たくさんのおばさんが集まって今日はおばさんIP句会が開かれた。
「I(私)P(豆)句会です。I(私)の事を尊重してP(豆)に、まあ「豆」と「まめに」では意味が違いますが、同じ音と言う事で私の事を大事にまめに、と言うコンセプトの句会です」
O 編み物をして居る完黙しています
「今日はこつごもりですが、「編み物をして居る」は私が編物をしている人を観察して、ああ編物をしているなあ、だから目を数えて居るから、私が話しかけても黙って居るなあと言う編物をしている人を私が観察した結果出来た句です」
(おばさん1)「そうですか、確かに今日はこつごもりですが、「編物をしている」では自分が、句作者が編物をしていると解釈できませんか?普通そう取るでしょう。俳句とは「私」の文学です。例えば男なのに妊娠して居るという風に詠むとおかしいでしょう?短詩形なんだから非力なんですよ。女の立場(あるいは自分とは違う立場)を創作したかったら、詩とか小説をおやりなさい」
(おばさん2)「それに「完黙しています」も自然にこの句作者が黙って居るとしか思えない。多少字余りになってもいいから「編物をしている他人(ひと)完黙しています」としなさい。中7が多少字余りだし句跨りになっていますが・・」
IP句会はこの様に進んで行く。忌憚のない意見が百出し、俳修行となる。ついでにP(豆)の豆にひっかけて、「短歌会」もやっている短歌の短の漢字が「豆」を含んでいるからだろう。
Oクレジット審査に再び落ちにけりジット出来ぬのは多動症かな
「クレジットにひっかけて、ジット出来ぬとうまく詠んで居る。しかしクレジット審査に落ちたという事と、多動症と言うのはうまくつながらない。人によっては何言っているのだかさっぱり分からないと言われて仕舞います。しかし俳句には二物衝撃と言う理論がありまして、全然別な句材を組み合わせることによって、ある種の「響き」を生じさせると言うのがあります。でもこれだって全然出鱈目にやるとただいい加減な印象しか受けない。「たんぽぽのぽぽのあたりが・・」と言う俳句と同じかどうかは分かりませんが、難しいところですな」
(おばさん1)「しかしこの人は実は12月29日に銭湯に行ってきたのではないですが。「多動症」と言うのはそこのところを巧みに詠っているのだと思う」
おお、そんな事は知らなかった。分かるはずがないのだが偶にこう言う、不可思議な読まれ方をされてしまうことがある。
最後に会の中で一番好まれて居る春日井健の短歌を引用して終るとしよう
「緑素粒」 大空の斬首ののちの静もりか没(お)ちし日輪がのこすむらさき