自己の価値
今月のゲスト:沼田笠峰
振りつづいた雨が止んで、眩しいほどの強い日光(ひかり)を見るようになりました。青々と生い茂った森の裏葉を返して吹く風の涼しさに、いよいよ夏の季節(シーズン)の音(おと)づれたことが知れます。涼子(すずこ)さん、あなたも晴れやかな気分で、足どり軽やかに校庭をさまようていらっしゃることでしょう。暫らくお音信(たより)を聞きませんが、いつかのお話はどうなりましたか。
この前に頂いたお手紙によって、あなたがK子さんの所へお出でになったことを知りました。K子さんとのお話の模様は、あの御手紙で目の前に見るように想像することが出来ました。而(そ)して私は、あなたのために陰ながら心を痛めて居ります。斯(こ)う申しますと、あなたは『何故(なぜ)?』と訝しくお思いになるでしょう、貴女(あなた)はK子さんの言葉を、殆んど皆正直に信じていらっしゃるようですから。
涼子さん、私は貴女の穏やかな心に、わざと石を投げ入れて波立たせようと思いません。けれども、貴女はこれから身を修めて行く上にも、さまざまの学芸を習うにも、今が一番大切な時です。もし貴女の心に、一寸でも緩みが出来たり、動揺(どよめき)が起こったりしますと、思いもそめぬ誘惑に見舞われはしないかと、私は人知れず心配して居ります。
もとより貴女は、柔らかな清い心をもっていらっしゃる。学科もよくお出来になる。従って、それだけ貴女は暗い陰や毒を包んだ言葉を御存じないのです。常に世間の美しい所ばかりを見て、人のいうことにすぐ乗せられてしまう。更に言い換えて見ますと、貴女は貴女の心に投げ入れられたことの善し悪しを考えて見る閑(ひま)もなく、それを丸呑みにするという欠点がありはしないでしょうか。先日のお手紙で見ますと、私は貴女がK子さんにおだてられていらっしゃるように思われてなりません。
涼子さん、人から褒められたり多くの望みをかけられたりする時には、誰しも悪い心もちはしないものです。けれどもその時、静かに退いて考えて見ることが必要なのではありますまいか、果たして自分はそんなに褒められるだけの価値があるだろうかと。
涼子さん、私は貴女がこれから行こうとしていらっしゃる新しい道について、貴女にしっかりと考えて頂きたい。K子さんでなくても、あなたを褒める人は世の中に沢山あります。ただ私一人は、そんなに貴女を褒めたくないのです。何故かと申しますと、貴女の将来に望む所が更に更に大きいからです。どうぞ涼子さん、私の申し上げたことを悪く取らずに、静かに考えて下さい。左様なら!