| # | 題名 | 作者 | 文字数 |
|---|---|---|---|
| 1 | 父子 | CAESAR | - |
| 2 | 雪まつりのこと | あさ | - |
| 3 | 子守唄 | 伊藤修 | - |
| 4 | 辞書 | モーゲン王 | - |
| 5 | 楽園 ★ | 東京りんご | - |
| 6 | 生病老死 | 海坂他人 | - |
| 7 | 魔女なのに ★ | 鹿野まどか | - |
| 8 | (作者希望により削除) | - | - |
| 9 | 家族、仕事、そして家族へ | 蛮人S | - |
| 10 | 白百合の花束を、君に | Matock | - |
父が何かつぶやいたのを憶えている。しかしその内容までは思い 出せない。ただはっきりしているのは、その時私の目の前には赤く 輝く太陽に彩られた夕暮れの風景が広がっていたということだけで ある。 「ほら、見てごらん。」父は私にそう言い背中の私をひょいと持ち 上げ、太陽の方へ向けた。「大きいね。」ありふれた答えだったが、 多くの人が同じ思いを持つからこそありふれているのであって、そ れは幼かった私にとって一番素直な感想であった。「それにキレイ だし。」私は言葉をついだ。「うん、キレイだ。でもキレイなほど 空の空気が汚れているんだぞ。」父はそう言ったが、私の「ふぅん」 という明らかに興味のなさを示す答えに、言葉の後部を口にしたこ とを後悔したようだった。しばらくして彼はつぶやいた。しかし私 の記憶にその内容は残らなかった。 そして今私はあの日と同じ場所で、眠そうな目をした幼い息子を おぶりながらあの日と同じ様に夕日を眺めている。彼、私の父は一 昨日の夕日と共に遠い遠い場所へ沈んでいった。それ以来、私の心 に訪れた夜は明けることなく続いている。いろいろな記憶が頭の中 に浮かび上がり、そして浮かび上がった数だけ消えていった。「ねぇ 、お父さん?」そんなうつろな世界から私を呼び戻したのは息子の 言葉だった。私は言葉の主の方へ目をやった。「キレイだね。」彼 は言った。そして「どうしてあんなにキレイなんだろうね。お父さ ん知ってる?」と付け加えた。答えようとして私は止めた。あの時 の父の後悔した様子を思い出したのだ。「さてなぁ。」私はそう答 え視線を太陽の方へ戻した。その時だった。私ははっとし、そして 急におかしさがこみ上げてきた。あの時父が何を言ったのかわかっ た気がしたのだ。突然顔に笑みを浮かべた私を不思議に思ってか、 息子がどうしたのかと尋ねた。「いや、何でも無いよ」私はそう答 えた。しばらくの間、会話が途絶える。真っ赤な太陽が暖かかった。 そして私はつぶやいた。そう、あの日の父のように。
昔の記憶って、今思い出すとすごく曖昧で、自分の想像や夢があ たかも事実のように記憶に残ってるってこともあると思わない? 俺小学生の頃北海道に住んでたって話、したことあったよね。そ う、札幌の近くにね。最近は雪があんまり降らなくなったらしいね、 温暖化? んーそうかもしれない。ヒートアイランド現象ってやつ も関係あると思うよ、街中って熱たくさん出してるからね。でも、 昔は入学式の頃――だから4月ね、それぐらいまで雪残っていたん だよ。この前TVで見たんだけど、街歩く人、雪の日に傘さしてる んだ、ぬれもしないのに。変わったね。 うん雪まつり、それで思い出したんだ。どの局も雪まつりの中継 するでしょう。あれさ、よく見てみてよ、局ごとに雪像作ってるか ら背景それぞれ違うはずだよ。そう、大通公園ね。夏になるとトウ キビ売ってるところ、トウモロコシじゃなくって。