ、馬鹿にされっぱなしだったな。

でもやっぱり博士の理論は正しかったですね。
ふむ、正しかったな。

博士、20年前の出来事覚えていますか。
ふむ、覚えているな。

あの時、食べるものがなくて床に生えたキノコを摘んで食べたときは大変でしたね。
ふむ、笑いが止まらなくてな。

これを世界に発表したら世界中の人が博士を尊敬するでしょうね。
ふむ、尊敬するだろうな。

では、少し動かしてみますね。
ふむ、前進しているな。

次は後ろに。
ふむ、後退しているな。

少し走らせてみましょう。
ふむ、走っているな。

次は音楽に合わせて踊らせてみましょう。
ふむ、イカス音楽だな。

それではこの難しい問題を解かせてみます。
ふむ、難しい問題だな。


ロボットは渡された問題用紙に向かい、カリカリと鉛筆で解答している。


やや、100点満点ですよ。
100点満点だな。

うーん、我ながら最高ですよ。
最高だな。

しかしこの15年間、本当に孤独でした。
ふむ、孤独だったな。




助手は満足げな様子でロボットを眺めた。
そしてふとつぶやく。


高度な知能を持ったロボットを完成させて、15年前に死んだ博士も満足だろう。
でも、ロボットのモデルが博士本人だと知ったらさぞ驚くだろうな。

そう言って、助手は目の前のロボットの電源を落とした。
博士、ほんとうにありがとう。

博士はもう何もしゃべらない。


↑TOP

Entry10

迎え火

 黄昏時の路地を辿っていくと、母子が小さな火を道の端に燈したところだった。 辺りの空気が、赤からだんだんと暗みを帯びて藍色に染まっていく中で、その朱灯は何故か懐かしい気持ちを呼び起こした。
「今日クラスの子がね、おうちではスイカにお塩かけて食べるって言ってた。」
「そうね、そうやって食べる人もいるわね。」
「おいしくなるの?」
「甘くなる、って言うけど。」
 つい立ち止まって、二人がしゃがみこんだまま会話するのをぼんやりと眺めた。
 炎が爬虫類の舌のように揺らめいて、まるで何かを誘っているようだ。
 下から照らされて浮かび上がる親子の面影は、年の差こそあるものの、思わず胸を突かれるほど似通っている。
「あとでそうやって食べてもいい?」
「御供えしてから。」
「いつもみたいにサイコロみたいに切らないでね。まるごと大きいのが食べたいの!」
「おもらししても知りませんよ。」
「しないよそんなこと。 ・・・・・・スイカ好きだったの?」
 まだ顔にあどけなさが残る女の子の問いには、主語が抜けていた。 けれど母親には、誰のことだか聞くまでもなかったらしい。 小首を傾げつつ即答した。
「変な人なのよ。西瓜はなまぬるいのが好きなんですって。夏らしいからって。」
「冷えてる方がおいしいと思うけど。」
「冷たくてもやっぱり西瓜は夏だと思うけど。」
 異口同音に言ってから、お互い呆れたような顔を見合わせる。 一瞬後に、同時にくつくつと笑い出した。
「でもね、熱いものも苦手な人だったわ。」
「猫舌だったの?」
「そ。だからお茶飲むときはいつも二つお茶碗を用意しといて、かわりばんこに入れ替えるの。」
 こうやってね、と右から左へと液体を注ぐ手付きだけしてみせた。 手の動きにつれて、煙が薄闇に白くたなびいた。
 夜が近付くにつれて、ヒグラシの鳴き声がどこからとなく聞こえてくる。
「そしたらちょっと冷めるのが早いのよ。」
「・・・・・・そういえばスイカもう冷えたんじゃないかなぁ。」
「まだじゃないかしら。」
 母子が内に入ってしまってからも、少しの間そのまま外で佇んでいた。
 家に入るのが寂しく、また怖かった。
 きっと仏壇には、小さく切って皿に行儀良く並べられた生温い西瓜が供えてあるのだろう。 それを見ることは、己の死亡という事実をあまりにもはっきりと目の前に突きつけるようで、いつもながら耐えられない気がしたのだ。
 蚊取り線香の独特の匂いが鼻についた。


↑TOP

Entry11

彼女

 僕には、放浪癖がある。ある程度大きくなってからはそこら中を歩き回っている。国内、国外、そんなものは僕には関係ない。ただなんとなく遠くへ行きたくなるのだ。そして衝動に任せて歩き回っていた。あのカンボジアでも。
 彼女にあったのは田舎の小さな村だった。僕はその時も衝動に任せて歩き回っていた。たまたま着いた先がその村だったというだけだ。腹が減ったので僕は村人にたかってみた。少しの金を払えばそれなりの食べ物を持ってきてくれた。まだ世界に完全にはスレてない、いい村だった。そんな村で食べ物を持ってきてくれたのが彼女だった。
 きれいだった。優しかった。もうそれだけで僕は彼女を好きになった。
 僕は彼女に迫った。一週間粘って、彼女は僕のことを許してくれた。しかし僕の旅費はもう底をついていた。必ず彼女ともう一度会うという約束をして、僕は泣く泣くその村を後にした。
 しかし、彼女とは会えなかった。一年後、僕は彼女を求めて村へ来たのだが、彼女はすでに村にいなかった。そして村は一変していた。人々は皆、金、金、金を要求してきた。
 彼女は買われていったらしい。ある日、日本人の男が来て村の娘を何人も買っていったのだという。
 もう一度彼女に会ったのはベトナムの裏通りだった。彼女は店の前で足を見せて客を引いていた。でも、僕はそんな事は気にしなかった。彼女にいきなり抱きついた。すると思いっきり平手を食らわされた。それでも僕はあきらめなかった。金を渡して、これでどこかに一緒に行こうと、言おうとした。しかし彼女は金を受け取ると言った。
「ありがとう。でも私、エイズなの。」
彼女の僕への最後の優しさだった。
 彼女は変わった。変わらないと生きていけなかったのだ。村にいたって食っていけないのだ。街にいたって仕事はないのだ。
 三日後、彼女は死んでいた。あの金で不良な麻薬を買って使ったせいらしい。
 こうなってしまってはもう、僕にできることは、彼女と交わった男たちがエイズで苦しみながら死んでいくのを願うのみである。


↑TOP

Entry12

3本目のアイスキャンディー

「夏来さん、あれがズンドコ遺跡です」

暑さに汗を滝のように流している夏来とは違い、若い岩井は目を輝かせて遺跡に見入っていた。
「随分とふざけた名前だな」
なんという暑さだ。脂肪の厚さが身にしみる。夏来は心の中で呟いた。

「いやぁ、話題のズンドコ遺跡周辺で事件が起きるなんて、ラッキーですね」
ミーハー心丸出しの岩井に夏来は殺意の炎を滾らせた。
事件が終わり、やっと家に帰れると思ったのに、岩井がダダをこねたのだ。


「夏来さん、これがズンドコ遺跡が有名になったきっかけの、変形頭蓋骨です」
クーラーのきく博物館内に入ったので、夏来はほっとしていた。
「やれやれ。これでお前を殺さなくて済んだ」
「何かいいましたか?」
夏来は岩井の言葉を無視して館内を見回った。
館内は狭く、あまり関係のなさそうな遺跡のレプリカまで展示されている。


「この時代に生まれたら、俺のハンサムな顔がつぶれてしまうな」
顎がしゃくれた頭蓋骨を眺めながら、夏来は自分の顔を触った。
「ズンドコ遺跡の変形頭蓋骨は、主に特権階級の女性が対象です」
岩井は、得意げにぺらぺらと答えた。
(この遺跡オタクめ)
夏の暑さで有名なこの地で事件が起きたのは、全部岩井のせいなのでは、と夏来は思った。

「女性がこんな不細工になっていいのか?」
復元図を指差し、岩井に訊いた。
「美の基準は時代によって大きく違います。しかし、これは私の説ですが、彼女達の仕事はシャーマンです。シャーマンの神秘性を高めるために変形させたとの説がありますが、巫女は神と契約した、つまり、「神の妻」としての立場より人間の夫はいらなかったのだと思います」

「そのため、不細工のほうが都合が良かったのです」
極端な岩井の説に、微妙に納得してしまい、夏来は少々自分が嫌になった。


「じゃあ、俺が真実を推理してやろう」
夏来はわざとらしく咳払いをした。
「巫女の頭蓋骨は、変形していなくてはいけない理由があったんだ」
「ええ、不細工であること以外にですか!」

「普通に成長した頭蓋骨を持つ人間は、神と交信が出来なかったのだ。つまり、頭蓋骨を変形させ、脳の成長を阻害させる。古代の人間は、人工的にシャーマンを作り出したのだ」
岩井の眼が輝きをました。
「成長できない脳により、いつでもカミサマに会えたのさ」
夏来はパンフレットをゴミ箱に捨てた。
「夏来さん、すごい推理です!」

「バカ、信じるなよ」
夏来は本日4本目のアイスキャンデーを口に入れた。


↑TOP

Entry13

「子供」のち「大人」

子供の頃、私は何も知らなかった。
そう、何も知らなかった。

「未だ中学生」だという自覚もなく、「既に大人」なのだと勘違いしていた。
大人達の世界はとても稚拙に思えたし、何よりも自分の世界はそれを遙かに勝ると思っていたのだ。

…それこそが無知であることも知らない、そんな子供だった。
まわりに同調し、孤立してはならないと必死に思い続けながら、
そんな状況の中でも尚まわりを見下していた自分。

それこそが幼稚である証拠にも関わらず…だ。
子供とは馬鹿なものなのである。特にこの年頃は。

そして、その中にまばらに混じる本当に大人であるものの存在。
それは私達子供を戸惑わせた。
近寄り難さと、表現しがたい嫉妬と、そして憧れを抱かせる存在が。


クラスに一人、居たのだ。
誰とも群れず、そして誰もが持たない雰囲気をその身に纏った者が。
「恵理」というその少女を、しかし当時の私は好きになれなかった。
理由はとても簡単なものであったと今の私は振り返る。
それは彼女が「大人」であったからだ…。
それは私の、子供の嫉妬。

私達は遠目にしか彼女を見ることは出来なかった。
憧れの念を抱く者、理由のない嫉妬を抱く者、近付きたがる者、そうでない者。
とにかく、異質に映ったのかもしれない。

同年代であるはずの彼女はしかし、まるで違う世界に住んでいるようだったから。
彼女に触れてしまうと、自分の大きさというものが分かってしまう気がしたから。
そして、私個人のこととして言えば…それが初恋だったから、かもしれない。

異質に映ったのは、それは私が今までにない感情を恵理という少女に抱いたからだ。
そしてそのわけの分からない感情に苛立ち、彼女の放つ雰囲気に嫉妬した。

今なら分かる、あの淡い感情。


30歳という年になり、同窓会で会った彼女に、私はそんなことを考える。
ああやっと、私も大人に近づけたのだろうか。

彼女は華やかな微笑みを私に向けた。


↑TOP

Entry14

アフガンの少女

 残業を終えて、深夜、人気のない我が家に帰る。コンビニで買ってきた弁当をテーブルに置き、テレビのスイッチを入れる。
 

 一人きりの淋しい食事である。娘の真理が交通事故で死んだのは、五年前の事だ。享年九歳。妻が亡くなった後、男手一つで育てた愛娘だった。
 食器棚には、今でも真理の茶碗や湯呑みが並んでいる。何度も処分しようと思ったが、今日までそれが出来ずにいる。真理が死んだという現実を、認めたくない自分がいた。そういう自分を軽蔑しながらも、娘の余韻を生かしておきたいと思う自分がいた。
 
