第52回1000字バトル

エントリ作品作者文字数
1fool ride on a swing.lapis.1000
2竹薮の約束スナ2号1000
3旅好きは旅好きと話が合うべんぞう1000
4ファースト・コンタクト長田一葉998
5密室芸人小笠原 寿夫638
6夕焼け、二人鈴矢大門1000
7ネガイボシ卯月羊1000
8湖岸にてハンマーパーティー1000
9青い夜空夢追い人1000
10Dear my best friend,水上 秋霞1000
11なんて鳴く?満峰貴久1000
12(作者の要望により掲載終了しました)
13ラララむじんとうごんぱち1000
14蕎麦屋さとう啓介1000
15ニャアと一声。これでおしまい。アナトー・シキソ1000
16楽園浅田壱奈1000
17『人形世界』橘内 潤1000
18心臓越冬こあら1000
19お供え物噺もふのすけ1000
20三日月犬宮シキ1000
21もっと簡単な方法があるはずだとは思うけれど第1素描室1000
22スクリーマーズるるるぶ☆どっぐちゃん1000
23胎内日向さち1000
24笑えないジョーク立花聡1000
25日本課長の会カピバラ1000
26俯瞰鏡伊勢 湊1000
 
 
バトル結果発表

バトル開始後の訂正・修正は受け付けませんので覚悟してください。

QBOOKSバトルは皆様の投票によって支えられております。
感想をお送りいただいた皆様、ありがとうございました。





エントリ1  fool ride on a swing.     lapis.


 むかついていた。
 世界の全てが私の敵に回ったような気がした。
 上は白のセーラー服、下は少し短めの紺のスカート。お気に入りの組み合わせ、でも狭い路地を一人で歩いていた。
 ひらり、ひらりと私の目の前を飛んだ蝶がいた。
 私は何度も「あっちいけ」って手を振って追い払ったんだけどさ、しつこく私の周りに飛んだのよ。
 その蝶は路地のコンクリートの壁に引っ付いて、ゆっくりと羽をはばたかせていた。
 私は虫が苦手じゃない。昔から好きよ。だって自分が優位に立てるという沸き立つ確信、それから強かな打算があるから。
 私は右手を慎重に蝶の羽に忍ばせて、強くその羽を左手で蝶を押さえつつじわじわと毟り取った。
 羽の生え際に蝶の身体の破片と体液がぬめりとついていて、気持ち悪くてすぐに手を離した。地面に落ちて行く蝶は片方の羽だけを鈍くも動かしながら、空を飛ぼうとしていた。けれどすぐに地面に落ちて、体液が地面に広がった。
 『汚いな』と思った。

 歩いて行くと公園を見つけた。門の傍の【危険!】と描かれた看板も。
 でも私は走り出してた。キィキィとあの懐かしい音が聞こえたからだ。
 今はやってない。でも『昔は好きだったなぁ』と思って、迷いなくブランコに近寄った。錆びた鎖を手にとって、上下に強く引っ張った。それからブランコの板に足をかけて、何度か体重をかけたが『大丈夫だ』と思った。
 1度、降りてから自分の手の平を見やると鎖の錆びで赤茶色に染まっていて『汚いな』と思ったけど、『まぁ後で洗えば良いか』って思って勢いよく漕ぎ出した。
 足を曲げてブランコを漕ぐ。
 もっと、もっと、高い所まで飛んでって不意に足がガクガクした。
 左から右へ180度、『空に手が届きそうっ!』って思って手を離して空に飛び込んだ。

 ――暗転――

 頭がぼーっとした。それから足のつま先から腰にかけて強烈な痛みがした。
 いまいち理解できない。正座を崩したままの状態で動けない。首だけ上げると月みたいな真ん丸い空が見えた。
 助けを呼ばなきゃ。
 それだけ思って無我夢中で叫んだ。
「誰かぁ!!」
 そう叫んで手を伸ばせるだけ伸ばしたその指先が空に浮かぶ太陽を遮る時、蝶がひらりと舞った。
「あの蝶だ」
 と小さく呟いたが頭を振って考えを打ち消した。
 死んだんだ、死んだんだと声なく呟いて、ガリガリと意味なく土の壁を引っ掻いて虚ろな瞳を泳がせながら、泥まみれの手で空を仰いだ。





エントリ2  竹薮の約束     スナ2号


「あ、狸!」
よっこの声にみんなはいっせいに振り返った。
 見ると、道路の真中に、柴犬位の動物が、硬直して私達を見ていた。狸を見たのは初めてで、私一人だったらそれが狸だということは分からなかったかもしれない。
 狸は暫く固まっていたが、急に走り出し、道を横切り竹薮の中に駆け込んでいった。
「ねえ、追いかけようよ」
美香が興奮気味に言った。
 ランドセルは邪魔なので道の脇に隠し、私達は竹薮の中に踏み込んだ。竹薮の脇の道は毎日通っているけれど、竹薮の中に入るのは初めてで、なんだかわくわくした。落ち葉のつんとくる匂いが、いっそう気持ちを盛り上げる。
 美香と二人でくすくすふざけていると、フミちゃんが
「静かに!」
と言った。はっとして耳を澄ますと、遠くで微かな音が聞こえた。
「あっちかな」
よっこが指した方にみんなが進もうとしたその時、すぐ近くでがさがさという音が聞こえた。驚いて振り返ると、爺さんが一人立っていた。
「お前達何をしている!」
怒鳴られてびくびくしながら、私達は狸を追いかけてきたことを伝えた。狸と聞いて爺さんも驚いたようだ。
「狸か、珍しい。昔はそこいら中で見かけたものだが」
そして、顔を和らげた。
「怒ってすまんかった。てっきり、竹の子でも盗みに来たのかと思ったよ」
「竹の子?」
「ああ、最近多いからな」
そう言って爺さんはもとの道を戻ろうとした。
「そうそう」
爺さんが振り返った。
「狸のことだが、そっとしておいてやってくれんかね」
爺さんは少し寂しげに言った。
「奴らも、住む所を追われて窮屈な思いをしているだろう。せめて、この林で静かに暮らさせてやってはくれんかね」
「狸のプライバシーの尊重だね」
美香がにっと笑うと、爺さんも笑って、「そうそう、プライバシーだ」と言うと、落ち葉を踏み分けて去って行った。
 私達もなんだか気をそがれて、竹薮を後にした。
「あーあ、残念」
「でも、面白かったね」
みんなが探検の感想を言い合う中、私は呟いた。
「狸が化けるって本当だったね」
「え?」
「絵理、何か言った?」
「ううん、何でもない」
 そうだ、私だけの秘密にしよう。
 みんなにはなぜだか見えなかったようだが、爺さんの後姿を見て、私は腰が抜けそうになった。
 去って行く爺さんのお尻には、立派なお尻尾がついていた。思わず笑いが零れる。
 狸との約束通り、あの竹薮のことは忘れよう。
 彼らの静かな暮らしが、もう邪魔されることのありませんように。





エントリ3  旅好きは旅好きと話が合う     べんぞう



「趣味はぶらり旅です」


時田はクライアントと話をするときは、決まってこう言っていた。大学は地方に逃げたものの、大手の旅行代理店に就職したら、東京本社に戻されてしまったのだ。趣味はぶらり旅。2連休でも取れれば、仕事が終わった夜にそのままレンタカーを借りに行く。オンとオフ切り替えがうまい彼は入社5年目。同期の中でも一番の出世頭と噂されていた。


根本的に忙しいこの業界もちょっと息抜きぐらいはできる。11月の火曜の晩、関越自動車道のとあるサービスエリアで休憩しているレンタカーの中に時田はいた。さっきまでいた新宿の雑踏から抜け出すことができて、愛しそうに満月を眺めながら缶コーヒーを啜っていると

コンコン。


運転席の窓を叩く男。自分と歳はそう変わらないように見える。


「あのーすいません、どちらまで行かれますか?」


「あ、いや、まだ決めてないのですが、とりあえず北を目指そうかと」



時田は男を乗せて北に向かった。男の名は坂本。ちょっと大きめのバックパックを背負っていた彼は、このサービスエリアまでは明日発売の週刊誌を運んでいるトラックに乗せてきてもらったのだという。坂本の行き先は青森の竜飛岬。演歌で有名な「北のはずれ」だ。