他に真駒内会場 っていうのもあってね、自衛隊のお兄さんがすべり台付きの雪像を 作って、小さい子をひょいって抱き上げてそのすべり台に乗っけて くれたりするんだ。うん、本当に昔に行ったことあるよ。寒い中結 構並んだ気がするなあ。 でね、今だったらきっと巨大なピカチュウとか作られてると思う んだけどね、昔はドラえもんだったんだ、ていうかだったと思う。 ええと、まずさ、雪像って祭終わったらどうなるか知ってる? うん、壊すんだ、でも邪魔だからさ、その後遠くに持ってって捨て るわけ。でさ、雪捨て場ていうのがあるんだ。あちこち除雪して回 って、たまった雪をそこに集めるの。川や荒れ地なんかにね。 それがうちの近く――近くでもないけど子供の頃遊び回った範囲 内にあってね、危ないから立入禁止だったりするんだけど、でも入 って遊んだりしていてね。 で、記憶についてちょっと考えたんだ。俺がよくネタにすること があるんだけど、それって実際に起きた出来事なのか、それとも実 は俺の夢や想像だったんじゃないのかってね。 んー、壊された雪まつりの雪像が捨てられててね、丸くて巨大な ドラえもんの首が転がっているのを見たんだ、そこで。すごくでっ かくってさ、近くで見ると目とかが異常に横に広がりすぎている気 がしたくらいで。 出来過ぎのような気がするんだけど、本当なんだって。でもね、 話すときどうしても誇張してしまうから、それが積み重なって、今、 実際の出来事ではなかったように感じてしまうのかもしれないね。
町はずれの公園の中に、楠の高木が一本たっている。ある夏の夕 方、その木陰に置かれたベンチに、老人がぽつんと据わっている。 老人は、赤く染まった天空をじっと見つめている。やがて、赤ん坊 の泣き声と子守唄が聞こえてきた。何気なく声の方に目を向けると、 母親が赤ん坊を抱き、ブランコに乗り歌っている。幾らかの時が移 り、赤ん坊が泣きやんでも、子守唄は静かな公園に優しく流れてい た。不意に、老人は悲しいひとつの出来事を思い出した。 そう、あれは自分がまだ青年だった頃のこと。真夏の昼下がり。 とても暑い日だった。空襲警報が鳴り響き、町のあちこちに爆弾が 落ち、あたり一面がまるで火の海のようだ。多くの人が怪我をし、 命を失った。身体中火傷だらけの子どもたちが、よたよたと歩いて いる。自分もこの時爆弾で脚と肩に怪我を負い、はぐれた両親を捜 しているうちに、この公園にたどり着いた。そして、激しい疲労の ため、楠の木陰に倒れ込んでしまった。 暫くして、ふっと気がつくと、星のささやきが聞こえるような夜 空だった。その時だ。子どもの泣き声と小さな声で歌う子守唄を聞 いた。見ると、楠の近くで、まだ十にならない少女が、三つばかり の男の子に歌っている。月明かりのなかで、二人とも服は焼けこげ、 煤だらけの顔をしている。 「かあしゃん! かあしゃん!」 「泣かないで、かあちゃんは、ここにいるよ」 と少女は言って、また弱々しく歌い始める。その声は本当の母の ように穏やかだった。それでも弟は泣き続けた。 「いい子、いい子。もうすぐだからね」 といたわりつつ、少女は弟をしっかりきつく抱きしめ、また歌い 始める。 自分は声をかけようとしたが、喉が焼けて声がでない。水筒を取 り出そうとするが、体の自由が利かない。やがて、弟は泣くのをや め、眠るように息が絶えた。それでも、その小さな「かあちゃん」 は、歌うのをやめない。それはけなげな子守唄だった。少女の声は 切れ切れになり、小さくなっていく。と同時に自分は気を失った。 気がついた時には、青空に太陽が上っていた。すぐに、姉弟の方 に目を向ける。弟に寄り添うように眠り続ける少女は、もう再び子 守唄を歌うことはなかった。
