第3回1000字小説バトル
Entry8
男は待っていた。男の頭に美という名の人を食う虫が巣くったの は、去年の冬。首都では例年になく早い初雪が降った。男は芸術家 でも詩人でもなかった。その日以来、男は少しずつやせていった。 年が明けて、長く勤めた会社に辞表を出し、わずかばかりの金をも らった。その金の半分でカメラと三脚を買い、残り半分を棚の引き 出しに入れた。次の日、男は家を出た。いつもと同じように背広を 着て、妻からハンカチを受け取り、そして出張かばんの中にカメラ と三脚を忍ばせ。いつもと同じ駅から列車に乗り北へ向かった。日 が北の果ての広大な大地に沈んだ頃終点に着き、タクシーを拾い見 渡す限りの雪原へ行くよう頼んだ。 男は待っていた。そのひろい大地へ光が広がるのを。月のない空 の下うつ伏せになって待っていた。時計で四時を確認してからゆっ くりと立ち上がり、カメラを西の方角へ向けて添え付けた。二三度 レンズを覗いて闇に見入った。全てが終了したのを確認してから、 たばこに火をつけた。小刻みにゆれる橙の光の向こうに終了した自 分の人生を見た。そこには闇が在った。光が地の果てから流れ出し た。男は顔を上げ、ゆっくりとカメラの前に横になり、目を閉じた。 眼の裏の暗い影が明るい影に侵食されたとき目を開いた。男は溺れ ていた。地の果てから溢れ出す光は地表を覆い隠しつつあった。男 は懐から剃刀を出した。それは光を受けて魚の鱗のように輝いた。 それからまだ闇の残る西の空を仰ぎ反り返った首に当てた。血は天 頂に吹き上げ男の体に、雪の大地に降り注いだ。白い大地がゆっく りと赤く染まっていくのを横目でしばらく追っていた。最後の一瞬 を感じ、全ての力で左手に握ったシャッターボタンを押した。 翌日のワイドショーは最近多いサラリーマンの過労による精神錯 乱を報じた。番組中、第一発見者の百姓は語った。「最初、遠くに それが見えたとき、真っ赤な口紅を引いた女の絵みたいだった。」
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