しずやかにひとたり話す泉あり 雪人
●「流れの中で泉の湧く処がいいなあと思いました。涼しい風が吹いています」落花生
●「季語は『泉』ですが、『しずやかにひとたり話す』で意味的に切れて居るのでしょうね。で、ないと話すのが『泉』になって仕舞うので」石川順一
●「清らかです。見ていると文字が、流れていくように見えました」ふうりん
「句会での失態では無いですが、この私の評(石川順一の評)可笑しいですね。この句は単に「しずやかにひとたり話す事の出来る場所としての泉があった」と言うただそれだけの句です。私は「話すのが「泉」に成って仕舞うので」などと言って居ますが笑止千万ですね。モーツアルトの指が三本しか無かったとか言って居るナンセンス小説と同じですね。俳句は短詩形文学なのでね、省略が生じるのは当然です。素直な心で読めば簡単ですわな「しずやかでひとたり・・「ひとたり」の意味が若干分かりませんが一(ひと)足りと読んで一つだけで足りて居る様なささやかな満足、と取っておきましょう。しずやかにささやかな満足をもたらす様な話をする場所である泉が有った」とこう取れます。素直にとれば、そういう場所としての泉です。分かり切った事ですが短詩形文学なので「話す泉」を「話をする泉」と取って仕舞う可能性について言及して居ますがまさに笑止千万です。なのでこの句は意味的にも切れて居ないのですね。むしろ省略があるので。「話す場所としての泉」でしょう。こんな事は素直に普通に読めばわかる訳ですが、なかなか穿った取り方をして仕舞って居る。「話をする泉」とね。まあ有る意味個性的な解釈かもしれませんが、明らかに曲解です。「そういう話をした泉」「泉の付近でそういう話をした」と素直にとればいい訳ですが・・」
私は講演会で以上の様な話をしながら俳句に付いて深く考えさせられた。例えば私は兼題俳句協会に所属しているが、中々活動に身を入れて参加できていない現実がある。例えばこの前の句会でもまた「10点」を記録して仕舞ったが上には上が居るもので「100点」や「1000点」や「10000点」を記録して居る人も居る。どうしてそうなるかと言うと徹底的な身分制度によるもので、平会員の1ポイントは1点にしかならないが会長の1票は「50000点」とかに成っているからで、中々会長からの1票は入らないのだが入れば一挙に「50000点」、理事の1票も「5000点」とかで件の「10000点」のお人も理事から2票集めて「10000点」と相成ったわけだ。なので会長の1票で「50000点」とかね、もっと凄い1票も有って黒幕とか総帥の1票は「100000点」ですね。上に行けばいくほど投票が気まぐれでめったに貰えませんが、貰えれば赤飯を炊くほどですよ。