第6回1000字小説バトル
Entry71
夕方、そろそろ帰ろうと思っていると、向いの机から知美先生が、 ――はい、 と何やらまるいものを、僕にくれた。掌に包み込めるほどの、小ぶ りの唐蕃朱だった。 ――どうしたんですか、これ。 と思わず聞き返したら、 ――しようがないなあ、それじゃ、 と微笑って、なぜかもう一つくれた。生徒の親が差し入れてくれた のだそうだ。 バスの時刻が迫っていたので、僕はそれをそのまま二つとも、苔 緑の夏背広の内ポケットにしのばせて、校門を出た。 僕はその二三日前から、人と不毛な言い争いを続けて、疲れてい た。争い自体は他愛のないものだったが、それとは全く関係のない ところから来た、鬱屈した気分の中で争わねばならなかったので、 疲れていた。 そんな疲れが、懐の二個の果実から溶けていって、僕の心はまた 活き活きと動きだすのだった。まるでその生命力が胸から流れ込む ように。 僕の気持ちを沈ませていたのは、書くわざに関することだった。 ある雑誌に送った作品に、書いている間は気づかなかった読み抜け が、天啓のように見えたのである。 発表直前だったが、無理を言って掲載を取りやめてもらい、結局、 雑誌に穴を明ける羽目になってしまった。 元々のミスが、客観的に見てどれほど重大なものかは、僕には判 らない。 ただ、経験のあるなしにかかわらず、教壇に立つ以上はプロでな くてはならず、誤りは絶対に許されない教師という職が、書くわざ にまで重圧をかけていたことは、確かである。勤めて三ヶ月、僕は どこかで常にこれらの「職業倫理」に怯えていたのだ。 いつもの混んだバスに揺られながら、僕は何回か、懐にそっと手 を入れて、 ――要するにこの、 と考えた。爆弾のようなスリルが良いのだな。 僕の胸板は人並み外れて薄いので、背広のシルエットは全く変わ らない。誰も、僕の胸にこんな危険なものが入っているとは知らな い。 いつか僕は、 ――なぜ知美先生は、僕にだけ二つ呉れたのだろう…… という空想とじゃれていた。彼女は僕より四つ年上で、すでに家庭 を持っている。 もし今バスが揺れて、激しく圧されても、この柔らかさが破裂し なかったら……何かある証拠だ。 しかし何事もなく、僕はバスを降りた。明日学校で僕は、昨日は ご馳走様でした、と知美先生に囁き、彼女は他に言うことも無いよ うに、生徒の親が呉れたんですよ、と繰り返すだろう。 そしてまた淡々と日常が続いてゆく。「小説」を遠く離れた日常 が。
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