 
 テレビのニュースでは、アメリカの空爆によって被害を受けたアフガンの村の惨状を報じていた。破壊された家々、瓦礫の山を前に呆然と立ち尽くす人々。私は、弁当を食べながらそれを見ていた。 
 一人の少女が医療テントに運び込まれる。空爆で重傷を負ったらしい。NGOの医師たちが、彼女の命を救おうと懸命の努力を続ける。私は箸を動かす手を止めて、テレビの画面をじっと見つめた。
 助かってくれ。心の中でそう祈った。神など信じていなかったが、祈らずにはいられなかった。
 
 
 ――助かってくれ。

 
 祈りは届かなかった。数分後、少女は呆気なく死んだ。私の心に寒々としたものが広がっていった。
 二人の男が、少女の亡骸を毛布に包み、足早にどこかへ運んでいく。アフガンはイスラム教の国だから、決して火葬を行わない。それは、神が地獄に堕ちた者に与える厳罰だからだ。おそらく大きな穴を掘って、他の死者と一緒に埋葬するのだろう。少女を運ぶ男たちの顔には、何の表情もなかった。二十年におよぶ戦争は、彼らから涙さえも奪ったのか。
 毛布の間から、少女の顔が見える。やわらかい睫毛、静かに閉じられた瞼、小さく開いた唇。血と泥で汚れていたが、その横顏はギリシャの彫像のように気高く、美しかった。
 少女の顔が、真理の顔と重なった。私はたまらない気持になった。不意に、五年前の記憶が甦った。


「大きくなった顔が見たかった」
 葬儀の後、私は真理の遺影の前で呟いた。
 真理は私と買物に行くのが好きだった。大人になった真理と腕を組み、恋人の様に二人で街を歩いてみたかった。
「きっと美人になったろうに」
「今でも充分、綺麗だよ」
 友人がそう言ってくれた。

 
 ――テレビの向うでは、もう一人の真理が荷物のように運ばれていく。次第に小さくなるその姿が、私の眼を刺す痛みのように感じられた。


↑TOP

Entry15

アメノオト

 雨の日は昔から大好きだった。大人と言われるようになった今でもそれは変わっていない。

靴下も運動靴も、学校の靴箱に置き去りにした。ランドセルも濡らしたまま、傘もささずに裸足で走る。
いつもとはまるで違う世界に見えた。目に見える全てが、孤独なものに思えた。
アメノオトの世界では、ブランコや鉄棒も無力だった。特に、運動場の片隅にある砂場。誰かが作った大小の丸いかたまりが、ボロボロ崩れていくのを見て、僕は、流れる涙を抑える事ができなかった。
「大丈夫?傘貸してあげるね。こんなに濡れて、かわいそうに。」
泣いている僕を見つけた先生は、そう言って赤い傘を持ってきてくれた。
かわいそう?せっかくの雨、僕が、望んだ雨なのに・・・。
アメノオトの世界では、傘なんてただの邪魔者だと思っていた。赤い傘を差し出す先生の手を強く振り払う・・・。僕は、とにかく両手を自由にしたかった。悲しい目で僕を見た先生は、ランドセルの上に赤い傘を広げて置いてくれた。投げ出して泥まみれなっている僕のランドセルを守るように。
僕の心を守るように。
 守られている僕のランドセルを見たあの時、僕は、人のやさしさを知ったのだ。
赤い傘は、ランドセルを守ってくれた。アメノオトの世界から。初めて、人は強いのかもしれないとさえ思えた。
両手を広げて、空を見上げる。僕は、もうすでにずぶ濡れで、顔を流れる雫が、涙だとは、思わない。
帰り道の水溜りにひとつ残らず足を入れてみる。底の見えない水溜りに足をいれるのはちょっと怖かったけど、ひんやり冷たくてとても気持ちが良かった。
先の見えない足元をぼんやり見つめながら、先生の言葉を思い出す。
「さようなら。気をつけて。また明日ね。」
アメノオトをくぐりぬけて、先生の声は確かに僕に届いた。僕の心に届いた。そう、また明日。明日になれば、僕は元気になれるだろうか。
赤い傘は、砂場に広げて置いてきた。崩れた丸いかたまりを守ってくれるだろうと思ったから。
「大丈夫?傘貸してあげるね。こんなに濡れて、かわいそうに。」
僕は、崩れた丸いかたまりに繰り返し言った。
家へ帰るとアメノオトは静まる。閉ざされているという空間。僕は、守られているという安心感でいっぱいになる。ちょっと、元気になれた。窓の外を見ると様々な色の傘が、道を行き交っている。せっかくの雨なのにと、また、思う。

今日もまた、アメノオトが聞こえる。僕は、一人裸足で外へ出る。


↑TOP

Entry16

夢見草

私の名前は深森美咲…私は今、一輪の花を手にしている…
その花の名は「夢見草」その花の蜜を飲むことによって
永遠に夢を見続けることができる…つまり死んでしまうのである
さて…もう使っちゃおうかしら…もうこんな現実にはうんざりだよ…
(コンコン…)そんなことを考えていると突然部屋のドアがノックされる
「美咲〜お客さんが来てるよ!!」どうやら母さんらしい
私に用がある人が来るのなんて何ヶ月ぶりだろう
もう私が学校に行かなくなってから3ヶ月になる
その間一回も私に用がある人なんていなかったのに…
「わかった…すぐに行くよ」
そう返事すると私は部屋を出て玄関へ向かった

(かちゃ)
「やっほ〜美咲ちゃん♪お久しぶり〜」
玄関のドアをドアをあけるとそこには学校の同級生だった小夜子がいた。
「えっと…小夜ちゃんであってるんだよね?」さすがの私でも
三ヶ月あっていないと本当にそうだったっけ?と疑ってしまう
「うん♪ねぇねぇ…今暇かな?」
「ま、まぁ暇だけど…それがどうかしたの?」
いきなり何を聞いてくるのかと思いつつそう返事する
「じゃあ…私についてきてくれるかな?」
と照れくさそうに言う小夜子に
私はいわれるままついていった…もちろん夢見草を持ったままで…

小夜子についていってついた場所はある小さな喫茶店だった
「ねぇ…ここでいいの?」私はちょっと不安になって尋ねる
「うん♪さぁ…早くはいろうよ」
そういって小夜子は先に中に入っていく
(カランカラン)恐る恐るドアをあける…すると
『お誕生日おめでと〜』と言う声と共にクラッカーの音が鳴り響いた
「な、何なのいったい…」
「今日は美咲ちゃんの誕生日でしょ?だからみんなでお祝いしようって事にしたの」
状況が理解できない私に小夜子が説明してくれる
「え、何で…私なんかのために?」
確かに今日は私の誕生日。けど誰も祝ってくれるはずが無い…そう思っていた
「決まってるじゃない…友だちだからだよ♪」
「友だち?私のことを友だちって思ってくれてたの?今まで…」
思わず涙が出そうになるのをおさえてそう言う
「当たり前じゃない…ほら、みんなもそう思ってるよ」
そういわれて周りにいるみんなの顔を見る…
「うん…そうだね…」
とめどなく涙が出てくるのを拭ってそう言う
その時私は確信した…私にあの花は必要ないことを
夢を見続けるより…現実の方が素晴らしいことに気付いたから…
「さ!お誕生日会を始めようよ!!」小夜子がそう言う
「…うん!!」


↑TOP

Entry17

ハワイは本当に近くなった

 僕はABCストアのビニール袋を提げて、午後の成田空港に降り立った。
行きも帰りもおんなじGパンTシャツビーサンのいでたち。
ポケットにはパスポートとタオルと現金を押し込んで。
往きの所持金は3万円ちょっと。
さっきポケットを弄ってみると、1万円ちょっと残っていたから、
2万円も使っていないのは、小学生でもよくわかる。
往復の運賃とホテル代は4万円を切ったお値打ちプライス。
これは行くまえに銀行で振込済み。
それにしてもハワイ旅行もお手軽になったものだ。
その昔、ハワイといやあ、庶民の憧れで、TV番組の花形賞品だったんですよ。
飛行機がまだ神懸りな乗り物で、ジェット機なんてまだ見たこともなく、
プロペラが停止せず無事現地まで辿り着くことができるやら。
それでも爺さん婆さんは死んでも良いからと、冥土の土産にハワイ旅行を、
TV番組宛てにせっせと懸賞葉書を投函したのでございました。
そんな時代はとうの昔。
旅行雑誌で格安旅行をみつけて、
それがたまたま知人のエージェントだったので、
交渉の末さらに負けてもらって、着の身着のまま出発したのが月曜日だった。
それから昨日まで、ビーチに寝転んで本を読んだり、
ハンバーガー屋のおばんを軟派して、家庭料理の夕食をごちそうしてもらったり。
このおばんがとても親切で、ココナッツミルクの何やかや、
やぎのお尻の肉などの地元の料理をたんまりと。
ロビンソン=クルーソーの食い物かと思ったが、
「Goo!」と親指を立てる
There is no comparison.
僕は世渡り上手なお調子者。
お天気の方はあんまり芳しくなく、お日様が出たり入ったり、たまにおもらしをしたりと、
生憎ではあったけど。
それでも、なあんにもしないこの過日、日本語は全く話さないこの数日。
とても贅沢な休日を味わった。
おかげさまで非常識な人間にさらに拍車がかかり、
羽田空港では怪訝な目で見られるはめに。
違法物を持ち込んだわけでもないのだけど、
不精髭の三十男がビニール袋(スーパーでもらえるあれですよ、あれっ)をぶら提げて、
通関しようとしているのですから。
荷物は本当にこれだけ。
トラベルケースもマカデミアのお土産も一切なし。
これじゃあ、検察官も不信に思うはず。
中には濡れた海パンとゴーグルと下着が1セット、お行儀悪く入っているのですから、
中身を問い詰めれれた日にゃ、ちょっと抵抗はしますよね。
近くにお買い物にいくように、気軽にハワイ。


↑TOP

Entry18

異邦人

 レースのカーテンがふわりと膨らみ、ベッドで眠る我が子の頬を晩春の風が撫でた。
 その風に嫉妬して、私は家事の手を休め、ベッドに近づき彼の頬にキスをする。

 室内は陽の光に満たされ、全ての物が白いフィルターをかけたように明るく輝いている。
 私は、ぐるりと部屋を見回してみた。

 CDラックに置かれたぬいぐるみ。
 ダブルベッドに、畳み掛けの洗濯物。
 最近開いていないノートパソコン。
 クリーニングからあがってきて、そのまま壁にかけっ放しの春物のコート。
 どれだけ売っても譲っても何故か増えていく文庫本たち。
 ウサギの可愛らしい絵が描かれた歩行器。
 60℃で保温されているジャーポット。
 夫が買った、私は使い方を知らないエスプレッソメーカー。

 私たちの物に加えて、この子のために揃えた物も多い。
 引っ越してきた時は広く見えたこの8畳間も、ずいぶんと物が増えた。

 いやいや。子供がいるのだから、これからもっと、どんどん増えてゆくのだろう。
 元来掃除があまり好きではない私は、心の中で小さくため息をついた。


 ふと、考えたことがあった。
 もう一度、室内を見回してみる。


 この家には、いったいいくつの「物」があるのだろう。何百?いや、下手をしたら何千という数かも知れない。
 でも、私たち大人は、それら全ての物の名前と使い方を知っている。だから、これだけ色んな物に囲まれても、別に圧倒される事は無い。

 もし。もしもの話で。

 ある日突然UFOに連れ去られて、全然知らないどこかの星に連れて行かれたとする。
 宇宙人の家に案内されたとしても、目に入る物でその名前と用途を知っている物は、何一つとして無いのだ。
 そんな世界を旅するのは、いったいどんな気分だろう。
 好奇心などどこかに吹っ飛んでしまい、心細さと恐怖に襲われるのでは無かろうか。


 彼が寝返りをうち、タオルケットから白い足が覗いた。
 汗をかいていないか確認し、タオルケットを直す。

 物心ついた時からずっと、私たちは色んな物を知り、色んな事を覚えてきたのだ。
 何にも出来ない私、なんて思っていたけれど、この世で生きるために必要な最低限のことは、ずっと覚えながらここまで来たのだ。
 そうやって考えると、大袈裟かも知れないけれど、自分という存在が少しだけ誇らしく思えた。

