第77回1000字小説バトル



エントリ作品作者文字数
01ムスボレル1000
02別れの曲小笠原寿夫1000
03総理、閃くごんぱち1000
04インプロビゼーションアナトー・シキソ1000
05頭上、注意とむOK1000
06ゴキブリ越冬こあら1000
07贈物ぼんより1000
08『冬の帰り道』橘内 潤714
 
 
 ■バトル結果発表
 ※投票受付は終了しました。

バトル開始後の訂正・修正は、掲載時に起きた問題を除いては基本的には受け付けません。







エントリ01  ムスボレル     荵


 彼はいつのまにか絡まってしまっていた。一人暮しの1Kで、狭いフローリングの隅、左手はDVDのリモコンを探して喘ぎ、右足はその手を越えてコンビニに走ろうとのたうつ。右手で床に置いた三頭火の詩集をめくり、左足でタバコに火をつけようとしている。首が反り返り、また激しく前のめりになったりして、ますます四肢がきつく絡んでいく。それでも彼は、トイレに行ったり、風呂に入ろうとしたり、彼女からの電話がかかってくるかもしれないと怯えたりして、肩の辺りや、膝の辺り、妙な肉の繊毛を伸ばしたりしている。そして、皮膚に貼りつく。
 そんな彼のクトゥルーの神々めいた姿は、他人には見えやしない。
 だから、彼自身も気づいていない。
 平井賢の着信メロディーが鳴る。
「おっ、もう起きてる!」
 彼女の声。
「起きてるよー。そっちこそ、ちゃんと寝られた?」
「あらー。やけに優しいじゃない?」
 弱みがある。彼自身が気づいていないところで。
「そりゃね」
「久しぶり」
 沈黙がある。嫌じゃない無空間。彼は何かがほどけていくように錯覚する。錯覚じゃないのだけど。
「…気持ち悪がらないで欲しいんだけど、実はもう家の前にいます」
 彼女の声。
「おお。そんなことしてくれるようになったんだ」
「へへっ」
 彼の歓喜の声は、しかし体の隅までは届かない。触手がきゅっ、と右足と左手を縛り上げる。
 彼は舌を伸ばして、インターフォンの受話器を取る。目玉を伸ばして、彼女の顔を確認。涙が出る。言葉は出ない。
「きったねー」
 言いながら、彼女は部屋に入ってきた。散乱する黒いゴミ袋を足で蹴ってどかす。やめろよ、と笑いながら、彼はこんがらがった体をゴロゴロと転がして、彼女を出迎えた。彼女は彼を見下ろして言う。
「動物園。行くの止めよう」
 彼は見上げて言う。
「何で?」
 彼女は彼の元唇のあったところにキスをした。
「やる気のないあなたが好き。どうしようもないあなたが好き。やるきのないあなたを好きなあたしが嫌い。だからあたしはあなたが嫌い。今は違うと思う」
「俺はやるきのない自分が嫌い。やる気のない自分が好きな君がでも好きだ。だから自分が嫌いだ。そうやって君のせいにする自分に君と付き合う資格はないと思う」
「じゃあ、やっぱり別れ話?」
「そうじゃないなら嬉しいのに」
「はっきりしようよ」
 事は進む。
「あたしが好きだと言ったら、あなたは好きか嫌いかの二択。何様なの」
「俺じゃない」








