丁度試験が早くすんで退屈だったので、私は玄関の石段の中途にヨナのように蹲って考え込んでいた。と、ドアの隙間に吹き入る風にあふられながら、ゆらゆらと動いているものに目がとまった。死にかけたように力ない蝶がよろよろとあてどもなく歩いているのだった。背中に高く合せた羽根がゆれると、怪しい足下がぐらつく。見れば足が四つきりない。
『誰かに蹴飛されでもしたんだろうか』と思うと、今にもドアが開いて誰かが出て来て、重い靴の裏でグシャッと踏みつぶしてしまうのではないかと思われた。蝶は歩き初めの幼児のようによちよちと、今度は方向を定めたのであろうか、一直線に絶壁の方へザラザラした灰色の石の上を匍って来る。あぶなっかしくて仕方ないけれど、じっと耐えて見ていると、とうとう蝶は絶壁の上に立ち止った。前足が音もなくみるみる左右に分れて、蝶のおなかが石地につく程平べったくなった。羽が揺ぐ。今にも落ちそうだ。私はたまらなくなって閉じた羽根を一思いにつまみ上げた。生あるものの弾力が強く、気味悪く私の全身に伝った。私はふるえながら蝶のからだをひっくりかえしてみた。蝶は黒い毛の生えた足をしっかり体躯につけて、死んだように動かない。『死んだのかしら?』と思った。『いや、生まれたばかりなのだ!』と次の瞬間には叫んでいた。――足はちゃんと六つあるのに、一番前の一対はまだ伸す事が出来ないでからだにピッタリついたままだったので、蝶はたった四つの足で絶壁めがけてよちよち歩いていたのだった。
羽根の手触りに体中むずむずするので、私は大急ぎで校舎の中に駈け入った。でも蝶をかばいながら。気味悪い程静かな教室の前を通りすぎて、廊下のガラス戸を左に出ると、芽のふき始めた芝生一面にきららかな日光が流れていた。私は其処此処見回して後、陽を一面に受けた廊下の中窓の敷居にそっと蝶をのせてほっと息をついた。蝶さんは如何にも優長におったてた羽根を左右に開いた。赤い斑点が目覚めるように美しかった。蝶はゆったりと平べったくねそべって、思う様日光の暖かさに酔っているように見えた。玆で私はベルにうながされて次の試験の為に教室に入らねばならなくなった。
一時間の後私が大急ぎでもとの日なたに出て来た時にはもう蝶の影も見えなかった。私は若々しい蝶の初めての飛翔を思って心から喜んだ。しかしその裡で私は『私もあの蝶でありたかった』と囁いていた。
―― 一九一八、三、一九 ――