「そうね。先は長いけれど、あなたも頑張ってね」

 小さな異邦の旅人に、私はもう一度キスをした。


↑TOP

Entry19

年上、年下

 聞こえてくるのはカタマリのような重低音だけだ。明らかに俺よりも年上の女達が手を上下に振って躍っている。ほとんど同じ動き。ひどく気分が悪いけれど、俺は立ち去れない。立ち去らない。一人の女がしどけなく俺にもたれ掛かっている。名前も知らない年上の女。

 「友達に戻らない?」
そう言って1つ年下の彼女は苦笑した。あまりその場面に似つかわしいとは思えない笑い方だ。俺も苦笑するしかなかった。そして無言のままで俺達は別れた。
 俺は彼女のことを愛していると思っていなかった。彼女がいなくなったところで何が変わるものではないと思っていた。4年半付きあった思い出として残っていたのも、初めて体を重ねた夜が寒かったこととか、喧嘩して彼女を殴った時の手のしびれだとか、ほんとうにどうでもいいことばかりだった。そして、どうでもいい割には涙が止まらないのが不思議だった。
 別れてから俺は、三日間ほとんど眠らずに自分を慰めた。血も出てきたし、やたらと痛みばかりが気になったが、俺は休むことなくその行為に没頭した。何を忘れるため、何を得るため、そんなことは考えたくなかった。ただその行為によって、俺は彼女に対する捻じ曲がった感情を吐き出したかったのだろうと思う。今となってみれば。

 俺はそれ以来、全くの不能になった。あの三日間で俺は男としての機能を失ってしまった。1ヶ月たっても二ヶ月たっても、一年たっても二年たっても、復活の兆しは見られなかった。もう一度それを取り戻すためにはどうしたらいいのか、なんとなくはわかっているつもりだけれども、それはもはや不可能に近いと俺は思っている。

 彼女は21歳という若さで去年結婚したようだ。二人の子供に囲まれて微笑む彼女の写真が正月に送られてきた。

 年上の女はおもしろい。いざベッド・インという段になって、俺はいつもこの話しをする。年上の女達は、色々な反応で俺を扱おうとする。大丈夫よ、なんて気休めを言う女に出会ったことは幸いにしてまだない。怒る女、ひたすら泣く女、逃げ出す女、気にせず行為を続けようとする女。俺はそんな女を見るのが楽しい。そして最近、それは俺の唯一の楽しみになりつつある。殺人よりはよほどましな趣味だと思う。自殺よりも。セックスそのものよりも。結婚よりも。


↑TOP

Entry20

外惑星間バイパス18号線の怪

 いつまでたっても変わりばえのない景色にうんざりしていた。
 惑星間のバイパスを走るタクシーは、ただでさえ退屈だというのに、スピーカーから聞こえてくるのは憂鬱な環境音楽ばかり。乗車から5時間、いいかげんウンザリした私は運転手に訴えた。
「ラジオ、つけてもらえないかな」
「すみませんね、お客さん。ここいらは太陽風が強くてどうもいけません」
 こいつは回りくどい運転手だ。ラジオがつかないのならつかないと、そう素直に言えばいいものを。どうもタクシーの運転手というのは苦手だ。
 ともあれこのままでは、この狭い車内でもう4時間ほどヒマをもてあますことになってしまう。ああ、こんなことならタクシーなぞ使わず、はじめから宇宙鉄道でも使っていれば良かった。だいたいこんな、急な出張なんかひき受けてしまったのが間違いの始まりだったんだ。
 私はハァ…とまずまず大きな溜息をついた。それが聞こえたのか、突然、運転手が私に話しかけてきた。
「お客さん、退屈そうですね」
 おいおい、いまさら聞くまでもなかろうに。皮肉をこめて私は返事をした。
「はは、よくわかりましたね」
「そりゃわかりますよ。ここいらあたりは、景色も短調ですからね」
「いや、まったくですよ。どうも宇宙ってのは苦手です」
運転手はさもありなんと頷きながら
「ははは、そうですか。じゃあ退屈しのぎにこんな話はいかがですか? とっておきの話があるんですよ」
この際なんでもいいやと、私は彼の話に耳をかたむけた。
「おや、どんな話です?」
「いわゆる怪談ってやつなんですけどね。このバイパス18号のちょうどこの辺りなんですがね、昔から出るってウワサがありまして…」
 運転手は、まるで壊れたラジオのように、喋りはじめた。
「その日も今日みたいに太陽風の強い日でしたね。馬頭星雲がちょうどよく見えるカーブが、もうちょっと行くとあるんですけれどね、そこの…」
 それからの、運転手の話はよく憶えていない。金星人の女だとか首吊りだとか言っていたような気もするが、その、つまらなくてしかたない怪談話は、どうやら私に眠気をもたらしてくれたようだ。アクビをかみ殺して、私はシートに体を預け、目蓋をおろした。
 時速1200キロで走るタクシーの、窓から見る景色は、地球人の視覚では臨界融合を軽く超え、退屈でしかたない。
 それに、中央制御されている自動運転ロボットが語る怪談なんか、ちっとも怖くなんかないのだ。


↑TOP

Entry21

『顔のない世界』

「はい、黒板を見てください」
 顔のない教師が、顔のない生徒を見回して言った。
「この問題の答え、わかりますね?」
 そう言って、教師は廊下側の前の席から順に生徒を立たせては答えさせた。
「わかりません」
「わかりません」
「わかりません」
 …………
 ……
 顔のない生徒が立ち上がり、同じ言葉を告げて、また座る――それが規則正しい波のように、順番に教室の前から後ろ、後ろから前へと連なっていく。
「わかりません」
「わかりません」
「わかりません」
 …………
 ……
 顔のない答えが環になって教室をぬるく包む。そして「わかりません」の環は、窓側一番後ろの、その少女に最後のバトンを渡した。
「…………」
 少女は黙って立ち上がる。足を踏み出して、ゆっくり前へと歩き出した。
 顔のない生徒が見つめる中、少女は顔のない教室をまっすぐに歩きぬけて、顔のない教師の横に立った。そしてチョークを手にとる。
「なにをしているのかね?」
 顔のない教師が堪りかねて問うたが、少女は黙々と手を動かし、チョークを黒板に走らせるばかりだ。目もくれない。
「なにをしているのかね?」
 顔のない言葉が、もう一度少女を叱責する。しかし、少女の手は止まらない。黒板に書き付けるチョークの音だけが返事を返す。
「なにをしているのかね?」
 言葉と共に、顔のない手がチョークを持った少女の手を掴む――振り払われた。
「なにを――」
「先生」
 少女は初めて口を開いた。チョークを置いて、顔のない教師を見据える。そして言った。
「先生、これが答えです」
 顔のない教師と顔のない生徒は、少女が黒板に書いたそれを見た。
 顔が描いてあった。
「これが、わたしの答えです」
 顔のない少女が、自分の顔を指さして言う。
「わたしの答えです」


 バタン


 僕は本を閉じた。
 タイトルは『顔が生まれる』――問題表現が山ほど盛り込まれたノンフィクションとして話題をさらった本だが、“テロリズムを肯定する”との旨で有害図書として販売を禁止されてからは、誰の記憶からも薄れつつある。
(顔が生まれる……か)
 だけど、僕には関係のないことだ。
 僕たちは、この世界に十分、満足している。答えなど、だれも欲しがってはいない。「わかりません」が一番だ。
 僕たちはみんな、この顔のない世界が大好きなのだ。


 なあ、君だってそうだろう?


↑TOP

Entry22

名なし

 待合室で待っている。血を採るだけだ。同じ検査を受ける人が五、六人いる。受付で番号フダをもらう。名前では呼ばれない。番号。渡されたのは三番のフダだ。
 周りを見渡す。検査を受けない人も待合室にいる。番号フダを持っていそうな人を目で選別する。こそこそ話している中年の背広の男達はそうだろう。壁際のチノパンの男もそう。そして一番前に座っていた白いワンピースの女も。色っぽい顔をしているなあと妙に納得する。呼ばれるとスカートをひらひらさせて検査室に入っていった。

 三番の方、と呼ばれたので中に入る。

 検査室には人間が二人、並んで座っていた。
医者らしき人がぶ厚いファイルをめくりながら事務的に、
「結果は七日後出ます。同じ時間十時までに来て下さい」
 という。
「十時ですか?」
 と聞き直す。
「来れないんですか? 電話で問い合わせは出来ませんよ」
 と冷たく笑う。ああこれが冷笑というものなんだな、と思う。
 医者らしき人と話している間に、白い布を頭につけている女の人が右腕を出せと言い、消毒をされる。腕に注射器が刺さる。血が汚いかもしれないから女の人はゴムの手袋をはめている。どす黒い血が注射器の中に勢いよく収まる。試験管は雑巾を触るように摘まれ、三番のシールが貼られる。確かに三番と目で確認する。こっちはそれくらいしか、出来ない。


 七日後なんとか時間を作り結果を聞きに行く。この前と同じ顔ぶれだ。皆生きていた。背広の男達は何と言って休みをもらったんだろう?
番号を呼ばれるのを皆、目を閉じて待っている。こういうの、仲間だと思った。
 最初に呼ばれた男がなかなか出てこない。待合室に緊張が走る。
その後出てきて少しくらくらしているみたいだったが、誰かに連れられ行ってしまった。
 白いワンピースの女は今日は茶色のスカートをひらひらさせて中に入っていく。以外に早く出てきて、ありがとうございますとドアに顔だけ突っ込んでお礼を言う。

 三番、と呼ばれる。
初めて見る女の人が三番ですね? 陰性です。何か気になることは? では結構ですと早口で言い、パンフレットをくれる。一応お礼を言って部屋を出る。全員が聞き終わるまで観ていたかったが、仕事があるので帰る。背広の男達はどうだったのだろう。最初の男はどこに行ったのだろう?
 
 外に出た。パンフレットは建物を出る前にゴミ箱に捨てた。
名前を返してもらった途端、さっきの女の顔は忘れてしまった。


↑TOP

Entry23

Good bye, to you.

爪がぴかぴか光っていた
マニキュアも爪磨きもつけてないのに、と不思議に思いながら私は自分の爪を眺めた
「ねぇ、爪が光ってるのよ」
足で彼の肩を押しながら私は尋ねた。彼は何かくぐもった返事を返したように思う
指の隙間から天井が見えた。寝転がってる床からごつごつした床の感触がした。彼の部屋は無機質的だ。必要な物しかない
ガラスのテーブル、黒くて冷たい感触のシンプルな本棚、小さな冷蔵庫
それらはすべて理路整然としていてあまり人心地はしなかった。もし、彼がいないのであればこんな部屋絶対泊まったりしないと思う。遠くから時計の音が聞こえた
「もう寝る?」
私は急に寂しくなって答えた。いや、と彼は確かに言った
「凛子」
凛子は私の名だ
彼はようやく机から体を離してこちらを振り返ってくれた
「なに」
私も起き上がって向き合う
「話をしようか」
もちろん彼が話すことは御伽話でも世間話でもなく、私は私の予感が当たってしまったことを後悔した
「聞きたくない」
馬鹿らしいと思いつつ聞いてみる。彼は少し困った風に笑った。彼の優しい態度に、私はもはや決定的な事実を目の前に突きつけられさせてしまった。何かよくない時や抜き差しならない状況の時、彼は決まって優しくなる。泣きそうだった
「凛子、泣かないで」
優しい彼は辛そうに言って私の涙まで封じ込めてしまった
手を伸ばして彼は私に触れた。抵抗しないのを見ると体を近づけて抱きしめてきた
目の前にあるのに
こんなに近くにあるのに
私はただがむしゃらに彼の背中をかき抱いた。みっともない女のように泣いて縋ったら、あるいはまだ繋げるのでないか。どんな最悪な状況で構わないからそばにいさせて。ただ私はすぐそばにある、本当にすぐそばにある彼の体温を感じていた



こんな幸福な朝がかつてあっただろうか。私は窓から差し込む朝日もカーテンに写る日の色も好きになれなかったこの部屋も今感じている暖かい体温も無心に眠っている彼も、皆幸福であればいい、と思った。体を少し伸ばして、彼の顔を覗き込んだ。彼は安らかに眠っていた。私は、早く起きてくれた私にとても感謝した
Good bye,to you.
やがて起きて二人は少し気まずく不自然な感じに朝食を食べ、それからきっとさよならを言って別れる。今度会っても私はもうあなたの恋人じゃないし、あなたは私の恋人じゃない。もう、キスはできないんだね
Good morning,On this day called today.