エントリ02  別れの曲     小笠原寿夫


前略
 日本海の荒波や冬の厳しさにはもう馴染みましたでしょうか。遠い地でのあなたのご活躍、大変、お慶び申し上げます。財産も地位も名誉も持たない私ですが、あなたへの感謝の思いと敬意の念は人並みではありません。あなたのことを信頼するからこそ、あなたに最後の思いを伝えたいと思い、古いパソコンを開きました。
 思えば、私は多くの人々の人生を犠牲にして、今まで生きてきたのだと思います。間接的にそれが行われた為、私の罪の意識は図らずとも軽く済みました。しかし、自らの命を絶つことは卑怯と思われようが、常にそのことを考えてきたのも事実です。気持ち悪いと思われるとは存じますが、私はあなたに惚れ込んでいます。もしも世知辛いこの世の中を変えてくれる人間が居るとしたら、それは、あなたのような存在ではないかとも思います。そう言うと、謙虚なあなたは、「俺にはそんな才能はない」というかも知れません。少なくとも一人の暗い性格の人間を抱腹絶倒させてくれたあなたに全てを託したいと言っては言い過ぎでしょうか。正直なところ不思議と死ぬのはそんなに怖くありません。むしろ晴れ晴れとした気持ちです。きっと私が居なくなる事によって、私を嫌う人たちが、少し胸を撫で下ろすことと、私の人生に綺麗にピリオドを打てることに多少、喜びを感じているからではないかと思います。
 部屋の散らかった押入れの中には、私が衝動買いした本が積まれています。途中で読むのをやめてしまった本もたくさんあります。ごちゃごちゃの小さく汚い書斎は、私の横着な性格を物語っているようにも思えます。多分、これを処分するのにも、私の屍を処分するのも、家族に迷惑がかかるでしょう。それはあなたには関係のない問題ですが、死んでも迷惑をかけるような男を出来れば、けなしまくって頂ければ幸いです。
 昔、あなたはパソコンのメールで、「化けて出るのも恥ずかしい死に方を挙げなさい」という問題を突きつけましたね。あの時は面白がって私も色んな答えを挙げましたが、ここまで言って、死ねなかったら何より恥ずかしいことだと今は思います。あなたが私に与えてくれたものは、数多くありますが、私があなたに残せるものはこの手紙以外何もありません。あなたが嫌がるのは目に見えているので、あなたの名前は敢えて公表しませんが、インターネット上とは言え、公の場で自分勝手な遺言を残すことをお許しください。
 悪友より






エントリ03  総理、閃く     ごんぱち


 叩き付けるようなフラッシュが、総理に浴びせられる。
「総理、アメリカ追随で戦争を開始するなんて、何を考えてるんですか!」
「平和憲法はどうなったんですか!」
「既に二万人の自衛軍人の命が、地球の裏側で失われてるんですよ!」
「直ちに撤退をという世論が、九〇パーセントを超えています!」
「反戦デモ隊への発砲は本当に軍人の独断だったんですか!」
「戦争したけりゃ、自分が行け!」
 記者たちのインタビューとも怒声とも付かぬ声の中、総理はマイクの前に立つ。
「静粛に!」
 だが、記者たちの声は止まない。
「責任問題だ!」
「国を滅ぼす気か!」
「子供たちの未来は?」
「静粛に」
 総理は逆に一段声を落とした。
「これ以上国民の代表たる私の指示に従わないようであれば、あなた方を反体制の暴徒と見なし、国家反逆罪の適用を考える」
 同時に、会見場を警備していた自衛軍人が、銃口を記者たちに向ける。
「無論、政府としては、そのような事態は望まない」
 記者たちは一瞬にして口をつぐんだ。
「この参戦は、憲法に違反しません」
 無表情な笑顔で総理は言い切る。
「もちろん、この戦争に参加し、我が国の為に粉骨砕身努力した自衛軍人の方々には、感謝と尊敬をもって、靖国神社に祀りたいと思っている」
「……総理」
 そろりそろりと記者の一人が手を挙げる。
「なんですか? 何でも訊いて下さい」
「あの、本当に、憲法に、反しないと、仰られるおつもりですか?」
「さっきもそう言いました」
 動かない笑みのまま、総理は記者を睨む。
「ですが、憲法にはいかなる武力をも所持しないと書かれていたと、思うのですが……」
「もう少し勉強して来て欲しいものですな」
 馬鹿にしたように、総理は笑い、歯切れ良く続ける。
「第九条は、『戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する』、とあるでしょう。これはつま――」
「はい、ですから、武力を永久」
 総理が目配せすると、銃声が鳴り響いた。
「私が喋っている途中でしょう」
 動かなくなった記者には視線も向けず、総理は記者たちに向かって微笑んだ。
「私はこの出兵は、米国への協調姿勢を示すデモンストレーションと位置付けています」
 自衛軍人たちが、記者たちのカメラを取り上げ、次々にメモリを抜いて行く。
「従って、自衛軍の武力行使は、紛争解決の為に何一つ役立たず、つまり、憲法には全く反するところがないのです」






