スープに沈む馬鈴薯の如く
ごんぱち
確か、小松左京だったろうか。
少年の頃、自分を少しづつ食べて行く話を読んだ事があった。
あれは、食べてしまった部分を機械化して補っていたのだったな。
そんな事を、ふと、思い出した。
十二月十一日、午前二時七分。
交通事故だった。
こんな時代に、二秒間の脇見で人を死なせてしまう――その点において三百年前と何一つ進歩してない――道具に、私の身体は破壊された。
腕はちぎれ、砕けた大腿骨が皮膚から露出し、裂けた腹からはみ出した腸は、逃げようとする自動車のドアミラーに引っ掛かり、ズルズルと引きずり出された。路面に叩き付けられた頭蓋骨はばっくりと割れ、脳の七割がちぎれ飛び、対向車に踏まれてフォアグラのパテのように地面に塗りたくられた。身体を流れていた血は、側溝から流れ去り、しぶとい心臓はそれでもビクビクと動いていたらしい。
駆け付けた救急車は、私の身体を拾い上げ、手際よく瞬間冷凍庫に放り込む。時間との勝負、掴めそうな大きさの残っている部分以外はそのまま、残りは警察に処理を任せる。そして、サイレンを鳴らしつつも安全運転で、この中町総合病院に運び込まれた。
万能細胞で再生された脳は、残存した三割の脳細胞から記憶を最大限に引きずり出す。
人間の記憶はエピソードとして記録されている事が多い。複雑な情報がワンセットになっている。再生された脳細胞は、ここから私の記憶を『学習』し、あるべき働きをし始める。
僅か五年で、私の脳は再生を完了した。
そして。
身体も、再生した。
何だろう、これは。
今の、万能細胞と移植臓器と人工臓器の塊の借り物の身体。
そして、病院の一室のタイルばりの培養槽に沈む再生された自分の身体。
別に自我の曖昧さや、彼が自分で自分が彼で、という話ではない。
剰りに、物体だ。
物体にしか見えない。
ただの死体だ。
実物を見れば、感傷も湧くかと思ったが、自分の身体という実感が全くない。
もしも目の前でまた同じように破壊される事があったとしても、損得は別にすれば、私は痛ましい事故を茶の間で見る善良な視聴者程度の感傷しか抱かないのだろう。
脳の大半を機械化したせいで、人間が生命として認知出来なかったという話は、確か、手塚治虫だったろうか。
再生された肉体から逸らし、今の自分の腕をぎゅっと掴み、そして手を見る。
爪が伸びていた。
移植手術は明後日。
まあ、切らなくても、良いだろう。