↑TOP

Entry24

 イノコリジは噴火の予兆を察知した。一刻も早くこの状況をニヒトピポウに伝えなければならない。およそ14606ティケタ(時間の単位)周期で起こる噴火の前には必ず空が急に明るくなり、すぐに薄暗くなる。そしてもっとも顕著な予兆として、島を構成する二つの大きな山の間隔が広がり、その間にある噴火口がわずかに盛り上がる。そうなると28ティケタ以内に噴火が起こる可能性は限りなく100%に近い。予兆を察知して的確に避難すれば噴火の危険は避けることができる。噴出物を食料としているイノコリジ達にとって、噴火は生きていく上でも欠かせない現象なのである。二人はたまたま火口の右側にいたので右側の大きな山の陰に避難した。左右に別れているときは左右の山に別々に避難する。家財道具を持たない彼らの避難はちょっと急ぐだけで簡単に完了する。島にはもうひとつ小さな山があり、そちらに避難しても噴火による直接の危機からは逃れられるのだが、噴火に前後して必ず巨大な水柱が天に向かって吹き上がる場所があり、非常に危険である。実際、ティケンティトはその水に呑まれていなくなった。
 噴火が終わると空の上に巨大なオーロラが現れ、不思議なことに噴出物のほとんどがそのオーロラに吸着されてなくなってしまう。その後はるか上空で大洪水を思わせる轟音が響き渡れば避難解除の目安となる。念のためもう一度空が明るくなり、やがてもとの暗黒の世界に戻ってから彼らも火口近くに戻り、その複雑な地形の奥ひだに残された噴出物を無心に食い始める。再び1万数千ティケタの平穏が訪れたのだ。
 イノコリジ達が避けなければならないもうひとつの災害が鉄砲水だ。まったく、この島はうまくできていて、鉄砲水のときには噴火口の中に避難することができる。火口の中の温度は平均して摂氏36・4度、少々暑いが我慢できない温度ではない。
 イノコリジもニヒトピポウもこの島に生きることを幸福だとも不幸だとも思わない。島から出たことのない二人は噴火のたびに心の中でつぶやくだけである。
「またフンか…」


↑TOP

Entry25

夢中で見た夢話(むわ)

 その日の授業もつまらなかった。
 大講義室の壇上では、初老の教師が謎の言葉を使って講義を進めている。確か講義の内容は「ヒトゲノムの解読に於けるリボ核酸の…」ってやつ。
 トニカク、俺、庄司はとてつもなく眠い。
 前を見渡すと、約70名(約100名中)の「同胞」を発見。内、40名程は、すでに夢の世界へ出発済。
 ま、毎度の事といえば毎度の事だ。
 そして毎度通りならばソロソロ僕も夢の世界へれっつらごぉー

 と、ふと気付いたら、講義室には自分以外に誰もいなくなっている。
 でも、講義が終わったって感じじゃない。
 感じじゃ無いっつったら無いんだから、しょーがなかろう。
 てなことで、別に何をするともなく、講義室の一席でボーっとしていた。
 するとまた、うとうとして来て

 と、ふと気付いたら、友人の澤谷君の部屋にいる。
 部屋の隅の方では、澤谷君が特盛15倍カップ麺を食べている。
 おいしそうなので、一口頂く。
 でも、「おいしい」という感じがなかった。
 感じが無いっつったら無いんだから、しょーがないだろう。
 てなことで、カップ麺と格闘している澤谷君をボーっと見ていた。
 するとまたまた、うとうとして来て

 と、ふと気付いたら、南極にいた。
 氷の大地で、ペンギンがいっぱいいるから…
 うん、トニカク南極だ。
 吹雪もすごいし、ペンギンも鳴いている。
 今、向こうの方で1羽、空を飛んでいた気が…
 でも、そんな事には驚かず、そして、寒さも別に感じなかった。
 南極なのに。
 とりあえず、飛んだペンギンを漠然と探し続けた。
 するとまたまたまた、うとうとして来て

 と、ふと気付いたら、ラブホにいた。
 健全な大学生だから(断じてもてないからではなくッ!)当然来た事ないんだが、断言出来る。ここはラブホだ。
 シャワー室からかわいい女の子(初対面だけどどこかで見た気も…)が出てくる。当然タオル一枚→ 当然自分も脱ぐ脱ぐ!
 でも、何故か感情は高ぶらなくて

 と、何か頭が重い。
 目の前は真っ暗。
 誰かの声…
「…おい、いい加減に起きろー。講義はつつがなく終わったぞー」
 それは、隣で講義をしっかり聞いていてくれた友人の澤谷君。
 どうやら、熟睡していた模様。
「目ぇー覚ませッ!」
 何処から出したか、ハリセンで一発頭を殴られる。
 痛い感覚が、あった。

 講義室出て、最後に想わず独り言。
「ヤッときゃ良かった!」
 ま、別にいーんだけどさっ!


↑TOP

Entry26

決行

 時計の針は、ちょうど午前1時を回ったところだ。終電も終わり、いつもは賑わっているこの通りも、人が少なくなってきた。ここ何週間も下調べをした結果、彼はこの時間を選んだ。
 そう、全ては計算通りなのだ。
 彼は、頭の中でシミュレーションを繰り返した。
(建物に入り、目立たないように所定の場所へと移動する。焦らずに目当ての“物”を手に入れる。そして、男の目の前で“コレ”を見せつけてやれば、それで終わりだ)
 難しいことじゃない。落ち着いてやれば、失敗するわけがない。先ほどから何度も自分に言い聞かしてみるが、心臓の鼓動は加速していく一方だ。手には汗が滲んできている。
 もし万が一に失敗してしまった時には、こう言ってやればいい。
「これは頼まれただけなんだ。許してくれ!」
 相手も雇われの身。余計な問題は起こしたくないはず。
 よし、行こう!
 彼は18回目のシミュレーションを終えた後、決心をして建物へと入っていった。建物の中には、入り口付近に男が立っているだけで他に誰もいない。
 チャンスは今しかない。彼は焦る気持ちを抑え、目的の“物”を探した。体に別の生命体が誕生したかのように、鼓動は音を立てて波打つ。
 落ち着け、落ち着くんだ! これを乗り越えれば幸せな時間が待っているんだ。
 ようやく、目当ての“物”を見つけて男の前に急ぐ。目を合わせないように近づいていき、男の目の前に立った。思い切って顔を上げた。男は彼の事をじっと見ている。噴き出してくる汗を拭いつつ、彼は懐に手を入れた。
(“コレ”さえ見せれば、こいつも顔色を変えるだろう。)
 懐から取り出し、男の前に“コレ”を叩きつけてやった。男は用心深く彼の顔を見て呟いた。
「これをお前に渡すわけにはいかないな」
 彼は言葉を失った。パニックで頭の中が真っ白になった。体中から汗が噴き出してくるのがわかる。男は含み笑いを浮かべ、勝ち誇った顔で彼を見ている。
「“コレ”は誰か別の奴の物だろ?」
 全てがばれてしまっている。何故ばれてしまったのだろうか。考えていた言葉も出てこない。男は全てをお見通しなのだろう。もう何を言っても後の祭りだ。何もいえないでいる彼を見て、男は全てを諭したかのように言った。
「お父さんのカードを持ってきたってすぐに分かるんだぞ。こういう物は18歳になったら、また借りに来なさい」
 彼は、何も言えずに肩を落として、建物から立ち去った。


↑TOP

Entry27

絶光

これは報いだ。
僕があの子の光を奪った報いなのだ。

「右がフライな。左がメシ。メシの斜め右上が味噌汁」
「サンキュー」
「箸はトレイの手前にあるから」
「悪いな、いたれりつくせりで」
「おう、感謝しろ」
――こんな時、史浩が友達で良かったと心から思う。

昼下がりの学食。
いつも通り、四方八方で賑やかな学生達の声が聞こえていた。

「じきに、俺の彼女が友達連れてくるから」
「は?」
「紹介してやるよ」
ああ、そういうことか。おせっかいめ。
「いいよ、別に」
「お前、今俺のことおせっかいとか思ったろ?」
「うん」

僕は黙ってご飯を口に運んでいた。
「その子、三年前まで目が見えなかったって」


黒い夢。
重ねて見る悪夢。
何度も何度も繰り返し語られる僕の咎。
悪夢でも見慣れてしまった頃、僕は光を失った。


「どうよ?最近、彼女とは?」
からかうような調子で史浩が聞く。僕はわざと笑顔満面で答えた。
「史浩……、俺、お前と友達でほんとに良かったわ」
言ってらあ、と史浩は笑っていた。



今までに聞いたこともないような美しい声だった。
紡がれる言葉のひとつひとつに彼女の細やかな気配りが感じられる。
彼女は普通の男といるように僕に接するのだ。
けれどせっかく取り戻した光を、どうして僕になど使っているのだろう。


携帯の番号を教えると言って、僕の携帯に自分の番号を入力する彼女。
短縮の三番に入れたからと明るい声で笑う彼女。


叶わないとわかっているのに、僕は彼女の姿が見たくてたまらない。


君の姿を見たいから、手に触れてもいいかと思い切って聞いた。
彼女は直に僕の手を握ってくれた。
僕はそれを握り返す。
細くてたおやかな愛しい指先だった。とても暖かだった。
懐かしいような、そんな気さえした。


それから僕達は、会って話をする時はお互いの手に触れていた。


彼女が原因不明の失明は怖くはないかと尋ねるので怖くはないと僕は答えた。
むしろ、これは僕に与えられた当然の報いなのだから。
彼女の前で僕は幼い記憶を思い出す。

退院と同時に転校してしまったあの子。
できるならもう一度会って、君がどんなに辛かったかやっとわかったと告げたい。


ふと、僕の手に雫が零れた。
触れていた彼女の手は震えていた。
どうして泣くのかと聞いても、彼女はすすり泣きを続けるだけだった。


不謹慎にも。
不謹慎にも僕はその時、彼女はどんなに美しく泣いているのか見たかった。
叶わないことなのに彼女の表情が見たくてたまらなかった。


不謹慎にも。


↑TOP

Entry28

雨の声

 闇が霞む。耳塞ぐ雨音。足下に広がる暗がりに、歩いている感覚すら麻痺する。肩をすくめる私は黙々と次の街灯を目指した。時折、街路樹からまとめて落ちる雨粒が傘を叩く。私のマンションは、この都営団地の小道を抜けた向こう。終電を降りたとたんに降り出した雨。こんなことなら飲み会も途中で抜け出せばよかった。ストッキングはすっかり水を含んでいる。
 ふと、自分の足音に他の誰かの足音が重なっている事に気付く。激しい雨音に気付かなかったが、誰かが後ろを歩いているみたいだ。
 こんな夜中に背後を歩かれるのは嫌なものだ。しかしここで変に速歩きになるのも失礼だろうし、だからと言って歩みを遅らせても、果たして自分を追い抜いてくれるだろうか。そんなとりとめのない事を考えながら、気が付けば常夜灯の下。そこだけが降りしきる雨粒の速さを暴き、雨の強さを知らしめる。
 背後の足音が速くなったかなと思った、その時である。
 ゾクリ。
 背筋に冷たいものを感じ、うなじの辺りが粟立つ。
「ねぇ」
 くぐもった女の声。
「は…い?」
 立ち止まる。そしてゆっくりと振り向く。
「ねぇ」
 しかし、そこに存在していたのは、闇。
 雨に煙る街灯が連なり、歩いて来た距離を主張するばかり。
「ねぇ」
 繰り返される声。歩道の脇の植込みにも、街路樹の陰にも、その声の主は見当たらない。ただ、気配だけが大気に満ちる。
 私は傘を投げ捨てて走り出した。叫びながら。雨が容赦無く顔面を叩き、痛くてよく前が見えない。心臓が激しく脈打っているのは、走っているせいだけじゃない。何が何だか分からないまま、とにかく今はもう逃げることしかできない。細胞が警鐘を鳴らす。私のマンションはもうすぐ。