エントリ04  インプロビゼーション     アナトー・シキソ


眠くて眠くてしょうがない。
何しろ徹夜明けだ。
それでもなんとかがんばって、キーボードを叩いて、スクリーンに文字を並べる。
こんな書き出しで始まるフィクションには、二通りの行き道がある。
一つは、眠いのを我慢してキーボード叩いているのが、作中の人物である道。
もう一つは、眠いのを我慢しているのが、作者自身である道。
俺としては、最初の方を進みたいが、現実は2番目の方だから仕方がない。
そこで俺は、俺の分身を作中に出現させる。
「どうだい、こんな感じの始まりは?」
すると作中の女が、たばこの煙を横に吹かして首を振る。
「ダメね。これじゃ、宿題の作文を夜中に泣きながらやってる子供よ」
「どの辺りが?」
「今、この全部が」
全くその通り。
泣きながらではなく、実際には鬼束ちひろを聴きながらだけど。
「だいたい、歌聴きながら、よく書けるわね」
「だいたい、歌聴きながら、書いてるよ、いつも」
と、書いてから、今この文章を書き出すまでに5分ほど経過している。
鬼束ちひろも次の歌を歌ってる。
作中の女は絶対に気付かない時間的跳躍だ。
が、俺がこう書くことで、その「跳躍」は取り消される。
作中の女にとって、時間的跳躍など初めからなかった。
以下、失われなかった5分ほどの時間だ。
「手巻きたばこ?」
「まあね」
俺は、たばこの葉を紙に乗せて、クルクルと巻き、火をつけ、一服する。
ゆっくり煙を吸ったり吐いたり。
いい気分になって、たばこを消す。
「すっかり目が覚めた。ニコチンの力は偉大だ」
「でも、それって、人間としてどうかしら?」
「いや、これこそが人間だよ」
などと言いながら、俺はキーボードを叩く。
『と、書いてから、今までに5分ほど経過している。』
『鬼束ちひろも次の歌を歌ってる。』
『作中の女は絶対に気付かない時間的跳躍だ。』
作中の女がスクリーンを覗き込む。
「この、『作中の女』って私のこと?」
「そうだよ」
調子が出てきた。
「本当に、今、このこれを書いてるのね?」
「最初にそう書いただろ?」
「やめなさいよ、くだらない」
作中の女には、この作品の面白さは、なかなか分からないだろう。
「言ってみれば、これは重層的非決定状態さ」
「ジューソーテキ?」
重層的非決定。漢字で読まなきゃ意味は分からんよ。
「へえ、漢字で読んでも分かんないけど」
作中の女が最後にくぎを刺す。
「どうでもいいけど、最後ちゃんとしてくれないと、私、イヤよ」
イヤも何も、字数が来たからこれで終わりだ。






エントリ05  頭上、注意     とむOK


 いい加減にしろと怒鳴って頭のてっぺんをこつんとやった。自由にさせてきた割には素直に育ったと思う我が娘が、思いのほか強く反発してきたので驚いたせいもある。週末のお出かけが流れたのは初めてではないのに、今夜はやけにしつこかった。ここでがつんといかねば、十を過ぎたらもっと難しくなるだろうと、久しぶりに父の権威を発揮した。学校に上がってからは拳骨などしたこともなく、娘も驚きと寂しさの混じった涙目で私を見上げ、無言で部屋に戻っていった。
 その翌朝のことだった。お父さんこぶができたと半泣きで突進してきた娘の頭を、そんなばかなと触ってみると、何と、鶉の卵くらいの白い突起がちょこんと生えている。
 痛みもないのですぐ直るだろうと高を括って、今日は寝てなさいと言い残し休日の職場へ一人向かった。帰ってみると玄関で、妻と娘が涙顔。こぶは二倍に伸びていた。
 近所の病院をまわったが、どの医者も頭をひねるばかり。あたしが悪い子だから鬼になっちゃうのね、お父さんゴメンナサイと診察室で泣く娘に、薬にしても効きすぎだと大変後悔した。
 学校を休ませ様子を見ること一週間、こぶは順調に伸び続けた。先端が蕾のように少し膨らんだ翌朝、その全貌がやっとわかった。
 道路標識だった。
 二十センチばかりの白い棒に、黄色い四角なプレートが打たれ、真ん中に黒々と描かれたマークは「!」。意味するところは「その他の危険」だ。
 娘は涙も枯れんばかりに泣いた。こんなアブナイ人みたいなのは嫌、まだ角の方がカッコ良かったと。どうにも慰めようがない。
 無力なままに迎えた月曜日。何やら達観したような表情で「学校へ行く」という娘に任せ、黙って送り出したが気が気ではなく、会社を休んで娘の帰りを待った。
 すると意外や、「ただいま!」と元気な声で帰ってきた。
「みんな前より私のお話聞いてくれるようになったよ」
 自由に育ててきたせいか、人と意見が違っても隠すということをしない。クラスでも少し浮いていたのだが、標識を見て先生も級友も娘の意見に注意を払うようになったらしい。
 話を聞いてもらえれば、自然と娘も話を聞く。娘は標識の立つ前よりずっと楽しそうに学校に通うようになった。
「ためたお小遣いで、お父さんにミッキーのハンカチ買ってあげたかったの。次のお休みには連れてってね」
 目頭をこっそり押さえて撫でた愛娘の小さな頭の上で、黄色い標識がぴょこんと揺れた。






