インディーズバトルマガジン QBOOKS

第3回1000字小説バトル
Entry31

忘れ物をした女

作者 : 山口泰司
Mail :
Website :
文字数 :
  ある寒い夜、十一時に退社した恭子は家路を急いでいた。現在フ
ァッション雑誌の出版社に勤務する神崎恭子は今年で29才になる。
かつては人一倍デザイナーになりたいと思いを抱いていた少女は、
いつしか現実の厳しさの前でその熱意も以前ほどではない女になっ
てしまっていた。
 ようやく自分のマンションにたどり着いた彼女は玄関の右側にあ
るエレベーターに向かった。そのドアには「故障中の為、階段をお
上がり下さい。」という張り紙がしてある。彼女はため息をもらし、
自分の部屋が9階にあることを恨んだのだった。彼女は一種の覚悟
とも言うべき決意を胸に暗い非常階段を上がり始めた。ちょうど3
階にさしかかった時、下から老人の声がする。「おーい、お嬢さん
忘れ物!」その老人は疲れきった顔をしながら紙切れらしき物を
持った右手を挙げている。思い当たる節がない彼女は「私のではあ
りません。急いでいますので失礼いたします。」と言い、早足で階
段を再び上がりだした。それでも老人は後ろからずっとつけて来る。
「君にとって一番大切なものじゃないかね。」彼女はこの得体の知
れない老人が急に怖くなり走り出した。すると老人も追いつこうと
必死で走り出したのだった。ついに老人は彼女のバッグの紐に手を
かけた。「やめて下さい!人を呼びますよ。」と彼女は声を震わせ
ながら叫んだ。老人は「これを渡しさえすれば、・・ゼイゼイ・。」
と息を切らしながら手を差し出す。彼女はそれを受け取ろうと恐る
恐る手を伸ばし、老人の顔を覗き込んだ。その顔にはようやく受け
取ってもらえるという安堵感と同時にためらいの気持ちが感じられ
た。彼女は無意識に手を引っ込めると急に全速力で走り出した。も
う少し行けば自分の部屋に逃げ込めると思った。「もう!いいかげ
んにして、お願い!」と叫び、ようやく9階にたどり着きのドアを
開けた時、つまづいてしまい前の通路に倒れ込んでしまった。老人
が死ぬほど息を切らせながら倒れている彼女の前にそっと差し出し
た。彼女はそれを受け取るとじっと見つめたのだった。そして涙が
どっと溢れてきて紙の上の文字がにじんでいく。「君がこれ以上、
上に行ったのだったら、わしは追いつけなかったよ。」と言い、彼
女の肩をポンと叩いてこぼれんばかりの笑顔を見せると去って行く
のだった。そして彼女が手にした紙切れの上には一言、「夢」と書
かれていた。






インディーズバトルマガジン QBOOKS
◆QBOOKSに掲載の記事・写真・作品・画像等の無断転載を禁止します。
◆投稿された各作品・画像等の著作権は、それぞれの作者に帰属します。出版権はQBOOKSのQ書房が優先するものとします。
◆リンク類は編集上予告なくはずす場合がありますのでご了承ください。