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1000字小説バトル

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1000字小説バトルstage3
第85回バトル 作品

参加作品一覧

(2016年 8月)
文字数
1
サヌキマオ
1000
2
小笠原寿夫
1000
3
ごんぱち
1000
4
宮本百合子
1000

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馬道diary
サヌキマオ

 宿題の日記には家の前の様子を書くことに決めた。コケキの家は雑貨屋で、家族七人で二階に住んでいる。家の前は広い通りで、朝から晩まで馬車や早馬が行き交っている。夏なので窓を開け放しておきたいが、道から巻き上げられた土埃が部屋の中に入ってくる。開けていいのは家の裏の窓だけだという約束がある。
 薄汚れた窓ガラス越しに路面を観察していると、荷を運ぶ馬車、人を運ぶ馬車、ひと一人乗せて急ぐ馬の三種類あることがわかる。三種類の中にもさらに分類があって、どこかの裕福な家が持っている馬車と、多くの労務者を乗せてのたのたと走る乗り合いの馬車がある。市場に向かうにも野菜を運ぶものと束ねた干物を積んだ馬車がある。
 と、様々な種類の馬が行き交う中で一つだけ共通していることは、いずれの馬も尻から放り出すものは同じだということであった。道に糞が落ちるたび、ちりとりやトングを持った町内のぢいさんやばあさんが駆け寄っては拾い集めている。単純に素早さだけがものを言う世界で、直接的な罵倒や衝突はないものの、ひっきりなしに路上に現れるひしゃげた塊を人より速く手に入れんと年寄りは走り回っていた。まもなく夕立と雷があったのでコケキは茶の間の隅に走っていって耳と目を塞いで踞った。
 八月二十四日は風の強い日だった、飢えた風がまきあげた砂粒から水を搾りだすような吹き方をしている。コケキの目の前、塵芥の中をたくさんの木箱を積んだ馬車が通りすぎようとしたところ、荒縄での緊縛をはずれて箱がひとつ路上に転げ出た。揃った大きさの箱の側面は格子になっていて、くすんだ色のとさかの鶏が一匹ずつ押し込まれている。箱は壊れることもなく転がってこちらへ向かって大きな音を立てる。階下に突っ込んだらしかった。居てもたってもいられず階段を降りると、確かに店先に件の木箱が転がり込んでいる。入口の引き戸が破れてガラスが飛び散っている。「こっちにくるんじゃないよ」と鋭い調子で母親に止められる。ガラスなんか踏んだら明日っから駆け回れないんだからね――小学校での八月の水泳教室も二十六日までである。せっかくの皆勤をここでフイにしてしまっては仕方ない。仕方なく母親がガラスを片付けているのを眺めていると祖母が帰ってきた。汗に塗れて、ちりとりに三つほど馬の糞を載せている。
 晩ご飯にたくさんの唐揚げが出た。とても美味しかった、とコケキはその日の日記に遺している。
馬道diary サヌキマオ

我輩は人である
小笠原寿夫

 我輩は人である。名前もある。機械というものは、大層不思議なものである。データを入力すれば、データが返ってくるし、それを組み立てる人その者が、プログラミングといったことを生業とするシステムエンジニアである。
 神が人間を創った様に、人間は、機械を作った。機械はカタカタと笑う。それは、人間が笑う作業に似ている。四方すれば、機械が考えるという技術は、人間が、考えなくて済む、といった結論に達しないだろうか。
 機械は、情報を食べて、生きる。
 それは、人間が、飯を食う作業に似ている。siriが何かを言っている。機械音に似たその音声は、人の耳に心地よい。先立って、桂米朝のロボットが作られたと聞いたから、また不思議な心持ちである。私は、そのロボットが、高座に据え置かれて、一席打ったとしても笑わないと思う。
 人は、間違える。それを人は笑う。対して、機械は、正確である。その正確さに、精度を見たところで、人は笑わない。少なくとも、私は笑わない。人は、人が転んだところを笑うのだ。
「最後は人間性やで。」
 ロボットのモデルにもなった桂米朝が、そう言っていたのだから、それは、そうなのだと、思うしかない。
 但し、例外はある。
 ロボットを作った人間の、技術者と呼ばれる人の情熱に、負けることは、あるのではないか。天才が、世の中を作ってきたように、その天才を凌駕する、ロボットが、人を笑わせる能力を持ち得るだろうか。
 答えは、NOである。
 機械が、ロボットが、人を笑わせるのではない。その向こう側にいる、人間を笑うのだ。吉本クリエイティブエイジェンシーという会社がある。ここは、本当に、データ勝負の会社である。大きなデータの集合体が、芸人と呼ばれる人たちの中に、息づいている。
 生身の人間を動かすのは、やはり、生身の人間だが、そこに機械を導入することで、笑いに変える。この情報量が、人を笑わせるである。
「データ飛んだ!」
それで、人は笑う。それは、機械の不具合を笑うのではなく、人のちょっとした失敗を笑うのだ。
 もう一度言う。我輩は、人である。2016年を生きる人である。恐らくは、生涯、人である。その間だけは、仮にも笑おうと思う。
 笑いは、百薬の長。だから、薬の草かんむりを取って、「楽」の文字が、天満天神繁盛亭には、掲げられている。
 機械を考えることは、人間を考える事。何故なら、人間は自分と似たものに興味を示すのだから。
我輩は人である 小笠原寿夫

