第7回1000字小説バトル
Entry25
「一見は禍々しいイメージ。だが注視すればそれは淡い光の集積で ある。中央に配置された赤い閃光に、吸い込まれ、身体を焼き尽く される。」――日本画廊96年二月号 腎臓が悪いのだ。親父は、不気味に濁る小便でビニールパックを いっぱいにしながら、暗闇にうめいていた。医者は、気が丈夫であ ればと言った。親父の神経はすっかり磨り減っていた。手を握ると ガサガサで生暖かかった。今までに百五十枚を数える油絵を描いた 右手だ。 親父はひとつの岩石だった。他人には興味がなかったのだと思う。 俺をこの世に出現させたことは、まるで奇跡だった。朝飯を食らい アトリエに行く、その背中はけして丸くはなかった。 一度アトリエに行ったことがある。広々として、趣味のよい明る さがあった。スタンドや画材がちらかり、主のように据えられた1. 8m×4.2mのキャンパスは、製作途中だった。表面はぬらぬら していた。幼かった俺はそこに指を伸ばした。触れてみたかったの だ。 刹那、殴られた。衝撃に転げた。世界がゆれた。親父の言葉を背 に聞いた。「作り直せないものはないが、触れられれば壊される瞬 間がある」それからすぐに、俺は泣いた。親父は寡黙な男だった。 真面目に俺に言葉を吐いたのは、その時きりだった。 96年一月。親父の描いた絵が東京国際抽象画コンクールで特選 をとった。タイトルは「天上の災禍」。その賞は親父の目標だった と聞いていた。しかし親父はそのときを境にしおれていった。岩の 表面にびっしり苔を生やした。 シンナーの匂いがする、濃密な空気の中で、俺は絵に対面した。 絵を眼前にして初めてわかった。親父は得られない答えを探し、筆 を執っていたのだ。そしてそのやりきれなさを描いてしまったのが 「天上の災禍」だったのだ。この絵が賞をとったことで、親父の一 瞬一瞬は破壊されたのだ。そして親父はかつての自分を作り直すこ とができなかった。 俺は薄闇の中で光る、絵の表面に指を当てた。乾いていた。指紋 すらつかなかった。 俺の足元に洗浄油をいれた缶があった。俺はそいつの中身を絵の 表面にぶちまけた。ポケットには紙マッチがあった。震える手で火 を点した。周囲がぼんやり明るくなり、いっそうつやつやした絵に 俺の姿が映った。俺は誰かに火を投げた。 たちまち燃え上がる。熱気が俺を焼いたが、動けなかった。俺の 影が長くなり、室内を揺らめいた。俺の影が大きくなり、室内に黒 く広がった。
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