第1回1000字小説バトル
Entry7
いつもより五分遅く家を出た私は、パンプスを忙しく鳴らして駅 へと急ぐ。目覚し時計が布団に潜り込んでいたところを見ると、ど うやら私が時計を止めた犯人らしい。慌てて飛び出す私の格好を見 て、母はため息を付きながら、好きな男でもできればねぇと嘆くが、 私だって恋愛ぐらい人並みにこなしてきている。知らないのは親だ けだ。 私は駅への近道として、薄暗い小道に入った。家を建てる時互い に譲りあったような人一人がかろうじて通れる細い道だ。塀のすぐ 向こうから賑やかな朝の騒動が聞こえてくる程、家と塀との間隔は 狭い。 そこで「おはよう、環!」と声をあげると、いつも決まった窓が がらりと開いて、ほら頑張れと、禿げた爺さんの声援が耳に届く。 けれどその爺さんが応援しているのは窓から飛び出す黒猫だ。黒猫 は塀に飛び移ると私と併走し始める。「環、今日こそモノにするん だぞ!」爺さんの声が後ろから追いかけて来て、それに返事するよ うに環は大きくにゃおと鳴いた。一体何考えてるんだあの爺さんは。 環と私の付き合いが一年程になるから爺さんとの付き合いも一年 程になる。まだ子猫だった環が雨に濡れてぴーぴー鳴いていた姿を 可哀想だと思った私が馬鹿だった。差し出した指をがぶりとやられ、 傘を投げ出して環と格闘しているところに爺さんが現れた。それが 始まりだ。その時の傷は今でも残っていて、時々「嫁入り前の娘に どうしてくれるのよ」と言ってやるが、加害者はそ知らぬ顔で毛繕 いをするばかりだ。 この道を抜ければ駅まですぐだ。と、道を抜けたところで目の前 を電車が通過して行った。腕時計は無常にも短い針が七、長い針が 十一を指していた。 「ああ…」荒い息を吐きながらうずくまった私の頬を、ざらざらし た環の舌が優しく舐める。環は小さくなおンと鳴いた。その声があ んまり甘くて、可笑しくて、こんな時に口説かないでよと笑いなが ら顔を上げると、環のエメラルドの瞳とまともにぶつかった。 猫相手に頬を赤らめる私は、我ながら変人だと思う。環の歯型が くっきり残った左手の薬指を盗み見ながら、あれが私と環の始まり だったなんてメロドラマよりもインチキ臭いと思った。環に噛みつ かれて喚き散らす私に、爺さんは渋い声でこう言った。「黒猫と血 の絆を持ったんだ。あんた魔女になったんだよ」 あれから一年、私と環は未だほうきにも乗れない。覚えた魔法は ただ一つ、遅刻の上手な言い訳だけだ。
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