あるエンターテイメント作家が辞書を編纂することを思い付いた。 酒を飲みながら友人にその構想を話す。 「言語学者たちが編纂する辞書のように一般性に欠ける語を定義し、 そういう単語の意味を求める人たちの要望に応えるようなものでは ダメなんだ」 「というと?」 「誰がどの項目を見ても『そんなことは誰でも知っている』と辟易 する辞書、それが理想だ」 荒唐無稽なことを言う。酒の席の冗談かとも思ったが、表情から 察するにそうでもないらしい。 友人は真っ当な質問をした。 「そんな辞書をつくる意義があるのか」 彼は薄く笑って答える。 「あるとも」 「一体どんな?」 「それは完成してからのお楽しみだよ」 言葉通り、彼は間もなくその辞書の編纂に取り掛かる。 どういうわけか表題は付けなかった。 そして、誰でもそう思うような、ありふれた、紋切型の定義を、 ことばたちに施していった。諧謔の誘惑と戦いながら、この国の、 この時代の、ごく当たり前の概念を十数年も淡々と。 しかし酒好きが祟ったのか、彼は志半ばにして世を去ってしまう。 主のいなくなった部屋を整理していた彼の妹がこの遺稿を見つけ、 読み、首を傾げた。奇を衒う作風の兄にしては珍しく「そんなこと は誰でも思うこと」程度の定義が、エピソード的に記されているの みだったからである。それでも妹は、この未完品を兄の遺作として 出版した。 時は流れた。 かつての「誰でも」たちはとっくに死に絶えたらしく、「誰でも 思うことの断片」だった代物は「彼の諧謔集の片鱗」となって人々 に読まれていた。彼が長生きしていればもっと面白いものができた だろうとも評された。 彼の文名は半永久的に残る。 これが彼の本意だったのか。 否。 彼はこの辞書をして、「誰でも」たちが惰性的に用いていた定義 を直に見せつけ、その陳腐愚劣を知らしめ、恥じ入らせ、省みさせ ようと目論んだのである。単語さえ覚えればその内容を理解したと 錯覚する大衆の習性を逆説的に皮肉ったのだ。一種の啓蒙だったの かもしれない。 彼がこの辞書に表題を付けなかったのは、題名を唱えるだけで内 容を理解したと錯覚されては何の意味も無い、と苦笑混じりに考え たからである。また、名も伏せて出版するつもりだった。「あの作 家の作品」と称されては、これまた意味を成さないからである。 彼の文名は、彼の意志とは異なった形で残った。 が、このような例は彼以外にも無数にある。
『ぼくは当分もどらない。その間、部屋をあずかっていてくれ。 今日、彼女が残りの荷物を取りにやってくる。その後は好きにし ていい』 友人のYから届いたこの手紙をいいことに、ぼくは前から温めてい た計画を実行することにした。そして夏の日の朝、小さな水槽一つ 抱えてこの部屋に引っ越してきた。 (どうせYと喧嘩別れした女だ。どう思われたってかまいやしない。) Yは、やけにバスルームに凝る男だった。 ぼくは大理石の浴槽に浄水を満たして、持ってきた水槽の熱帯魚た ちを放った。それから居間にあったパキラとかフェニックスとか、 ありったけの観葉樹を持ちこんで、鳥かごの中のオウムとインコを 自由にした。 それが済んだら、今度はぼくが自由になる番だった。 サラリとした、ふしぎと乾いた感覚のする生ぬるい水にひたる。 足の間を青銀色の熱帯魚たちがすりぬけて、天井では南国の鳥がさ えずる。ぼくは水という生き物に似た循環する存在に抱かれて、世 界と交わっているような気がした。排水口をぬけて天に上がり、大 地をたたき、遠いアマゾンの水に溶け込むような.......。 と、居間の方でグラスの割れる音がして、ドアに体当りするように、 かの女が入ってきた。手には真新しい剃刀、濃いバーボンの匂いが する。 