第6回1000字小説バトル
Entry19
嘔吐の予感に眼を覚まし、便所へ駆け込んだ。しっとりと濡れた 陶器に鼻先を近づける。 果てのない自身との戦い。おれは試されていた。どのタイミング で顔を上げるかで、おれという男の価値が決まる。 おれは顔を上げた。喉の奥に、まだ何かが居座っていたが、立ち 上がって水洗レバーを捻った。間の抜けた屁の音を聴きながら下着 をおろし、今度は便器へ座った。 「ひゃぁっっ」 陶器の冷たい感触に驚いて立ち上がった。 おぉ神よ、おれは便座をおろすのを忘れていたのです。 狭いユニット式のバスルームの中で、おれは再び音無き屁の音を 聴いた。 プラスティック製の便座を戻し、確認しながら、今度はゆっくり と尻を乗せた。くいしばる歯の隙き間から、二〇〇〇年の呻きが漏 れ出る。またもやおれは、何者かに自身を試されるハメになった。 力んで震える首筋に、ふと視線を感じた。振り返ると、バスタブ の中に立つ『そいつ』が、おれを見つめていた。 テレビで見た、胎児のような宇宙人。 テレビで見た、宇宙人のような胎児。 突然の来客に、おれは驚かなかった。心当たりは、ただ一つしか なかったから。 しかし、すでに愛はなく、銀行口座の残高も足りなかった。その どちらも、誰かに借りることは出来なかった。おれには売れるほど の『知』はなく、『血』を売ることしか出来なかった。 『そいつ』は、バスタブの縁に手をついて、一メートル足らずの虚 弱な躯を震えさせながら、黒目がちな瞳を瞬かせていた。 そして、突然、口を開いた。 「こんちわ」 おれは答えずに、立ち上がって、尻を拭き、水を流した。蛇口を 捻り、適度な水温の湯をバスタブへ注いだ。 しばらくの間、おれは『そいつ』と見つめ合っていた。柔らかな 白い湯気が、二人を包み込み始める。 湯が溜まったのを確認し、おれは『そいつ』の肩を掴んで沈めた。 『そいつ』は抵抗しなかった。 (出来なかった) 翌朝、今まで経験したことのないサイアクの二日酔いの中で、お れは目覚めた。 便所へ行くと、『そいつ』はいなくなっていた。バスタブの栓は 引き抜かれていた。 おれは吐き気と戦いながら歯を磨き、手早く服を着替えて、ほん の二ヶ月前まで恋人だった女と待ち合わせている産婦人科病院へ出 かけた。 有史以来、最も獲得が困難とされている勇気を手にいれるために。 (非情)
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