第2回1000字小説バトル
Entry16
「?」マークの黒い帽子をかぶって、擦り切れた青い半天を羽織っ ている。薄汚れた便所サンダルを履いて、ぬすっとヒゲは伸ばし放 題。初めて会う人でもこいつがロクさんだとすぐにわかる。 「純」の扉を半分だけ開けると、タバコの煙と湯気の中に、さおり は必ずロクさんをさがす。たいてい端っこに座っていて、左肩を壁 に預けて酒を舐めている。 「ロおクさん」自分が一番魅力的に見えるはずの笑顔でさおりはロ クさんの顔を覗きこんだ。今日もロクさんは端っこに座っている。 さおりの笑顔につられるようにしてロクさんは右の口端にちょこん と笑みをのせた。 足が少し曲がっちゃって座りがすっかり悪くなっているイスをが たがた引っ張ってくると、さおりはロクさんのとなりに座る。クッ ションのカバーも破れているこのイスを好んで使うのは、さおりし かいない。 「男山ください」普段着の笑顔で純子さんを呼ぶと、目の前に枡が 置かれて、酒がとぷとぷ注がれる。純子さんは何も言わない。 「かんぱあい」ロクさんを促すように枡を少し持ち上げて、今度は 自分の唇の先を枡の角に持っていく。 「こっちに出てきてからの方が長いんだ。いまさら帰郷れないよ」 口数の少ないロクさんがさおりに言ったことがあった。さおりは、 ロクさんと呼ばれていることくらいしかロクさんのことを知らない。 郷里、仕事、本名、知らないことばっかりだ。歳はヒトマワリくら い違うんだろう。 「おふくろが死んでね、今朝。おふくろも酒好きだった。酒を飲む ことで供養になるのさ」 横で聞いていた常連のあきさんが、口を挟んできた。 「悪いことは言わねえ。いいから一度帰郷ってこい」 あきさんが不祝儀袋を買ってきて、さおりも純子さんも一緒に金 を包むことにした。 十日くらい前のことだったか。 「お母さんの供養、ちゃんとしてきたの」さおりはロクさんを見な いで聞いた。ロクさんは曖昧に「ん」とだけ言って便所に立った。 さおりは溜息をついて、昨日のあきさんの言葉を思い出す。 「ほんとにロクデナシのロクだな。ロクの野郎は。スナックカオリ で飲んでんの見かけたんだけどよう。香典袋から金出しやがったん だぜ。あいつ」 さおりの酒が半分くらいになって、ロクさんが便所から戻ってき た。さおりは黙ったままで擦れ違いに便所に入る。 便座がおりている。 さおりは便器と向き合ったままでゆっくりと膝をつき、便器を抱 えるようにして左の頬を便座に押し付けた。
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