水をのぞきこむ険しい目が、かすかに微笑んだ。 「フフ...死ぬ前に一度、魚と泳いでみたかったんだ。」 そうつぶやいて、かの女は服を脱ぎ捨てた。 銀色の鱗に似た剃刀が、きらきら光りながら水底に沈む。 その時になって、ぼくは自分が本当に水と同化していると知った。 そして姿を消したYもまた、同じく水と化して隣にいることも。 水が「ぼくたち」の邪念を洗い流したように、欲望のかけらもない、 ありったけの優しさをこめて、かの女を包んだ。 二人の間にあった愛の名残を抱くように。 溺れないよう透明の指先で頭を支えられながら、水の中でまどろむか の女は、どこかで見た、水死したオフィーリアの絵に似ていた。
最近、ヴィールスを飼っている。 どこに飼っているかといえば腸と、咽喉の粘膜である。 ヴィールスなる生き物が何匹いるか、またそこで彼らが何をして いるのかは飼い主に知れようもないが、とにかく生めよ増えよ地に 満ちよとばかり栄華を極めているらしく、それは栄養吸収の困難と、 喀痰と、そして微熱という結果を飼い主にもたらしている。 子供の時分、よく風邪を引いて寝込んだ。 胃腸をやられると言うより、神経質で、たいていのものは咽喉を 通らなくなるので、食いたいと言ったものは何でも食わせてもらえ た。何でもと言ったってヨオグルトとか、プディングとか、摩り下 ろした林檎とか、そんなものである。 これが父の世代になると、ゆで卵を食わせてもらえたとか、牛乳 を飲ませてもらえたとかいう話になるのであるが、とにかく病人は 病気というだけで、ふだんは通らない関所が通る。病気は苦しいが、 この手形が得られるというのは、かすかに嬉しいものである。 先日、母の伯母が死んだ。 葬式まで、しばらく母が忙しく、その間の家事を担当して疲れが たまったのが、ヴィールスの飼育からなかなか解放されない原因と 思われるのだが、それはまあどうでもよい。 九十三歳の高齢で、肺炎で入院していたのであるが、最後には胃 袋に孔をあけて栄養を注入したという。むろん本人の希望も何もあ ったものではないが、死にゆく人間の何でもありは、風邪などの微 病の比ではないこと、当然である。 しかるに彼女の肺炎になった原因は、寒いのにずぼんを下ろして 歩き回っていたせいだろうと、いうのである。 痴呆と名の付くほど病的なものではない証拠には、その行為は家 の中に限り、息子に止せと言われると止すのだそうで、いわば軽い 「童返り」であろうか。 母はその通夜に参列して、夜も更けてから帰ってきたのだが、厠 に入ったと思ったらずぼんを上げずに出てきた。 すぐに衣服を更めるからという理由はあるのだが、以前にはなか った行動のようである。肺炎になるよ、と言って笑い合ったが、内 心ぎょっとした。 生病老死を人間の四苦という。 このうち病・老・死が、一種の免罪符になるならば、「生」―― 要するに人はただ生きているだけでも、赦されていると言っていい ように思える。 この考えをY君に話したら、どんな反応を示したろうかと思うの だけれど……彼は今頃、どういう世界に住んでいるのだろうか。
いつもより五分遅く家を出た私は、パンプスを忙しく鳴らして駅 へと急ぐ。目覚し時計が布団に潜り込んでいたところを見ると、ど うやら私が時計を止めた犯人らしい。慌てて飛び出す私の格好を見 て、母はため息を付きながら、好きな男でもできればねぇと嘆くが、 私だって恋愛ぐらい人並みにこなしてきている。知らないのは親だ けだ。 私は駅への近道として、薄暗い小道に入った。家を建てる時互い に譲りあったような人一人がかろうじて通れる細い道だ。塀のすぐ 向こうから賑やかな朝の騒動が聞こえてくる程、家と塀との間隔は 狭い。 