町の真理/貧乏人
今月のゲスト:小川未明
達者のうちは、せっせと働いてやっとその日を暮らし、病気になってからは、食うや食わずにいて、ついに、のたれ死にをしたあわれな男がありました。その死骸は犬ころの屍と同じく、草深い、野原の隅に埋められてしまった。そして、その人の一生は、終わってしまったのであるが、彼の霊魂だけは、どうしても浮ばれなかったのです。
「文明だという、にぎやかな世の中に生まれ出て、いったいどんな仕合を受けたろう? 生きている間は、世の中のために仕事をした。死んでも形だけの葬式一つしてもらえなかった……これでは、犬や猫と同じであって、冥土の門もくぐれないではないか?」
霊魂は、全く浮ばれなかったのです。立派な寺へ行って、お経をあげてもらい、丁寧に葬いをしてもらってから、冥土の旅に就こうと思いました。
うす曇った、風の寒い日の午後のこと、この貧乏人の霊魂は、棺屋の前をうろついていました。
「誰か、冥土の途づれにするものはないかな」と、人間を物色していたのです。
ここに、金持ちの老人がありました。何不足なく暮らしていました。ただ、もっと見たい、もっと知りたい、もっと味わいたいという欲望は、かずかぎりなくあったが、だんだん体力の衰えるのをどうすることもできませんでした。
寒い風の吹く中を、この老人は歩いて来ました。棺屋の前にさしかかって、ふと、その店先にあった棺や、花輪が目に触れると、
「あの中へ、誰か入るのだろうが、このおれも、いつか一度は、入らなければならぬ。ああ、そんなことを思っても、気が滅入って来る……」と、頭を振って、通り過ぎようとしました。
これを見た霊魂は、冷たい青い笑いをしました。そして、金持ちの背中へ、そっと、しがみつきました。
「おお寒い! 風邪を引いたかな」
金持ちの老人は、思わず身ぶるいをして、家へ急ぎました。
それから、十日ばかり経つと、金持ちは、風邪がもとで死んだのであります。
生きている間は、自動車に、乗ったことのない貧しい男の霊魂は、いま金色の自動車に乗せられて、冥土の旅をつづけました。またありがたいお経によって、すべての妄念から洗い浄められた。金持ちの霊魂は、平等、無差別の生れる前に立ち返って、二つの魂は仲よくうちとけていました。
「こうして途づれがあれば、十万億土の旅も、さびしいことはない」と、金持ちの霊魂が言えば、
「なぜ、娑婆にいるうちから、こうして、お友達にならなかったものか……」と、貧乏人の霊魂は、訝しく感じました。
あちらの空には、ちぎれ、ちぎれの雲が飛んで、青い水色の山が、地平線から、顔を出して微笑しています。秋雨の降った後の野原は、草も木も色づいて、鳥の声もきこえませんでした。
金色にかがやく、棺を載せた自動車は、ぬかるみの道をいくたびか、右に左におどりながら、火葬場の方へと走ったのです。