ヒッチハイカーにはそれぞれヒッチハイクをする理由がある。旅行好きの時田には、その理由の半分は自分なりに分かっているつもりだが、残りの半分は分からなかった。どうしてもそれを坂本に聞いてみたかったのだ。しかし、なにぶんにもプライベートなことなのでちょっと聞きづらい。



火曜日が水曜日になる頃、助手席の坂本の歳が同じだと分かったついでに、勇気を出して尋ねてみた。


「あはは、一昨年ぶらり旅で行った竜飛岬でね、夕日見ながら考えちゃったんですよ、人生について。んでね、思い切って先週末で5年間勤めてきた会社、辞めてきたんです。今回はそれを確認する旅です。ヒッチハイクですか? ヒッチハイクはねぇ、やっぱね、やってみなきゃ魅力はわかんないですって。いいもんですよ、ホント」

坂本は、竜飛から帰ってきたらタイにでも渡ろうかな、と続けた。


ヒッチハイクをする理由。それは時田には今、ハッキリと分かった。

「旅好きは旅好きと話が合う」



木曜の晩、一人で東北道を南下しながら、昨日の夕方見た竜飛岬の夕日を思い出していた。



「明日思い切って部長に出すか」


最後の仕事として辞表を打った愛用のパソコンは、同期の親友にあげることにした。





エントリ4  ファースト・コンタクト     長田一葉


「超光速での移動とは、無茶なことをしてくれた!」
「しかし、肉体的には何も問題がないはず……」
「問題は肉体ではない! あの者の精神状態だ」
「許容年差だと思われますが」
「それは、あくまでも我々の基準だ。あの者の基準とは違うかもしれないんだぞ!」
「はい……」
「しかし、今さら君を責めても仕方がないか。もう一度事態を把握させてくれ。星系探査中の自己で、君の船は航行不能になり、近くの惑星に緊急着陸した。そこで、その星に生息する生物に襲われたんだな」
「はい。それをあの者が助けてくれたんです。あの者がいなければ、宇宙船の修理前に私は死んでいました」
「だからといって、ここまで連れて来ることもなかったろうに。まあ、いい。君は正式な報告書を作成するように。それと、彼を帰星させると、彼が精神破綻を起こすかもしれないが、その対策は考えてあるのか?」
「すでに、科総研に依頼してあります」
「よし。あの者の女王陛下謁見はいつだったかな」
「明後日の予定になっています」
「では、明後日の謁見には君も立ち会うように。退出しなさい」

 男は波の音で目を覚ました。頬に砂の感触がある。何があったのか、思い出そうとしながら体を起こすと、自分が砂浜にいることが分かった。海の方を見ると、同じ大きさの小島が三つ並んで見える。男が子供の頃から見慣れた風景だ。
 体をほぐすように伸びをすると、自分の腰に結び付けられた物に気が付いた。
 男は家に帰ることにした。母が心配しているのではないか思い、急ぎ足になった。見慣れたはずの道に違和感を覚えたが、それが何故か、男には分からなかった。
 男は家があるはずの場所に着いた。しかし家はなかった。隣の家から見知らぬ女が出てきた。男は女に近づき、母がどこにいるのか尋ねた。
「浦島の婆さんは、だいぶ前に亡くなったよ」
 女は、男を物珍しそうに見ながら言った。
「私が子供の頃だね」
 男は最後に見た母の顔を思い出した。母はまだ四十前だった。それがなぜ「婆さん」と呼ばれているのか、男は考えた。手の平に汗がにじんできた。首の後ろから冷たい感覚が全身に広がっていく。
「開けてはいけない」
という言葉が頭に浮かんだ。そして同時に、開けなければいけないという思いが強くなった。男は腰に手を伸ばし、腰に結び付けられた物のふたを開けた。
 科総研の開発した白い煙、超光速移動でずれた時間を元に戻す白い煙が、浦島太郎を包み込んだ。





エントリ5  密室芸人     小笠原 寿夫


乙「甲さん、大変です!」
甲「どうした。殺しか。」
乙「いえ、笑いです。」
甲「笑いか。そりゃ厄介だな。」
〜現場検証〜
乙「ガイシャのマイケル・オレルアンは、29歳。現在、アメリカから日本大学に留学中であります。」
甲「凶器は。」
乙「一発ギャグです。」
甲「どうしてわかる。」
乙「ガイシャの横隔膜に含み笑いの形跡がありません。それに、この高笑いは、即効性の一発ギャグによるものかと思われます。」
甲「なるほど。」
乙「それから、甲さん、ちょっと不審な点が。」
甲「どうした。」
乙「我々が踏み込んだとき、この部屋、すべて鍵が掛かっていたんです。」
甲「妙だな。」
乙「密室だったんです。」
甲「密室芸人か。」
乙「ええ。凶器が一発ギャグということで、始め、間寛平と吉田ヒロが疑われたんですが、彼らは密室芸人というよりは、舞台芸人なので。」
甲「そうか。ところで、この受話器は踏み込んだときには上がっていたのか。」
乙「ええ。受話器にはガイシャの指紋がべっとり付着していました。」
甲「なるほど。ホシは電話越しにガイシャに一発ギャグをささやき、爆笑させたわけだな。」
乙「そういうことになりますね。」
甲「しかし、見事な笑わせっぷりだな。ホトケさん、すっかりえびす顔じゃないか。」
乙「そうですね。ぜひ、ホシを締め上げてその一発ギャグを吐かせたいもんですね。」
甲「それじゃあ、切れのある一発ギャグを持ってる密室芸人をしらみつぶしに当たってみてくれ。」
乙「わかりました。」
甲「・・・・あ、これ、ただのいたずら電話やん。」





エントリ6  夕焼け、二人     鈴矢大門


 ふと気がつけば外はもう真っ赤だ。僕らのいる教室も。その赤さは伝染して君の真っ白な頬も真っ赤になる。どれほどこうしているのだろう。時計の音だけが静かに、確かに時を刻んでいる。
それを知ってか知らずか君は相変わらずの無表情で僕を見ている。僕は無言で君を見つめかえす。そっと手を上げて君の頬をなでた。冷たくて水気の少ない頬は僕の指から少し水分を奪った。僕は聞こえない程度のため息をつくとその視線からついと目を逸らし外を見た。真っ赤な夕焼け。不意にやんわりとした風が吹き込んで来る。外の熱気と湿気を含んだ風は僕らの周りを通り過ぎ教室中に赤色を散らした。
 僕は視線を戻す。無表情で見つめる君。いつまで続けるのだろうか。そんなことは知っている。後、5分。真っ赤な空をちら、と見た。もうすぐで全てが終わり。でも、どうにも出来ない。君を見つめることしか、出来ない。
 そのとき、僕はふと思いついた。君ときちんとお別れをしよう。ペンを持ち君の顔を捕まえる。僕は君の顔に素早く化粧を施す。君の、真っ赤に染まってしまった白くて冷たく乾燥した肌に少しずつ書き加えていく。僕の視線は、だんだんと仕上がってくる君の顔と残りの時間を刻む時計との間を行き来しながら、スピードを上げた。また、隙間からやんわりとした風が吹き込んできた。
 時計が残り1分を指したところで、僕は手を離した。君は動かない。僕は最後の時を無駄に過ごさないために、その冷たい横顔から決して目を離さない。真っ赤な時計が別れの時までをカウントダウンしている。君とはこれでさよならだ。僕は最後に君を振り向かせて、身だしなみを整えた。次の瞬間時計の秒針が12に重なり、僕は世界の崩壊の音を聞いた。



「よし、答案を持ってきなさい。これで君の試験は終わりだな。今の時期に風邪引くなんて珍しいな。健康管理には気をつけておけよ。」
「はい。じゃあ、さようなら。」
「ああ。出来はどうだ?」
「最後の5分で解いたのがあってれば満点だと思います。」
「そうか、まあお前の言うことだからな。多分そうだろう。これからもがんばれよ。」
「はい。」
 僕は先生にぼんやりと返事をすると、外を見た。真っ赤な夕焼けから夕立の後の湿った匂いが漂ってくる。最後の問題、あっていれば良いけど。変なことを考えながら解いていたから間違ってしまったかも。でも、テストなんて馬鹿なことを考えながらじゃないとやってられない。





