第3回1000字小説バトル
Entry26
北大の杜に小さな雪虫が舞うように降っている。クラーク会館の 前でたたずむ竜門大介は、生まれて初めて雪虫を見た。雪の結晶の ように薄い羽虫が、彼の黒い背広の肩に吸い寄せられるようについ た。透き通る羽が夕陽に輝いている。彼はそれを指で摘んだ。何の 感触も起こさず、雪虫はとけるように消えた。 学生の姿もまばらな大学構内を、一組の男女が話しながら会館に 近づいてきた。大介は女の顔をじっと見つめた。それに気づいた女 は連れの男をその場に待たせ、小走りに大介の所にやってきた。二 人は黙って顔を見合わせた。 女は田川順子という名で、同じ医学部一年の大介とは、医学と宗 教研究会に入ったときに知り合った。横浜という同郷のよしみで親 交を深め、夏には何度か身体を交わした仲だったが、秋になると急 に順子の方から別れ話を持ち出した。それは大介が医宗研をぬけた 直後だった。 「僕たち、まだ話し合う余地があると思うけど」 彼女を呼びだした大介から話しかけた。 「あなたがそう思っているだけで、私には何もないわ」 茶色のスーツを着た順子が気のない返事をした。 「そんな言い方はないだろう。僕が勝手に医宗研をやめたから、そ れでだろう」 「あなたのようなお坊っちゃんは、基礎はやれても臨床は無理ね」 「それがどうして、君と僕の二人に関係があるんだ」 「あなたと私とは、生き方が違うのよ」 「医者になるという目的は、同じだろう。ただ僕は君たちみたいに 勉強をおろそかにしてまで、宗教活動に熱中することはできない」 「だから、あなたは勉強だけしていればいいのよ。出会ったことは 後悔していないわ。でも、もうだめなのよ」 順子は大介の子を身ごもっていることを、どうしても打ち明ける ことができずにいた。 「ひとつだけ答えてくれ。尾田先輩と同棲しているというのは本当 か?」 彼女は医宗研の先輩である尾田を敬愛していた。 「よけいなことだわ! さようなら」 「順子!」 大介は呼び止めたが、彼女は振り向きもせず走り去った。 会館近くの芝生に腰を下ろして、どれほどの時間がたったのか分 からないが、大介はふっと空を見上げた。手のとどきそうな星が空 いっぱいに輝いている。こんなに沢山あったのか、と初めて気づい たように感動した。同時に寂しさが突き上げてきた。 (今まで俺は、空のどこを見ていたんだろう) 誰もいない構内で、ただ胸像のクラーク博士だけが彼を見守って いた。
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