そこで「おはよう、環!」と声をあげると、いつも決まった窓が がらりと開いて、ほら頑張れと、禿げた爺さんの声援が耳に届く。 けれどその爺さんが応援しているのは窓から飛び出す黒猫だ。黒猫 は塀に飛び移ると私と併走し始める。「環、今日こそモノにするん だぞ!」爺さんの声が後ろから追いかけて来て、それに返事するよ うに環は大きくにゃおと鳴いた。一体何考えてるんだあの爺さんは。 環と私の付き合いが一年程になるから爺さんとの付き合いも一年 程になる。まだ子猫だった環が雨に濡れてぴーぴー鳴いていた姿を 可哀想だと思った私が馬鹿だった。差し出した指をがぶりとやられ、 傘を投げ出して環と格闘しているところに爺さんが現れた。それが 始まりだ。その時の傷は今でも残っていて、時々「嫁入り前の娘に どうしてくれるのよ」と言ってやるが、加害者はそ知らぬ顔で毛繕 いをするばかりだ。 この道を抜ければ駅まですぐだ。と、道を抜けたところで目の前 を電車が通過して行った。腕時計は無常にも短い針が七、長い針が 十一を指していた。 「ああ…」荒い息を吐きながらうずくまった私の頬を、ざらざらし た環の舌が優しく舐める。環は小さくなおンと鳴いた。その声があ んまり甘くて、可笑しくて、こんな時に口説かないでよと笑いなが ら顔を上げると、環のエメラルドの瞳とまともにぶつかった。 猫相手に頬を赤らめる私は、我ながら変人だと思う。環の歯型が くっきり残った左手の薬指を盗み見ながら、あれが私と環の始まり だったなんてメロドラマよりもインチキ臭いと思った。環に噛みつ かれて喚き散らす私に、爺さんは渋い声でこう言った。「黒猫と血 の絆を持ったんだ。あんた魔女になったんだよ」 あれから一年、私と環は未だほうきにも乗れない。覚えた魔法は ただ一つ、遅刻の上手な言い訳だけだ。
住宅地に射す盛夏の太陽は、熱された舗装でほぼ垂直に照り返し、 Sの上下の感覚をもまるで曖昧にする。Sは午過ぎの薄く眩い空気 の底で、冷たいドアノブに湿った掌を預けながら、無意識の呪文を 反芻していた。 (‥‥ダブルクリック、1・2・トラップ、 そしてトレイス。1・2・ブレイク。 ダブルクリック、1・2・リターン‥‥) ノブを静かに回す。大気を掻き回していた蝉の声が、一瞬途絶え た。 玄関の空気は冷ややかで、表の光に馴染んだ眼には洞窟の様に暗 かった。Sが眼鏡を外してしばたくと、廊下にいた三歳の娘が素っ 頓狂な声をあげた。 「あれえ、パパ帰ったの」 「うん、ただいま。ちょっと早いけど」 言いながら靴を脱ぐ。娘は、帰ったの、帰ったのと繰り返しなが ら、Sの手を引いた。奥で水音がする。妻はキッチンにいるらしい。 「ママ、ママ、パパってば帰ってきたよ。ちょっと早いけど」 娘は彼の手を離し、廊下を駆け出そうとした。Sはその細い首筋 に手を伸ばし、脆弱なスイッチを素早く探り当てた。 「え?」 娘が振り向きかけるのと、Sが指先に力を込めたのは概ね同時だっ た。娘は一瞬、瞳に疑問の色を呈したが、顔だけこちらへ向けたま ま数歩進んで動きを止めた。Sはその身体を抱き上げると傍らに優 しく降ろし、キッチンへと入っていった。 Sの妻は、食器を洗っている所だった。 「あなた、帰ったの? こんな時間に」 水栓をきゅと閉め、タオルで手を拭いながら振り向こうとした妻 の首筋を、Sは今度は目を見る事もなく押すことができた。妻は静 かに、動きを止めた。 意外と重い妻の身体をソファに座らせ、その隣にちょこんと娘を 座らせる。娘の顔は真っ直ぐ正面には戻せなかったが、ちょうど妻 を見る位置で止まった。並んで座る母娘が、Sの視界から滲んでは 落ちていく。