エントリ7  ネガイボシ     卯月羊


 今夜は50年ぶりの流星群です、とラジオが告げた。私はこうしちゃいられないと思い、上着を手に取り、外へ飛び出した。風が寒い。

 この辺りの空は澄んでいて、天体観測にはもってこいだ。私はお気に入りの空色の自転車にまたがると、勢いよくこぎだした。空と街がいっぱいに見渡せる、最高の場所を私は知っているのだ。胸に沸き起こる期待が、私の息をピンポン玉みたいに弾ませた。願い事は何にしよう。

 目的地まであと半分というところで、私はピカピカ光る小さなものを目にした。その弱々しい光は、電灯の光に飲み込まれそうになりながらも、精一杯その存在を私にアピールしてきた。小さな、星の欠片だった。
「ワタシヲ、ハコンデクダサイ、アソコノ、タカダイマデ、オネガイシマス」
 今にも電池が切れそうなラジオみたいな声で、星の欠片はそう言った。私は「いいよ」と言うと、その星をハンカチに包んで、再び自転車に飛び乗った。

「ねぇ、どうしてあんな所に落ちてたの?」と私はポケットの中に向かって訊ねた。
「モトモト、カラダガ、ヨワイノデス」
 星の光がポケットから滲み出している。
「で、高台まであなたを運んで、それからどうすればいいの」
「コンヤノ、リュウセイグンニ、ワタシヲ、ノセテクダサイ」
 私は「流星群に乗せて」と言われても、やり方が全くわからなかった。けれど、星の光が言葉を発するたびに弱々しくなっていったので、とにかく高台までの道を急いだ。しかし、次第に光は弱くなり、ついにはポケットの間から見えるくらいの光になってしまった。

 私は焦った。
 近いと思っていた高台がやけに遠い。足はすでにパンパンに張っている。
 光はさらに弱くなる。
 私の息がスーパーボールのように弾む。

「ねぇ、大丈夫!?」
「ハ、イ」

 ペダルを踏み込む。思い切り。
 足が弾け飛びそうになる。
 光が消えかかる。

 高台が見えた。
 自転車ごと倒れこむ。
 震える足で何とか立ち上がり、ポケットに問い掛ける。

 返事がこない。
 私はハンカチを取り出して、空に高く、高くかざした。

 私の息がぴたりと止まる。
 無数の星が空を駆けていく。
 床の上に散らばったビーズのように、空に星がばらまかれる。
 一瞬だった。


 流星群。


 再び私の息が激しく弾み始めたとき、空からふわりと私の耳に届いた。
「アリガトウ」

 今度はゆっくりお話ししたいな。温かい紅茶でも飲みながら。
 どうか、50年後にまた会えますように。





エントリ8  湖岸にて     ハンマーパーティー


 夜の湖のしずかな波音が二人の気持ちを鎮めていった。聡は砂の上に寝そべって、係留された貸しボートが揺られるのを眺めた。
「スッキリしたべ」
 聰がそう声をかけると、京香は小さくうなづいた。
「ああいうふうに言われんのは分かってだ」
「あだしもだ。でも、ごめんない」
 国道49号線を降りて湖岸まで乗りつけた。聰のシャツには京香の父親にかけられた味噌汁の跡が残っていた。京香の家を追い出されてから二時間近く経っていた。
「今になってみっと、初めで紹介すんのに、結婚どが出会い系で知り合ったごどどが言うごどねがった。ごめん。あだし、気が急いぢまってだんだ」
「気にすっこどね。分がってだがら」
 聰は横目で京香を見た。思ったよりへこんでいるな、と思った。
「明日、仕事だっけが?」
「んだ。あんたも仕事だべ。もう帰っかい?」
「帰っぺ。おめは、うぢさ帰らんにべ。どうすんだ?」
「うん……」
 京香の腹が鳴った。京香は声を出して笑った。
「おめ、今日がらおれどごさ泊まれ」
「明日がらずっと泊まっていいがい?」
「いいばい。それよっか、おめ、車どうすんだ?」
「あちゃー。なして父ちゃんの車で来たんだべ」
 聡の脳裏に、京香の父親とのやりとりが浮かんだ。激怒していた。混乱しているようだった。母親は、なしてこんなごどになるんだろうねえ、とつぶやいて、ため息をつきながら台所へ行った。そして二人が家を出るまで姿を見せなかった。
「しかだねべ。あんな山ん中がらどごさも歩いでげるわげねえべ」
「したらば、これ返してどうやってあんたんちさ帰んだ?」
「一回、おれんち帰って、おれはおれの車で一緒に行ぐがら、帰りにおめが乗って帰ればいいべ」
「んだない。だげんちょ憂鬱だ」
「しゃーねべ。国道でラーメン食ってぐが?」
「うん。シャツごめんない」
「別に。でも殴らっちゃほうがスッキリしたがもな。味噌汁、顔さぶっかげられんのなんて初めでだった」
「……」
 聰は立ちあがるとジーンズの尻を叩いて砂を落とした。京香も立ちあがると聰の手を握った。高台の国道を大型トラックが何台も通り過ぎた。
「落ち着いだらよぉ」
「うん」
「おめの親父さんにもう一回、話してみっぺ」
「ありがと」
 貸しボートの舫がギイギイ鳴っているのを耳にしながら、二人は車に乗った。
 地元の湖岸パトロールのバンが黄色いランプを灯しながらゆっくり近づいたが、二人が車を出すとスピードを上げて反対方向に走り去った。





エントリ9  青い夜空     夢追い人


 鍵をどこかに落としまったせいで家に入れない。鍵を掛け忘れた窓があればそこから入ろうと思い、傍から見られたときに泥棒だと勘違いされるだろうことを覚悟で、一階の窓をすべて調べたが、きっちりとした性格が災いしたようでどの窓も鍵が掛かっていた。僕は玄関に腰を下ろして、嘆息を漏らしながら、これからどうしようかと赤く染まった雲がゆっくりと流れていくのをぼんやりと眺めた。近くの大通りからは車のクラクションが響き、近所からは子供の笑い声が隣の家の夕食の匂いと混じって一緒に届いてきた。
「やはり世界は僕を中心には回ってはくれないみたいだな」
と僕は肩を落として呟いた。
 タバコをふかしながら一時間ほど自分の惨めさに同情しているうちに近所の吉岡さんが通りかかった。彼は僕を見るなり怪訝そうな顔をしてこう言った。
「奥さんに家から追い出されたんですか?」
「いえ、家の鍵を無くしたんです。妻は今旅行に行ってて。妻もいないもんだから、久しぶりに家でのんびりしようかなと思って早く帰ってきたら、この有様ですよ」
 それはとんだ災難ですね、と苦笑いを浮かべたまま吉岡さんは軽い会釈をして去っていった。また一人になった僕はタバコの煙を吐き出しながら、冷めた世の中を作ったのは一体誰なんだ、と心の中で愚痴を零した。とにかく僕の中で一時間前から排気ガスのように灰色によどんだやるせなさを紛らわすには愚痴を吐き出すほかなかった。

 時計を見るとすでに七時を過ぎていた。いつもなら明るい蛍光灯の下で妻と夕飯を食べている時間なのに。夜の帳はすっかり辺りを覆っていて、冷え込んだ空気が僕の体を縮ませた。空を見上げると、三日月にもなれない細く白い月が空の天井の片隅に貼り付けられている。夜空は真っ暗なものだとばかり思い込んでいたが、所々に星を散りばめた空の天井が青いものだから、言葉にならない声を発して驚いてしまった。宇宙は暗闇という僕の勝手なイメージが思いがけずこんな時に崩れたせいで、
「やられたなぁ」
 と空を見上げて笑いながら言った。
 まだ点けたばかりのタバコの火をもみ消して、夜の冷たい空気を肺一杯に吸い込んでみた。僕が世界を見ていないのだから、世界が僕を中心に回るわけがない。世の中が冷めているのは他人のせいじゃない。僕が冷めた目で世の中を見つめているせいだ。明日、鍵屋を呼ぼうと決心した。青い夜空は無限の広がりを持って、世界と僕を包みこんだ。





エントリ10  Dear my best friend,     水上 秋霞


 最近猫を飼い始めた。きっかけはありがち。
隠してたけど、長年連れ添った妻であり恋人であった人が天国へ旅立ったんだ。原因は交通事故。
車を運転していて、子供が飛び出したのを避けてそのまま電柱にぶつかって即死。
彼女は元テニス部で動体視力が良かったし、
更に相手が子供ともなれば『火事場の馬鹿力』ってのが出ても良かった筈なんだけど。
いや、あんな優しい人に馬鹿は失礼だ。
元々僕なんかには似合わなくて、清楚な感じで・・・・・あ、身内自慢になっちゃったね。ごめんよ。
話を戻すと、前にも話したと思うけど僕は種なし。
勿論子供も居る筈が無くて、文字通り一人になったから凄く寂しくなってね。
家と会社をただただ往復してしてたんだよ。