かわいそうの殲滅
ごんぱち

「――それは可哀想だな」
 夫の忠志は、眉をほんの少し寄せた。
「でもお母さん、何度も肺炎で入院してるでしょ。誤嚥性の」
 昌枝は食卓の上に置いたメモに視線を落とす。病院で受けたインフォームド・コンセント時の内容が書かれている。
「胃瘻を作るのが一番負担が少ないって。先生もそう言ってたじゃない」
「それは分かったけど、人間ってほら、口からものを食べるのが当たり前じゃないか? それを脇腹に穴あけて流し込むなんて、もう人間じゃないっていうか」
 忠志はキッチンに行き、バナナを一本取って来る。
「人間の三大欲求の一つがダメになるなんて、可哀想だな」
 バナナを剥き、かじる。
「……じゃあどうすれば良いと思う?」
「どうって……作るしかないんだろ? 医者がそう言ってるんだから。そうじゃないとほら、あの保護責任者放棄いや遺棄、なんだっけ、そういう殺人罪になるんだろ?」
「延命治療をしないならそれはそれで良いって。でも、それだったら救急搬送にはもう応じられないって」
「それはさっき聞いたけど、でも、こう、やっぱり可哀想なんだよな」
 忠夫はまた椅子から立ち、バナナの皮をキッチンの流し台の三角コーナーに捨てた。

 ボトルに入れられた、薄オレンジの経腸栄養剤が滴下され、チューブを通って母のハルコの胃へと注がれていく。丁度、点滴台と似た形をしている。
「――可哀想」
 ベッドの傍らに座る昌枝は呟く。
 ハルコが退院して半月、顔色も表情も入院前より遙かに良い。出来かけていた床ずれも解消している。何より、むせ込み続けていた毎回の食事がなくなり、喉の奥で常に聞こえていた痰のゴロゴロという音がなくなった。
『可哀想だな』
『かわいそうね』
『管だらけなんて辛くてカワイソウ』
 昌枝の脳裏に夫や親戚、知人とのやり取りが浮かぶ。
「みーんな可哀想って……違うな」
 ハルコは昌枝を見て、そして何も答えない。
「お母さん、気づいてた? お医者さんも看護師さんも、ケアマネさんもヘルパーさんも、『こっち』の人たちは、誰も言わないんだよ」
 目にかかりそうになっているハルコの前髪を軽く掻き上げる。
「まずは」
 昌枝はボトルに触れる。開始時に温めた栄養剤はまだ熱を残している。
「ダンナの可哀想から、殲滅しないと」
 窓を大きく開く。
「ねえお母さん、これからはたまに、ダンナがこれやるから、テキトーに困らせてやって」
 流れ込んで来る風が、ハルコの前髪を揺らしていた。
かわいそうの殲滅 ごんぱち

見つくろい
今月のゲスト:宮本百合子

 たとえば半襟のようなものでも、みつくろって買って下さいね、とたのまれると、私たちは相当閉口する。自分が見てあのひとにはこれと思って選んだ色にしろ、果してその色を本人が好きと思うかどうかは不安であるし、見つくろって、と買物などをひとにたのむことは、相手を立てているようでその実は困りもののときが多い。
 菓子屋などへ電話をかけて、見つくろっていかほど、と云ったりしているのをきくと、やはり嬉しい気がしない。菓子屋の職人で、すこしは美味い菓子をつくっている自信のあるのがそんな注文をうけたりしたら、やっぱりまかせられたうれしさよりも、そういう大ざっぱな味いかたを幾らか腹立たしく感じそうに思われるけれど、どうかしら。
 いろいろ日本の生活の感情の細かいところにふれて考えてゆくと、ひとに判断の責任をゆだねたこの見つくろいが、案外様々のところに行われているのではないだろうかと思われる。媒酌ということが日本の結婚のしきたりでは単に紹介をする人というのとは異った役割をもっているし、その関係で娘さんは見つくろわれる側にまわることも微妙な作用である。西洋の女のひとは、見つくろって下さい、という感情を人生のいろんな局面でずっと少ししか持っていないような生活の姿である。
 この頃は不思議な世の中で、本屋が見つくろいの注文を受けた話をまたぎきした。或る本屋へ電話で、もしもしこちらはどこそこですが、本を四十円ほど届けて下さい、という若い女の声である。本屋は腑に落ちなくて、しかし四十円ほどという響もはっきり耳にしみたのだろう。承知しましたが、本はどんな種類のにしましょうか、とききかえした。すると、一寸お待ち下さいと引こんで、又電話口での返事は、わかりませんから何か見つくろって四十円ほど、と云うことであった。
 そこで本屋はあれこれを風呂敷につつんで行って見たところが、そこは新築したばかりの邸宅で、西洋間の応接室に堂々たる書架がついている。が、そこが空っぽで入れるものがないからという注文であったことが判明した。
 本屋は早速見つくろって幾通りかの本をその書架につめたら、金額は四十円を超過して二百円ばかりかかった。しかし、その新邸の主人は、これで大層立派になったと云ってよろこんだそうだ。
 本がよく売れるという昨今の文化のありようには、こんな見つくろいで買われる本もあるのだと、可笑しくて悲しい気がするのであった。