インディーズバトルマガジン QBOOKS

第1回1000字小説バトル
Entry9

家族、仕事、そして家族へ

作者 : 蛮人S
Mail :
Website :
文字数 :
 住宅地に射す盛夏の太陽は、熱された舗装でほぼ垂直に照り返し、
Sの上下の感覚をもまるで曖昧にする。Sは午過ぎの薄く眩い空気
の底で、冷たいドアノブに湿った掌を預けながら、無意識の呪文を
反芻していた。

(‥‥ダブルクリック、1・2・トラップ、
   そしてトレイス。1・2・ブレイク。
   ダブルクリック、1・2・リターン‥‥)

 ノブを静かに回す。大気を掻き回していた蝉の声が、一瞬途絶え
た。

 玄関の空気は冷ややかで、表の光に馴染んだ眼には洞窟の様に暗
かった。Sが眼鏡を外してしばたくと、廊下にいた三歳の娘が素っ
頓狂な声をあげた。
「あれえ、パパ帰ったの」
「うん、ただいま。ちょっと早いけど」
 言いながら靴を脱ぐ。娘は、帰ったの、帰ったのと繰り返しなが
ら、Sの手を引いた。奥で水音がする。妻はキッチンにいるらしい。
「ママ、ママ、パパってば帰ってきたよ。ちょっと早いけど」
 娘は彼の手を離し、廊下を駆け出そうとした。Sはその細い首筋
に手を伸ばし、脆弱なスイッチを素早く探り当てた。
「え?」
 娘が振り向きかけるのと、Sが指先に力を込めたのは概ね同時だっ
た。娘は一瞬、瞳に疑問の色を呈したが、顔だけこちらへ向けたま
ま数歩進んで動きを止めた。Sはその身体を抱き上げると傍らに優
しく降ろし、キッチンへと入っていった。
 Sの妻は、食器を洗っている所だった。
「あなた、帰ったの? こんな時間に」
 水栓をきゅと閉め、タオルで手を拭いながら振り向こうとした妻
の首筋を、Sは今度は目を見る事もなく押すことができた。妻は静
かに、動きを止めた。
 意外と重い妻の身体をソファに座らせ、その隣にちょこんと娘を
座らせる。娘の顔は真っ直ぐ正面には戻せなかったが、ちょうど妻
を見る位置で止まった。並んで座る母娘が、Sの視界から滲んでは
落ちていく。それはスナップ写真のように穏やかな姿だった。

(フォルダをコピーして‥‥コピーして、リネイム)
 二度と開くまい窓を閉じ、
(プロパティをリードオンリーに)
 夏の仕事は凍結される。


 結婚して八回目の春を迎え、Sの娘も学校へとあがる年になった。
実家から贈られたランドセルを背負い、娘は軽やかに跳ね回る。S
はあのフォルダの、あのタイムスタンプを見る度に、振り向いた娘
の瞳を、妻子との、緩やかな、また一歩進行してしまった心中を思
い出す。そしてそっと洗面台の前に立っては、こっそり血を吐いて
みたりするのだった。






インディーズバトルマガジン QBOOKS
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。