 マンションに辿りついた私は靴を脱ぎ捨て、勢いのまま部屋に転がり込んだ。
 部屋に入ってすぐ左には姿見があり、そこに、ずぶ濡れになった私が映った。額にべっとりとくっついた前髪。しかし、薄闇に映っていた私の顔は笑っていた。どう見ても笑っていた。顔に手をやる。そんな馬鹿な。今私、笑ってなんかいないのに。鏡の中の私も顔に手を這わせている。これは確かに私だ。でも、私じゃない。
「ねぇ」
 鏡の中の私が言った。私は寝室に走り蛍光灯のスイッチを乱暴に引っ張る。白い点滅に目が眩む。濡れた服のままベッドに逃げ込み、頭から布団を被った。震えが止まらない。
 夜はまだ明けず、雨は降り止まない。私はただじっと、恐怖に耐えるしかなかった。


↑TOP

Entry29

おじいさんの悩み

80年。これだけ生きれば「我が人生に悔いは無し」と、言い切ることも出来るだろう。

10年程前に死に別れてしまったが、私には愛して止まない妻がいた。
3人の子供にも恵まれ、そして彼らは、私の期待以上の人間に育ってくれた。

私自身も、自分で言うのもなんだが、「悪い人」ではなかったと思う。
だからこそ、寿命が尽きた今、こうして私は天国へ入ることを許されたのだ。

それにしても……、天国というのは、何と退屈なところなのだろう。
空は虹色。見渡せど娯楽施設がある訳でもなく、池には蓮の花が咲き乱れているばかり。たとえ、通りすがりの、男とも女とも分からないようなパンチパーマ頭の方たちに冗談を言ったとしても、返ってくるのは決まって無表情……。
私もいずれ、あんな風になるのだろうか。
そもそも蓮の花など私の好みではないのだが。


おや? 誰かが私を呼ぶ声が聞こえる。
「ちょっと、あなた!」
どうやら、声の主はさんずの川の向こう岸にいるらしい。
「あら、あなた! 天国へ行ってしまわれたのですか!?」
「あっ!」
対岸にいる女性は、私の妻ではないか!!
「ばあさん! ばあさんこそ、なんで天国へ渡って来んのじゃ!?」
「何を言ってるんですか、おじいさん! そちらでは、あなたの大好きなお酒もお萩も食べられませんよ!」
「お、お萩っ!? そっちでは、お萩が食べられるのか!?」
「当たり前でしょう! こちらは俗な人たちのたまり場ですもの!」

……な、なんということだ。こちらとはえらい違いではないか。
なぜ、天国には酒も萩もないんだ。
なぜ、天国には私の好きな娯楽がないんだ!
なぜ、愛する妻が私抜きで楽しそうなんだ!?

無性に腹が立ってきた私は、気が付くと、見知らぬ通行人の首を占めていた。
80年間、他人に迷惑をかけたことがないのが、唯一の自慢だったのに……。

「何を見とんのじゃ! このパンチ!!」
反省間もなく、私は別の通行人の髪をわしづかみにし、蓮の池に放り投げてしまった。

もう反省などすることもあるまい。気分は爽快だったから。
恐らく、これからも私の暴力は続くだろう。
少なくとも、極楽浄土にいる限りはね。

おわり。


↑TOP

Entry30

桜坂

 休暇終了の前日、弟の車を借りて出かけた。行き先など特に決めていなかった。
 久しぶりの故郷は懐かしくてどこかよそよそしい。幼いころ通った小学校が近くにあったのをふと思い出してハンドルをきる。細い道をくぐると、何故だか昔と変わらない風景が残っていた。
 グラウンドの隣の細い小道には、あの頃と同じ桜並木がある。五月なのが残念だ。花はすでになく、新緑がしげっている。
 緩やかな上り坂。この路が大好きだった。
 車から降りて小学校を見上げる。
「口にしなかったけど、母さんは姉さんを待っていたよ」
 弟の非難を聞き流して葬儀に出た。
 泣かない気丈な娘と号泣する弟は参列者には奇異に映った事だろう。それで良かった。私はどこかほっとしていた。もうこれで感情に任せて叫び叩く醜い母を見ることはないのだから。理不尽に傷つけられることもない。平穏な日々が訪れるのだ。
 父がいなくなったのは小学三年のときだった。産まれたばかりの弟と母と小さなアパートに移った。母は働き始めた。仕事と生活のストレスが重かったのか、些細なことで叱られるようになった。高校生の頃は母の更年期と重なって苛立ちのはけ口にされていた。
 卒業と同時に遠方の寮のある会社を選んで就職した。それ以来の初めての帰省。
 グラウンドから子供の笑い声が聞こえる。
 風にゆれた緑葉の隙間から、あるはずのない薄紅色の花びらがいくつも舞い落ちる。満開の桜の下、綺麗に着飾った母と迎えに来てくれた父と笑いながら手をつないで帰った。私にだけ向けられる笑顔と柔らかな手。
 あれは私だけの記憶。
 父を知らない弟を溺愛していた母。不憫だったのだろう。私に八つ当たりする様は見苦しかった。父に似ている私は目障りだったのだろう。そんな母を見て居たくなかった。
 ざわり、と風に葉擦れる音がする。
 忘れられなかったのは満開の桜なのか、それとも両手を包む温もりだったのか。
 小さな女の子が遠くで手を振る。
 あれは幼い頃の私。
 ようやく今、記憶の中の母が還ったのだ。
 不意に若葉の明るい緑がうすらぼやけた。


↑TOP

Entry31

knotty

あ。片瀬です。優子に頼まれて。
いけない。
優子ちゃんが代わりの人をよんでくれていたのだ。
彼女にあわせて教室も休みにしたことを伝えていなかった。
知らずに彼はやって来た。

--知ってる、あいつ小さいくせにすげぇ力ある。俺の脅威。
私たちは、優子ちゃん、で うちとける。
優子ちゃんは私が自宅でひらいている料理教室のアシスタントだ。
まっすぐな黒髪に、意志的な眉。肌が雪のように白い。
色とりどりの食材をそうぞうしくする教室では、彼女のシンプルなコントラストはなによりたのもしい。
私はしばしば、そばでたたずんでしまう。
--知ってた。だから手伝いお願いしたの。たくましさが決め手。
私が言うと、片瀬は可笑しそうに、完璧な顔をしかめた。

一秒ごとにシャッターをきりたくなるような、表情のその、ぜいたくさ。
かたちのいい目鼻口。眉、ほほをはずませる筋肉そして
それらを支える骨までも、きっとうつくしい。
ヒリヒリする。
片瀬に、見惚れている。

--何か作らせてくれない、俺さコック見習やってるの。
デニムの袖をまくる。
--先生のコラム読んでるよ。今度うちの店にも取材しに来て。
褐色の太い腕。適度にすじばってるのも好もしい。
そうね。とびきりの味で魅せて。そしたらあなたのことだって、書いてあげる。

オムレツなんてどう、かなり得意だけど。
キッチンに立った片瀬が振り向く。
私はすぐさま目をそらす。オムレツは食べられなかった。
断じて。
夫婦の間の決めごとなのだ。
今は夫が赴任先から帰る、二週に一度の土日にしか食べていない。
オムレツ。半熟たまご。目玉焼き。それから、プリン。
決して、私たち、以外の場所で食べてはいけない。
二人の朝、以外の時に食べてはいけない。
幸せの黄色いオムレツ、つくって私が待ってるの。
金いろの食卓にうっとりするあなたは、私だけのもの。
一方的に私が強いたのだけど。

ホットケーキにしよう、やばいくらい旨い。
突然うつむいた私を見て、片瀬がそう言って笑う。上目遣いの、完璧な顔で。
片瀬のつくる、やばいホットケーキ。もう感動してしまう。
よかった、
それ食べたかったの。きっと、そう。

はちみつたっぷりかけよう小倉あんもいいしそれから、
想いをくるくる巡らせながら、頬杖をつく。
存分に、見惚れよう。今だけ片瀬にうかれたい。
--卵、あるぶん使っちゃっていいかな。
返事を待つふうでもなく彼は、ぽんぽんぽん、と小気味よくボールにたまごを割り入れてゆく。


↑TOP

Entry32

黒い雄牛の夢

きのう見た夢が頭から離れない。
ベランダ−それは、中学生の頃住んでいた公団アパートのベランダだった−に黒い雄牛がいて、恐らくそれは父が酔狂をおこしてベランダで飼おうと提案したものであったらしく、そいつがベランダの手すりに黒々とした前足をかけて、今にも手すりを越えて中空にダイブしようと思いっきり上体を前に乗り出していた。そんなにも巨体の牛がベランダに余ることなど当たり前過ぎるくらい当たり前に想像できたのであって、それなのにその至極常識的な考察を、まるでわざとのように無視したそれは結果なのであった。あたしと父がそれを見ていて、「ああっ」と叫んでいた。もしかしたら阻止できるかも知れない、などということは頭をかすめもしなかった。自らがわざわざ仕組んだ悪夢の中に落ちてゆくような。予知できた危険に頭から飛び込んでいくような。そしてその嫌になるほど黒々と体を光らせた雄牛は、ひらりと身を躍らせて5階のベランダから空へと飛んだ。
あとはただ後味の悪いだけだった。雄牛が人を押し潰さなかったかというのが最大の心配事で、父が下まで駆け下りて行って、とりあえず死人はいないそうだというのを確認してきた。そしてアパートの部屋に鍵をかけた。−マスコミでも来たらどうするの、あたしが聞くと、−うちにいて外に出なければいい、と父は言った。そんなものですまされるのだろうか、と夢の中とはいえさすがにそう思った。
雄牛が地面に激突する音は聞こえなかった−今か今かと待ち受けていたにも関わらず。ただ、最初に雄牛を目にした時の、ひづめがコツコツと手すりにぶつかって立てる音ばかりが、目覚めてからもやたらと耳に残った。

そして今日は朝から一日雨だ。
夜も更けてから一人暮らしの部屋に戻って、実家に電話した。母が出た。−父さんたらね、といきなり言う。−父さんたら今日、傘をさして自転車に乗って、転んで怪我して帰ってきたんだよ。それで結局、タクシーに乗ってまた会社に行ったの。
−やっぱり馬鹿だ、と母の話を聞きながら思う。全身の骨を癌細胞に犯されつつあるというのに。少しの骨折がいまや命取りになるというのに。…あたしはもはやあの人に同情なんてしないけれど。
父はもう寝てしまっていた。電話を切って、外に置いたままの植木鉢のことを思い出して、ベランダの戸を開けた。
一瞬、激しさを増した雨の音が耳を聾した。
雨音の中に父の泣く声が聞こえたような気がした。