エントリ06  ゴキブリ     越冬こあら


 期末試験が終わり、冬休みを待つばかりの第八中学二年C組、五時限「英語」。ロン毛のミス古澤が教科書を朗読しつつ教室内を闊歩する。窓越しに冬ざれた校庭。サッカーゴールと鉄棒。世界は白く、そしてゆっくりと暗転。

 うたた寝からさめると俺は虫になっていた。もちろんカフカの『変身』を気取ったわけだが、巨大な毒虫に変身するはずが、矮小なゴキブリだった。
 目の前の鉄柱は、さっきまで座っていた椅子の脚らしい。こうなって聞くと、ミス古澤の朗読はシャラシャラ響く雑音でしかないが、パンプスの足音は、恐怖を伴う重低音として、腹にこたえる。
 湧き上がる恐怖に耐えかね、とりあえず足音と反対の方向に走り出した。走る所作の肝要な部分は「触角のぶん回し」と「脚のさばき」だ。
 触角は長く、モーメントの関係で動かすのに相当な力を要す。その上、先端部分が極度に繊細なので、障害物との不要な接触を避けるよう、細心の注意が必要だ。
 ギザギザのついた脚は六本もあるので、筋肉とかスジの構造で放っておいても交互に動く仕組みになっているかと思ったら、一本一本意識的に動かさなければならず、集中力を要し、気が抜けない。
 鎧に包まれた体の操縦に慣れてくると、小さな脳に疑問が湧いてきた。
「何故、神様は俺を変身させたのか。課題図書『変身』を通読しなかったバチが当たったのか、何かの試練か。一体、この変身はいつまで続くのか」
 疑問は苦悩となり、背中の辺りが痒くなった。立ち止まり、深呼吸すると両翅が動いた。
「そうだ、翼があったのだ」
 俺は、羽ばたく存在に変身したことを改めて認識した。そして、神の御心を悟り、深く感謝した。空が呼んでいる。
「加速をつけなければ」
 初飛行に向かって、六本の足を思いっきりカシャカシャ動かし、勢いを得たところで翅を広げる。飛翔だ。
 バタバタバタバタ。
「キャーッ」
 気配に驚いた委員長の奇声が響き、反射的に振られた制服の右手が正面からぶつかってきた。瞬間、全身が凍りつき、あえなく墜落。ちょうど通りかかったミス古澤のパンプスがそこを直撃。グシャリと不気味な音がした。俺の腹から熱いものが流れ出す。激痛、そして昇天。阿鼻叫喚。

 ……教室には、血だらけの内蔵を露出した男子中学生の圧死体が放置され、傍らに加害者と見られる女性教師が、凶器と思われるパンプスを手に、茫然自失で佇んでいました。空を飛ぶことを夢描いていた少年は……。






エントリ07  贈物     ぼんより


「3日後にその小箱が少年の願いを叶えるじゃろう」
 夢か現か、真っ赤な服に白いふさふさの毛を携えたずんぐりとした老人が少年の枕もとに立っていました。そして一つの小さな小箱を少年に手渡しました……。

