靴下を二枚重ねてきたというのに、指先はかじかんでいる。冷たい板張りの床に、何枚ビニールを重ねたって大した意味はない。結局世の中は、なんでもかんでも恰好つけで出来ている。
「お手洗い行ってきます」
私の一歩いっぽに合わせて、ぺたんぺたんと音が響く。なんだか気恥ずかしくて、かじかんだ指先に必死で力を込め、スリッパよ・ひっつけひっつけと念じる。立体マスクで顔を隠し、お母さんから借りたダウンに背中にはホッカイロ。さながら受験生スタイルの私は猫背で廊下に出る。
廊下の突き当たりにあるトイレ。中には個室が二つ、今の時代にまだ和式かよと一人舌打ちをする。トイレという守られた私だけの世界、そこで一息付きたかっただけなのに、ここは座ることすら許してくれない。
かわりに私は、奥二重の瞳だけでた顔を鏡で確認する。今日も私はお父さん似です、残念ながら。
向かい合ったガラスと蛇口の低さが、ここが懐かしき学び舎だったことを思い出させる。
短い廊下。昔は端から端までとても長く感じて、全力疾走レーンだった。ダメと言われたからか、走ると怒られるからか、とにかくいつでも走りぬけていた。
ねえ先生。心の中で呟いてみたけれど、私には記憶に残る先生なんて居ない。ドラマの見すぎ、マンガの読みすぎ、それでも感傷に浸る権利ぐらい私にだってあるはずだ。
リレーの選手だった遥ちゃん、中学では写真部に入ったみたい。
ジャニーズ入るって言ってた達也は、今ラーメン屋のバイト。
おとなしかった南ちゃん、でき婚で二児の母って噂。
私はね、先生。とりあえず無難な大学出たよ。
「すいません、戻りました」
ならないように、すり足で持ち場へ戻る。勢いよく腰かけたパイプイスが、苦しそうな声をあげた。そんなこと関係ない、お前にはちゃんと役割があるじゃないか、ちきしょう。ぐいぐいと深く座り直し、二度余計になかしてやった。
右から左へと、まばらに流れる人々。おじさん、おじさん、おばさん、おじいさん、おばさん。
おばさんの後ろに、若い女の子。少し緊張しているような、戸惑いのような顔で私から紙を受けとる。前のおばさんはきっと母親なのだろう、一緒に進んでいく。
あの子はまだ夢見てるんだ。全員に与えられる幸福の量は平等だと思っている。金持ちも貧乏人も、若者も老人も、被災者も官僚も。
自分の力でもなにか変わるって。
「どうせ学会のやつらに勝てないよ」
いつも結局そう。
明日職安行きなきゃ。