↑TOP

Entry33

驚異的な舌

「うわ、まずっ!」
 四谷京作は思わず顔をしかめた。
「見た目はともかくひどい味ね」
 近藤千早も眉間に思いきりシワを寄せる。
「おっかしいなぁ」
 四谷はバッグの中から、地元情報誌『アイカワ・ウォーカー』を取り出す。
「店の名前に間違いねえもんなぁ」
「安くておいしい、筈よね? 記事見せて」
「ほら、こんとこ」
 四谷は近藤に情報誌を手渡す。
「どれどれ? 『下鷹野で行くならここ、レストラント中本。根強いファンを持つ藤沼シェフは、驚異的な舌を持ち、そのフランス料理の腕前は他に類を見ず、必ずやあなたを満足させるでしょう――』ふーん、お勧めの星も四つ付いてるわね」
「だろ」
 釈然としない顔のままで、四谷はもう一度前菜のアスパラガスを食べる。
 べちゃ。
 茹ですぎたアスパラガスは、形を留めている事が奇跡とも言える代物で、舌の上どころかフォークからもずるりと落ちてしまい、スプーンを使う他はない。そのくせ口に入れると、力強く自己主張をしてくる無数の筋。彩りに添えられたソースは、正しく彩りだけで、塩は多すぎ、酒はアルコールが飛んでおらず、ハーブに至っては台所用クレンザーで鍋を洗っている時の様な香りがする。
「まずい……」
 四谷たちが三口目を躊躇っているうちに、ウエイターがやって来た。
「メインディッシュで――」
「ウエイターさん、シェフ呼んでくれよ、シェフ」
 不機嫌な顔で、四谷が言う。
「はい」
 皿を置いた後、ウエイターは立ち去った。
「ったく、なんだろうなこの不味さは」
「そうよね、このメインもひどい味。味見してるのかしら」
「多分、雑誌に取り上げられたから天狗になってんだろ。ガツンと一言言ってやるさ」
「あっ、来たわよ」
 四谷たちのテーブルに、シェフがやって来て、一礼して――。
「シェフの藤沼でございます、れろ」
 一礼して、緑色をしたとてもとてもとても長い舌を出した。
「何だ、その態度は!」
 四谷が怒鳴る。
「客が怒ってるってのに、ふざけ半分で対応するなんて……」
「いや、これは『驚異的な舌』というのを――」
「やかましい! 今話題にしているのはあんた態度だ!」
「そうよ、こんな料理でお金取る気?」
「ええと『驚異的な味覚』って意味ではなくて、舌の形とか色が驚異的っていう意味に取る面白さが――」
「この期に及んでまだ言い訳とは、貴様それでも料理人か!」
「こっちはお金払ってんのよ!」
「なんというか言葉遊びとして、その…あの……」


↑TOP

Entry34

一休み、迷惑候

 今日は憧れの合唱団に行き、涅槃を歌いご機嫌良く帰った。
バタッ、家の中に帰るなりいきなり、合唱団に参加した木の実は歌い出した。
 「あなたは、なぜ死んでしまったの、わたしはあなたの謎を知っているそなたの憂いの全ての事実を♪」
 お化け 「そうなの、私は全て誤解されていても良いのよ、ただトリツキタカッタだけあなた、木の実に...」と、霊感少女木の実は、又かぁ、と凝りながら、
 私木の実は、迷惑だったので塩を母に持ってきて頂き候。
塩を玄関等に苛立つ気持ちを堪え、パンパンと撒き散らした。さらに
コップにうがいの水を、迷惑、迷惑ともらした。
 お化けは繰り返す、「一緒のことをして、返してあげる」
おーコワ、おーコワと私木の実と家族達。
 
 私木の実は、迷惑なのでお化けを取り払いたい候。ベランダより駐車場にめがけて、ぬいぐるみを捨てるんだが、下の車は驚きクラクション♪お化けは出て行きフロントガラスに飛び付いた。
 お化け「私、クラクションの音色が好きなの!!」
 私は急いで駐車場に飛び降り、お化けを消去した。デメリットは今は私がお化けになってしまった。かわいそうな、木の実ちゃん。
 私作者も、お化けは嫌いなので、絶対に入ってこないでね!!と
 飛び降りたものは「木の実ちゃんは、私をアテにしていたの?!」

 木の実ちゃんは今日も街へ行く。2度とお化けにとりつかないように....願おうかな。
 
 通る場所はポプラ並木、あなたも夏の冷たい夜に通るかな、
ポプラは秋にギンナンの実になって、いつの間にか、茶碗蒸しの中に入り、食卓へ上ります
 その中には、卵汁を網で何度か通して滑らかにしてハッカと山椒を入れときましょう。あらっ、どこにいてるの....あなたの志垣が....
 私は今日もクミンを匂う。さよなら、おまけ
 「あなたは、乞食だったのね」
とクミンは言うが、お化けにしては、はた迷惑な話しだろう、ただ邪魔したかっただけだもんね、と、海老は言いたかったかな?

 食欲の秋までに戻ろうね、お化け達!!!きのこもダメよ!


↑TOP

Entry35

女将のことで

湯が沸騰している。
美人の女将が来て、少しお作りしましょうと言う。
雰囲気から言って、まさかバイトじゃないだろう。
着物も他とは少し違う。
どう違うかというと、まあ、高そう。
向かいに座っているミカに小声で訊く。
「女将?」
「ええ、まあ…」
と女将自身が少し笑いながら答える。
ミカは酔ってる。目つきで分かる。
どこか全然違う世界を見ている。
今飲んだビールのせいだろう。
でも、回るの早過ぎ。
「ポン酢とゴマダレ、どちらに?」
女将が訊く。
「自分たちでやりますから」
ミカがそう言って、女将を追い払う。
「さようでございますか」
女二人の間に見えない稲妻が走る。
「すいません」
僕は思わずそう言ってしまう。
ミカが僕を睨む。
「どうぞ、ごゆっくり」
美人の女将がいなくなってからミカに訊く。
「なんで、僕らの席だけ、バイトの子じゃなくて、女将?」
「知らない」
「なんか隠してない?」
「何を?」
僕は湯の中で肉を泳がせる。
ミカも同じようにやってる。
地球に牛がいて本当によかった。
「牛肉、好きなのね?」
「嫌いなの?」
「好きよ」
牛が嫌いな奴っているのかな?
僕は牛を食う。ミカも食う。人間はみんな牛が好きだ。
皿の肉がなくなったので、通りかかったバイトに追加を頼む。
追加分を持って現れたのはまたしても女将だった。
「少しお作りしましょう」
女将がさっきと全く同じことを言う。
「いいえ」
間髪入れずにミカが断る。
またしても見えない稲妻!
「さようでございますか」
女将は空いた皿を片づける。
と、女将の顔に妙な笑みが浮かぶ。
女将の視線の先には、眠ってしまったミカがいた。
催眠術にでもかけられたみたいに、座ったままで、頭をカクンと落としている。
まさか、酔いつぶれたの?
「ずいぶんと頑張られたようですが…」
女将が、笑っているのか睨んでいるのか分からない顔を僕に向ける。
「これで、お・し・ま・い」
僕は、肉をつまんだ箸を止めて確認する。
「これはいい?」
女将が頷く。
肉を湯に泳がせながら、改めて周りを見る。
なるほど、いつの間にか客は僕らだけだ。
灯りも他は全部消えている。
「閉店?」
女将が微笑む。
と、ふいにミカが目を開く。
一瞬嫌な顔をした女将がミカに小声で何か言う。
ミカは女将を無視する。
女将は小声のままで食い下がる。
ミカは黙って女将に目を向ける。
それだけで女将は明らかに怯む。
そして邪魔者は去る。
店内が明るくなり、他の客達も元通りに姿を現す。
僕は肉を煮すぎて、それをミカが笑う。


↑TOP

Entry36

兄ちゃん

「兄が出来た。」
きっかけは、とても単純な事だった。
最初は、チャットからの出会いだった。
暇つぶしのつもりで悪ふざけをしたのがきっかけだった。
それがいつの間にかメールの交換を重ねるうちに、メルトモへと
変化していった。約一ヶ月で51通のメールを頂いた。
そして私の中では、そのたくやと名乗るメールの相手が何時しか
「どうでもいい奴」から「兄のような存在」に変わっていた。
でも恋人にはならないだろう。
たった一月、されど一月!
私は、個人的な事もよく書き、そのメールに対し兄は、私に真正面
から向き合ってくれた。
心配してくれたり、応援してくれたり・・・・。
感謝という言葉もうまく出ないというところである。

最大のエピソードは、私が「死にたいと思った」と書いた事だろう。
それを読んだ兄は、そのメールの下に「きっと死なないでしょう」
と私が注釈を書いてあった事にも目がいかず、マジで感情的になり、
「死ぬな」と泣いて(??)メールを返して来た。
「何時もどこかクールっぽくてなかなか本音を見せない兄が・・・・。」
とにもかくにもビックリで、その次に考えた事が
「下に注意書きを書いたのに!やはりこの人は文系じゃなくて理工系だな!」
と思ってしまう。
が、「涙が出て来た」という一言。
それを見た時、さすがの私も後悔した。
「どうでも良いような奴の事で、あんなに必至になってくれたばかりではな
く、相手を泣かせてしまった」
まっすぐ私を見ていてくれた兄へ、申しわけなさと、感謝の気持ちを込めてメ
ールを返した。
この事は、私の中で何時までも「忘れられない出来事」になるだろう。
しかし、この兄のおっちょこちょい度はたいしたものである。
勘違いは、よくある事だし、ときどきこちらの質問には
「忘れているのかい」
と思うぐらい答えないときもしばしば!
そして、夢をおいかけ何かを求め続け、ときどき立ち止まって
「この男寝てるんじゃないのかな」
と思うと、また急に走り出したり・・・・。

寂しがりやで、そのくせ自分では
「しゃべるのは好き」とか言っているけど、本当の意味での人間の
「心からのつき合い方」は超苦手なように見える。
そんな所が、一見器用そうに見えて、超不器用なのである。
ちなみに、私が意図的に敬語で書いたメールの意味にもきっと気付いて
いないだろう!


↑TOP

Entry37

鬼教師

 その頃、私はとある高校の教師をしていた。その学校はいわいるレベルの低い高校で、もろん偏差値はかなり低く、生徒達も一筋縄でいかない連中ばかりで、問題には事欠かなかった。そんな中で私は、誰からも恐れられる鬼教師であった。校長さえも私と話す時は、最低でも警備員を2人を付けていた。当然、生徒達からも徹底的に恐れられ、嫌われ、卒業式の日など体育館裏等で、ほぼ全校生徒から「ヤキ」を入れられたりもした。私も黙ってやられているワケもなく、後に彼らを一人ずつ半殺しにした。しかし、奴等もさる者で、私の家にトラックで突っ込んできたり、夜道で後ろからナイフで背中をひと突きなんて事もあった。それは生徒と教師というより、まるで暴力団同士の抗争であった。
 
 そんなある日、一人の教師が我が校へ赴任されてきた。彼は熱血漢の固まりのようなさわやかな体育教師で、私と生徒達の度重なる抗争を見る度に、当然のように止めに入ってきた。そして、いつも私にこう言った。
「暴力では何も解決しませんよ。」
そう言う彼の顔面を、私は必ず一発殴った。しかし彼は、それでも怯む事はなかった。そんな彼が生徒達に愛されていたかというと、そうでもなかった。むしろ逆に「うざったい」という理由で、私以上にひどい目に会うようになっていった。そうしていつしか私に向けられていた暴力は、100%彼へと流れていった。私はとてもラッキーだった。それでも彼は無抵抗主義を貫いた。鍛え上げられた肉体で、生徒達の暴力を受け止めていった。生徒達の攻撃もドンドンエスカレートしていって、とうとう彼は戦車で跳ねられ、地面に叩きつけられた所をゾウに踏まれ、この世を去る事になった。彼の壮絶な死に、さすがの生徒達も心を動かされたようだった。その証拠に、その後、学校から暴力が消えた。私も、これには「負けた」と思わずにはいられなかった。彼の生徒に対する愛は本物であった。私は彼の葬式の1週間後、校長に辞表を提出した。
 帰り道、彼の言葉が何度も私の頭の中を駆けめぐった。
「暴力では何も解決しませんよ」
そんな事を考えながら歩いていたら、チンピラにぶつかり、3発殴られた。