 で、ある日会社の帰りにフラフラッと街を歩いてたら、
ショーウィンドウ越しに凄く悲しそうな目をした猫が居たんだ。
同情したのかな。というより、今思えば僕の目がそう写してただけなのかもね。
でも、同情したんだからしょうがない・・・・・
って事で猫砂やらキャットフードやらと一緒に『かった』んだ。
その時の僕はとにかく、寂しさから逃げられれば何でも良かったんだと思う。

 飼い始めた当初は大変だったよ。身体を洗おうとすれば逃げる、ご飯も警戒して食べない。
しょうがないから何日か放っておこうと思ったんだけど・・・・・不思議とそんな事が出来なくてね。
その内観念したのか、寝る時に布団に入るまでになってくれたんだ。嬉しかったよ。

 で、あれは下弦の月が綺麗な日。帰ってみるとあの子がいない。すぐに家中探したら、
どうやら屋根の上から声がする・・・・・で、屋根の方を見たら丁度屋根から降りてるあの子が見えた。
そのまま近くのマンションの方へ入って行ったから慌てて追いかけたんだけど、
上の方まで上がって行っちゃったんだよ。僕も上がって上がって、気が付いたら屋上。
大きな声で呼んだら小さく鳴き声。見れば屋上の縁に愛しい愛しい僕の子猫。
危険も忘れてそこまで行って、無事捕獲。その時ふと思ったんだ。
『こんなに一生懸命になったのっていつ以来なんだろう・・・・・』ってね。

 そして、青い月の光を浴びながら・・・・・僕は初めて妻の悲しみが分かったんだ。

 最後に、一つ謝るよ。僕の昔話には一つだけ嘘が有る。


『僕は種なしなんかじゃなかった。
ただ、君という男にしか性的魅力を感じなかったんだよ。それだけさ』

 I celbrate your marrying. See you.





エントリ11  なんて鳴く?     満峰貴久


「ワン、ワンワン」
 子犬を前にして、健太と雄介が話をしている。
「かわいいなあ、ワンワン、だって、でもお前あんまりほえると嫌われちゃうよ」
 そう言って健太は子犬の頭を撫でる。でも、ちょっと力が入っているので、撫でるたびに頭の皮が後ろに引っ張られ、子犬の目の上が白目になって奇妙な顔になる。それでも子犬は嬉しいのか、小さな口をあけ、プルプルと短い尻尾を力いっぱい振って前脚を上げたり、頭を低くしてお尻を持ち上げては飛び掛るような格好をしたりする。
 横で一緒に撫でていた雄介が言った。
「父ちゃんが言ってたけど、外国の犬ってワンワンって鳴かないんだってよ」
「えーっ、うそだーっ、犬はどこだってワンワンに決まってるだろ」
「本当だよ、えっと、バウバウとか、ワウワウとかって鳴くんだってよ。あっそうだ、思い出した、バウワウだ」
「バウワウ? そんなふうに鳴いてんの聞いたこと無いよ、犬は昔っからワンワンだろ。ワンちゃんって言うし、ここ掘れワンワンだってぜーんぶそうじゃないか」
「でも、父ちゃんがそう言ってたもん」
 一方的に否定された雄介が不機嫌になったので、健太は少し悪いと思ったのか、チラッと横目で見て言った。
「そうだ、マミちゃんちの犬って外国の犬じゃないの? 白くて長い毛で顔なんか細いし、散歩してるのは見たことあるけど、鳴いてんのは聞いたことないんだ。ちょっと行ってどう鳴くか訊いてみようよ」
「うん」
 二人は、じゃれて腹を上に向けている子犬を残し、駆け出していった。

「マミちゃーん、犬見せて」
 突然の来訪者にマミちゃんはびっくりしていたが、事情を聞くとちょっと自慢そうに言った。
「どこの国の犬かなあ、外国のだってママは言ってたけど。でも、どう鳴くのかなんて気にしたこともないから分からないわ。この子ね、ショコラちゃんて言うのよ。私はショコちゃんて呼んでるわ。」
「ふうーん、ショコちゃんて言うのか」
 二人にとって犬の名前なんかどうでもよかったが、機嫌を損ねて折角の機会を失いたくなかったので、素直に相槌を打った。
「ほら、鳴いてごらん」
「ショコちゃん、バウワウって鳴くんだろ」
「ショコちゃん、鳴いてみて」

 三人にじっと見つめられて、ショコちゃんは緊張したのか、大きな目をむいて助けを求めるようにマミちゃんの顔を見ては足をもじもじさせている。
 そして、とうとう我慢できなくなって、大きな声で鳴いた。
「ワイン、ワイン」





エントリ13  ラララむじんとう     ごんぱち


 見渡す限りの水平線。
 雲一つない青空。
 そして、狭い狭い大地。
「――あー、洒落なんね」
 私は呟いた。
「洒落なんね!」
 普通の声の大きさで言ってみた。
「洒落になんねーーーー!」
 背後の森から鳥が飛び立つ。
「ったく、あのボロ飛行機!」
 海岸にめり込んだ救命ボートには、大きな穴が開いて、二度と再び海に出られそうにはない。
「助け、来るのかな」
 私は、さっきから、側に立っているそれに目を向ける。
 何故航空機輸送をされていたのか、今現在何を動力にしているのかは分からない。分からないが――ともかく、電源の入った自動サラ金ATMが、そこにあった。

 一週間が過ぎた。
 ATMの画面にはまだ明かりが灯っている。
「無人島で役に立たない物、ナンバーワンだな、これ」
 私はタッチパネル式の画面に触れる。
 画面はしっかり反応する。
「金貸しめ、丈夫に作りやがって」
 私はATMを蹴飛ばそうとして、止めた。
 警報でも鳴り出したら寝るに寝られなくなる。

 一ヶ月が過ぎた。
 ATMは相変わらず元気だ。
「核戦争があっても、壊れないんじゃないか?」
 タッチパネルに触れる。
 ええと、これを入力して、これを入れて――簡単だ。
 今までの人生で、これに触れた事はなかったが、本当に簡単だ。
「――っと、いけない」
 今まで汚点のなかった人生だ。ここで、サラ金利用者ブラックリストに載る事もない。

 四年が過ぎた。
 ATMは、風景と一つに――ならずに、圧倒的違和感と共に、相変わらずそこにあった。
「ったく……」
 これが酒類の自動販売機なら、良い友達付き合いが出来たのに。馬券販売機なら、妄想に浸る事も出来たのに。
「金、か」
 ふと、考える。
 私の人生で、一番大きな金に触れたのは、いつだったろうか。
 給料が手取りで二十万だったが、別に全額おろすわけでもなかった。せいぜい、四、五万づつ。ボーナスも同じ。
「……百万円」
 そんなちっぽけな大金も、持った事はなかった。
 いつしか、私はタッチパネルを操作していた。
 金が、出てきた。
 札が。
 一万円札が。
 五十枚。
 無担保ローンの限度額。何と、つまらない厚みだろう。
 私は、急に馬鹿らしくなって、札を放った。
 ここは無人島だ。
 私は無人島の王なのだ。
 何も持たず、故に最も強い人間。
 寝転がって星空を見上げる。
 星と波音が、私を包んでいた。

 ――ちなみに、金は九日後に返した。
 十日までなら、無利息なのだ。





エントリ14  蕎麦屋     さとう啓介


『蕎麦屋なんてどうでもいいと思っていたけれど……』
 ペンが止ると、不意に幼い頃を思い出した。
 麻地の暖簾が風に揺れていた。海鼠壁に犬矢来。朝顔の茎が小竹の先でくるっと廻り夕立の雫を掴まえていた。赤い傘を斜めに差して小さな雨靴を鳴らしあの子はやって来る。遠い記憶の中の少女。父の打つ蕎麦を格子越しに眺めては、夕暮れの蜻蛉と一緒に石畳の坂を駈けて行った。

「この蕎麦屋どうしようかね……」
 昨夜厨房でぽつりと呟いた母は、どこか遠い眼差しだった。
 母がこの店をずっと続けて来たのは、父を忘れない為と、父を忘れる為。子供の頃の私にはよく分からなかったが、今はそう感じる。

