第1回1000字小説バトル
Entry10
地下鉄S駅の小さな構内は、夕方のラッシュ前で人影はまだそん なに多くはなかった。半年がかりで大口契約の受注内定にまでこぎ 着けた木南聡は、発車を報せるベルを聞いて必死で階段を駆け下り たが、無情にも彼の目の前でドアは閉じられてしまった。 会社で見積書を作成し直して、十九時迄に先方にFAXするには、 ぎりぎりの時間しか残っていない。 (次の電車まで、あと十二分) 熱いコーヒーが飲みたくなって自動販売機を探そうとした聡は、 ホームの中央でしゃがみ込んでいる、一人の女性に気が付いた。 歳は聡より少し若い二十代前半のようだが、顔色は青ざめ、黒の ロングコートは泥まみれで、エナメルのパンプスも片方しか履いて いない。 少しの間迷ったが、女の放心した様子に妹の事が思い出され、聡 は声をかけた。 「あの、どうかされたんですか?」 女は何も答えなかった。 聡はもう一度、声をかけた。やはり、反応はない。仕方なく聡は 女の肩に手をかけた。その途端、 「うるさいッ、あっちへ行け!」 女は金切り声を上げて聡の手を払い、立ち上がって彼の頬を打っ た。呆然とする聡を女は激しく睨み付ける。周囲からも非難の視線 を浴びて、いたたまれなくなった聡を救うかのように、彼の背後で 電車のドアが開いた。 吊り革を握る聡の手は、腹立たしさと哀しさで震えていた。しか し、それに溺れてこの半年間の苦労を無駄にする訳にもいかず、聡 は残った仕事の段取りを考え始めた。 おかげで見積書は時間までに間に合い、契約は本決まりになった。 課長と祝杯をあげ、ほろ酔い気分になった聡は地下鉄のホームで時 計を見た。最終便の時刻を過ぎたのに、まだ電車が来ない。不審に 思っていると、S駅での人身事故の発生がアナウンスされた。 (まさか) 翌日の夕方、聡はその場所に白百合の花束を供えようとしていた。 去年、男に騙されて自殺した、唯一人の肉親の百合子と彼女が同じ に思えてならなかったのだ。 暗澹として俯きながらホームに降りた聡の前に、何と、死んだと 思っていた彼女が、虚ろな目で立っていた。 百合子と同じように結婚詐欺ですべてを失った彼女は、せめて最 後に自分を気遣ってくれた聡に非礼を詫びてから死のうと、会える かどうかも分からないのに、ずっと彼を待ち続けていたのだ。 今は亡き妹が天から託した願い――彼女とこの世を結ぶたった一 本の糸となった聡は、白百合の香りでふわりと、彼女を包み込んだ。
![]()
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。