↑TOP

Entry38

バスドライバー・3


「雲は白い綿菓子さ」俺は照れながら呟いた。

 空がこんなに青いとは知らなかった。
 信号が赤から青に変わり、そして黄色に変わる。そしてまた赤。そして青。
 
 ぴんから兄弟みたいなのが、眼下で喚いている。ちょび髭が車をどかせと指図している。
「交差点は停留所じゃねー!バカやろう」
 ついつい信号に見とれていたら此の様だ。お前こそバカ野郎だ。
「今日は気分が良いので安全運転致します。急発進にお気をつけください」
    
 最近は、忙しくて朝食も摂れないままの運転生活が続いている。そこで俺は考えた。大和民族のサンドイッチ、すなわち『おにぎり』を運転中に食べようと。しかもローソンのじゃだめだ。自分で握ってないと不味い。25年近く運転しているんだ。会社側も大目に見てくれるだろう。
 こうやって濡れティッシュで手を拭いて、しお手で二度三度包み込む様に、しっかりと。
「プップー!パウパウ!ブー!ブブブー!!」
いつも信号停止の合間で握ろうとするので、時間が足らない。それで次の信号そのまた次ぎの信号と後続車に
せっつかれながらの運転になる。
 
 最近は、米粒だらけのハンドルやシフトレバーを見るに見かねたお客さんが運転を代わってくれるようになった。
「運転手さん!交代しましょ。はやく」
「免許証あります?」
「普通ですが」
「まあ、大目に見ましょう」
 運転帽をかぶると誰でも運転手に見えるものだなぁと感心しながら、後部席でおにぎりをほおばる。常連の乗客の方が慣れてしまって、差し入れをしてくれる様になってきた。
「鮭ですが、どうぞ一切れ」老婆がアルミホイルのまま手渡してくれる。
「いや〜すいませんです」
「この運転手さんも運転上手だわね」
「そりやそうです。私も交代する際は人を選んでますから」
「もう少しやっていいですか」
「適当に停留所が見えたら、停まりながら進んでください」
「いや〜鮭のお礼に肩でも揉みますよ」
「こんなに親切な運転手さんがいるんだねぇ」
 老婆は手拭いで涙を拭いている。乗客の間からも啜り泣きが聞こえている。
 そういえば、『e-カラ』があったな。
「一曲歌います。栞のテーマいきます」
「いいぞ〜運転手」
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」
「次は、わたしよ〜。JUDY AND MARY」
 老婆がいつの間にか笑っている。女子高生達が手拍子している。皆笑っている。
 
 こうやって、行楽の観光バスに様変わりした俺のバスは、昼下がりの街を走り抜けて行く。


↑TOP

Entry39

Promise Land

 車内の喧騒が心地よい。
 方言がいっぱいに広がって、まるであの頃にタイムスリップした様だ。
 僕は列車を降りると見覚えのある改札口を出た。
 記憶の中にあった駅前の景色が実際には少し色褪せて小さい事に気付く。僕は時の流れを感じた。
 駅前から大通りを抜け、大きな杉の木を右へ曲がると旅館街に出た。昔のままだった。
 平日の為か人も少ない。わざわざ二日も休日を取ってやって来たが、本当に逢えるのだろうかと少し自分の思い込みが可笑しくなった。

「あれ、健ちゃん帰っとったんね?」
 ヤマニのおばさんが店から出て来た。
 懐かしい言葉が僕を迎えてくれ、嬉しくて少し立ち話をした。今もこの文具屋は昔のままだ。
 僕は軽く会釈をしてまた歩き出す。小さなホテルや旅館が軒を連ねる風景は、今も変わらない。
 そっと微風が流れて、あの時の記憶が鮮明になってくる。

「健ちゃん。うちのこと忘れんでね」
 僕は涙なんか流すもんかとその事ばかりを気にして、他はあまり覚えていない。ただあの時に季織と指切りをした事だけはずっと覚えていた。あの日は忘れる事が出来ない。
「いつかまたここで逢おうね。大人になってからだよ」
「おとな?二十歳?」
「そうね?二十五くらいかな……」
 沈みかけた夕陽が眩しくて季織の瞳が見えなかった。でも確かにあの時、十五年後にここで逢おうと季織と約束をした。今考えるとませてたなと思うが、あの時は真剣だったのだろう。

 川岸のベンチに腰掛けて煙草に火を点ける。人のいない屋形船がゆっくり揺れて、小さな波がキラキラと輝いた。陽が傾き始め、対岸からオレンジ色の光りの波が寄せてくる。幾重にも重なった太鼓橋が中ノ島に延びて、季織の後ろ姿を思い出す。
 引越の日、僕はあの橋を渡って季織の家に向った。丁度トラックが出る処だった。手を振る僕を見つけると季織は小さく手を振った。淋しさが僕の中で揺れていた。

 夕陽が影を増してきた。やはり忘れてるよな……。そう思い煙草に火を点けようとライターを擦った。なかなか火が点かない。手を翳し何度も何度も擦ってみる。
 もういいかと諦めて顔を上げると、太鼓橋を渡る人の姿が見えた。逆光の中を僕の方へ静かに歩いてくる。そして、その人の影が指切りげんまんの姿をして手を振った。
「……健ちゃん?」
「……約束」
「忘れなかったのね」

 季織の面影を残した彼女の瞳は、夕陽に淡く揺れながら今日はハッキリと僕の心に輝いた。


↑TOP

Entry40

削除

↑TOP

Entry41

 コケを愛好する男がいた。ありとあらゆる種類のコケを、あるいは育て、あるいは標本にして、自分の手元に置いていた。何故コケなど相手にするのか、説明なぞできはしない。何よりコケが好きだから、としか答えようがないのである。

 あるとき男は、珍しいコケの話を耳にした。何でも、亀の甲羅の上にしか生えてこないのだとか。愛好家仲間でも、そのようなコケを持っている者はいなかった。男は、このコケの標本をぜひ手に入れたいものだと思った。
 そこで、あちこちの亀の愛好家に「甲羅にコケの生えた亀を知らないか」と、男は聞いて回った。こういうことはやはり愛好家に聞くのが一番と考たのだ。ほどなく、人づての噂から、遠くに住む愛好家の亀にコケが生えているという話が伝わってきた。男はその愛好家に連絡することにした。
「確かに、ウチの亀の甲羅にはコケが生えていますよ」
「ぜひそれを譲ってください」
「しかしねぇ」
「お願いします、お願いします」
 男の熱意が通じたのか、愛好家は「では近々に送ります」と渋々ながらも承諾した。

 数日後、男が仕事から戻ると、男の妻が「標本らしい荷物が届いている」と告げた。亀のコケに違いないと、男は期待に胸を躍らせた。なるほど、書斎の机の上には、現代用語辞典ほどの箱が載っている。小さなコケの標本をこれはまた厳重に包んでくれたものだ、と感心しながら、男は荷をほどいた。

 出てきたのは、新聞紙にくるまれた亀であった。

 譲って欲しいのは亀だと思い込んだ愛好家は、そのまま男の希望に応えたのであった。あれほど熱心に「譲ってくれ」と言われたものが、亀ではなく、甲羅の上のコケなのだとは、愛好家にはおよびもつかなかったのだ。頼んだ男も、コケ以外の事は頭に無かった。偏愛する対象以外は目に入らないという点で、彼らは同じ類の輩であった。

 その後、
「生きている亀を送りつけるなど信じがたい。亀など愛好していると、頭も亀のように愚鈍になってしまうのか」
と、男はコケ愛好家の仲間内で悪し様に言い募った。しかし同じ頃、亀愛好家の間でもこのような話が取りざたされていたのだった。
「コケの愛好家というのは、生き物は全てコケと同列で考えているようだ。人の亀を譲ってくれとは、ずうずうしいにも程がある」

 件の亀は、男の妻が仮死状態から蘇生させ、一命を取り留めた。
「人間とはなんと勝手な生き物か」
と思ったかどうかは、亀だけが知るところである。


↑TOP

Entry42

赤い自転車

 先週小学生の息子に自転車を買ってやった。結構高かったのに息子はまだそれに乗れないでいる。サドルが高いからだと文句ばかりいう息子にせかされて日曜日の朝からスパナを手に調整をしながら、僕は遠い昔に乗っていたペンキの剥げかけた赤い自転車のことを思い出していた。

 家庭の事情で一彰君は今日お引っ越しすることになりました。みんなに会うと寂しくなるからって先生がお別れの手紙を預かっています。
 何時に引っ越すのか、どこへ引っ越すのか、そんなことは何も知らなかった。ただそのまま先生の読む手紙なんかじゃ納得できなくて僕は教室を飛び出した。家が近かった僕たちは小さい頃からいつも一緒に遊んでいた。急に引っ越しだなんてそんなの認められない。僕はカズちゃんの家まで思いっきり走った。少しだけ学校に近かった自分の家まで来たときにカズちゃんの家からトラックが走り出そうとしているのが見えた。
「待て、カズちゃん!」
 声は届かない。僕は家の塀に立て掛けてあった父さんが中古で買ってきたペンキの剥げかけた赤い大人用の自転車を掴んだ。思いっきり助走をつけて、それでも足がペダルに届かないからフレームの間に足を通して三角乗りでこぎだした。
「カズちゃん、カズちゃん!」
「テッちゃん!」
 カズちゃんが助手席の窓から顔を出した。僕は思いっきり自転車をこぎながら名前を呼び続けた。それでもトラックは少しづつ遠ざかっていき、そしてカズちゃんはちょっと下を向いたかと思うと何も言わず僕に大きく手を振った。それを見た僕は足がもつれて倒れてしまい、トラックは視界から消えていった。

 あれはいまの息子と同じ小学四年生のときのことだ。どこへ引っ越したのか、どうして引っ越したのかいまでも分からない。聞いたのかもしれないけど忘れてしまった。思い出を掻き消すように息子が「早くしてよ」とうるさく訴えかける。僕は思わず怒鳴ってしまった。
「うるさい。こんなの自分でやれ」
 まずい。我が息子ながら弱虫で、いつもは怒鳴るとすぐに泣くのだ。しかし息子は泣き出さず不思議な顔でこっちを見ていた。
「どうした?」
「変なの。怒ってるのに、顔が笑ってるね」
 そのときふいに自分も自転車を買おうかなと思った。自分をどこかへ押し進めてくれそうな、魔法のような赤い自転車。
「うるさい。いいからお前も手伝え」
 そう言いながら手渡したスパナを息子は少し困りながらもしっかり受け取った。


↑TOP

Entry43

孔雀

「孔雀が羽根を広げた所を見たことある?」
 無いと答えた。
「そう。それは残念ね」
 明美はそう言って、3本目のワインをグラスに注いだ。
「孔雀の羽根は本当に綺麗よ。どこまでも大きく広がっていってさ。なんであの子達はあんなに綺麗なんだろうね。ダチョウとかは惨めなくらい美しく無いのに」
「ダチョウは脚が早いわ。素敵よ」
「脚が早いのが好きなの?」
 明美が妙に真面目な顔で尋ねた。
「そういう事じゃ無くてさ」
 明美の言葉に笑いながら、あたしは煙草に火を付けた。
「ただ、別に孔雀の羽根が綺麗だって、なんていうか、まあ異性へのアピールの為とか何とか色々あるのかも知れないけど、でも特に意味は無いじゃない? 大体あたしはあんな色の羽根はあまり好きじゃないな。もっと燃えるような、さ。炎みたいな真っ赤な奴じゃないと」
「そう。そうね。意味か。意味。そうね、意味は確かに重要よね」
 明美は譫言のように答えた。酔いが回ってしまったのだろうか。ただでさえ明美はこの頃情緒不安定だ。
 あたしは煙草を灰皿に置き、肩を抱いてやった。
「ごめんね。有り難うね」
 明美はそう答えた。
 泣いているのか笑っているのか、計りかねる声だった。