 雪の降る寒い午後だった。学校から帰ってきた私の頭をポンと叩いて入替りに出てきたのはのは父だった。店の中からは、母の怒鳴り声と金物が転げる音がしていた。父は私を振り返り微笑む。まただと思い私も笑う。叩台の上にひっくり返った蕎麦粉が小さな砂山のように綺麗な稜線を描いていた。
 父は春までこの店には戻って来なかった。燕は毎年決まって同じ巣にやって来る。父はその燕と同じなんだと思っていた。父の打つ蕎麦は好きだった。母のとあまり変らないけど、父の打つ蕎麦は喉を落ちていく時の香りが好きだった。それが私の父の匂いだった。
 父は秋晴れの空にまた店を出て行った。私に赤い木箱を渡すと父は微笑んだ。表に出た私は、遠くなる父の背中が石垣の秋桜に重なって、ゆっくりと消えていくのを見送った。
 きっとまた戻って来てくれる。そう願うと、少し膨らんだ私の胸に微かな痛みが走った。

「あんた、しっかりしなきゃ駄目だよ」
 母は私に花嫁衣装をあてがいながら鏡の前で笑ってそう言った。
(母さんの事は大丈夫だよね、気丈な人だもの。でもほら私は……)
 笑ったはずの顔は鏡の中で共に泣いているようにも見えた。その鏡の前にあの時父から貰った赤い木箱が置いてある。母が店に下りると私はそのくすんだ赤い木箱を開けてみた。中には赤い傘を差した幼い私の写真と、玩具の宝石が入っている。私は小さな指輪を取出し、左の小指にはめてみた。ふっと、父は今でも何処かで蕎麦を打っているのだろう。そう思いながら、ポケットに入れていた手紙をそっと赤い木箱へ入れた。小さな指輪が躊躇いがちに輝いた。

 母さんへ
 蕎麦屋なんてどうでもいいと思っていたけれど、私も手伝いに来るからね。ずっと続ける事。
 ひとり娘より





エントリ15  ニャアと一声。これでおしまい。     アナトー・シキソ


背中は地面に貼り付いていて、少しも動かない。
腕も、脚も、同じように貼り付いていて動かない。
目を開こうとすると、胸の裏の背骨が痛む。
瞼の下で目玉を動かすだけで、頭の芯が疼く。
真っ黒い闇に向かって叫べば、両目に見えた。

薄色の青空。
雲がある。
飛行機、飛んでる。
いい天気だ。

俺を挟んで向かい合っている二人の人間の顔。
俺は下から見てる。
一人はあの女で、もう一人はあの男。
俺は瞼が閉じかかるのをなんとか堪えてる。
瞼がピクピクして、まるで、死にかけてる。
それを、砂鼠の赤いソファに座った俺が見て、バカ笑いする。
まあ、聞け。
男と女の会話。
「飛んだのか?」
「知らないわ」
「落ちたのか?」
「さあ?」
女はケータイを取り出し、俺にレンズを向けた。
「何のマネだ?」
「写真、売れるかもしれないでしょ」
フラッシュの光が俺の目を襲う。
瞳孔に一瞬の収縮とゆるやかな拡散。
そして、俺と男。
目が合う。
が、さしてどうという様子もない。
男は女に視線を戻し、
「脳波に変化はあるかね?」
「いえ」
女が答える。
「ベジタブルです」
俺の鼻の穴。チューブの具合を確かめる女。
眉間の激痛に針が振れる。
俺は身動きできない。
「体を固定しましたからね。でも、すぐ病院ですよ」
赤い横線の白いヘルメット。
病院なんかでよくなるのか?
ちっともそんな感じはしないんだけどな。
即死じゃないからさ。
俺は言う。
横たわり、割れた、見知らぬ、その姿。
なんだか、脳をやられてるような気がするんだ。
自分では見えないから何とも言えないんだけどさ。
頭から脳味噌が飛び出しててさ。
目玉を動かすと、こう、頭からはみ出た部分が一緒に動くんだ。
その度に、地面で擦れて……。
「まあ、そんなことはいいから、飲めよ」
ビールを注ぐ俺の同僚。
虫の話ばかりする。
地面にいるあの小さい虫はすぐに脳に群がる。
真っ赤で、ダニみたいに小さいあの虫。
人間の脳だけを食って生きてるあの虫さ。
墓場の頭蓋骨の中に何億といるのを見たことがある。
と思うんですけど?
顔にでかい口だけしかない医者は笑う。
「なるほど。あなた、面白い方だ」
でも、とりあえず息しなきゃ。息しないとさ、ダメでしょ?

息の仕方が、思い出せない。

地上7階。ベランダの狭い塀の上。
猫は、遥か下界に横たわる俺を見ていた。
そうやって、飼い主の最期の吐息に聞き耳を立ててるんだ。
全てを見届けたら、ひらりとベランダに降り立ち、部屋に帰る。
そして、ニャアと一声。これでおしまい。





エントリ16  楽園     浅田壱奈


 気がつくと僕は楽園にいた。どうやって楽園にきたのかはわからない。僕はただ、いつもと変りなくいじめっ子たちに食事を邪魔されて、いつもの通りに食事をすることをあきらめ、いつもの通りに寝床に帰ろうとしていただけだ。本当にいつもとかわらない生活を送ろうとしていた。けど、一つだけいつもと違うことが起きた。突然、原因不明の衝撃に襲われたのだ。その衝撃で僕は気を失ったみたいで、気がつくと楽園にいたというわけだ。

 僕は生まれてこのかた、ほとんど満腹というやつを経験したことがなかった。というのも僕が食事にいそしんでいると、必ずいじめっ子たちがやってきて、邪魔されてしまうからだ。仕方がないからから、ほかの場所で食事をしようと思っても、すでにほかの誰かに占領されていて、その場から追い出されてしまう。そうなるとどこへ行っても、食事をすることができないのだ。悲しいことに、それが毎日の生活だった。だから僕は、満腹になることをあきらめていた。
 でも驚いたことに今の僕は、かなり満腹状態にあった。なぜかはわからないけど、僕の周りには大好物のほうれん草しかないのだ。どれだけ食べていても、あのいじめっ子たちはやってこない。それどころか、ここには僕以外誰もいない感じだった。だから、誰に怯えることなく、食べることだけに集中できた。今までの生活を考えると、ここはまさに楽園なのだ。
 でもただ一つ、ここには欠点がある。空がないことだ。楽園にきてから、結構な時間が過ぎたと思うんだけど、一向に太陽は姿を見せない。それどころか雲も星も月もない。たぶん神様が、空と引き換えに、一生分のほうれん草を与えてくれたんだと思う。空を失ったのはかなり寂しいことだけど、ほうれん草と引き換えならそれも許せる。今まで苦しい思いをしてきた分、精一杯幸せに暮らしてやる。
 ん?あれ?上から光が……。ああ、楽園にも空があったんだ。神様はちゃんと、空も与えてくれたんだ。楽園に朝が来る。僕はここで、一生幸せに暮らすんだ。

 「きゃあっ!」
 驚いた拍子に、アルバイトはほうれん草を床に叩きつけた。
 「どうした?」
 青果の店主は、アルバイトの行動に怪訝な顔をする。
 「もう、またこの業者の、ほうれん草に虫がついてた。ああ、こんなに食べられて……。これじゃあ売り物にならないじゃない」
 「本当だ。仕方ないな。近所の小学校で飼われてる、ニワトリの餌にでもしてやれ」