それはスナップ写真のように穏やかな姿だった。 (フォルダをコピーして‥‥コピーして、リネイム) 二度と開くまい窓を閉じ、 (プロパティをリードオンリーに) 夏の仕事は凍結される。 結婚して八回目の春を迎え、Sの娘も学校へとあがる年になった。 実家から贈られたランドセルを背負い、娘は軽やかに跳ね回る。S はあのフォルダの、あのタイムスタンプを見る度に、振り向いた娘 の瞳を、妻子との、緩やかな、また一歩進行してしまった心中を思 い出す。そしてそっと洗面台の前に立っては、こっそり血を吐いて みたりするのだった。
地下鉄S駅の小さな構内は、夕方のラッシュ前で人影はまだそん なに多くはなかった。半年がかりで大口契約の受注内定にまでこぎ 着けた木南聡は、発車を報せるベルを聞いて必死で階段を駆け下り たが、無情にも彼の目の前でドアは閉じられてしまった。 会社で見積書を作成し直して、十九時迄に先方にFAXするには、 ぎりぎりの時間しか残っていない。 (次の電車まで、あと十二分) 熱いコーヒーが飲みたくなって自動販売機を探そうとした聡は、 ホームの中央でしゃがみ込んでいる、一人の女性に気が付いた。 歳は聡より少し若い二十代前半のようだが、顔色は青ざめ、黒の ロングコートは泥まみれで、エナメルのパンプスも片方しか履いて いない。 少しの間迷ったが、女の放心した様子に妹の事が思い出され、聡 は声をかけた。 「あの、どうかされたんですか?」 女は何も答えなかった。 聡はもう一度、声をかけた。やはり、反応はない。仕方なく聡は 女の肩に手をかけた。その途端、 「うるさいッ、あっちへ行け!」 女は金切り声を上げて聡の手を払い、立ち上がって彼の頬を打っ た。呆然とする聡を女は激しく睨み付ける。周囲からも非難の視線 を浴びて、いたたまれなくなった聡を救うかのように、彼の背後で 電車のドアが開いた。 吊り革を握る聡の手は、腹立たしさと哀しさで震えていた。しか し、それに溺れてこの半年間の苦労を無駄にする訳にもいかず、聡 は残った仕事の段取りを考え始めた。 おかげで見積書は時間までに間に合い、契約は本決まりになった。 課長と祝杯をあげ、ほろ酔い気分になった聡は地下鉄のホームで時 計を見た。最終便の時刻を過ぎたのに、まだ電車が来ない。不審に 思っていると、S駅での人身事故の発生がアナウンスされた。 (まさか) 翌日の夕方、聡はその場所に白百合の花束を供えようとしていた。 去年、男に騙されて自殺した、唯一人の肉親の百合子と彼女が同じ に思えてならなかったのだ。 暗澹として俯きながらホームに降りた聡の前に、何と、死んだと 思っていた彼女が、虚ろな目で立っていた。 百合子と同じように結婚詐欺ですべてを失った彼女は、せめて最 後に自分を気遣ってくれた聡に非礼を詫びてから死のうと、会える かどうかも分からないのに、ずっと彼を待ち続けていたのだ。 今は亡き妹が天から託した願い――彼女とこの世を結ぶたった一 本の糸となった聡は、白百合の香りでふわりと、彼女を包み込んだ。
作品『魔女なのに』の鹿野まどかさん
作品『楽園』の東京りんごさん
お二人が同時チャンピオンに決定しました。
| 作品 | 票 |
|---|---|
| 魔女なのに(鹿野まどか) | 4 |
| 楽園(東京りんご) | 4 |
| 雪まつりのこと(あさ) | 2 |
| オチテ・イク(京木倫子) | 1 |
| 該当者なし | 1 |
●魔女なのに(鹿野まどか)
●楽園(東京りんご)
●雪まつりのこと(あさ)
●オチテ・イク(京木倫子)
●なし
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