 あたし達がこんな会話を交わした2ヶ月後、孔雀が絶滅した。
 理由は色々述べられていた。人間の乱獲。生態系、環境の変化。孔雀自体の生命力の低下。大筋の意見では大体こんな所のようだった。
 テレビは追悼特集のように孔雀の映像を流し続けた。
 それで初めて、あたしは孔雀が羽根を広げる所を見た。
 扇のように広げられた孔雀の青緑の羽根は確かに美しく、生き死にだとかコギトエルコズムだとか好き嫌いだとかアルコールだとか、そういうものとは無縁に美しく、だから、まあ確かにこれなら死ねるのかな、とあたしは思った。
「終わったよ」
 包帯を巻き終えあたしは言った。
「有り難う」
 明美は答えた。
 明美の手首に巻かれた包帯が、手錠のように見えた。
 何でそんな事をしたのか。
 あたしは聞かないことにした。あたしだって何で生きてるかなんて聞かれたら困るのだ。
 あたしは包帯から滲む血の赤に目がちかちかしたので、立ち上がり、窓を開けた。
 今日は満月の筈なのに、月は何処にも見えなかった。まるで孔雀の大群が夜空を覆ってしまったかのように、星の瞬き一つさえ見つけられ無い。
 あたし達は窓辺に並んだ。
 そして夜の底から空を眺めて、見えない月を探した。


↑TOP

Entry44

猫の居ない風景

 刺途刺途 刺途刺途 と、止まぬ雨が私の心中に足跡を残している。
 
 冬風に寂し気な混凝土製の電信柱。それの胸の高さ程の位置に有った張り紙が、剥がれ、破れ落ちている。私は傘を肩に預け、黄色く変色した張り紙が遺した四隅にぴったりと合わせるようにして、真っ新な張り紙を貼った。
 此の猫を見掛けませんでしたか 見掛けた方が御座いますれば下記の連絡先迄

「一年、ですね」
 そう。もう一年が経った。
「もう長らく、ミィの姿を見ていませんね」
 ミィが既にこの世には居ないと謂う事など、疾っくに気が付いていた。
 しかし、生死をはっきりとした形で知る迄、涙を流さない事にしている。

 やけに懐っこい猫だった。仔の時に貰って来て、ミルクを与え育てたからかも知れない。ミィが我が家に来てから既に17年。ああ、そうか。16年も、生きていたんだなぁ。
 そう言えばこの16年間というもの、ミィの鳴き声を聴いた事が無かった。
 まだ乳飲み仔であった頃、無理に鳴かせてみようと尻尾を引っ張った事が有ったが、それでもミィは、ニャァ、ともフギャァ、とも声を上げなかった。私の手の甲に引っ掻き傷が出来ただけだ。
 改めて思い出してみれば不思議で猫であったなぁ。

 猫は死に際を見せずして、ひっそりと孤独を抱き死ぬと謂う。
 ミィが居なくなったのは去年の秋口の頃であった。
 彼岸もとうに過ぎ、涼しくなって来たにも拘らず、食欲に衰えが見られたのは、その前兆だったのだと思っている。

 訊ね紙を貼り終え帰宅した私が傘を閉じていると、妻が慌てた様子で声を掛けてきた。
「ミィを知っていると謂う方が、今し方、電話を」



 墓が建ててあった。
 わかっていた筈であるのに、後から後からじわじわと涙が沁み出して来た。其れが嗚咽へと変わった頃、其れ迄押し黙っていた紳士が、口を開いた。

「一年程前の事ですかね……」

 紳士の話はこう続く。
 去年の晩夏、道端で死んだように眠っている猫を見つけ、これはいけないと動物病院へと連れて行った。
 数日間はなんとか息をしていたが、その内に、息を、引き取った。

「見事な死に際でしたよ。最期の瞬間に、一声、フギャァ! と」

 止まらぬ涙を前にし、漸く気が付いた。
 私達はミィを捜していたのでは無く、涙を流す切っ掛けを捜していたのだ。
 横を見ると、妻も同じように涙している。

 だから、
 見知らぬ猫の墓よ。
 すまないが、もう少しだけ、その胸を貸してくれ。


↑TOP

Entry45

てるてる坊主、ふたたび

 てるてる坊主を作ったのは、小さいときに一度きりだ。単身赴任の父が久しぶりに帰ってきて、動物園に行こう、と言うから、私はすごく嬉しくて、楽しみで、てるてる坊主を作った。
 次の朝、目が覚めると雨の音が聞こえた。かわりに映画館に行った。何の映画だったかは、覚えていない。

 結婚を機に会社を辞めたのは、私の意思ではなくて夫の意思だった。子供ができるまでは、という私の訴えに首を振って、彼は彼のこだわりを押し通した。
 子供もいない主婦というのは考えていた以上に暇で、時間をもてあました私は、いつの間にかそれなりの読書家になっていた。そのうち自分でも書きたくなってきて、小説教室に通ってみることにした。
 主婦やおじいさんに混じって一人だけ学生さんがいた。彼はいちばん年が近いからだろう、気さくに話しかけてきて、私は私で新鮮さを感じて、悪い気はせず、しぜんと仲良くなっていった。

「パンダ見たくないですか、パンダ」
 と彼が言ってきて、そういえばじかにパンダを見たことがないということに思いあたった。
「動物園、動物園行きましょうよ」
 頭の中がパンダと動物園でいっぱいになった私が、いきなりですけど明日はどうでしょう天気もよさそうだし、という彼の言葉をぼんやりと受け止めて、なにもないけど、と答えると彼は、じゃあ十時に、十時に駅の改札で待ってます、と言って、ぼんやりしている私を残して去っていった。

 ティッシュを一枚丸めてそれに白い布をかぶせたら、ずいぶんと頭の小さいてるてる坊主ができあがってしまった。ティッシュを何枚も取って作り直してみたらそれなりのものになって、私はそこにパンダの顔を描いてカバンの中にしまっておいた。

 待っていた彼に挨拶をすると、
「雨、降っちゃいましたね」
 と彼は笑った。
「どうしましょう、動物園」
「雨だから、あの」
「そう、ですよね」
 と、彼はちょっと考えて、
「じゃあ、映画でも観に行きませんか?」
 私は呼吸が落ち着くのを待って、ごめんなさい、と言った。彼はしばらく私を見たり、電車に目をやったり、雨の様子を眺めたりしていて、それから、
「それじゃ、また明日、教室で」
 と言って、傘を広げて、走っていった。途中で振り返って、笑顔を見せた。
 雨の音がからだぜんたいに染み渡ってきて、そのまま地面に溶けてしまいそうな気がした。かばんの中のてるてる坊主をぎゅっとつかんで、教室はもうやめよう、と思った。


↑TOP

Entry46

神さまの二つの歌

 昔、とても歌の上手な少年と少女が居りました。
 ある時一人の神様がその歌に感心して二人の所に下り立ち、「お前達は何故歌うのだい」と訊ねました。
 少女は答えます。
「私達はパンや水に飢えた事はありません。だけど人はもっと他のものにも飢えるのです。それで死んでしまう事だってきっとある、だからその飢えを癒す為に多分、歌や物語は生まれたと思います。
 だから私は渇いた人が水を探す様に、歌を探して歌っているのです」
 少年は言いました。
「僕はここが飢えた世界なら、そんなものは要らない。
 この世界を壊し、新しい世界を作る為の歌を、僕は探しているんです」
 神様は頷き二人に言いました。
「ではお前には飢えた世界に水を与える為の歌を、お前にはこの世界を壊し新しい世界を見つける為の歌を与えよう」
 そう言って神様は消えてしまい、二人の体の中には新しい旋律が宿りました。
 少年がそれを歌うと、周りの空や大地が紙細工の様にみるみる崩れ、その向こうにある金と青の世界が開かれました。
 少年は一度だけ振り返り、少女へと手を差し伸べました。けれど少女は首を振ります。彼はその色彩の中に溶け行き、やがて見えなくなってしまいました。

 それから少女は歌を歌って歩きました。少年が捨てたこの飢えた世界を、それでも生き抜く為の歌でした。飢えて居る事すら知らなかった人々はそれで自分の中に水が生まれるのを感じ、一時だけでも安らぐ事が出来たのです。
 けれど少女は時折ふっと遠くを見る事がありました。
 何処にも居ない誰かを探してる様な、そんな哀しい目でした。

 何年か後のある夏の夜、少女が眠っていると、青と金の光が辺りを照らしました。
 裂けた闇の隙間に少年が立って、少女を見ています。
「誰かに水をあげる事は出来たかい?」
「新しい世界を見たの?」
 二人は同時に言ってから、ふふ、と笑い合いました。
 答えは二人とも「はい」で「いいえ」だったのです。
 少女が差し伸べた手を、真青な腕で少年が握ります。そして二人は初めて一緒に、あの日神様から貰った歌を歌ったのでした。
 少年の歌で世界に水が宿りました。
 少女の歌で誰も知らない新しい世界が扉を開けました。
 二人の歌は全く同じものだったのです。

 もう少年と少女ではない二人は、歌を青い揚羽蝶の群れ飛ぶ夏の空に返しました。
 新しい朝の中で手を繋ぎ、生まれたての恋人達は、探していたものを漸く見付けたのでした。


↑TOP

Entry47

日陰の中のオアシス

自分の腕の上にカッターの刃をあてるたび、僕は、欲望の波に自分の気持ちをさらわれてしまう。
今朝で、三回目だ。
人生という階段に登り飽きた自分は、今度はその階段を下りたくなっていた。
自分は、まだ三十歳という始まりに近い階段だが、世の中の時間についていうことが出来なくなったのだ。
この人となら幸せに生きていけると思っていた人には裏切られ、転職したばかりの会社を都合のため辞めさせられた。
最近の出来事で幸せだったのは、運転免許がゴールドカードになった事だけだった。
だが、そんな事は社会の身勝手な時間によって流されていた。
しかし、不思議なことに、居場所の無くなった時間に、僕はまだ、未練があるのか、自分の中の欲望という感情が生まれるのだ。
そして、自分の達成されていない欲望を探し出そうと心の扉を開いているうちに、自分は何故、カッターの刃を腕に押し当てているのかが分らなくなり、我に返った僕は、銀色の刃を鞘に引き戻すのだった。

人にはそれぞれの人生があり、そして、同じ道を歩む事は無いのは、自分でもわかってはいるが、生きているうちに、表には出せない自分の中の隠している不満はみんなの心の中に住みついていると思う。
みんな平等に幸福、不幸が訪れて来る事も理解できるが、人によっては、60歳を過ぎてから幸福の周期が来る人もいると思う。
その考えが無いとも言えず、その人は、60歳までは不幸の周期が続くという事になる。
これでは、不平等ではないか?
僕は、そんなくだらないことを考え始めた時に、自分の不幸の周期と協奏してしまったのだ。
友人、家族、医者。いろいろな人に助けを求めたが、自分の望んでいる答えは返って来る事は無く、自分の悪い考えの方が膨らんでしまった。
そして、今、僕は今日の朝の繰り返しをしている。
一度、我に返ると、一週間はその考えから離れる事が出来た僕も、とうとう、数時間で同じ行為に走っているのだ。
自分の中で、助ける事が出来なくなった苦しみは、誰にも止められる事無くカッターの刃をクリーム色の鞘からカチカチと押し上げた。
今、自分の腕の上にカッターの刃があたっている。そして、思いとどめる事の出来なかった自我に逆らう事無く、右手にもたれたカッターは人間の細胞を守る皮膚を切り開いた。


次の瞬間、少し黒っぽく濁った赤色の液体が腕に広がり、床に垂れて円になった血痕を見て、僕は、守らなければならない人生の中の交通ルールを守った。

↑TOP

QBOOKS