エントリ17  『人形世界』     橘内 潤


「ご主人さま、紅茶をお持ちしましタ」
 アンティークドールが紅茶の用意を携えてくる。
 ネル博士(博士といっても髭はないし、まだ二十代)はリクライニングチェアから身を起こして、笑顔を向ける。
「ありがとう、アンティーク」
「これがワタクシの仕事ですかラ」
 アンティークは人形だから、表情はかわらない。だけど創造主であるネル博士は、彼女が照れているのだとわかる。
「じゃあ、いつもお仕事を立派に勤めてくれて、ありがとう」
「……恐縮でス、ご主人さま」
 寝椅子の横のサイドテーブルに盆をおき、紅茶を淹れるアンティーク。
 ネル博士はその手馴れた動作を眺めながら、思いだしたように口をひらく。
「そういえば、ニューモデルの様子はどうだった? まだ調子が悪そうだったかい?」
 淹れたての紅茶に手をのばすネル博士。カップを寄せて、やわらかな湯気で鼻腔を満たす。
「……アンティーク?」
「はい、順調に回復していると思われまス。ニューモデルの回路は複雑すぎてワタクシには理解しかねますガ、深刻な機能欠損はないように判断されまス、ご主人さま」
 いつになく機械的な返答。まるでコンピューターの電子合成音。
 ネル博士は香りよい紅茶を一口すすり、手のかかる娘を見るような目をアンティークに向ける。
「アンティーク、きみはニューモデルが嫌いかい? 彼女はきみの妹なんだから、もう少し優しくしてやってくれ。頼むよ」
「はい、ご主人さま。ですが、ワタクシは十七世代前のモデルでス。ニューモデルに使用されている回路がワタクシの理解できる範疇を逸脱しているのは事実でス。ですから、“もう少し優しく”というニュアンスをニューモデルに対してどのように適用すべきかを決定するための観察時間をもうしばらく猶予していただけることをご諒承いただけますでしょうカ」
「……はいはい、諒承しますよ。しますってば」
 本当は諸手を上げて降参のポーズをしたっかけど、紅茶をこぼすといけないので、首を竦めるだけにしておく。
「ありがとうございまス、ご主人さま」
 アンティークは完璧な角度で腰を折り、お辞儀した。

 ネル博士が第一号のアンドロイド「アンティークドール」を開発したのが百年前。その後もネル博士の研究はつづき、最新型の「ニューモデル」で十七世代になる。
 十一世代が完成した頃に、人類はネル博士ひとりを残して滅亡した。
 不死病に冒されたネル博士は、アンドロイドを創りつづける。





エントリ18  心臓     越冬こあら


「……尚、この一件に付き、警察、外科医、家族を含め一切他言無用の事」手紙はそこで終わり、血判が押されていた。
 十月最後の日曜日、昼食後の長い昼寝から覚めると、西日差す部屋の片隅に便箋が届いていた。差出人は私の心臓だった。
 彼は私が彼の望みを叶えなければ、その運動を停止すると脅迫してきたわけだった。心臓が私の意識を蔑ろにして、手紙を書いたり出来るのか甚だ疑問であった。
 他にも様々な疑問が湧き上がり、私はしばし考察したが、専門知識の欠落が解決の道を阻んでいた。しかし、専門家への連絡は禁じられていたので、私は疑問を棚上げし、彼の望みを叶える方に取り掛かった。彼の望みは「ドキドキしたい」というシンプルなものだった。
 文面では、ドキドキの後にハートマークが添えられており、つまりそういった類のドキドキであることを示唆していた。期限は十月末だった。

 家族に見つからないよう手紙を隠した後、夕食を済ませて、つまらないテレビにしばらく付き合ってから、ベッドに入ったが、昼寝の所為でなかなか寝付けず、闇の中でイライラと文面を反芻し続けた。
「出来るものならやってみやがれ」悶々とした思考に疲れ果てた私が、思わずもらした叫びに答えて、心臓はしばらく停止してみせ、私は死にそうに苦しんだ。彼は本気だ。

 翌朝、一睡もしていない重たい頭を抱えて、仕事に出掛けた。
「ドキドキ」ぐらい、四、五日あれば、何とかなると思っていたが、三十代後半既婚男性の胸はそう簡単にときめかず、社会通念に縛られた身は、違法な行為や風俗に走ることもできず、日々は無為に過ぎていった。

 そして、十月最後の日、私は聴診器を買った。

 午後十一時過ぎ、私は胸に聴診器をあて、自身の心臓との意思疎通を試みた。
 しかし、私は直ぐに彼の規則正しい鼓動に魅せられてしまった。それは、深海のように音の無い体内の隅々にまで、力強く、神々しく響いた。私は心臓の孤独な偉業に思いを馳せ、私の為に休み無く動きつづける器官をいとおしく感じ、彼の小さな望みすら叶えられない自分を恥じた。

 午前零時キッカリに心臓は停止した。

 最初のうちは、寝ている間に家族に埋葬されかけたりもしたが、そのうち周りも慣れて、心停止後の生活は、思ったほど窮屈なものではなかった。彼も心得たもので、要所要所では少し動いてくれた。そして、私は彼と私自身のために、ハートマークのドキドキを探し続けている。





エントリ19  お供え物噺     もふのすけ


 昔々あるところに、おじいさんとおばあさんが埋まっていました。その隣にお坊さんが住んでいました。お坊さんは毎日毎日おじいさんとおばあさんのお墓を掃除していました。
 あるときお坊さんの家の隣に若く美しい娘さんが越してきました。しばらくして娘さんは引越しの挨拶にきました。
「隣に越して参りました菊と申します」
 そうして菊はお坊さんの家に度々訪ねてきては、お坊さんの手伝いをするようになり、お坊さんも菊が来るのをそれはそれは楽しみにしていました。
「菊さんや、今日はお水を汲んできてくれるかい」
「はい。では下の川まで行って参ります」
 菊はまるで通いなれた道のようにどこでも歩いていきました。お坊さんは不思議に思いましたが、大して気にもとめずいつも後ろ姿を見送るのでした。
 そんなある日、いつもは何も言わず手伝っていた菊がめずらしくこう言いました。
「お坊さま。この蓮華よりもこちらの菜花のほうがきれいに咲いております。こちらのほうをお供えしてはどうでしょう」
「おぉ、そうじゃな。そうしよう」
 お坊さんはそれもそうだと、菜花を摘みました。
 そして次の日菊はまたこう言いました。
「お坊さま。どうせお供えするのなら、お水よりお茶など置いてみてはいかがでしょう」
 このころお茶はまだ高価な物だったので、お坊さんはすこしおしい気がしましたが、菊が言うことももっともだとお茶をお供えしました。
 そして菊の言うままにお供えしていると、一月もたつ頃には、もともとすくなかったお坊さんの持ち物はすべてお墓に供えてしまいました。
 お坊さんは菊の顔も見ずにこう言います。
「菊さんの言うとおりお供えしていたら見てごらん。このとおりだ」
「そうですね。なにもかも置いてしまって、もうお墓も見えないほどのようす。あとはたった一つしかございません」
「あと一つ?まだなにか置くものがあるというのかい」
「ええ、ございますとも。お坊さま。あなたさまを」
 お坊さんは自分の震えだすのがわかりましたが、菊の真白な顔を見たとたんに動けなくなっていました。
「そ、その顔は、その顔はわしが埋めたっ」
 とたんに年老いた菊は顔も割れよとばかりに笑いだし、地面には黒い墓穴が奈落のように口を開き
「今度はあなたさまが埋まる番」
 と、老婆はかつかつと笑いました。
「いえ。あなたさまはもうそこに」
 指さした墓穴に埋まっていたおじいさんは、お坊さんの顔をしていましたとさ。





エントリ20  三日月     犬宮シキ


 白菊の茎の断面は傷の様に青く、彼はその滴るような色を唇に銜えて離さない。細い花弁がゆらゆらと、彼が息をする度に動くのを少年は特に何も思わずに見ていた。
「良いことを教えてあげるから」
と、彼はそこらに散らばる紙をすっと裏返し、テーブルの上に置く。なんだかそれは便箋のようで、確かに言葉が書かれた気配も在ったのだけど、彼は躊躇なくサインペンを走らせた。
「これは、」
恋、と書いてその上の部分を指す。言葉を口にする度に揺れる白菊。
「こころ、という意味なんだよ」
少年はなんにも言えなくてただ彼の指先を見ている。肉の気配のある薄い爪のしたをぼうっと見ている。伸びた爪先の細い白は菊の花弁によく似ていた、何かが咽に引っかかっている気がして咳き込んでみる。花弁か、爪の欠片か。解らないけれど白々した。
嗚呼、私の咽に引っかかっているのは三日月じゃないのかしら。そう少年はぼんやり考えた。いつか、そっと食べてしまった、三日月が咽の粘膜をそっと貫いて居るんだ。それは話せば彼の心にだって響くだろう良い発想で。
 今度は、戀。と書く。
「これはねえ、いとしいとしと言う心と読めるね。」
俯いてしまって、顔が見えないものだから、彼の真意が判らない。私は鈍いのだから、少年はそう考える。きちんと言って貰わなくては、困る。目の端、散らかった畳の上の封筒に気付く、屹度先刻の手紙はあの白い中に入ってやって来たのだ。
「ココロにココロを積み重ねるよりいいやり方を、確かに私達は知っていたはず、なんだけど」
ポツリ、彼は言った。
「駄目になっちゃた」
「駄目になるのは厭ですか」
「厭ではない、厭ではないのだけど」
つらいのだよ、と彼は言いかけた言葉を呑み込む。
「貴方らしくもない、感傷的になっていますね」
言って少年は手元の急須を傾けた。白湯か茶か、ぎりぎりのところで出涸らしを注ぎ、自分の方に引き寄せる。彼は煙草を胸のポケットから取り出し、マッチをする。そして流れるような動作で菊を少年の湯飲みに突っ込んだ。時代遅れだ、少年はそう思う。彼ほど、感傷的な人間は珍しいというのも解っていた。そして少年自身も多分、アンティークの部類に入るべき人間だと言うことも。彼は彼で、煙草を喫う自分の習慣に感謝をする。大人で良かったという訳だ、そんなことしか時間を潰す術を知らない。
 心に心を重ねるように時間に時間を重ねている。菊はもう揺れず薄い茶に半ば浸かって居た。





