第2回1000字小説バトル
Entry29
時代は江戸中期。場所は備前。現在の岡山県である。 浮田幸吉は、空を見上げている事の多い少年だった。いや、正確 にいうと見ていたのは空ではなく、空を飛ぶ鳩だった。 「なぁ、おかあちゃん。鳩が空を飛べるんのはなんでぇ。」 「なんぼうその質問かぁ。鳩は翼があって、お前には無いってこと だぁ。いつまでも空ばぁ見てないで、家へ入りゃぁええが。」 「なぁ、わしにも翼があったら。」 「翼を付けて産んでやれなくてすまなんだのう。ほんならそんな事 で思い悩む事はなかったろうが。」 母親は、自分で言った冗談にひとりで笑った。 幸吉は、にこりともせず空を見上げ続けていた。その顔に鳩の糞 が落ちた。それでも微動だにしなかった。幸吉はそんな少年だった。 長じて幸吉は表具師となった。 表具師とは、紙、布を張って、巻物、屏風、ふすまなどを作る職 人である。 幸吉は、仕事熱心な腕の良い職人だった。仕事が終わった後、仲 間と酒を飲むこともせず長屋に戻って、ある仕事に没頭していた。 それは、翼の制作である。いくつかの試作品を経て、いよいよ完 成版が仕上がりつつある。 翼を背負いながら両の手で紐を使って舵を取る事が出来る。尾羽根も ある。一人暮らしの狭い部屋は大きな翼が場所を取り、いったいど うやって寝ているのか。 そこに野次馬が冷やかしに来る。幸吉の鳥人計画は、町中の評判 であった。 「幸吉。こいつで飛ぶ日は決まったんかぁ。」 「あぁ、来月の始め晴れたら実行するでぇ。」 「そりゃ、おもれぇ。何処ぇでやるんじゃ?」 「ここからすぐの所に橋があろうが、あそこから飛ぶでぇ。」 「よぉし、長屋の連中や、かみさん連中、仕事仲間、弁当持ってぎ ょうさんで見物に行くでぇ。」 「おおよ。」 当日、晴天。 見物人で河原は賑わった。ちょうど桜の季節。花見気分で酒盛り をする輩もいてちょっとした祭りのようだ。 翼を装着した幸吉は、橋の欄干の上に立った。 空を見る。幼き頃からずっと見続けている空。今日の空は、見上 げるばかりで手の届かなかった空とは違う。下で騒いでる酔っ払い 共の事はすでに頭にない。見えるのは青い空。 やわらかい風が幸吉の背中を押した。幸吉は飛んだ。鳩になった。 風になった。桜の花びらになった。幸吉は念願の空の人になったの である。 天明五年(1785)。ライト兄弟より100年以上も早く空を飛んだ 日本人がいた。しかし幕府に「怪しい奴」と睨まれ、幸吉は後に打 ち首となったという記録が残っている。
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