 少年はいつもひとりぼっちなのです。
 父親はすでになく、母親が生活を支えるため毎日馬車馬のように働く日々。朝早く仕事に出ては、日付が変わる頃の帰宅。一緒に遊んでくれる兄弟もおらず、一人で遊び、一人で夕飯をとって。わかっていてもその度に少年の黒い瞳は、深く沈鬱な翳りを増していくのでした。

 街に光の種がぽつぽつと出始め、白の天恵が空から舞い降りると、窓ガラス越しに幸福という絵のような、手をつないで道を行く母子の姿を、何人も何人も少年は見かけるようになりました。どの母も子も、ふわりとして優しそうなコートに身を包み、笑顔に溢れていました。
 少年はカーテンをぎゅっと握り締めながら
 お母さん……
 そう呟くのでした。

「ごめんね、お母さんずっと仕事なの。でもね、それもあなたのためなの、あなたにだけは貧しい思いをさせたくないの……」
 聖なる夜すら一緒に過ごせないことを知ったとき、少年は唇をかみ締め、深い夜の眠たい眼に必死に抗いながら、それでも気丈に笑顔を浮かべるのでした。ただただ母のために。
「立派ね……大好きよ」
 そうやって抱きしめてくれる母の温もりに少年は身を委ねました。今時間が止まればいいのに、と思う心の表情は決して出さずに。

 その日の夕食刻、少年は3日前の不思議な赤い老人のことを思い出し、小箱を手に取りました。
 願い事叶う小箱。
 少年は受け取った小箱を見つめながら、願い事は叶わないと思っていました。ほら、今日もまたいつもと変わらず独りだもの。この箱で何がどうなるの?
 少年はぼろぼろと冷たい水を流し始めました。ひとたび溢れてはとまらず、小箱を握り締めながら、とうとう我慢できずに叫びだしました。

――おかあさん!! そばにいて!!

 少年が叫ぶと、手に持っていた小箱の封がひとりでに解け、真っ白な光がすうっとどこかへ消えていきました。すると突然少年の目の前に一人の婦人が現れました。それは紛れもなく、少年の母親でした。
「あなたの声が聞こえてきたの……ごめんね、本当にごめんね」
 少年も母親も抱き合って温かい水を流し続けました。


 
 少年の願い事は叶いました。
 それは夢か現か幻か、誰も知る由はありません。






エントリ08  『冬の帰り道』     橘内 潤


 毎日が寒い。
 指先が悴んで、手袋をつけていても纏わりつく冷気を追い払うのには足りない。

「寒いね」
 ぼくは言う。
「知ってる」
 彼女は答える。素っ気ない返事だけれども、紅く色づいた頬が、彼女もやっぱり寒いのだと教えてくれる。
 ぼくはまた言う。
「こんな寒い日は、コタツに入ってお鍋を食べたいね」
「コタツと言ったら蜜柑でしょう」
「そうかな?」
「そうよ。コタツに蜜柑、お鍋にビール」
 彼女が話すと、真っ白い息がはっはっと零れて冷たい空に溶けていく。
「なに?」
「ううん、なんでもないよ」
 彼女の口元を見ていたら、怪訝そうな顔で睨まれた。
「……」
 見るのを止めたのに、まだ睨まれている。黙って睨まれていると、なんだか落ち着かない。
 彼女が言った。
「そんなもの欲しげに見なくても……いいよ」
 小声で言って目を閉じていた。紅い頬で目を瞑って、すこし顎を持ち上げていた。
 ぼくは頷くように唇を寄せて、かるく触れ合わせてみる。お互い、冷たい空気に晒されていたおかげで、かさかさ。おもわず、ちろっと舐めてみた。
「――!}
 彼女がばっと仰け反るから、ぼくも転びそうになってたたらを踏む。
「あぶないな、キスの最中に」
「ば、ばば――」
 ぼくが抗議しているというのに、彼女は顔を真赤にして「ばばば」としか言ってくれない。
「ばばば……なに?」
「ば――ばか」
 ぼくは、にっこり笑った。
「好きだよ」
 彼女は湯気が出そうなくらい真赤になった。可愛いな、と思う。
「……ばか」
「ねえ、身体、すこしは温まった?」
「ばか」
 買い物袋で小突かれた。でも楽しい。

 毎日が寒い。
 指先が悴んで、手袋をつけていても纏わりつく冷気を追い払うのには足りないから、ぼくと彼女は手をつなぐ。