エントリ21  もっと簡単な方法があるはずだとは思うけれど     第1素描室


 君の夢は観ない。

 いつもそうだ。僕は恋をしている人の顔が思い出せない。だから夢も観られない。朝、目覚めて、今日も同じ人を好きでいることに欠かさず絶望する。

 だらしなく着替えて、あわてて自転車に乗る。バイト先までは15分。

 テンポを上げながらペダルを漕ぐ。そして丁寧に記憶を辿っていってみる。やせぎみの、鼻が高くて、まつげの長い、つくりもののような君の顔を思い出そうとしてみる。僕のイメージは思い入れが強すぎるのだと思う。どうしても、いっぺんで綺麗な君が現れてはくれない。
 できるだけさりげなく、さらっと、はずみのように思い出せばいいのだ。他の人を思い描き、テンポが出たところでポンと出してみたらいい。昨日ご飯を食べた友人。しばらく会っていない叔母の顔。いつも同じのコンビニの店員。いいぞ、そうだ。そして君の顔。

 やはり、うまくいかない。

 もしも。このまま一生会えなかったら、顔も一生思い出せないままなんだろうか。こうして思い出せないでいるうちに、いつしか本当に忘れてしまって、本人に会った時ですら気付かずに通り過ぎてしまうんじゃなかろうか。


 息があがってくる。バイト先までは15分。途中に大きな坂がある。

 もしも。このまま一生会えなかったら。

 僕は自転車を切り返す。上りが苦しいほど、下りは楽になる。エネルギー保存の法則だ。留められたエネルギーは一息に坂を下る。僕は、君に会いたい。駅までは8分。君の住む町までは1時間。バイトは今日はやめておく。

 ぴったり1時間と8分後、僕は通いなれない町に着く。君の居場所は住所しか知らない。電車の中で、何度も顔を思い出そうとしているけれど、君のイメージは一向に僕には降りてこない。僕の思考には何か欠陥があるのかも知れない。でも、君でなくとも、前の人も、その前の時も、恋をした人の顔は、僕は思い出せない。

 早く、本当に忘れてしまう前に、僕は君に会いたい。前の人でも、その前の人でもなく、君に会いたい。

 家に着いて、チャイムのボタンを押す。しかし押した瞬間に気付いた。どんな言い訳で、久しぶりの彼女に会えばいいのだろう。ドアの向こうから気配が近付く。スリッパの音だけで、彼女とわかる。チャイムの音は鳴りやまない。

 ドアが開いた。ああ間違いなくそうだ、この顔だ。


 「思い入れが強すぎるのよ」

 彼女は笑った。そういえば鳴り続けるチャイムは、うちの目覚ましの音と同じだ。





エントリ22  スクリーマーズ     るるるぶ☆どっぐちゃん


 いつか線を真っ直ぐ引こうと思っている。その為の定規だってもう買ってある。透明だから、覗くと向こう側が見える。これであたしは、いつか線を真っ直ぐ引こうと思っている。
 しかしだ。やっぱり女の子は可愛いね。この前デパートの屋上に上った際、無人のソフトクリームハウスを見つけたので入り込んで、そこで産まれて初めてソフトクリームを作ってみたのだけど、ソフトクリーム作りはなかなか難しく、気に入った物が出来るまで相当数の失敗作が出来てしまい、だからそれらをどうしようかとソフトクリーム舐めながら考えて、で、まあ地上へ投げてみることにしたんだけど、なんていうか、野郎は駄目だね。折角ソフトクリームが空からどんどん降ってきているのにみっともなく避けたりなんだりで。ダッサイスーツなんていくら汚れたって良いじゃないか。そこへいくと女の子は良いね。器用に空中でキャッチして、片っ端からソフトクリーム食べる食べる。あたしに手まで振っている。可愛い。あたしは手を振り返す。やっぱり女の子は可愛い。
「これで、良いですか?」
 目の前では女の子が一人、壁に手を付いてあたしにお尻を向けている。
「駄目よ。パンツもちゃんと脱いで」
「パンツも?」
「パンツも」
「解りました」
 彼女は恥ずかしそうにパンツを脱ぐ。脱いだパンツをどうして良いのか解らないようで暫くぼうっとしていたが、彼女はそれを丸めてポケットへ押し込んだ。
「名前は、なんだっけ?」
 彼女は再び壁に手を付く。今日初めて出会い、あたしは彼女を家へ連れてきた。そして早速、彼女はカップを床へ落として割ってしまった。
 あたしは罰を与えなければならない。
「サラ」
「そう。サラ、これはお仕置きよ」
 彼女は黒人と日本人のハーフだろうか、色がうっすらと黒く、可愛かった。あたしは定規を振るう。
 ぱちん。
「ごめんなさい」
「もうしない?」
「もうしません」
 ぱちん。
「もうしません」
 女の子は可愛い。うっとりと目を閉じている。あたしも目を閉じる。ぱちん。空気が震える。お尻に真っ直ぐな定規の跡が残る。ぱちん。ぱちん。
「もうしない?」
「もう、しません」
「そう。じゃあソフトクリームでも食べに行きましょう」
「うん」
 皆でソフトクリームを食べに行く。あたしは女の子達を引き連れて複雑に入り組んだ道を歩く。途中、葬式の列とすれ違う。あたし達は会釈をする。ソフトクリーム屋は、真っ直ぐな坂を上った先にある。





エントリ23  胎内     日向さち


 寝る前に部屋の電気を消したときの、安心感が好きだ。
 何も気にしなくていい。布団にくるまれて、ただ目を閉じていれば自然と眠りに包まれ、遠くから光が近づいてくる。胎内に宿る命のように、暗がりを抜けるのを待っているのだ。
 夜になってから、雨が降り出した。寒いとはいえ、まだ十一月だから雪へと変わるなんてことはないだろう。山の上は白く染まるかもしれないが、少なくとも、ここでは。
 風はほとんどなく、自動車が通る音にかき消される程度の雨音は、母親の中で絶えず聞こえる、血液の循環する音に似ている。いつか、テレビで流れていたのを聞いたことがあった。
 昼間のうちに陽を充分に浴びた毛布の、首に触れるのが心地良い。
 布団に身を委ねているだけなのに、いつのまにか、体が浮き上がっているような気がしてくる。眠気が溜まった体が熱を帯び、感覚が、夢うつつの狭間で行ったり来たりしているのだ。
 羊水の中では、音でしか外界を知ることができなかった。けれど、どれが母親の声であるかは分かっていた。それを、自分の一部のように感じ、聞こえているときは良い気分がしたものだ。感情が分化していなかったので詳しい言葉で表現できないが、今、私が持っている感覚に当てはめると、安心、というのが近いだろう。人生の中で、最も満たされた安心を持って生きていた時間。
 ふと気がつくと、心のざらつきが消え去っている。空気や雨に溶かされて、次第に地面へ染み込んでいくかのように、体から抜けていくのだ。胎盤を通じて送り出されていくみたいに、どこか、自分の知らない所まで、生きるということの摂理に従って届けられ、そして、やがては浄化される。
 時間の流れは、一方向とは限らない。記憶を反芻すれば、壊れかけた時間が体の中を通っていく。もちろん、胎内での記憶は残っていないが、戻ることだってできそうな気がするのだ。
 夢の中で、もう一度、胎内に収まる。意図せずとも、いつのまにか収まっている。
 狭い、という感覚はない。広い所を知らないせいだろうが、動くことに差し支えないから、苦にはならずに済む。産み落とされた後の所在なさと比べたら、ずっといい。
 羊水に浮かんでいるのに、抱かれているような感覚がある。母胎が赤ん坊を包み込み、守ろうとしているのだ。膜を通して伝わってくる血液の流れによって、意思まで感じ取ることができるような気さえする。
 人生の始まりは、そんな夜だ。





エントリ24  笑えないジョーク     立花聡


 ある晩、おれは町外れのバーに入った。えらく美人な若いママが一人でやっていることを聞き付けたからだ。
 カウンターが五席あるだけの小さなバー。人一人がやっと立てる位のステージ。そして店の半分を占めているかと言う程、酒瓶が壁一面に置かれていた。ママはその様々な酒を背中に回し、煙草を吹かしていた。
「いらっしゃい」
 ママの気怠そうな声がおれを迎える。一目見た瞬間に、確かにこの女だと思った。そして、女を落とし始めた。
「何にする?」
「水割り。それとつまみを適当に」
 ママは黙って水割りを差し出した。店には客はおれしかいない。おれは思いきって話を切り出した。
「前にあったことない」お決まりの文句だ。
「ないわ」
「いや、あるよ。昨日の夢にママが出てきた」
「あらそう。でも私はあんたに会ったことはないわ。それと口説くならもっと別の言い方あるんじゃない」
 ママはつまみを差し出すと、目を細めておれを見た。
「あんた、私を口説きたいんなら、面白い話をして頂戴。そしたら、今晩の行く先を一緒に考えてあげてもいいわ」
「予言するよ、ママ。ママは三十分後には店を閉めて、僕とどこかに行きたくなる」
「おもしろいじゃない。じゃあ、三十分あげる。私を落として見せてよ」
 おれは水割りを一息で飲み干すと、話し始めた。
「編集者の男と売れないカメラマンの女が喧嘩をした。男はいきり立ったものを見せつけながら、女に迫っていったんだ。女は男を払い除けた。そしたら男が言った。『お前の写真を載せてやってもいいんだぜ、おれの上に乗ってくれたらな』女は笑いながら『私、小モノには興味ないの。それにどうせ小物ならこれくらい固くなくちゃ』そういうと、手元にあった目覚まし時計を叩いたんだ」
 おれは煙草に火をつけ、続けた。
「そうして立ち去ろうとした女を、男は強引に女の腕を掴んで『おれの時計も油をさせば、固くなるんだぜ』そういうと女の顔に股間を押し…」
「全然、面白くないわ」ママが口を挟んだ。
「ジョークにもなっちゃいない」
「まだ分からないのかい。女はあんただろ。知ってるかい、とっておきの落ちがあるんだ。時計は実はカメラだったんだと。編集者は趣味も最悪の盗撮マニアだったんだ。そこにはばっちりあんたがネクタイで首を絞める姿が映ってたよ」
「あなたセンスないのね。でも今夜は冷え込むみたい、たまには二人で帰るのも悪くないわ」
 そう言うと、ママはコートを手にした。





エントリ25  日本課長の会     カピバラ


「あの、ちょっとすいません」
人材バンクの面接に向かう途中、妙に腰の低い初老の男に声をかけられた。無視して行こうとしたが、
「あなたは八島昭夫さんでしょう? 明星水産ちくわ課長の」
と言われ、思わず立ち止まった。
「なんだね君は」
「わたくし、こういう者です」
渡された名刺には、<日本課長の会 関東支部役員 河村正造>と記されている。
「少々お話をしたいのですが、お時間よろしいですか?」
「まあ、少しならいいだろう」
約束の時刻が迫っているが、自分の素性を知るこの男をこのままにはできない。男はにこやかに話し始めた。
「当会では、課長の保護活動を行っています。今、日本の課長は、スーパーバイザーやグループリーダーなどの外来種に駆逐され、絶滅の危機に瀕しているのです。これまでも、課長職を残している会社に対して保護を訴えてきました。しかし課長の数は減る一方です。そこで私たちは、組織ではなく、課長ご本人の協力が必要だという結論に達しました」
男は、鞄から薄いベルトのような物を取り出した。
「これは標識です。ICチップが取り付けられて――」
「ちょっと待て。私にそれをつけろと言うのか」
「そうです。これで課長の正確な分布と行動範囲を把握し――」
「そんな物をつける気はないぞ」
「もちろんタダとは申しません」
「金か」
「いいえ、あなたが課長でいられるよう保護します。標識をつけていただければ、定年まで課長職を保証いたします」
「つまり、それ以上昇進しないわけか」
「そうです」
そんなのはゴメンだ、と言おうとしたとき、男は低い声で囁いた。
「昇進が無いかわりに、クビにもなりませんよ。会社が潰れることもありません。保護活動を進めるうちに、政財界の要人にコネが効くようになりまして。信じていただけないかもしれませんが、我々には十分な保護施策があるのです」
時計を見ると、面接時間ギリギリだった。少し考えた末、面接は反故にして、標識をつけることにした。要は失業を免れればよいのだから、楽なほうがいい。
「ありがとうございます。では、右足を出していただけますか」
男は私の足元にかがむと、標識ベルトを点検し始めた。
「ところで、課長を保護してどんなメリットがあるのかね」
「知らない方がいいですよ」
突然、男の顔が暗く険しい表情に変わった。まさか何かよくない謀略に巻き込まれたのか、とゾクリとしたが、鋭く光る男の目には逆らえなかった。
 私は足を差し出した。





エントリ26  俯瞰鏡     伊勢 湊


もともと姉さんのことがあまり好きではなかった。それが劣等感だということ分かっている。それは警視庁の心理分析官にまでなった今でも消えることはい。
宇田川町の雑居ビルの地下一階。『占いの館ミラー・オブ・フェイト』姉さんの店だ。運命の鏡、という名の通り、お客の前にマジックミラーになっている大きな鏡を置いて話をする。「より素直に反応するのよ」と姉さんは言う。
「久しぶりね」
 姉さんは振り返ることもなくお茶を煎れながら言った。
「相変わらずね」
「そう?」
 振り返り、微笑む。お盆には湯飲み二つに急須がのっている。
「どう最近?」
「やあねえ、仕事の話で来たんでしょう? ほら午後になるとお客さん増えるし挨拶は抜きでいいのよ」
 笑って見せたかったが出来そうになかった。仕方なく本題に入った。
「ニュースにもなってるわよね。連続幼児行方不明事件」
「目撃者がいないってやつね」
「動機が分からないの。身代金の要求はない。子供が欲しい誰かの犯行としても同じ手口で四人もいなくなっている」
「嫌な世の中よね」
 私は黙って姉さんの続きを待った。
「戦時中でもないのに」
「全員死んだってこと?」
「確か全部の奥さんがマンションや公団住まいの専業主婦だったわよね」
「そう。親とは同居してない」
「遺体は見付からない」
「そう、連れ出せば泣くだろうしリスクは大きい。でも小さいだけあって処理は難しくない」
「特に人数がいればね。そして四人は直接全員お互いを知りはしないけど、友達の友達として繋がってはいる」
「そう、そうなの。でも…」
「そう思いたくはないけどね、人の心理に基準はないのよ」
「どうして姉さんは会ったことのない人たちの心理までそんなに明白に分かるの?」
「何いってんのよ」
 姉さんは優しく笑った。
「分かるはずないじゃない。私は占い師よ。私が分かるのは目の前にいる人、つまりあなたのことだけ。あなたは本当は分かっているんでしょう? でも川の中にいる魚には川の形は見えないもの。だからちょっとあなたの目になってあげただけ。鳥の目にね」
 
 三日後、リストアップしていた主婦の一人のマンションに子供が行方不明になっている四人が集まったところに警官が踏み込んだ。風呂場に硫酸が用意されていたという。
 姉さんの最後の言葉は私を気遣ってのものだったのだろうか? 私もいつか鳥の目を持つことはできるだろうか? 
 小さい窓から見上げた空で、カラスが一つ鳴いた。








QBOOKS
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆作品の著作権は各作者に帰属します。掲載記事に関する編集編纂はQBOOKSのQ書房が優先します。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。
◆スタッフ/マニエリストQ・3104・厚篠孝介・三月・羽那沖権八・日向さち・蛮人S